宝石の網・・・もし究極の<現実>が゛あらゆる形態からの<開放>の中での静穏な自己の享受と客体の活動的な享受ーすなわち
純粋な「精神」としての享受と物質の中での「精神」としての享受ーという二つの様相において存在するものであるならば、
<現実>としての完全な結合のためには、その両方の様相における統一が要求される。それは「此岸」し「彼岸」の両方で知ら
れねばならない。「・・・・」至高の祝福的な経験も、快楽と苦痛の混じりあった生活を送る人間という形をとつて現れるもの
も、同じシヴァなのだ。もしこれらのシウァがすべて同一であるという事が、一切の人間的行為の中で認識されるならば、あり
とあらゆる人間機能を、犠牲と祭礼という宗教行為とすることによつて達成できる。〔・・・〕たとえばタントラのサーダカ(
修行者)は食べるときも飲むときも、あるいはその他の身体的自然機能を充足させるとき、常に実行しており、つぎのように言
いかつ思うー我はシヴァである、我はバイララヴァで゛我は彼女であると。このように行為し享受するのは、単独の個人ではない。
彼の中で、彼を通じて、行為し享受しているのはシヴァなのである。伝説的なアシュヴァクラは言います。「すべての中に自己を
、自己の中にすべてを認識し利己主義と「わがもの」の感覚から開放された者は、幸福であれ汝は快適で゛あるべし」。
苦しゆむ内近こうよれと言われても、近寄りすぎると身我苦しいし、適当に近寄る暗いが良い聖者なのかも、真面目な人は一心に
悟ろうとしている、私の今はこの様に縁があるし仏も大切にしなければいけないけれども、煩悩にも一期一会で出会いも大切にし
なければいけない適当な努力?してさあとりあえずになるようになるくらいがみんな楽な旅なのかなあ、工場心無い?まあよいか