526 :老クリスチャン:2018/03/24(土) 12:17:53.72 ID:to1mXdrj

2012年(主日B年) 4月1日 受難の主日
イザ 50:4〜7  フィリ 2:6〜11  マコ 15:1〜39

「ビラとがイエスに、“お前がユダヤ人の王なのか” と尋問すると、イエスは “それは、あなたが言っていることです” と答えられた。」(マコ v.2)
「三時にイエスは大声で叫ばれた。 “エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。” これは “わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか” という意味である。」(マコ v.34)
「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マコ vv.37-38)

マルコ福音書の記述によると、イエスが最後に口を開かれたのはこの三回だけで、残りの部分は初代教会の解釈による伝承と考えられます。
マコ 14:62 をこれに加えるべきかも知れません。
これは旧約聖書の二つの箇所からの引用句であって、それは 詩 110:1 「わが主に賜った主の御言葉。 “わたしの右の座に着くがよい。 わたしはあなたの敵をなたの足台としよう”」 と、
ダニ 7:13 「見よ、“人の子” のような者が天の雲に乗り “日の老いたる者” の前に来て、そのもとに進み ・・・・・ 」 によっています。

いったい傍観者というものは、いくらでも減らず口をたたくものですが(マコ vv.13,18,29-32)、
同様に多くの “聖書物語” でも、さらに司祭たちの説教でも、傍観者としての人間の勝手な感想や敬虔を装った作り話のようなものが、神の子である苦難のキリストを抜きにして語られることが多いのです。


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