隻手の音声。
他所に対象を求めるから聴くだの聴こえなくなるだのという結果になる。それは分別である。

自らが隻手になる、成り切るのである。
その時、自分が隻手であり、隻手が自分となる。
聴くものが聴かれるものであるから、聴くだの聴こえないだの、ましてや聴こえないなるだのは妄想・分別なのである。

それを老師に呈し、認められるのを「初関を透る」という。
インチキはいけない。

仏罰は因縁により自らにくだるものである。