有身見と言うのは、仏道初門で失せて当然の邪見の一つ
仏道初門の立場を上座部なんかじゃ「預流向」と言って、入りたての人を言う
この時に解脱を目指す煩悩は三つ

1有身見
2疑見
3戒禁取見

この三つは無我の根本義にあたるので、ここが解脱できてなければ仏道としては未だ入らざる人、と言う事になる
禅の初門だと「父母未生以前自己本来面目」を透過出来るとこの位になる

有身見は「俺、俺の物・事(我・我所)」に拘る我見の事を言う
我見が我執を起こすから「俺が正しい」と拘ってしまう訳

それは「2疑見」をも起こして、仏法を理屈じゃ分かった風でも、信じてないから実際には行えない矛盾を行なってしまう事も意味する
仏を疑ってるって事

だから、「3戒禁取見」に拘り、こうでなければならないとか押し付ける
この押し付けをする人は、例えば達磨一心戒なんかも知ってるだけで行なってない
「自然になるから行うとかナンセンス」的な自動運転論な己義を構える

自然に坐禅は行えないって事実を分かってない
坐禅は行為として意図して行わねば、それは唯のお座りにしかならない

結論、ジャンキーは見跡だったと言う事実