宗教信者は精神科いけよ [無断転載禁止]©2ch.net
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余談ですが、
これからはおまいりしていいのはKSAと呼ばれる(イラクの過激派のKSAじゃない)ガブリエル(ただしだまされやすいので注意が必要)
アルテミス、月読、降三世明王(アッシュク如来)アポロン、如意輪観音、もとのエロヒム(ヤーウエと一緒にやってる
連中じゃなく元人間を作っていてヤーウエに渡した団体)、アストラル界のアラヤ識の神様、
大宇宙(ただし騙されやすいので注意が必要)のグループです。他の団体からもやり方の一部は持ってきてもいい部分もあるが、
メインはこの団体をおまいりすることによって新しい世界が出来ていきます。 群馬の三枚橋病院なんかでは宗教妄想患者は受け入れてくれんぞ。 精神科いってもどうにもならない
で、自分と向き合えない人、自分の中を見ようとしない人は、自分の外に物事を見ることになる
そのように導かれる
このことが理解できる人は、依存から「卒業」できるレベルにいる
自分の内面を外側の世界に反映させて対処するというプロセスの途中にある
これを理解している人は、ほとんどのことはこの人生で処理できるはずだ 宗教信者じゃないヤツって、いるのか?
お前ら親が死んでも葬式やらないのか?
たしかに最近は無宗教葬が増えている。しかしまだまだ宗教でやる人のほうが多いだろ。
そういう人たちに対して「精神病院行け」というのか。
それから宗教は葬式だけじゃないぞ。
お前ら神社で礼拝したことは一度もないのか?
結婚式も無宗教でやるのか?
「精神科行け」などとえらそうなこと言うならば、これらの一切の宗教とも絶対に関わるなよ。
そうでなければ「無宗教」を自称する資格は無い。 日本人だから神がいない,
そう装うんかな‥。
じゃあ何故春になると桜が咲き
平安神宮や伊勢神宮前に人が集まるんだ。
それは人が神を求めるのが当然だからだ。 >>1
じゃぁ君はそのうち奈く〇るんだろうね。90歳ぐらいでw いい歳こいて無宗教の人なんて居るの?
よっぽどヤル気のない人だったんだろうね。 保健福祉センター 健康福祉部 障害保健福祉課 障害難病支援担当
梯よしえ 係員の行った精神障碍者に対する虚偽の申告、不誠実な電話対応、人権侵害、氏名等の隠蔽
2017/6/17 14:55 直接の電話にて
ごみ収集福祉サービス(まごころ収集)に関して
「ごみ収集福祉サービス」を受けることができる条件として、「定期的に収集するごみを所
定の時間及び排出場所へ排出することが困難であること」であるが、自分はそれができな
いからこのサービスを利用しているのに、「このサービスを利用してごみを出しているから
このサービスは利用できません、ゴミ出しできているでしょ」という虚偽の申告をし、こ
のサービスを停止しようとした。また、この人権侵害行為に対して、公務員の氏名と担当
部署、役職、住所、電話番号を開示する義務があるにも関わらず、それを拒否した。これ
は国民の知る権利に対するあまりにも不誠実な対応であり、許されない行為です。電話の
対応も「ハッ?」ととかいう言葉遣いをし、勝手にいきなり電話してきたにもかかわらず、
全く社会人としてあり得ない対応でした。
梯よしえ 係員
保健福祉センター 健康福祉部 障害保健福祉課 障害難病支援担当
京都市西京区上桂森下町25-1
075-381-7666 ヘルパーランド洛西
鳥井 清信 サービス提供責任者
要介護者への虐待を常日頃から行っている。
要介護者から時間表を取り上げ、勝手に好きな時間を記入したり、実際に来ていない日でも行ったことにして不正受給している。
また、介護者に利用明細も渡さずそのことをバレない様にしている。
こういう弱い人間を食い物にするような詐欺師は本当に腹が立ちます。
住所 京都市西京区大枝東長町1-305 グランドハイツ洛西102号
TEL 075-963-5986 http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1307829.html
1980年時点での約12000人、1592の通名苗字のうち件数上位から記載。
☆多すぎる
[新井][山本][木村][金本][金田][安田]
☆非常に多い
岩本・金沢・金山・金光・高山・徳山・平山・松本・山田
☆結構多い
青木・青山・秋田・秋山・岩田・池田・伊藤・大山・大原・岡田・
岡本・岡村・加藤・金海・金村・金原・金岡・金森・金子・金城・
金谷・木下・ 国本・河本・坂本・斉藤・清水・白川・杉山・鈴木・
田中・高木・高島・高田・高橋・玉山・玉川・田村・武田・巴山・
豊川・豊田・中山・中村・中島・成田・夏山・西村・西山・ 野村・
橋本・林・原田・平沼・平山・平田・平野・福田・ 星野・星山・
松井・松田・松岡・松原・松山・松村・光山・宮本・南・安本・山崎・
山下・山口・吉田
☆多い
安東・安藤・石川・石井・石原・石山・井上・伊原・今村・伊山・
岩城・岩崎・岩田・岩村・上田・内田・大川・大倉・大島・大城・
太田・大谷・大野・大林・大宮・大村・大本・小川・河東・金井・
金海・金川・金島・金林・香山・川島・河村・川村・川本・神田・
完山・木本・木山・清原・清本・呉本・小林・小山・近藤・佐々木・
佐藤・沢田・重光・茂山・島田・新本・杉本・高野・高原・高村・
高本・竹村・竹本・武本・竹山・谷川・谷山・徳永・徳原・富田・
富永・富山・永川・永田・長田・成本・新田・延山・葉山・長谷川・
花田・華山・春山・平川・広川・福本・福山・藤井・藤田・藤本・
藤原・文山・星本・本田・松井・松浦・丸山・三浦・水原・三原・
三井・宮田・村井・村上・村田・森田・森本・森山・安川・柳川・
梁川・梁本・山中・山村・横山・吉野・吉原・吉村・吉本・渡辺 地獄のマッカーサーに罵声を送ろう
http://sinnnoaikokuhosyu.seesaa.net/article/248474060.html
女に参政権を与えたGHQが諸悪の根源
結果、今の日本である
10月 03 「女性の解放」をトップに指示した「五大改革」指令
http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/16191973.html
GHQは日本を徹底的に骨抜きにした。日本人を子ども扱いし、日本人に対する犯罪が奨励され、強姦が横行したという。しかも検閲により、GHQを賛美する内容以外は徹底的に排除された。
つまり日本は北朝鮮のような状態だったのである。
しかもマッカーサーは日本国内に不法入国をした朝鮮人をも利用した。朝鮮進駐軍を創設させ、日本中を犯罪だらけにしたのである。
そして日本を歴史上類を見ない治安の悪さにしたのである。GHQに逆らう者は公然とリンチをされ、逆らったものは処刑されたという。もちろん反抗するすべもなく。
私はアメリカは重要な同盟国だと思っているが、朝鮮と手を組んだマッカーサーだけは別だ。マッカーサーは人間の皮をかぶった悪魔である。決して許してはならない。
GHQ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
戦争犯罪国はアメリカだった!
http://www.810.co.jp/hon/ISBN978-4-8024-0016-9.html
GHQが簡単に作った現日本憲法は、神様なのかねぇ?
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/kokusai/1491429703/ 全国の宗教法人の構成員の人数をすべて合計すると、日本国民の4倍もの人数になるそうだ。
これはどういうことかというと、国民一人当たり、平均4つの宗教に入信しているという勘定になる。
日本では、4つの宗教の複数信仰者がありふれているということだ。
こんな国は世界中で日本くらいだろう。
日本には、宗教信者ってこんなに多いのだ。
それに対して「精神科行け」とはどういう言いぐさだ。
行かない人のほうが圧倒的に少なくなってしまうだろうな。 ≥〉1
病院に行って来ました。
請求書が着たら払っといてね。 「ADHD治療薬」の巨大な市場、その安全性は?
2016年1月2日 WIRED.jp
http://news.livedoor.com/article/detail/11020017/
日本では覚醒剤に指定されている薬(アンフェタミン)が、
米国ではADHDと診断された子どもに処方されている。
同治療薬の市場は、米国内で130億ドル規模と巨大だ。
アンフェタミンを長期間投与することが子どもの脳に
どのような影響を及ぼすかについてはわかっていないが、
投薬数は今後も増え続けるだろう
(日本では、アンフェタミンは、精神依存・薬剤耐性により、
反社会的行動や犯罪につながりやすいとして、覚醒剤に指定) 精神科医自身がアタマの病気だからちょうどいいんじゃね 🌟 明日を変える言葉@
信仰の「無限界の力」、病が治る奇跡。
心を変えれば、環境は変わり、
人は変わり、未来は変わっていくのです。
その根本にあるのが信仰の力です。
信仰は、たとえて言えば、
あなたがたの家庭に引かれている水道の本管につながる行為です。
蛇口をひねって水道の本管から水を引き入れる行為、
それが信仰なのです。
本管に滔々たる水が流れていても、
信仰によって蛇口をひねらなければ、その水は蛇口から出てはきません。
これと同じように、「信じる」ということ、「肯定する」ということ、
「受け入れる」ということによって、
あなたがたには無限の力が与えられるようになるのです。
この「信じる」という力は、
通常の学校教育において教わることは決してないでしょう。
これは、宗教あるいは宗教教育においてのみ教わることです。
あなたがたの真なる父が、
天において、無限界であり、無敵であるように、
あなたがたも、
この地において、無限界であり、無敵でありなさい。
それは、「信仰において勝利せよ」ということなのです。
信ずるものの場合、病が治っていきます。
あなたがたが、どのような人生観を持ち、
どのような自己イメージを持つかによって、
あなた方自身の肉体の設計は変わります。
あなたがたの血液のなかにある赤血球や白血球、リンパ球、
こうしたものもまた、
強い霊的な生命力を帯びて、日々、活動しています。
そういうものが、「あなたがたが、どのような思いを発信するか」
ということによって変わっていくのです。
体のなかにあるウイルスその他、
悪しき物質と戦って、それを駆逐し始めます。
体のなかにできているガン細胞や、その他の不適切な組織は、
この「思い」によって、どんどんとつくりかえらえ、
廃棄処分にされていきます。淘汰されていくのです。 >>43
いいこといった
全部こいつら持ちでいいな
全額負担でなw 🌟 大川隆法著 「伝道の法」
第3章 人類幸福化の原点
1 「宗教心」「信仰心」は、なぜ大事なのか
「大悟三十五周年」「立宗三十周年」を迎えた幸福の科学
幸福の科学にとって、二〇一六年は「大悟三十五周年」「立宗三十周年」であり、一つの区切りの年でした。
立宗して三十年がたったので、宗教団体としては、ある程度、日本のなかにおいての地位は確立してきたと考えていますし、世界においても知られつつあると思います。
海外で当会を知っている人の数を合計すれば、日本よりは、はるかに多いと思いますが、海外でも、まだまだ現在進行形で活動しているところです。 私の生誕地である徳島県が、どのくらい海外で知られているかは知りませんが、いずれ徳島県は世界の聖地になると考えています。
また、二〇一六年には、映画「天使に゛アイム・ファイン”」でも多少キャンペーンをしましたが、立宗三十周年を記念して、吉野川市の川島町に、「聖地エル・カンターレ生誕館」を建立させていただきました。
内心では、多少、恥ずかしい気持ちがないわけではないのですが、記念になるものが何か一つぐらいはあったほうがよいのではないかと思っています。きっと、世界のみなさんが参拝に来て下さるようになるのではないかと信じています。
未来の徳島県には、阿波踊りのときだけではなく、私の生誕日である七月七日あたりを中心にして、さまざまな機会に、全世界からいろいろな方が訪れるようになるのではないかと考えているので、徳島県の未来はとても明るいのです。
以上を前置きとして、本章では、主として宗教的な話をしようと思っています。 徳島県出身の「三木武夫・元総理の霊」を困らせた質問
ーー17行割愛ーー
やはり、「四国の地は、弘法大師空海が八十八箇所の霊場を定めて以来、千年以上もの間、霊的な地として護られていた」ということが大きいのではないかと考えています。
生まれ育った環境から、やはり、文化的なものの影響をそうとう受けるので、「そうした霊的な環境のなかに生まれた」ということが大きかったのではないかと考えているのです。 「霊的なこと」を受け付けない、現代の学問や科学
ただ、そういう信仰深い所に生まれたからといって、すべての問題が解決したわけではないことも事実であり、私の人生の大半は、「田舎的な部分と都会的な部分との葛藤を経ながら、成長してくる」という過程でした。
世界の情勢や日本全体を見渡す意味において、四国は、そう有利な地だとは思いません。
しかしながら、郷土の「純粋な信仰心」と、「日本全体は、今、どこを向いているのか。
世界は、どのような方向に向いているのか」ということを比べてみて、そのギャップを知ることは、「今、何をなさねばならないのか」ということを考える意味で、たいへん役に立ちました。「勉強になった」といってもよいかもしれません。
四国の徳島に育ち、やがて東京に出ると、「常識」というものがかなり変わっている印象を私は受けました。
簡単に言えば、「信仰心やあの世など、『霊的なこと』について表立って話をしても、あまり受けつけない」という感じでしょうか。コーティングされていて水を弾くような感じで、ツルンとしていて、まったく受け付けないような感じでした。
学問においても、科学においても、あるいは都市文明においても、だいたい、そういうところがあったように思います。
また、日本以外の国においても、先進国では、そういう点が非常に強いのではないかという印象を受けました。
もっと話を大きくすれば、次のようなことが言えます。
現代において、例えば、「霊界」「あの世」とか、「神様」「仏様」、あるいは、「高級霊」「菩薩」「如来」という言葉は、学問的には完全に死滅しかかっており、そういうものは「ないもの」とされています。
そして、「目に見えるこの世だけを、どうにかよくして快適にし、幸福に暮らすのが、人間の目標、人類の目標だ」と考えるのが主流になっています。
いろいろな学問があり、いろいろな専門がありますけれども、どれもこれも、「地球の表面上で起きていることがすべて」のように見えていて、
宇宙を見ても、「天体望遠鏡で見える世界がすべて」という感じで見ていて、これが「開かれた世界」だと思っている人が多数なのです。 戦後の日本人の信仰心は「縁起を担ぐ」というレベル
二〇一六年四月に出した、福田赳夫・元総理の霊言の「まえがき」にも書いておいたのですが、アメリカでアンケートを取り、「あなたは神を信じていますか」という質問をストレートにしたら、
九十八パーセントぐらいの人が「信じています」と答えることが多かったようです。
調査によって少し違うこともありますが、だいたい九十八パーセントぐらいの人が「神を信じています」と答え、「信じていない」と答える人は二パーセントしかいないのです。
一方、日本では、「あなたは神を信じていますか」とズバッと訊いた場合、「信じています」と答える人は十数パーセントです。そういう答えは、十五パーセント前後、十五パーセントか十六パーセントぐらいしか返ってきません。
まともに「神を信じていますか」と訊いたら、一、二割の人しか、「信じています」と言えないのです。
ところが、「あなたは正月に初詣に行きますか」「お盆にはお墓参りをしますか」「お守りなどを信じますか」「お祓いを受けたりしたくなることがありますか」などというかたちで訊いたら、
半数以上の人は、「そういうことはあります」と答えます。
「神様を信じていない。仏様を信じていない」と言っても、「合格祈願」や「交通安全祈願」などのお守りを持っていたりするのです。
神も仏もなかったら、そういうものを持っていても意味がないと思うのですが、「『縁起を担ぐ』というレベルぐらいの薄い信仰心がったら、この世の今の進化についていくことができ、共存できるぐらいの範囲でいられる」という感じでしょうか。
それが今の日本の常識なのではないかと思います。 しかし、これは、世界の常識からみれば、かなり外れているわけです。 ただ、決して、昔からこうだったわけではないのです。
第二次世界大戦後、この風潮が極めて強くなりました。
新しい憲法ができ、政治と宗教の分離を決められ、「学校教育から宗教を追放する」ということが行われてからは、宗教は一種の迷信扱いをされてきたのですが、それ以前もみな、そうだったわけではありません。
つまり、戦後の七十年余りが「異質」なのです。
その前の日本人は、「神を信じていますか」と訊かれたら、今のアメリカ人が答えるように、九十八パーセントぐらいの人は、「神様や仏様ぐらい、いて当たり前でしょう」と答えたと思います。
戦争で敗れた国の価値観が、全部間違っていたかというと、そんなことはありません。
「そこまで自虐的になってはいけないのだ」ということを申し上げておきたいのです。
一部、物質文明のなかで勝ち負けが生じることはありますが、「それによって、今まで持っていた伝統が全部否定されたり、信じていたものが全部崩れたりする」というのは行きすぎであって、やはり、きちんとした揺り戻しがあって、元に戻らないといけないわけです。 霊言集を何百冊も出し、霊人たちの「個性の違い」を示している
「そういう気持ちになっていただきたい」と思って、三十年間。幸福の科学の活動をしてきました。
私自身、説法を数多く行い、また、理論的な本をたくさん出してきたのですが、それ以外にも、霊言集というものを、相当の数で出してきました。
「霊言集を出さなくても、総裁の考えとして教えを説けば十分ではないか」と言う方もいますし、私もそう思って、十数年間、新たな霊言集を出さずにいた時期もあります。
しかし、だんだん、若い人が生まれて大人になってくると、「霊言」というものを知らない人が増えてき始めました。
「え?あの世ってあるの?死んでも人間としての個性がそのまま残っているなんてことが、あるんですか。脳が魂なんじゃないんですか。
脳が停止したら、人間として終わりなんじゃないですか」と考えて、このあたりを「当たり前で、常識だ」と思っている人がすごく増えてきたのです。
「魂やあの世などと思っているのは、脳や神経の作用だ」と思っている人が大勢いるわけですが、火葬場で焼かれてからも思考力が残っていたら、「そうではない」ということになるでしょう。そこで、霊言集を数多く世に送っているのです。
そのなかには、私の考えとは多少ずれている意見のものもあります。その人特有の考えがあるので、私の考えとは、ずれているものもあるのです。
そういう意味では、「教義の統一」は難しくなるのですが、「この世で個性が違うように、死んで、あの世に還っても、個性の違いはそのままあるのだ」ということをお教えするために、たくさんの霊言集を出してきました。
それはどういうことかというと、みなさんは、今世に生まれて、何十年かの人生を生き、やがて、あの世に還ります。「みなさんは、死んで、肉体を火葬場で焼かれ、お墓に入れられたら、それで終わりではないのですよ」ということを意味しているのです。
これは、すごく大きなことなのです。 信仰心には「この世を善良にしていく力」がある
死んで、火葬場で焼かれ、お墓へ入れられ、それで終わりだったら、「残された時間で、とにかく自分が満足できるように、快適に、エゴイステイックに生きればよいのだ」と思うかもしれませんが、
「もし、『死んで終わり』ではなかったとしたら、どうするか」という観点から考えると、人生はコロッと変わってくるわけです。
さらに一歩進めて言えば、昔の人が言っていたような、「亡くなったお祖父さんやお祖母さんが見ているのですよ」というあたりから始まって、「神様、仏様があなたの人生を見ているのですよ」という言い方もあります。
これは、「今では、笑う人が大半だろう」と思うようなことでしょうが、もし、これを「本当だ」として、
「神様、仏様が見ている」「亡くなったお祖父さんやお祖母さんが、私の一生をずっと見守っている」と思って生きたら、悪いことの一つも、なかなか、そう簡単にはできません。
子供でも同じです。中学生や高校生で、「コンビニには、夜間、店員は一人しかいなくて、とろいから、二つか三つ商品を゛持っていって”も、分からないだろうな」という気持ちがあったとしても、
ふと、「やはり、お祖父さんが見ているかもしれないなあ」と思ったり、「仏様は見逃さないだろうなあ」と思ったりして、それを止めようとする力が働いてくることがあります。
こういうものが実は信仰心の力なのです。信仰心には、実は、「この世を善良にし、道徳的に推し進めていく力」があるのです。 「自分ならざるものが自分を見守っている。ほかの人が見ていなくても、別の世界から自分を見守っている存在、自分の一生をジーっと見守っている存在がいる」と思うことによって、自分の人生を正すことができるようになるわけです。
ただ、「丸見えで、監視カメラで見られている」というようなことが感じられると、人生は不自由なので、それが分からないようにはなっています。
「自分がやっていることを見られていない」と思って生きていられるようにはなっているのです。
しかし、時折、そういうものを霊感的に感じたり、自分の両親や親戚などから、そういう宗教的な話を聞いたりすることがあり、それで、ふっと気がつくことがあります。
そういうものの存在を忘れないようにすることは、とても大事です。そのような「宗教心」「信仰心」というものは大事なのです。
::>>60 面白いこと言うね 2 善悪を分ける「二つの方向」
毎日、W幽霊”の相手をしている私でも、ホラー映画は怖い?
今、日本で広がっている「霊的なもの」や「宗教的なもの」のなかには、残念ながら、誰もが怖がるような内容を持っているものが非常に多くあります。
私は毎日のように、霊言を録ったり、あの世の方と実際に話をしたりしています。そして、それを本にしたり、映像として公開したりしています。
「そのような人間は、あの世の人など別に怖くも何ともないだろう」と思うでしょう。公式的には、そうです。全然、怖くも何ともありません。
ただ、そんな私でも、「リング」だとか、「らせん」だとか、「着信アリ」だとか、「エクソシスト」だとか、そういうホラーものの映画を観ていると、やはり怖いのです。
「うわっ、怖い、怖い。ぞくぞくしてくる」と思ってしまいます。
しかし、ふと気がついて、「あれ?私は毎日、W幽霊”の相手をしているのだから、怖がってはいけない」と思うことがあります。
「そういうものをつくっている人は、『怖がらせよう』と思っていて、霊などについては、話には聞いているかもしれないが、よく知らずに作っているのだ。
毎日、あの世の人と話をしている私が、そういう人が作ったものを見て怖がってはいけないな」と考え、思い直すことがあるのです。
ただ、時々、仕事をしていて、「この世は、なかなか手強い。難しいなあ。もう、どうしようもないな」と思うようなときに、つくりものではあっても、ホラー物を観ると、身震いというか、武者震いをして、
「これは戦わねばならん」という気になることもあるので、そういうものの効能がゼロというわけではありません。 悪魔を退散させるには、悟りに伴う「法力」が要る
特に、エクソシスト(悪魔祓い師)ものの映画では、バチカン公認のエクソシストたちが悪魔と戦ったら、たいていコロコロと負ける話になっています。
登場人物たちは、窓から落ちたり、階段を転げ落ちて死んだりするのですが、あまりにも情けないので腹が立ってきます。
私も悪魔を数多く相手にしたことがありますが、私はあんなに弱くはありません。映像でご覧になった方もいると思いますが、たいてい、数秒ぐらいで退散させているので、簡単なのです。
「出ていけ!」と言ったら、バーンと出てしまいます。(注。『エクソシスト入門』等参照)
それほど力の差があるので、映画のようにはならないのです。
映画では、バチカン公認のエクソシストたちが、ラテン語の『聖書』を読み、十字架を掲げ、「聖水」という水を振りかけても、向こう(悪魔)は笑っていて、全然、出ていかないわけです。
しかし、本当に「悟り」を持っていて。その悟りに伴って、「法力」というものがあったら、悪霊(あくれい)、あるいは悪霊(あくりょう)、悪魔というようなものであっても、退散させることができます。
悟って、日々、それを実践している人には、一種の力がついてきます。禅定をすれば、「禅定力」というものがついてくるように、いろいろな修行をすれば、力がついてくるのです。
四国では弘法大師の密教が流行っていますが、弘法大師の一生も、おそらくWエクソシストの一生”であっただろうと思います。いろいろな悪魔祓いをたくさんやっていただろうと思うのですが、私にはそれがとてもよくわかるのです。 「人の幸福と不幸のどちらを願うか」が人間の方向を決める
死んで浮かばれていない人、例えば、交通事故で亡くなったり、急な病気で亡くなったりして迷っている人の霊が出てくるのは、よくあることであり、おかしくも何ともないのです。
ただ、その奥にあって、そういう霊たちを地獄に引きずり込もうとしたり、あるいは、そういう霊たちを、ある家庭に解き放ち、その家庭をもっと不幸にし、目茶苦茶にしようとしたりする霊人がいます。
そういう事を本当に計画的に考え、後ろから操っている霊人がいるのです。
こういう者と対決することもありますが、やはり、許しがたいものはあります。
自分一人が不幸であることについては、多少、受け止めなくてはいけない面はあるかもしれませんが、自分が幸福になれないときに、せめて、他人を不幸にし、それを嘲笑って快感を味わおうとする人が、世の中にはいるのです。
それは、例えば、自分はお金儲けに成功しなかったけれども、他人がお金儲けに失敗したり、破産や倒産をしたりしたら、「ざまを見ろ」と言って喜ぶ人です。
あるいは、自分の病気が治らないときに、隣の誰それさんがガンになって死んだと聞いて、「ざまを見ろ」と思う人です。
そのように、他人の不幸を見たら、胸がスッとしたり、「許せる」という気分になったりする人は、やはりいると思うのです。
ただ、「これは、人間として考えて、やはり最低の心だ」ということを知らなくてはいけないと思います。
環境や政治制度、周りの影響によって、自分が幸福になれないこともありますし、たまたま家庭に恵まれないこともありますが、自分が恵まれないこと、あるいは、現在、幸福感を得られないことには、何らかの理由があることもあります。
そういうことも、やはり、よく考えるべきです。それをもって、「ほかの人の不幸を願う心」のほうに向かっていくようであったら、これは、いわゆる「悪霊」や「悪魔」の気持ちに通じていくものなのです。そのことは知らなくてはいけません。 原理は簡単なのです。それほど大きく難しいものではありません。
「他人さまの幸福を願う方向」で考えているか。「他人さまの不幸を願う方向」で考えているか。どちらを願うかが人間の方向を決めるのです。
もっと簡単に言えば、他人の幸福を願いながら数十年の人生を生きた人たちは、基本的に、天国という世界に還ることになっています。
あの世の天使や菩薩たちも、そういう人が亡くなったら、きちんと「お迎え」に来て、行くべきところへ連れて行ってくれます。
ところが、生きているときに、何か他人の不幸を願っていて、実際に、それに加担するというか、悪霊や悪魔たちがやっていることを、この世に生きながら、一緒になって行っている人がいます。
例えば、いじめです。映画「天使にWアイムファイン”」にも、いじめの問題が出てきました。周りが何人かでいじめをやっているときに、「そんなことをやってはいけない」と思いつつも、自分も参加することで快感を得たりする人がいます。
あるいは、「いじめに参加することで、自分がいじめられなくなる」と思い、いじめっ子グループのなかに入ることで身を護ろうとする、卑怯な心をもって生きている人もいます。
どちらも同じであり、やはり、他人の不幸を願う方向に引っ張られていきます。
善悪と言っても、基本的には、そういうことです。
ほかの人の幸福のほうを選ぼうとするか、ほかの人を幸福にするように、自分の人生をつくりあげていきたいか、そういう人生を生きたいか。そういう仕事をしていきたいか。それとも、反対に、他人さまの不幸を願う方向で生きたいか。その二つに大きくは分かれます
細かくは、それぞれのケース分けがいろいろあるとは思いますが、基本的には、そういうことなのです。 「ほかの人の幸福を願う人間」を地上に増やしていく
幸福の科学が目指している「人類の幸福化」とは、どういうものでしょうか。
私どもは、基本的に、「ほかの人の幸福を増やしていくようなことを願っている人間」を、この地上に増やそうとしています。
「世の中を悪くしよう」とか、「他人を不幸にしよう」とか、そのような気持ちになり、「それが当たり前なのだから」と思い、そちらだけで行ってしまっては駄目です。
人間の持っている動物性というか、動物的本能としては、当然、自分の身を護り、ほかの人を蹴落としたり、そういうことを思ったりします。
動物は、みな、「食べられる恐怖」でいっぱいです。「食べられる恐怖」と「飢え死にする恐怖」が、動物たちの持っている基本的な恐怖です。この二つから逃れることは、ほぼできません。一生、「植える恐怖」と「食べられる恐怖」「殺される恐怖」でいっぱいなのです。
それが人間世界でも広がりつつあるわけです。
しかし、私たちは、もう一度高度な存在として、やはり、善悪の観念をはっきりと持たなければいけないのです。
善悪は、個別具体的には難しいものがあり、何とも言えないところはありますが、大きく言えば、前述したように、「他の人々をその方向で引っ張っていくことが、他の人々を幸福にするのか、不幸にするのか、それをよく考えて生きなさい」ということです。
原点は、ここにあるのです。 そんなに世の中単純ならwwこの世に不幸なんてないわ
昔婆ちゃんと見ていた時代劇「水戸黄門」の世界では
善人と悪人がハッキリ分かれていて
悪人は顔つきまで悪くてわかりやすいww
人間なんてある時、善人に見えと思ったら、善人ってかね正義の騎手
または英雄、救世主…まぁ何でもいいがww
気が付いたら残虐な独裁者、迫害者、極悪人に見えるんだよ
どっかの国の指導者さまなんてね
叔父さんを犬に食わせ、実の兄を公衆の面前で殺害し(他説があるがww)
父親の時代の幹部を百人以上粛清し、民衆を処刑したり強制収容所送りにしたり人権侵害しまくりなのに、つくられた平和友好ムードで
一気に平和の使者だぜww、ノーベル平和賞なんて声まで上がってる
何なんだ?残酷な支配者→平和の使者っておいおい 3 政治問題を宗教の立場で考える
「自衛隊員の命を護れ!」といった民進党幹部
「善悪」は、大きく言うとそういうことですが、個別に見ると、難しい問題もあります。
宗教団体の多くは、今、政治問題としては、「反戦」「平和」「環境保護」等に取り組んでおり、そちらのほうを支援する方向に行っている団体が多数です。お坊さんたちもそうですし、新宗教もキリスト教も多数はそうです。
「反戦」「平和」「環境保護」「沖縄のジュゴンを護れ」などの言葉は、耳触りがとてもよく、訴えていて気持ちがよいのです。
一方、例えば、W戦争法案”と言われている、日米が共同で軍事行動をとれるようにする安保法案は、「よろしくない。戦争に巻き込まれるではないか」と言われたりしています。
(注。安全保障関連法は、2015年9月30日公布、2016年3月29日から施行された)。
民進党の政調会長になった方が、「自衛隊員の命を護れ!」と言っているのを聞いて、私は引っ繰り返りそうになりました。
「ええっ?自衛隊員が日本国民の命を護るのではなかったのですか」と思い、一瞬、耳を疑ったのです。
例えば、火災が発生しているときに、「消防隊員の命を護れ」と言って、一生懸命、消防車の前で演説している人がいたら、
普通は、「あなた、何を言っているのですか。火事で燃えている所から、命を懸けて人を助け出すのが、消防隊の仕事でしょう?火消しをするのが消防隊の仕事でしょう?」と言われるでしょう。
「消防隊員の命を護れ。出動しては相ならん!」と言ってる人がいたら、「ちょっとおかしいのではないか」と思うのが常識でしょう。
そのように、生命の危険を伴う職業も世の中にはあります。
警察官もそうです。「警察官の命を護れ」と言っていたら、警察官は危険な所には出かけなくなります。「今、ナイフを持った男が家に押し込んできました。来てください!」と言われたのに、警察官が、「いや、私も怖いから行きません」と言っていたら、仕事になりません。
これでは単なる「税金泥棒」です。そうとしか言いようがないのです。
職業によっては、他の人を護るために、生命の危険を伴う働きをしなくてはいけない人もいるわけです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています