正法眼蔵 霞眼「自然成」の自というのは、己の事である。己というのは、すなわち汝のことである。つまり四大・五蘊
からできているそのものを指している。それは結局、私とも人間の位の決めようのない真人を使いこなしているので
あるから、我でもなく、誰でもない。それゆえに、定まってないところを自というのである。「自然成」の然という
のは、「ゆるす(聴許)」という事である。「自然成」というのは、すなわち「華開き果を結ぶ」の時節であり、言い換
えれば、「法を伝えて迷いを救う」の時節である。たとえば青蓮華の開く時は、火の燃える時であり、開く所は火の中
であるようなものである。火をつけるところも、焔が立つ所も、みな青蓮華の開く場所であり、開く時節である。もし
青蓮華の時節と場所でなければ、「般若(智慧)のひらめき<一星火>」が生まれることはないし、ままたそのひらめきの
働きはないのである。良く知るがよい、般若の閃きによって、百千の青蓮華が大空に開き、大地に開く、過去に開き、
現在に開くのである。火の現れる時節、現れる場所を見聞するのは、青蓮華を見聞することである。青蓮華の時節と場所
を見過すことなく見聞すべきである。
?山下清さんは見た風景をそのままに描くことが出来るこれは現実画見えるという事で覚つている野鴨。凡人の私でも
まず制感で真っ白なキャンパスに凝念やジョウロで描く訓練をすれば三昧の現実の絵を描くこと画出来るのだろうか、
?今の私は目の前の風景は意識しなければ僅かに見えるようだが意識が否定するので満足竹刀し?でも何か眼が三昧の
ヒントの様に感じるから?まず坐禅で白いキャンバス身に着け無いと初心者だし基本のコツは骨骨かも