仏道は中道ということ

ジャンキーが一推ししてるのは境地の概論としての空観
これは我々という自我を拭い去ると分かる万象の事実の事

これに対して我々の実際は世間という仮観に生きている
「わたしが居て、あれがあって、好きで嫌いで」という分別する世界が仮観
上記の空観は、今のこの仮観の実態(中身)が実は空っぽだ、と分かる事を言う観法名なんである
だから仮観も同じように、この世界で起こる事をありのままに分析する観法名となる
仏道はこの両者を色んな形で教えて学んで体得するが、両者のどちらにも偏らない事も同時に教える
それが中観と言う観法名の事にあたる

空は事実として弄れないので空なのである
仮は我々が見てるこの世界の事で、一部は弄れそうだが、殆どの物事は手を付けられない
前者は見えないもの、後者は見えてるものと言える

この両者を知って、実際に起きてた不都合を極限まで排斥していく行い・考え方・境地が、中観にあたる

中道とは中観の事を言う
ダメな人が自分はダメだったと気付けるから改心して頑張れる
空観ではダメな人が居ないので頑張れない
仮観ではダメな人が事実だったので諦めるのである

仏道の色んな流派が立てる戒律もそう言う事で立てられているのであり
決して道の人になれば自動で戒律が身に付く、などと思ってはならない、と苦言を呈しておきます