朝鮮人は洗脳されている、まるで教団だ [無断転載禁止]©2ch.net
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昭和の頃、在日韓国人(儒教の国)が犬の首を川に捨てた事件。
綾瀬川に犬の首が多数浮いていて、警察によると犬の虐待事件
課もしてないと捜査中。
ところが、警察に出頭した荒川区のコリアンタウンの在日男性
が犬肉をさばいて、頭の処分に困って綾瀬川に捨てたと自供した。
当時のマスコミは、「通名報道」したため日本人の犯罪と海外に
誤解を与えて問題になった。 シ ⌒ ミ
八 ('・ω・`.)
. ミ._]、/ ヽ
`ー´|゜ ゜| |
j .,',. .| |
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.★ノハヽ r',, ;;=;;>::::::::::\ヽ:::. .::i
/).*゜o゚从 .`-'rrー-fl、;;;,,.._/ノrr;:ノ
〉 ヽ) ,|| .|i || |i
し――J ,|| || || || 「死体検案書提出に現金必要」とうそ、埼玉県警巡査を詐欺容疑で逮捕 TBS NEWS
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3502555.html
埼玉県警の警察官が、父親が病死した遺族に「死体検案書提出の際に現金が必要です」とうそを言って、現金およそ82万円をだまし取ったなどとして逮捕されました。
詐欺などの疑いで逮捕されたのは、埼玉県警草加署の巡査・石河大典容疑者(22)です。
石河容疑者は先月、父親が病死した女性(48)に対し、「死体検案書提出の際に現金が必要です」などとうそを言い、現金およそ82万円をだまし取ったなどの疑いが持たれています。
警察によりますと、家族が急に病死した際などに検案書の提出を求めることがありますが、費用がかかることはありません。
石河容疑者は「スマホゲームなどで数十万円の借金があった」などと容疑を認めているということです。 ・ 犬頭部30個…食肉業者「捨てた」
16日午後1時50分ごろ、東京都葛飾区小菅の東京拘置所外側にある堀に、
犬とみられる動物の頭部約30個が沈んでいるのを通行中の女性が見つけて
交番に届けた。
近くに住む食肉業の韓国籍の男性(82)が、共同通信などの取材に対し
「食肉用に輸入した犬の頭を処分に困って捨てた」と話した。警視庁亀有署は、
廃棄物処理法違反の疑いがあるとして男性から任意で事情を聴いた。
男性によると、正規の許可を得て、中国・大連から頭と胴体が切断された冷凍
状態で食肉用として輸入。胴体は食用として既に売れたが、精力剤などに使う
頭が売れ残り、10月下旬ごろ「堀にいるコイの餌になる」と考えて捨てたという。
[ 2005年12月16日 22:33 速報記事 ] /二二ヽ
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|: 安 .|
|. 倍 :|
|: 家 .|
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|´ ̄ ̄売国奴 ̄| ソ
ソ::::::::::::::::::::::::::::::::ソソ
/ ソ ̄|;;;;;;;lll;;;;;;;| ̄ソ \
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|:::::::::::::::|統一教|::::::::::::::|
. ̄ ̄ ̄|_______|´ ̄ ̄゛ 南北間による朝鮮戦争終結宣言は近い?在日も堂々と祖国へ帰ることができるね。
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入管法改正と出入国在留管理庁の設置を急いでる背景は以下と思われる。
1.近いうちに朝鮮戦争の終結が行われる可能性が高い
2.それに関係して、滞在許可と永住許可の線引きを明確にする必要がある
1.について、朝鮮戦争の終結なら「特別永住許可」付随する覚書が失効になる。
「特別永住許可は、朝鮮戦争の難民扱い」で、日韓地位協定もこれに付随している。
朝鮮戦争が終結になれば、「特別永住許可と付随するものは満了」となります。 神様が、甘露台を立てるのは「にほん」のはじめです。
そして、それは、「たかやまのとふじん」(強欲尽くしている者)には、神の立腹です。
だが、「にほん」の者には、ご利益です。
そういう意味において、おやさまの教えは、人間完成の道ではなく、たにそこせり上げの道。
それは、ご利益によって、谷底の者を、幸福にする道ということで、甘露を受ける台にて、その幸福を谷底が、与えて頂くことになる。
これがおやさまの教えです。
原典、おふでさき二号がきちんと知らしているのです。 根と言うものは地中にあります。
根を掘ると言うのは、埋もれている暗い地中の話題です。
つまり、隠してあったり、隠れていたりもあるでしょう。
根を掘る模様。
そこに基本の位置はあります。
> 「陽気な心」や「前向きな心」
それが、根のあるものであるためには、地場と言う理、おやさまの神名。二つ目標。
そういう、教えの根源を知らねばなりません。
名無さん。
基本の投稿では、ザおやさま。
http://religion.bbs.thebbs.jp/1164116611/e40
そして、天理教{天日火の海}理の返し
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1185553002/201-300
ザ道の路銀研究
http://religion.bbs.thebbs.jp/1204431707/9-
このあたりに、真剣に書き込んでいる。 荒木棟梁というお言葉は、山本利三郎さんの入信時に、おやさまが仰せになりました。
http://homepage3.nifty.com/nagano_karasugawa/bunko/itsuwa31-40.html#33
国の掛け橋 逸話篇33
河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。
医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。
明治六年夏のことである。
その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが、にをいをかけてくれた。
それで、父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると、教祖から、
「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待っていたのやで。」
と、結構なお言葉を頂いた。 > 「あると言えばある、無いと言えば無い。あると信じて願うまことに見えてくる利益が神の姿や」
「願うという事、願うまことという事」それが、おやさまの教えられた究極の一点である。
一方、おやさまは、神が人に与えたいというものについて、多くを語られている。
人間への神からのさづけものについて語られている話題の、中心であり、その、最も基本的なものが「甘露」である。
「あしきを払うてたすけ急き込む、いちれつすます甘露台」が、先に教えられたおつとめの中の一説であり、
それは「後に、一列すまして甘露台」と、変更されているとされる。
おつとめの手振りで、頂きますというスタイルで手を出しているのは、「天理王命」と唱えてであるが、頂くものの、最核心のものは、甘露。
だから、甘露台を囲んで勤めるのであり、そして、神から渡したいものがあるということと、人間の願うまことで頂く利益と、その二つがおやさまの教えられた神、そのものである。 在日多い新宗教の教祖と信者 創価、オウム
陽光ライフ ●真光の業●501号 監修/崇教真光 / 弘文社
崇教真光は、1959(昭和34)年に立教し、全世界75ヶ国に
拠点を解説しています。・・・以下略
・・重度の火傷から救われ 滋賀県 ●田好●
生後11か月の息子が・・・・目を離した隙に息子がオーブントースター
で、左手を火傷してしまったのです。手のひらの全体の皮膚が剥けた酷い
状態で、病院に向かう最中、私は必死に真光の業(手かざし)を続けました。
病院に到着後、皮膚に大きな水膨れができて貼れ上がった手を見た医師は、
「皮膚が再生しても強ばって指が曲がらなるかもしれません。その時は手術
が必要です。」と伺ったのです。
私は、神様にすがる想いで毎日手かざしを続けました。すると、皮膚が3日
で再生し、なんと2週間後には、医師から「もう完治しました。もう手術の
必要はありません」と言われたのです。現在、火傷の跡も残らず指も曲げら
れ、すっかり元通りになり、真光の業の素晴らしさを改めて実感しました。 静岡の袋井にて発祥した山名系の天理教思想は、甘露台世界というものは、おつとめが完成して後のもので、甘露は、それから降るのだという。
つまり、人間完成の道の後に、神は寒露を与えるという。
これは、宗教学者が哲学的を模倣してこしらえたでっち上げであり、
仮に、人間が完成したら褒美として神が授けるというものならば、おやさまの言われた、
「あると信じて願うまことに見えてくる利益が神のすがた」という教えは、意味の無いものとなる。
願う人間の中には、汚れた心の人間も居るだろうし未完成に決まっている。
その未完成の人間の願いに対して、姿を現してこそ真実の神である。
おやさまは、そこをきちんと語られているのだ。 めつらしいこのよはじめのかんろたい これがにほんのおさまりとむなる 二号39
高山に火と水とがみへてある たれがめへにもこれがみへんか 二号40
たんたんといかなはなしもといてある たしかな事がみえてあるから 二号41
しやハせをよきようにとてじうぶんに 身についてくるこれをたのしめ 二号42
なにもかもごふよくつくしそのゆへハ 神のりいふくみへてくるぞや 二号43
たんたんと十五日よりみえかける 善とあくとハみなあらハれる 二号44
このはなしとこの事ともゆハんてな みへてきたればみなとくしんせ 二号45
高山のにほんのものととふぢんと わけるもよふもこれもはしらや 二号46
とふじんとにほんのものとハけるのハ 火と水とをいれてハけるで 二号47
さて、これの一連のお筆先の意味している神意とは、何なのでしょうか、?
幸福を与えるという意味なのですか。
疑問です。?
>>388
天理もそうです。 神様が、甘露台を立てるのは「にほん」のはじめです。
そして、それは、「たかやまのとふじん」(強欲尽くしている者)には、神の立腹です。
だが、「にほん」の者には、ご利益です。
そういう意味において、おやさまの教えは、人間完成の道ではなく、たにそこせり上げの道。
それは、ご利益によって、谷底の者を、幸福にする道ということで、甘露を受ける台にて、その幸福を谷底が、与えて頂くことになる。
これがおやさまの教えです。
原典、お筆先二号がきちんと知らしているのです。 天から甘露が降るというのは、思想としては古典的なものですが、その天から降る甘露を受けるために、わざわざ、神殿の中心に穴を開けてある神殿。
それが天理教会本部の神殿です。
これは、まさに、カルト的な発想そのものです。
空から甘露が降るというのは、それを信じるということだけならば、宗教思想、信心として、別段駆るとでもなんでもない。
だが、その甘露を受けるために、穴あきの建物を建てるという不合理を、平然となすのは、カルト的行為ということです。 だからさ、今の自民党はナチと同じ手法だって
1.ナチは宣伝で扇動した
2.野党を無能と罵倒した=安倍氏の口癖{民主党時代は出来なかった」
3.平和憲法を改正して、普通の国と称した
4.教育に関与した(サマーキャンプで思想教育)、国を愛する心だの教育勅語、国歌斉唱など
まあ、独裁を肯定した、どっかのトンデモ知事に指図されて、TV宣伝と野党を罵倒
して、外部に敵(中国など)が居ると錯覚させる手法を習ったんだろうけど
的外れも良いとこ、国を愛するって、自然的に政治が国民を愛したら自然に生まれる事
だろ、教育するようなことじゃないよ 病気を神に願って助けてもらうというのは、普通の信心ですが、神に助けてもらうからと、薬を川に流して捨てさせてしまう。
それは、カルト。
医者にも診てもらいながら、神に祈るというのなら、普通の宗教です。
つまり、「甘露台」という台を立てて、甘露を受け取るようにと、それを具体的に実行すると、カルトのなすわざになるわけですね。 そうそう、昭和の戦前の天理教は、神に助けてもらうと、「助けて」と文字を書いていました。
ある時期から、山名系教理の展開された時期ですが、「救け」と、文字に書くようになりました。
これも、カルトですが、おやさまの示されたのは「助け」であり「救け」ではないと、基本的にはそうりかいされます。
神殿に穴あきの建物を建てたり、薬を川に捨てさせたりというカルトは、おやさま的ですが、
神様のたすけについて、「救け」と文字をふるようなカルトは、どうでしょうか。
「世界一列をたすけたい」と言う神意は、普通の神信心ですが、
そのためには、家屋敷もろとも、みきの身体を貰い受けるという、具体的行為を着手すると、カルトになります。
現在説かれている、「人間が完成したときに甘露がふる」と言うのは、教えとしても史実としても、嘘だということになっています。
「人間が完成したときに甘露が降る」というのは、カルトでは有りませんが、
人間の完成の前から、建物に穴を開けて用意している姿は、カルトそのものです。 「神が与えたい」と、それを信じるから、「下さい」と手を出す。
甘露台というのは、あたえを頂く台ですから、神が与えてくれると信じていないとして、台を作りましょうと言うのでは、詐欺のようなものです。
>>1
> おやさまは、「あると言えばある、無いと言えば無い。あると信じて願うまことに見えてくる利益が神の姿や」との意、語ったと伝えられている。
そこで、あると信じたときに、ご利益があること。
それは、天からの与えがあるということですから、神はあるということ。
神の実体そのものは、「ご利益」なのだ。
これが、甘露台信仰の本質ということに、なります。 そうなのです。
泥鰌が人間の種になると言う発想が、おやさまの「甘露」と言う教えの発想なのです。
甘露については、以下のような資料があります。
天理教祖中山みきの口伝等紹介。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kunitokoomotari2tu1tugatennori/view/200907
『今度屋敷へ生れる時は、名を玉姫と云い、乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる』と仰せになり、
又『十八歳迄は人並に成人するが、十八歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも十八の姿や』と仰せになった。
それから御帰幽になった時『満三十年経ったら産れて来る』との御言葉があった。
明治十四年三月、兄秀司殿の御死去の際には、『小寒は先へ死んだが、今度の世ではやっぱり妹として生れさす』との御言葉であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「乳や乳母で育てるのではない。甘露で育てる」
この直接的な啓示。甘露と言うものは、そういう具体的なものだということになります。 >>397
>「十八歳迄は人並に成人するが、十八歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも十八の姿や」
これは、甘露で育てるわけですから、当然の事です。
増野鼓雪先生が、厳密な理としての表現よりも、文学的な表現であると言うことに留意しても、十八の姿でずっといられると言うのが、理としての甘露の持つ意味をきちんと示しています。
「乳や乳母で育てるのではない」という言葉ですが、これは、「生母の乳」や「乳母の乳」で育てるのではないと、理解されます。
「いわゆる母乳」で育てるのではないと言う事です。
当然のことで、十八になっても十八の姿のままであるとするならば、その女性は授乳と言う行為そのものとどういう関係になるのか。
そこで、「甘露」という言葉の意味が、良く見えてきます。
実に、甘い、露の事です。 神の与えと言うものは、人間の都合に合致した「甘い露」である。
それが基本です。
「十八の姿でおいてやるかわりに、こういう労苦を背負いなさい」では、十八の精神でいられないし、労苦と言うものが、老いを生みます。
つまり、おやさまの教えはもともと、人間に「甘い露」を与えたいと言う前提で、「たすけたい」である。
それが、深く実感されないと、甘露の神意は見えてこないと言うことになります。 【よう苦労して来た】逸話篇114
泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出会うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。
それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、
大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。
余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。
そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追いはぎですから、
> 「心根の腐った出来が悪い人」
> 「畜生以下の人間」
と、みなされても仕方が無いと思うのですが、おやさまは違う。
「うちうち折り合った」との理をお諭しになっている。
つまり、一列兄弟という当たり前の世界においては、そういう人に対して、礼節を尽くしてものを与えるという事を望まれている。
それが、おやさまの、お心そのものということです。 「ほしい人に貰ってもらえばなお結構」という、逸話も有ります。
普通のものの考え方と、ちょっと違うのは、「ほしい人」と言われたのは、この場合、追いはぎではなく、泥棒さんでした。
そしたら、欲しい人というものにみんなあげてしまうことが、おやさまのお望みという事になります。
そこで、立場を変えてみれば、欲しくても手に入らないものがある事に気がつきます。
つまり、あげたくてもあげれないものがあるとわかります。
たとえばそれは、おたすけの名人泉田先生の効能ある「おさづけの理」。
それは、欲しくても貰えるものではない。
そういうものがあります。
「命」、命を貰って延命すると望んでも、それは貰えません。
「健康」、その人の健康を自分に欲しいと願っても、手に入れられません。
「若さ」、「美しさ」、「才能」、・・
欲しいから、欲しい人が何でも貰ってよいとしても、貰うに貰えないものがあるということです。
おたすけにんなら、人さん助けさせていただく理。
欲しいと望んでも、盗むことも出来ない。
天よりの与えとは、実は、人に分けてあげたくても、どうぞと差し上げるわけにいかない。
この、本質的な違いです。 >>1
良いのか、悪いのか、判りませんが・・(笑)
お筆先三号には、このような理が知らされてあります。
このよふは にぎわしくらしいるけれど
もとを知りたるものハないので 三号92
普通の天理教徒さんが言われていますところの、
> 金で買えるものとかは、与えてしまえるもの。
それは、賑わしい暮らしそのものの、アイテムと見てよいでしょう。
衣服も家も、自動車も、幸福な生活のアイテムは、おいはぎや、泥棒から見たら、手に入れたいもの。
自分が幸福になるためには、賑わしさ、つまり繁栄こそ必要なわけで、「物質文明」と呼ばれるその物質は、実は、欲しい人には貰ってもらえるもの。差し上げられるものなのです。
でも、
このよふは にぎわしくらしいるけれど
もとを知りたるものハないので 三号92
と、教えられた、理の世界がそこにあると言うこと、それが、「甘露」について知るためには、一番に大切なことでしょう。
「元を知り足るものは無い」ので、・・立教も、甘露もすべては、それが原因なのです。 このよふは にぎわしくらしいるけれど
もとを知りたるものハないので 三号92
このもとをくハしくきいたことならば
やまいのおこる事は ないのに 三号93
甘露が、寿命薬とか、食事なしで済むとか、色々に言われます。
病まない、死なない、弱らない。そのシンボルが、「甘露」です。
賑わしい暮らしをしていても、病は起きる。
この元を知ったら、病は、起きない。
こういう風に、読めてしまう、お筆先でした。 >>1 >>1
おやさまご存命の時代に、おやさまの所にたすけを求めて大勢の人が来ています。
それは、ご利益を求めてでありました。
山名系教理で説くところの「人間完成の道」を求めてのものではなかった。
人間が、成人したら、人間が完成したら、たすけてやろうと言うおやさまではありませんでした。
おやさまは、「ほこりを払うよう」にと、言われています。
この元を詳しく知りた事ならば 病の起こる事は無いのに 三号94
何もかも知らずに暮らすこの子供 神の目にはいぢらしき事 三号95
神の目には、いじらしいのであって、「この未熟者め」ではないということ、
「甘露」という教理の大前提に、なっていて、それが判らぬと、神様がわからないという事になってしまうことでしょう。
元を知ったらと言う、その元とは、おやさま・天理王命さまの元の事。
その場合には、元の理を知るという言葉にて、私たちは語りがちですが、親の心を「神の利益」として知る事が、神様を見るということになるのですから、
知識として元を知るのではなく、「ご守護・不思議」として神を知ることが、「願う心のまことに見えてくる利益としての神信心」になることなのです。 心得違いを正してから、甘露ではなく、先ず甘露。
それがおやさまのお心だから、おいはぎさんにも、泥棒さんにも、貰ってもらえばなお結構と、教えられています。
そうですよね。
この元の基本は、一列兄弟の「をや」がいる。です。
そして、おやは「ご利益」を下さる。
これが神様なのです。 >>1
おやから、頂くと言う事に熱心である方が、お筆先の教えにそっていると、それが人間であると言う基本です。 >おやさまの示されたのは「助け」であり「救け」ではないと、基本的にはそうりかいされます。
どちらでそう理解されているのかお教えいただきたい
具体的な著作物等、参照
お筆先の三号に、
「この話、悟りばかりであるほどに これ悟りたら証拠ためしや」とあります。
この話というのは、おやさまの教えのことですが、直接的には、前のお筆先に知らされてあります。
「柱さい しいかりいれた事ならば この世確かにおさまりがつく」 三号13
「この話 悟りばかりであるほどに これ悟りたら証拠ためしや」 三号14
つまり、「この世を治めるこの話とは、悟りばかりの話であるという事ですから、悟るのは「人間」です。
人間が悟り、証拠ためしをする。
それに対して「たすける」のが神であるという事は、「この世を治める・たすけ」とは、人間が悟って行うことに対してという範囲で理解するなら、
「助力」と言うことですから、「助け」です。
「救済」という「救け」というのは、人間が成し遂げるべきことであり、それに対しての「神の助け」です。 >>1
親神様のこの世の救済は、神様の仕事ですから、神様自身の問題。
それはなにも、親神様が親神様に、話しをする必要も無いものです。
親神様が人間に「この話」をするのは、人間に対してのお話ですから、容器暮らしをする人間への、神からの助け、という事になります。 >>1
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
たすけるのは親神様です。
それだけを見つめますと「救済」と言う意味に感じ取れます。
「救済」→「救け済み」。つまり、済んでしまったとか、済ませてしまうという意味を含んでいます。
「泥海の中より守護を教えかけ それがだんだん盛んにるぞや」 三号16
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
親神様が人間にたすけ一条を教えると言う行為は、「救済」でしょうか。
元にさかのぼって、親神様が泥海の中から教えかけたのは、「だんだん盛んになった」というのは、「救済」でしょうか。
元始まりにて、教えかけたのは「助け」であり、「救済」ではない。
これは、理解できると思います。
「神の助力で」「だんだん盛んになった人間」と言う意味です。
すると、
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
と、「も」「も」と、なっていて、
「このたびは たすけ一条教えるガ」ではない。
「これハ 無い事はじめかけるで」ではない。
泥海からの元始まりと、天理教の立教の元始まりも、
同じ「元の理」ですから、
つまり、「救済」という意味での「救け」ではなく、「助け」と、私は理解する。 おやさまは、流産してしまいます。
流産が、大事に至らなかったというのは、「救け一条」でしょうか。 >>1
助産婦さんのやることを、神様が手助けしてくれた。
つまり「助産」なのであり、「救産」ではない。
このように、天理とは、厳密なものです。 りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
という理解でよろしいでしょうか
おやさまは、「神は理である」と教えられています。
これは、教理の基本です。
そして、おやさまは「りやく」と語られているわけです。
聞いた、神官守屋は「利益」と聞いた。
そして、高弟たちは「利益」と伝承した。
おやさまは「ごりやく」と語られていないから、「りやく」という言葉だったとして伝承されています。
「ごりやく」ならば、「ご利益」と感じをあてられます。 >>1
「理は神である」
そしたら「りやく」が神の姿というのですから、「理やく」と文字をあてた方が、理が通ります。 元の理には、「上から突くにより、つき様」とか、こう言うおやさまの語呂の用い方が、なされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すると、「ごりやく」ではなく、「りやく」なのですから、
「理・やく」、「理役」と、このように、漢字を当てる事も出来ます。
それは、親神様はお一人であるのに、十の柱に、「道具の役」として、分けて教えられた「こふき話」にならえば、
「神様のご守護の理・神様の役」が、「理役」、つまり「りやくだと、そういう基本に到達します。
すると、
> りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
と、言う理解も、それに当てはまりますが、
このりやくは、何の神様の何のご守護と、そういう「理」の役割、機能を見ることで、神が見えるのだと、そういう意味に、なります。
・・・・・・・・・・・・・
曖昧な物ではなく、十全の守護の理の何々と、理を役割として分けて、「りやく」が見える。
そしたら、「神様」の姿として、納得できるわけです。
「ご利益」とは「神の理の益」とは、「何々の守護の理の益」と、わかることで、髪の姿が見えるという事に、基本的には理解します。
>>1 原典に参照しますと、お筆先二号に、「よろづたすけの模様」について、
きちんと親神様は、理を知らされています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世界中 どこが悪しきや 痛みしょ 神の道教せ 手引き知らすに」 二号22
「この世に 病と言うて 無いほどに 身の内障り 皆思案せよ」 二号23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
病魔というのは、神からの「みちおせ」「てびき」「しらす」に。
それを、
あると信じて、願うまことに、見えてくる「りやく」が神のすがた。
こういう、基本を示しているお筆先です。
直近の実例ですが、ある方が末期のがんの方に、病の理をおさとしした。
それで、持ち返した。
それから、熱心に信心をしていたら、再度悪くなった。
そこで、質問させて頂いたのは、
「おやさまは「ひとことまでで皆たすけるで」と、教えられています。
最初の、「身の障り」について、何をお諭ししたのですか」
「○○の理の病であったので、○○すると心定めでした。」
「それから跡に、信仰的によさそうな事、させたでしょう」
「そうでした」
「それは、だめです。おやさまは、一言までて皆たすけるでと、教えです。」
「そうでした」
「最初の、身の知らせ、一言、ひとつの事だけです。」
・・・
神様の殻の、身の知らせ、たった一つの事だけで、その理でお助けする。
そしたら、神の理が、助ける側も助かる側も、きちんと分かる。>>1
ごちゃごちゃと、よさそうなことを色々させると、肝心の神の「理」の役割が燃えなくなります。 > 昭和33年に初版の、深谷忠政著「教理研究 元の理」が発行されている。
元の理は、かみの「りやく」=姿を知るための基本ですが、
それが、教団教義では歪んで解かれています。
その事は、関連スレとして、2ちゃんに述べてありますが、関連を、一部引用します。
深谷忠政著「教理研究」元の理 その批判。
>>1
> そのはしがきには、このように記されている。
頁1、「天理教教典が出た時、"第三章元の理が無ければ、未信者にそのまま読んで貰っても、まとまっていて大変匂いがけに都合が良いのですが、
あれがある為に、一般の人にそのまま教典をお渡しするわけにいかなくなる"という声を何度か聞いたことがあった。」
「現在でも同様の思いをしておられる方が多いのではないかと思う。」
「元の理は新しい別席のお話台本にも出てくるし、これを表に出す以上、
何等か解明の手がかりがあたえられなければならぬと考えたものの、それは極めて困難なことであることを自覚せぬわけではない。」
・・・・・・・・・・・・・・
教団インテリは、病と理との基本を諭さないで、「つとめの人衆」の魂の因縁論を語ることで、ごまかしたということですが、
第三章元の理が、布教の基本、よろづ助けの模様であるのです。
元の理。
それは、甘露は、絶えずに降りているという、おやさまのお優しさへの、安心です。 やまと言葉と言うものは、もともとは「やまとの国」の言葉。
つまり、関西弁です。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>>1
大和言葉(やまとことば)あるいは和語(わご)は日本語の語種(単語の出自)の一つであり、漢語・外来語に対して元々日本で使われてきた固有語のことである。
「やまとことば」は「倭詞」や「和詞」と表記することもあり、「やまとことのは」ともいう。漢字の訓読みは漢字の意味に対応する大和言葉である。
・・・・・・・・・・
お筆先は「和歌」です。「和語」(やまとことば)で書かれています。 御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。
そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、
勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。
其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。
そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。
それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・
>>1さん。
話の核心は、鼓雪先生が伝えている所の、この引用部分にあります。
本席様は、扇の伺いを「教祖の御命で」伺っています。
本席様は、扇の伺いの結果について、「教祖に」伺っています。
扇のさづけを頂かれていても、それを自分で解釈したり、自分勝手に用いているのではない。
その、「元の理」。「をやという理」に効能という理が有るということです。 「扇」を持つと言うことは、普通の天理教徒さんの立場で言えば、おさづけの理を頂くということだと、あなたが言われていますよね。
そしたら、おさづけというものは何に使うかといえば、病助けですから、「たすけ一条」の道具ですから、おたすけに用いるもの。
おやさまのお言葉ですが、二つの内容を含んでいますよね。
ひとつは、これです。
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。」
もうひとつは、これです。
「道は、辛抱と苦労やで。」
「世界の事は何も心にかけない」「世界の事は何も知らない」なんて、とても簡単なことですよね。
政治のことも経済のことも、何も心にかけなくていいのですから、まさに、ノー天気そのもの。
それに対して、「道は苦労と辛抱やで」これはどういう意味かといえば、重荷だという感じです。
さて、この、二つは、どのように二つ一つなのかという問題です。
じつに、この二つは、一つなのです。 > おやさまのお言葉には、
> 「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで。」
> と、お聞かせ下された。
つまり、「たすけ一条」をつとめる道としては、「苦労と辛抱」で、難儀不自由したり、人から悪く言われたりして、「成人」していくということですよ。
そして、「世界の事は何も知らなくても、心にかけなくても、皆世界の胸の内が映るようになっていく、そういうことが、その成人の過程が、
道を通るものの、当然の苦労です。
そうじゃないんですか。
そうでしょ、基本さん。
と、言いたいのを、じっと辛抱している。
そうですね。ネトウヨの>>1さん。
お察しのとおりです。
「道は辛抱と苦労やで」と言うのは、これから「成人していく」と言う苦労ではない。
おたすけの効能の理を頂いてしまった者の、「成人してからの」道の、苦労ということ、辛抱ということではないかと、
うすうす感づかれているのでしょう。
「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。」
おやさまから、お助け人として、成人免許を与えられたという、そういうお言葉です。
そして、
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい」
だって、この人には、それだけの「理」が許されている。
そしたら、「道は、辛抱と苦労やで。」
とは、成人を目指すものではないと、冷静に思案したら、わかる事です。 依頼人がいれば、「頼まれて扇を使う」のは、神様の道具として、当然の事です。
そこで、「世界のことに無知で、何にも心にかけない」とは、「あほう」という言葉が、自然に付きまとうでしょう。
人間が成人すると言うことは、あほうになるという事だと、そんな表現がされたりしました。
でも<<
まじめで正直であるとか、世間に無知であるとか言う、それが「天理に精通した」姿として、語られる場合には、「皆世界の胸のうち」を、映る、大前提としている。
そんな風に、思案するのが、基本です。 >>1
「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。
九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。
そこで、今が夜と考えるのか、昼と考えるのか、
夜というのは、「おやさま」不在、昼と言うのは、「おやさま存命」。
この違いを、基本として、思案します。 天理教教典第三章、「元の理」には、「この間、九億九万年は水中の住居、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる 。」と、あります。
「六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込み」と、ありますから、立教直前は、「文字を」、その前は「知恵」を仕込んでおられたわけです。
すると、これは、「仕込み」の最中ですから、「心の成人」が至らないと言うも何も、
まだ、「知恵」から「文字」を、教えていた最中ですから、
「何も知らぬが無理でないぞや」
なのです。>>1 > このスレで自分の発言したことに、現状の民主の状況を踏まえた発言をしてみろや。
<現状の民主の状況。?
選挙前も、今も、それほど民主党の状況は、変化していないと思います。
この話題、ご意見ありの本スレにて語ってくれませんか。
そちらにて、議論しましょう。
「夜の理」が、日本を敗戦にまで、続いていたと言うこと。
そういう話題でなら、当スレの話題と言うことになります。
「夜」なのか「昼」なのか。
で、判断する。そういう基本を語っています。 宗教も政治も、何をもって権力を構造として完成してきたか。
例えば「学問」と言うものは、権力は独占してきた。
例えば「情報」というものを、権力は独占してきた。
「教養、知性、博識」とは、権力を独占し続けるためのアイテムであり、それらが谷底に幸福をもたらすのは、極めて例外だったと言うこと。
その権力がどうにもならぬもの。
それが、おやさまの支配くださる「火水風」の守護。
「火水風の守護」。
こんなもので、世界を普請すると言う中山みき。
おやさまは、甘露を下さる、人間の親神様天理王命様です。 >>1 農民の豊年を祈願しての、神事において、また、万一の時の福祉において有効な制度であったはずの、「大宝律令」が、
実は、「債務奴隷」を大量に生み、大社高山による差別社会の統治に悪用されたと言う事です。
B、しかし、その利息が年5割にものぼる高利であったため、次第に税のように強制的なものとなった。
各地の国司はこの利息を当初は公共事業や国分寺の造営費用に充当していたが、やがて自らの懐に入れるようになった。
C、平安時代になると、土豪化した在地領主も出挙を行うようになった。
これを私出挙(しすいこ)という。私出挙は半ば強制的に行われたが、
その利息は、当然のこととして公出挙よりもさらに高利であったため、実質的な税として農民を苦しめた。
D、私出挙においては、貸し手の債権保全のため、農民の宅地・奴碑・雑蓄のほか口分田までが質物となった。
利息未払いのため土地や家屋を没収された農民や、追い立てから免れるため逃亡する農民が後を絶たなかった。
平安中期には、債務不履行となった場合、質物の所有権が債権者に移転する流れ質が一般的になったからだ。
そうしたなかで、農民は債務奴隷へと墜していった。 >>1
仮に、とか、もしというと、少し奇異に感じられるかもしれませんが、
甘露台が素直に信じられる心になるとすると、それは、世界がろくぢになると言う事に直結している。
そういう論理を、普通の天理教徒さん、お分かり頂けますか。
神様は「高山に火と水が見えてある」。
そして、谷底には「甘露」「甘露台」なのだ。
こういう天理の基本がきちんとわからないと、甘露台は「成人した魂の人のための台」なのだという、
「利権構造」が、宗教高山が、切り無く生まれてきてしまう。
それでは、甘露を降らすわけには行かないと、そういう、事情について、考察してみてください。 争いの原因というのは、貧困です。
「高山」というものは、人の生命財産を保護し保障する権力が、政治制度として「高山保護・育成」につとめている。
それは、貧民から救済するという、
たとえば、生活保護とか、江戸時代の「飢饉米」とか、
それは、「貧困」が前提で居て、その貧困を逃れようという不安が、権力者に統治をゆだねるという結果を生んでいる。
だが、甘露が降れば、それを受け取る「甘露台」があれば、貧困の恐怖も、「労病死」そのものが無くなる。>>1
ここがあって、そして「高山には火水」。
甘露台というのは、そういう意味の台であり、高山の火と水が見えていないと、甘露台の意味も見えなくなると、そう思います。 天理教の年表には、立教5年、6年頃の事として、次のような記述があります。
「・・ついに村人、役友達、親族不付き合いとなる。」
これは、「夜」と言う状態であり、「昼」とは言えないシーンです。
「夜昼の理」の事です。
「夜昼の理」。
こんな風に、おさしづでは示されていますが、おやさまは、「夜に」道を始められました。
そして、「昼に」扉を開かれました。
これが、基本としての、「夜・昼」の理です。
九つ、九、この世とは「苦の世」。
夜の理と言われるのは、立教前の世界のことです。
「裏守護」の時代とも言われるものです。
それに対して、「立教」とは、「神が表に現れた」、つまり、「昼に」なったと言うことです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「昼」になったはず、「立教」なのに、五日の理では暗転した「闇夜」。
その原因のことです。
それは「甘露」を受ける上では、とても大切な意味を持つと基本は思案します。
「22の2の五つ」という教理があります。
ろくぢでないと「理い吹く」ではなく「立腹」となる。
「理い吹く」は「昼」。
「立腹」は神の立腹ですから、「夜」と、舞台は変ります。
そこが、分岐点です >>1 >>1
「22の2」とは、男女二人、が三組で、222です。
おつとめのてをどりの、お立ちの方の数理です。
おさしづに、「ほんの三日や千日や」とありますが、三年千日の苦労をすれば結構になると言う天理の基本があります。
すると、1838年12月12日に立教したのですから、1841年には、結構になっていなければならない。
1841年とは、天理教年表では、「おびやためし」の年です。
ところが、夫善兵衛は、自分の眼病は助けられた。妻の病気も治った。
特に長男秀司の足痛も助けられたというのに、おまけに、おびやためしで、流産の産後も助けていただいたのに、
「貧に落ちる」を拒んだ。
もし仮に、すっと、仰せのようにしていたら、簡単に、道は「昼」だったと、そういう事かも知れない。
> 「・・ついに村人、役友達、親族不付き合いとなる。」
の原因は、「貧乏を命じた親神」にあるのではなく、病を助けられても、神に約束しても、実行しない「夫善兵衛」にあったと、
そういうことになります。
それは、「高山因縁」が切れていなかったと言うこと。
「高山因縁」を切りたくなかったという、執着にあった。
22の2の五については、関連スレ、2ちゃん「天理」に要点を述べてあります。
ご参照下さい。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1227968483/l50
夜ではない、昼なのだ。
とは、「貧乏神ではない、豊年神なのだ」と、存命のおやさまを信頼することです。
『不自由なきようにしてやろう 神の心にもたれつけ』
と言うのが、「昼」である基本になります。 神様は、勤め場所の普請の開始の前に、扇を授けています。
「正月こえのさづけ」と、ありまして、肥えのさづけは、一番最初に授けておられる。
つまり、最初に「路銀」を渡すと言う、天理の順序。
それは、おやさまの場合にもそうでした。
しかし、それで昼で通れるのに、「夜」にしてしまった、私たちの先輩がいます。
初代といわれる、方々です。
善兵衛さまは、最初に三年の苦労すら通らないで、おやさまの霊力で信仰体を作ろうとした。
それで、昼を夜としてしまったのは、2ちゃん「天理」スレに、黒の基本さんが投稿した話題に、そうした事実が書かれていますが、
初代のほとんどは、苦労三年で、「三年千日」で、大教会初代になっています。
それならば、その五十年後には、戦争協力という「暗転」。
大切なおつとめも、原典も、神の理に背いてしまう情けなさです。
そこに、甘露を頂くという信仰は、素朴で素直であるべきだという、基本が見えます。
神の心に、もたれ付けないという事、それでは、「夜」。残念なことです。 >>1
さて、今思案中の問題に、「こじまつ」と言う問題がありまして、それは、「松恵さまの」態度と、秀司先生の言葉とに、示されていたものです。
この頃の秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、
もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」(「改定正文遺韻」)とある。
これに対し、おやさまは、「こじまつするとこじまつになるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられた、と伝えられている。
これに対し、教祖は、「小始末すると小始末になるぞ」(諸井政一手記「改定正文遺韻」)と仰せられたとも伝えられている。
しまつ 【始末】(名)スル
(1)(物事の)しめくくりを付けること。片付けること。処理。
「—を付ける」「このごたごたをどう—するつもりだ」
(2)無駄遣いしないこと。倹約すること。
「なんでも—して使う人」「藤屋の市兵衛が申事を尤と思はば、—をすべし/浮世草子・一代男 7」
(3)結果。主として悪い状態についていう。
「さんざん迷惑をかけたあげく、あの—だ」
(4)物事の事情。事の次第。
「私が此書(ほん)を読む様になりました—は/不如帰(蘆花)」——が悪(わる)・い 扱うのに困る。手に余る。 ——に負えない (事態が悪化して)処理できない。手に負えない。
・・・・・・・・・・・・・・
こじまつにするという事は、「夜の理」を呼び込む行為である。
「倹約」「整理」「片付け」それを小さなことまでいちいちにするのが、こじまつ。
今の日本のマスコミの報道、こじまつという姿に見えますが、こじまつというものと「夜・昼」の理と、深く関係あると感じているのが、基本です。 こじまつな態度というものは、言うならばいちいちにうるさいという事です。
当局は、いちいちにうるさかったとか、官憲のような態度が、こじまつという態度で、反対側で言うと、「鷹揚」と言いますか、のんびりという態度。
「夜」と「昼」と言うものは、理において、「夜」は節約型。
人間の体の場合ですが、「夜」はこじまつに、してあるわけで、「昼」は消費型。
「昼」「日る」「費る」。
つまり、燃えるということはなくなるわけですから、こじまつの反対側には「浪費」がある。
浪費は、エコではないので、「倹約・節約」の方が理にかなっているとして、こじまつそのものは、「夜」の理に人を導くという、そういう事になりますむ。
つまり、天理教会は「こじまつ型」に固執していて、「浪費型・ゆさん型」ではない。
それが、高山に癒着したことと、因果関係上にあるのではないかというこだわりです。 >>1 「甘露」という言葉には、こじまつは、ふさわしくない。
皆が、甘い露を頂くというときに、「こじまつ」にされたら、そりゃ、ぶち壊しというようなものです。
気分が悪くなる。
あんたは成人段階が、もう一段足らんから、「甘露」は跡ですというような、状態が「夜」。
それでは、「甘露」の「甘さ」が無さ過ぎる。
甘い採点、甘い判定、甘い生活。
それと、まるで相容れないものが「こじまつ」。
そしてそれは、私たちの中に体質としてあるもの・・。
天理教会が、信仰に対して、厳しい生活をよしとしているのは、「夜」の道しか頭に無いからだと、そんな気さえします。 おやさまの言う事によれば、こうなります。↓
[神の言う事を聞かない]→[神が秀司を監獄に入れさせた]
秀司の言う事によれば、こうなります。
[皆が来るから]→[警察が権利を行使する]
いったい本当は、どちらがどうなのでしょう。
もしおやさまの言うとおりだとすると、官憲はおやさまの手先という見方すら出来てしまうわけです。
「神の言う事聞かぬから、犯罪者として始末させた」親神さま。
それは、神様の小始末なのか否か、
みな他人事だから、秀司先生の発言を、神を信じられない愚か者と、軽蔑できたりするのですが、
本音、官憲は、お上は、「お上の意思」で取り締まっていると、秀司さんは考えた。
そして、おやさまは、「神の意思」で取り締まらせたと言う。
これ、神様を信じると言うのは、口で言うはたやすいけれど、目の前が真っ暗なのに、「昼」だと言われたようなもの。
その時、「小始末」(こじまつ)に入ってしまう、
つまり、「神への不信」が、小始末を生む。
それを、見て取れてしまうと言うことです。 >>1 さて、監獄から帰った秀司の態度は、
> 秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、
> もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」
という態度の一方で、信仰組織づくりに奔走していた事実を見ておくべきでしょう。
講を、各信者組織として、まとめさせていったと言うことです。 http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_56.htm
【講の結成】(1878年)(明治11年)(教祖81才)
1878年(明治11年)4月頃、秀司を講元として「真明講」が結ばれる。
世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎ら。この頃から金米糖を御供えとして渡す。
この頃、教祖の行為は村にとって迷惑だから、「天理さんを止めてもらいたい」と中山家に申し入れが為されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな風に、れんだいこさんは、まとめています。
上↑「この頃から金米糖を御供えとして渡す。」は、「御供え」では無く、「御供・ごく」です。
秀司は、「明日・あすにち」を、一日は一年と判断し、一年後には、信者組織を「講」としてかたちづけ、
自分は「本部」の役割をうけもって、「御供」を渡す役割に位置づけたと言うことです。
「あすにちからわ をふくハんのみち」という、「予言」を形にしてみせた。
それは、「信じていない人間のナス行為」とみなした方が、的を射ているでしょう。
「夜」だとしか認識できないから、「真明講」と言う、明かりを、付けて見せた。 NHK紅白、原爆Tシャツは落選だけど、慰安婦Tシャツは出場
総務省の外郭団体、公共放送みなさまのNHKの態度なのか?
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小野寺まさる @onoderamasaru
【悲報】原爆Tシャツで日本人を敵に回したBTSがNHKの紅白落選!これは朗報だが、
実は2回目の出場を決めたtwiceのメンバーのダヒョンさんが「慰安婦Tシャツ」を
着ていたことが判明。
このTシャツの売り上げは韓国の理不尽な慰安婦活動の資金源に…。
NHKはこんな反日活動家を紅白に出場させるのだ。
11,661 15:12 - 2018年11月14日 10,478人がこの話題について話しています 宗教家のやりがちな、予言の実現加工ですが、
そういう、作為的な「信仰行為の美化」をする時に、
>「信仰」「教育」「訓練」「伏せ込み」「忍耐」「執着心を取り去る」「仕込み」等々の<美名>が付けば
> それは、まさしく、こころを暗くしてしまう。「こじまつ」そのものと、言えましょう。
という、暗い精神文化を、育ててしまう。
おやさまのお言葉を信じるのなら、素直に信じる事。
信じないけれど、信じられないけれど、何とか信じた形を作ろうとする。
それは、「美名と嘘」のブレンド。
「一日を一年」と読んだのは、「理」を利用した態度。
しかし、おやさまを疑ってしまいつつ、お言葉を行おうとする。
その不自然さが、「小始末」。
大きな始末が出来ない、人間心のあざなさというものでしょう。 【リアル1984】NHKの安倍チャンネル化が止まらない!
ペンス副大統領が「FTA」と言い、通訳が当然「FTA」と訳したら、
NHKが「2国間による貿易協定」と訂正
NHK「さっきの日米共同会見の同時通訳でペンス副大統領の発言を『FTA』と訳しましたが『二国間による貿易協定』の間違いでした。お詫びします」
ペンス「FTA」
通訳「FTA」
NHK「FTAじゃないです。二国間による貿易協定です」
>>436
とにかくNHKは全て官邸の言いなりで何もかも腐ってらぁな!
官邸からして朝鮮人の息のかかった連中の巣窟だからな。 #拡散希望 #NHK #FTA
来日中のペンス副大統領が、日米間の貿易協定に関しFTAだと明言
通訳もその通りに伝えるも、すぐにNHKスタジオが訂正
TAGとかいう造語で大本営発表するのは止めて欲しい……
副大統領はご自身のTwitterアカウントでも「negotiations for a free-trade agreement」と発言してます 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:f70dfdc711a7c6ae6accccb939f27fbf) ネイティブが「FTA」とはっきり発話しているものをFTAと訳すのが「誤り」であるとしたら、高校英語教員はどういう仕事したらいいんでしょうかね。
これ誰に聞けばいいんでしょうかね。文科省?外務省?NHK?ベネッセ?下村博文の奥様? 共謀罪が審議されていた際も、法案の正式名称ではなく、
官邸がイメージ操作の為に付けた「テロ等準備罪」という呼称を、
法案にテロの定義がないにも関わらず使い続けたNHKだが、
今回はFTAを「二国間の貿易協定」と、間違っていないのに訂正。
やはり政府広報は確信犯だったようだ。 安倍官邸の「FTAという言葉を使うな」圧力でNHKが過剰訂正!
ペンス副大統領は「FTA」とツイートしたのに 原口 一博
✔ @kharaguchi
今、国対から戻りました。法務の階理事はじめよく頑張っていただきました。
そこにNHKから電話。ペンス副大統領がFTAと言ったというのは同時通訳の誤りで訂正放送しているとのことでした。
そんな誤訳があるだろうか俄かに信じられないので原文を送っていただくようにお願いしました。 NHKは「FTAじゃないだす」と言う。ペンス副大統領は「FTAについて安倍晋三首相と話し合いに行く」とツイートしている。
二人はなんについて話し合ったんだろうか。 東京新聞より→
「ペンス氏は、来日前にツイッターで安倍首相との会談目的について『FTAに向けた交渉について議論する』と明言」
つまりはNHKの報道局流のフェイクニュースでしたね。NHKは決してサンケイや読売のように安倍政権べったりの一枚岩ではないとは信じたいけれど。 長島昭久
✔ @nagashima21
これは「報道の自由」に関わる由々しい問題だ。
政府からの圧力で訂正したとしたらそれこそ深刻な問題だし、
NHK側が萎縮効果で自主規制したのならコレまた問題。
政府は政府の立場でFTAではないと説明し続ければいいだけの話で、
わざわざNHKが副大統領の発言を誤訳してまで捻じ曲げる必要は全くない。 NHKは共同記者会見の生中継でしっかりペンス副大統領の発言内容の「FTA」とか「自由貿易協定」と同時通訳してテロップまで出しているのに、
夜7時のニュース7ではなぜか「TAG」って言い換えるまやかし。 NHKは、国民から強制徴収したカネをいったん返せよ。
国民の「知る権利」を裏切り、特定の腐敗した権力者に媚びへつらい、
外国の副大統領の発言内容を勝手に改変してしまうようなテレビ局に、
国民から受信料を強制徴収する資格も正当性もない。
NHKはどこまで腐るのか。 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。 j
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
g-
池田大作先生を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです
備考 その他の入ってはいけないランキングです
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ) 酷すぎる、底が抜けたどころの話じゃない、
国民をバカにしすぎ、舐めすぎ、NHKは一回解体しろよ。 こういう比較は良くないとは思っているのだが、それでも思う。テレビ局の問題として、この件はイッテQの問題よりもはるかに大きく、
相当に深刻な話である。
ちょっと信じられない事態だ こういうなんちゃって番組はスカパーとかユーチューブでやるべきです。
金返せ、解体しろ、公共放送を名乗るな 【バカの国へ】日本の英語力、88カ国中49位、2011年の44カ国中14位から年々下落
日本の英語力は49位 5段階で下から2番目に認定
日本の英語力は非英語圏で49位――。スイスに本部のある国際語学教育機関が今月、英語を母語としない88カ国・地域を対象に調べた「英語能力指数」を公表した。
日本は3年連続で、5段階で下から2番目の「低い」と認定された。
日本の順位は11年には44カ国・地域で14位だったが、年々下落している。日本法人のサンチョリ・リー社長は「日本と他国との差は相対的に開きつつある」と指摘した。 日本の一般人に英語力がない方が、米国や政権にとって都合が良かったんだろう。
米国や政府は日本国内の大手メディアは牛耳れれても、諸外国のメディアを懐柔することはできない。
だから、諸外国のメディアが報じることを理解できない日本人が多い方が好都合だ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181110-00000062-asahi-soci … これね、最大の問題はランクが低いことじゃないのよ。
小学校の英語必修とか学習指導要領の改訂とか国がナタを振るってからこうなってることが問題なの。
つまり英語教育改革は無益にして有害だった可能性が大なのよ。 いつも思うのは「日本人は英語を学ぶ必要はない」から英語力が低いだけであって、こういう統計は何の意味もない
そもそも普段の仕事で英語なんて必要ないし、海外赴任したとしても高度な英語力は求められない
我々日本人が本気だしたら、余裕で1位になるよね? >>1
「日本の英語教育は役に立つ」とか言ってたバカなネトウヨ がいたな。
簡単な英文ひとつ書けないのに..
英語できない教師を中学校・高校から一掃しなきゃダメ。
そういう教師は生徒に出す宿題も評価の基準や方法も不適切で英語嫌いを増やすだけ
https://www.asahi.com/articles/ASLC84HKXLC8UHBI01Z.html … … これが現実
・日本の順位は11年には44カ国・地域で14位だったが、年々下落。
・今年は、非英語圏で49位。
・1位はスウェーデンで、2位にオランダが入った。
・アジアではシンガポールがトップで3位。
・香港が30位で、韓国31位、中国47位、台湾48位。 英語力はともかくいまだに国民が安倍政権をのさばらせているのが問題ですね 大気汚染のせいでバカになってるって、とあるブログで見ました。
そのうち中国もバカだらけで世界総バカ化が進行中ではないでしょうか。 >>453
まず『必要』を母とし、学習意欲は「意識」へのアプローチが必要。それが効かない層には、「飢え」の認識と抜け出す貪欲さ。
日本人に勤勉さが無いとは言わないが、もう少し論理的な思考癖が欲しい。 >>460
お前、じゃあその投稿、英語で書き直して再度投稿し直してみ 政府財界が求めているのは、
深く考える能力がなくてもいいから、
アメリカ語で受け答えができる奴隷。
だから、その一方で人文系の学問を軽視している。
いや、理系の研究開発費さえ出し惜しみしている。
それこそが愚民化である。 政界の「浮き草」細野豪志がピンチ 地元支持者が「追い落とし」画策
細野豪志元環境相が民主党から民進党、希望の党と転じた挙げ句、どこの党にも引き受け手がないまま孤立して久しい。
そのお膝元の静岡五区でも最近、細野氏の元幹部支援者らが立憲民主党を応援する「勝手連」を結成し、細野氏の追い落としに動き出した。
勝手連のメンバーは、細野氏の地元、三島後援会の前会長やサポーターズクラブ「豪衆会」の面々で、
呼びかけ文書は「細野氏は野党分裂の立役者となり、自民党的体質の実態が浮き上がり、
さらに今年になって(証券会社からの)五千万円の裏金疑惑も発生した」と糾弾。
勝手連は次の衆院選で立憲民主党から三島市議を担ぎ出すために党本部へ働き掛ける。
自民党関係者によれば「細野氏を含めて、野党分裂のどさくさに紛れ自民入りを狙う議員は複数いる」。だが、
自民党幹部は「我々を散々批判しておきながら今になって自民入りなど虫のいい話」とにべもない。
先の通常国会で野党提出の内閣不信任案に公然と反対票を投じるなど、民主党時代に代表選に立候補したことも忘れたかのような変節ぶり。
渡り鳥のような議員にとって他人事ではない。 浮き草どころか水面に浮かぶ廃油の膜だろ。掬いあげて捨てなされ。
彼の政治生命を断つ事は結果的に彼自身を救う事にもなるでしょう。 通常国会で野党提出の内閣不信任案に公然と反対票を投じるなど、
民主党時代に代表選に立候補したことも忘れたかのような変節ぶり。 残念でもないし当然
次は落ちろ!・・・落ちたな(確信) 長島さんが、急にまともなことを言い出したのは、
この記事読んだからではないかと邪推しています。 【確定】「野党は職場放棄」はデマだったことが判明!
自民・下村氏が「野党は職場放棄」発言を撤回&謝罪に追い込まれる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています