【不安障害治癒】「無我」の教え Part.2 【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
仏教、 無我の教え、悟り、森田療法により神経症(不安障害)は治せる
という話をしている無我さんのスレです。
※前スレ
【不安障害治癒】「無我」の教え【仏教、悟り】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462873365/ >>633
あなたは小乗仏教(上座部仏教、部派仏教、南伝仏教)と大乗仏教の違いが全くわかっていない
のです。大乗の悟りを知らなければ両者の違いを知ることは出来ません。
あなたは宗教体験がなく、仏教用語を頭に詰め込んで仏教がわかったように思っているだけです。
世の中にはあなたのような人が非常に多いです。 >>631
「無我夢中」と仏教の「無我」は何の関係もありませんよ。
(無我夢中は仏教用語の間違った転用の一つとして有名です。)
>>632
どちらも「迷い」です。
悟りはその両方から目覚めることです。
>>634
その質問にはもうとっくに答えています。
>無我を認識(?)してから音楽が以前より希薄に感じるみたいなことを言っていましたが、
>それは音楽に限らないってことはないですか?
悟りを知った人は誰でもそうなるのです。
なぜなら、「無我」を実感すると音楽などで得られる満足よりもはるかに深い満足と安らぎ
が得られるようになるからです。
>無我以外のものは意味のないものに感じていませんか?
既に説明したでしょう。
「無我」を知らない人が、「無我や悟り以外のものは・・・」と言っても、
「無我や悟り」の内容を知らないのですから、その質問文自体に意味がないのです。
「無我」は「非無我の世界」を包摂していると何度も書いたはずですね。
>>635
>どちらにも振れ過ぎないでいつでも精神をプラマイ0に保て?
>これって感情無しの人間になれってこと?
どこの誰がそんな馬鹿なことを教えているのですか?
そんなことで悩みから自由になれる訳はありませんよね。 >>637
無我さんにとっては無我以外は全て『悪夢』『まぼろし』になったりしていませんか?
『悪夢』『まぼろし』ではないものは世の中にほとんどないということはないですか?
無我以外のものは意味のないものに感じていませんか?
イエスかノーで答えて頂けると有り難いです。
>悟りを知った人は誰でもそうなるのです。
(音楽に象徴される)ものの感じ方が希薄ならば、
これは普通の人の感覚を包摂してないと言えませんか? >>638
何度も書いたでしょう。
「無我」を知らない人が、「無我以外のものは・・・」と言っても、
「無我」の内容を知らないのですから、その質問自体に意味がないのです。
(イエスかノーで答えられる質問ではない、ということです。)
あなたは、私が書いていることを理解しようとしないで、ただ同じ質問を繰り返して
いるだけだということに気が付かなければいけませんね。
「非無我の世界を包摂している」という表現も理解できていませんね。
それは「普通の人と同じ感覚を同じ程度に持っている」ということではありません。
同じなら、同じように悩みを抱えてしまうことになるでしょう。
過去に経験があるから気持ちはわかっても、別の感覚を持っているということです。
(大人が子供の頃の気持ちが残っていても、もはや子供でないのと似ています。) >>639
イエスと答えてしまうのが不味いから、明言を避けていませんか?
感じ方自体が普通の人の感覚を包摂したものではないのではないですか? >>640
質問自体に意味がないので答えようがないのです。
あなたは「無我」を知らないのですから、
「無我以外は全て『悪夢』『まぼろし』になったりしていませんか?」 と言っても、
その質問文に意味がないということです。
あなた自身が「無我」を体験する以外にはないでしょう。それは、要するに「夢」から醒めればいい
ということです。夢から醒めれば、もう夢の内容などはどうでもよくなるのです。
夢から醒めるには、前もって頭で「ああではないか? こうではないか?」と想像することはやめて、
ひたすら悟った人(救われた人)の言葉に触れ続けていくことです。
(鬼和尚が勧める「止観」も役に立つと思います。)
>感じ方自体が普通の人の感覚を包摂したものではないのではないですか?
「理解できる」ということであって、「同じ感覚を共有する」ということではありません。
大人は過去を思い出して子供の気持ちがわかりますが、子供は大人の気持ちがわからないのと
似ていると言えます。 何故一番大切な質問に明言を避けるのか理解できません。
イエスと言うことですね?
>「理解できる」ということであって、「同じ感覚を共有する」ということではありません。
普通の感覚を共有していないなら、包摂ではなく、異質なものではありませんか?
>大人は過去を思い出して子供の気持ちがわかりますが、子供は大人の気持ちがわからないのと似ていると言えます。
実際は大半の大人は子供の気持ちが分からなくなっていませんか?
で、言葉だけ分かったふりをしているだけのような。
特に子供のいない大人は。 >>642
>イエスと言うことですね?
違います。
あなたは「無我」の内容を知らないのですから、その質問文が意味をなさないのです。
>何故一番大切な質問に
それは、あなたにとっては一番大切に思えるかも知れませんが、全然大切ではないのですよ。
あなたは、頭で「無我」を理解しようとしていますが、それが間違っているということです。
「無我」は頭で理解できるものではないからです。
(鬼和尚が「実践あるのみなのじゃ」と言っているのも同じです。体験がすべてなのです。)
>子供のいない大人は。
子供がいるいないは関係ありません。
小さい頃の自分や友達のことを思い出してみれば、子供の気持ちはわかるものです。 >>637
バカな考えですか?
よくある哲学的な考えだと思うんですが
ならどうしたら悩みや不安から解放されますか?
簡単に実行出来ることで
瞑想の類は瞑想してるぞこれが瞑想の域なんだと自分を騙すことしかできない >>644
>ならどうしたら悩みや不安から解放されますか?
一言で言えば、「悟り」を体験することでしょう。
臨済禅師は「無位の真人を自覚せよ」と言われています。『臨済録』 → >>586
道元禅師は「身心脱落せよ」と言われています。『正法眼蔵』
要するに、身心を離れた「個人性のない自由な意識」に目覚めることです。
仏教では昔から、多くの悟った人(救われた人)がそれぞれ独自の表現で「悟り」を
表現されていますから、それらの中から自分に合う教えを選んで求道を続けて行けば
よいでしょう。
ただ、本当に悟った人(救われた人)に就いて教えを学ぶことが大切だと思います。
自分勝手にいい加減な理解をしていると「悟り」に到達しません。
(また、新興宗教の信者になったりしてもいけません。お金を取られるだけですから。) >>643
とても大切な質問に『無我を知らんと分からん』という魔化すのは無我さんのパターンですね。
>>638な答えには全くなっていません。
明らかに異質な感覚だし、包摂してないじゃないですか。
子供がいるかいないかもかなり大きな問題かと。 >>645
>>586のレスを読んでもさっぱり理解できなかったけどリンク先読んだら何となくわかりました
とりあえず今すぐ出来ることは何ですか?
悟りを開けば強く幸せになれますか? >646
あなたはいつも前もって自分で答えを持っていて、それと同じ答を相手から引き出そうと
していますが、それはナンセンスであることに気付く必要があるでしょう。
既にあなたが前もって用意した答が正解なら、あなたは「無我」についても「悟り」に
ついてもわかっているということになりますから、あなたは既に神経症や他の心の悩みから
自由になっているはずなのです。
ところが、現実がそうではないということは、真実はあなたが全く予想もしていない内容だと
いうことなのです。
あなたの大きな誤りは「無我」を頭で理解できるものだと錯覚していることにあります。
ですから、頭で理解しようとすることをやめて、本当に悟った人(救われた人)の言葉に触れ
続けることに集中してもらいたいと思います。 >>647
>とりあえず今すぐ出来ることは何ですか?
原始経典である「ダンマパダ」や「スッタニパータ」を始めとして、大乗経典やその解説書など
を読んで、「悟り」とはどういうものかについて、先ずその雰囲気を知って行くことが出発点に
なると思います。
5chにいる鬼和尚という人のブログも参考になると思います。
http://onioshyou.blog122.fc2.com/
>悟りを開けば強く幸せになれますか?
確実に幸せになれますが、その幸せの内容は最初に期待していたものとは全く違うでしょう。
思ってもいなかった形での幸せが得られることでしょう。(そして、最初に思っていた幸せは
偽りの幸せだったことに気付くことにもなるでしょう。) >>636
>あなたは宗教体験がなく、仏教用語を頭に詰め込んで仏教がわかったように思っているだけです。
自分の知識の足りなさをそうやって誤魔化しても無駄です。
知識がないのなら仏教の概要について書かず己のその宗教的体験だけ書いていれば良いのです。
逆にあなたは小乗仏教とは何かも分からずなんの体験もなく何故簡単に口に小乗仏教とはこうだからというのですか?
小乗仏教に対する間違った知識を頭に詰め込んで小乗仏教が分かったように思っているからでしょう。
小乗仏教について勉強しなおすとか、小乗仏教の瞑想を体験してみるか、そうしてから大乗仏教と比較してください。
あなたは観念だけ、知識だけしかも間違えた知識だけで小乗仏教とはこうだと決めつけているのです。
何も体験もないのに。
知らないのなら黙っていることです、そうすれば余計な恥をかかないですみます。 >>650
>逆にあなたは小乗仏教とは何かも分からずなんの体験もないのに、何故簡単に口に出して小乗仏教とはこうだからというのですか?
に訂正 今議論されてる人は、ここのスレ立て人&無我さん命名「自演ぼーや」じゃないからね。(ちなみに自分は自演もしたことない)
〜〜
悟りの入り口でも、体得すると
楽しみや欲望の様相が変わるという話だが、
無我さんは世俗的、一般的な楽しみや願望が変化してる?
「薄くなってる」?
来世でやりたいことも、
仏教の探求?それとも俗世の楽しみも想定してる?
>>595
自分?欲望ばりばりでーす。
神経症の根には欲があるとは森田療法の言葉だが、その通りだと思う。
でも欲望自体が変化するというのは?・・ >>650 >>651
>知らないのなら黙っていることです、そうすれば余計な恥をかかないですみます。
それはまさに君のことなのですよ。
君が書いているようなことは学者によってさまざまな解釈があるところなのだから、
君のように一部の学者の説の本を読んで、それだけが正しいと思い込んでいる素人さんが
沢山いるのです。君もそのような可愛い素人さんの一人に過ぎないのです。
さらに大切なことは、そのような分類は仏教の本質には何の関係がないことがわからないところが
君のような素人さんの哀れなところなのです。
(昔は東大印度哲学科と京大印哲学科の間は犬猿の仲だったことがあるほど、仏教学・印度哲学に
おける個々の分類・解釈はさまざまなのです。)
宗教板の素人さん達の議論はすべてそれで、お互いに自分が縁あって知った特定の説だけが
正しいと思っているだけの馬鹿馬鹿しい議論に過ぎないのです。だから、君はここのような
神経症をどう解決するかというような深刻な問題に関わるスレではなく、素人さん同士で、
「俺の考え方が正しい」「いや、俺が習ったことが正統だ」などと言い合っていればよいのです。
君が仏教がわかっていると思っているのなら、小乗仏教と大乗仏教の違いを言ってごらんなさい。
それによって、君が仏教というものがどの程度わかっているのかが明らかになります。 >>652
>無我さんは世俗的、一般的な楽しみや願望が変化してる?
「薄くなってる」?
そうです。急激に薄くなりますよ。(頭髪も同じようにね)
>来世でやりたいことも、
仏教の探求?
そうです。大乗仏教というのは無限に広く深いので、限りなく勉強したくなるものです。
>神経症の根には欲があるとは森田療法の言葉だが、その通りだと思う。
でも欲望自体が変化するというのは?・・
「無我」を知ることです。臨済録の「無位の真人」を発見することです。
そうすれば、森田療法の考え方を超えた自由な世界を知ることができます。 >>653
だからそうゴチャゴチャと言葉多くして誤魔化そうとしても無駄です。
>君が仏教がわかっていると思っているのなら、小乗仏教と大乗仏教の違いを言ってごらんなさい。
>>629
これが基本中の基本でこのことに意義を挟む学者や僧侶がいるのなら具体的に名前を出してごらんなさい。
あと再度言うが
小乗仏教は色即是空ではなく色即是有または色即実有。
実はテーラワーダ仏教も同じ。 >>655
君には小乗仏教と大乗仏教の違いが言えないでしょう。
仏教というものが何もわかっていないから言えないのです。
>原始仏教(根本分裂くらいまで)→我空法空
>大乗仏教(特に中観派)→我空法空
???
原始仏教と大乗仏教が「同じ」だとでも言うのかな?
それなら、なぜお釈迦様の滅後は悟りを開く弟子がどんどんいなくなって原始仏教教団が
衰退して行ったのかね?
「同じ」なら、大乗仏教に変わる必要もなく、そのまま発展して行くことができたでしょう。
今の君には逆立ちしてもわからないでしょうが、原始仏教と大乗仏教とでは、「悟り」
そのものに対する考え方が全く違うのですよ。
そして、悟りを開いていた弟子達は大乗仏教の考え方こそお釈迦様の真意であったという
自覚があったので、大乗経典には「仏説」と冠されて行ったのです。
原始仏教(君が理解しているような仏教)は、お釈迦様から直接指導を受けなければ人々が
悟りを開くことができない不完全な説明だったのです。お釈迦様の覚りは完璧であっても、
説明の仕方が不完全なものだったのです。だから、釈迦様の滅後にどんどん衰退して行った
のは当然のことだったのです。
いずれにせよ、君のような素人仏教は間違っているだけではなく、このスレの目的である
神経症治療には何の役にも立ちませんから、君が自分の素人仏教解釈を披露したいのなら、
君と同類の人達が沢山いる「素人仏教議論スレ」に行って思う存分書き込みをして下さい。
(私は大学の仏教学科に入り、禅宗と浄土真宗の複数の師匠に就いて仏教を学んだ人間ですから、
君のような素人仏教議論には何の興味もないのです。) >>654
楽しみや願望も薄くなる代わりに、苦しみに囚われなくなるって感じですか?
それにより神経症等が治るのはメリットだとしても、
その点以外では、それって、ある意味人間味が減りませんか? >>656
言葉を並べ立てて必死でマウント取ろうと思っても無駄です。
>>624
>小乗仏教は<色即是空>ですが、大乗仏教は<色即是空⇔空即是色>ですから、悟っても
>通常の価値観を否定する必要のない世界に生きて行くことになります。
>(私はまだそんな境地には達してはいませんが、理解をすることはできます。)
これを書いて訂正してない時点でアウトです。
あなたが本当にエゴを消して無我でいるのなら自分の間違いは素直に認められるはずです。
エゴの固まりだからそうやってとにかく言葉をひたすらに並べて誤魔化しているのです。
あなたの希望通りに私はこのスレから消えます。
あなたは私が何度言っても聞く耳もたずにエゴを強化しているだけなので。 >>657
>楽しみや願望も薄くなる代わりに、
楽しみが薄くなるのではなく、楽しみの質が変わるという方が合っています。
以前は「何かを達成して」喜びを感じていたのに対して、「何も達成しなくても」
嬉しさが感じられるようになるのです。
これは「煩悩⇔涅槃」の転換が瞬時瞬時に起こり続けているからで、この消息を
上手に表現したのが「妙好人」と呼ばれている人々です。
禅の鈴木大拙博士は浄土真宗の「妙好人」の人々の世界を知って、「これが大乗仏教
の極致だ」と絶賛しました、その鈴木大拙博士の本を読んだインドの神秘主義者の
オショー(ラジニーシ)も、「日本にはシンシュウ(浄土真宗)という素晴らしい宗教
がある」と言っています。
>苦しみに囚われなくなるって感じですか?
そうですね。浄土真宗的に言えば瞬時瞬時に「煩悩⇔涅槃」の転換が起こっているので
囚われることがないと言えます。
臨済宗の「無位の真人」が自覚される時は、囚われなくなるというよりも、苦しみは最初
から起こらなくなります。(しかし、その状態が常時続いているような完全な覚りに到達
したのはお釈迦様ぐらいだろうと思いますが。)
>ある意味人間味が減りませんか?
苦しみにつながるような人間味は減るでしょう。
しかし、それはもともと本当の人間味ではなく、単に感情に振り回されている状態に
過ぎなかったということがわかるものです。 >>658
いくら説明してあげても理解できないのですね。
まともに仏教の勉強をしたこともなく、自分勝手に仏教書をあれこれ読みかじって
自分が考えた理解が正しい仏教だと思い込んでいる人達は世の中に非常に多いです。
君もそのような大勢の中の一人です。
宗教板には君と同じような人達が集まって毎日議論もどき(?)をして、「俺が正しい」
「いや、俺の理解の方が正しい」と言い合っているスレが沢山あります。そのようなスレ
が君にふさわしい場所ですから、そこに行って君の鬱積したストレスを発散して下さい。 >>659
>苦しみにつながるような人間味は減るでしょう。
しかし、それはもともと本当の人間味ではなく、単に感情に振り回されている状態に
過ぎなかったということがわかるものです。
無我さんには大切な人や家族はいますか?
仮に子供がいたとして、最近起こったような不幸な事故で子供を失ったとしても、苦しかったり、悲しかったり、そういった風にはならない?
もしそうなったとしても、「煩悩⇔涅槃」とやらが瞬時に起こってケロっとしてる?
どうなると思いますか? >>661
>仮に子供がいたとして、最近起こったような不幸な事故で子供を失ったとしても、
>苦しかったり、悲しかったり、そういった風にはならない?
私は悟りを知っていますが悟りきった人間ではないので、そのような場合は
(神経症の問題とは別ですから)ものすごく悲しむでしょうね。
実は、そのようなことに全く悲しまなくなるのは阿羅漢(小乗仏教の悟りの到達点)で、
大乗仏教では別の境地も存在するのです。
>>420 で紹介した話にも、その話が出ていましたね。繰り返し、読んでみて下さい。
浄土真宗で本当に救われた人の境地は、禅で悟った人と違って非常に温かい人柄が残る特徴
があります。(浄土真宗の素晴らしです。)
では、今日はこれで。 >>659
>以前は「何かを達成して」喜びを感じていたのに対して、「何も達成しなくても」
嬉しさが感じられるようになるのです。
これは良く言えば自己充足的、悪く言えば自己完結的になりますね。
この場合、生きる目的みたいなものがなくなったり、惰性で生きるようになりませんか?
外的、行動的には。
>>659
>苦しみにつながるような人間味は減るでしょう。
しかし、それはもともと本当の人間味ではなく、単に感情に振り回されている状態に
過ぎなかったということがわかるものです。
苦しみや弱さも大切な人間の一部のような気がしますが、無我的には違うってことですね。
>>662
>実は、そのようなことに全く悲しまなくなるのは阿羅漢(小乗仏教の悟りの到達点)で、
大乗仏教では別の境地も存在するのです
無我さんは、どちらを目指しているんですか?
阿羅漢って、余りにも非人間的な感覚のような気がします。
>浄土真宗で本当に救われた人の境地は、禅で悟った人と違って非常に温かい人柄が残る特徴
があります。(浄土真宗の素晴らしです。)
無我さんは、特定の宗派はありますか?
禅によって悟ったのではなく、確か、神経症の苦しみの中で足掻いている時にある日突然、悟りを認識した(?)んでしたっけ?
もう少し、浄土真宗的な悟りの在り方、禅との悟りとの違いを知りたいです。 >>663
>これは良く言えば自己充足的、悪く言えば自己完結的になりますね。
「悟り」というものは自己完結のものですが、その「自己完結」の意味が通常使われる
意味とは違って一人一人が勝手な世界を作って喜んでいるということではなく、その内容に
「普遍性」があります。ですから、昔から多くの人達が「同じ喜びを追体験」をすること
によって受け継がれて来た訳です。
個人個人の勝手な喜びではなく、個人的な<自己>が消えることから起こる喜び(歓び、悦び)
で、昔から「法悦」と呼ばれているものです。
>生きる目的みたいなものがなくなったり、惰性で生きるようになりませんか?
世俗的な目的は小さくなる傾向がありますが、仏教をより深く学びたいという思いが強くなるので、
生きる意欲が小さくなるということはありません。(それが大乗仏教の特徴です。)
>苦しみや弱さも大切な人間の一部のような気がしますが、無我的には違うってことですね。
「苦しみや弱さが大切なもの」と思えるのは、それが軽度の時だけでしょう。
ひどくなると地獄の苦しみを味わうようになりますから、そうなって初めて「苦しみから
自由になりたい」と思うようになるものです。
仏教で「苦諦・苦聖諦(苦は聖なる真実である)」」と言うのは、
「何としても苦しみから逃れたい、という自覚が生まれて始めて仏道が始まる」という意味です。
「苦しみもあってよい」と思っている間はまだ仏教には縁がないということになります。
( → ) ( → )
>無我さんは、どちらを目指しているんですか?
もちろん、大乗仏教です。
私が鬼和尚に半分しか惹かれていないのは鬼和尚が阿羅漢だからです。
>無我さんは、特定の宗派はありますか?
私は禅と浄土真宗の両方の師匠から教えられた「無我の自覚」によって神経症が治った人間ですが、
最終的には浄土真宗への歩みを深めて行きたいと思っています。
神経症は仏道の初歩の体験で治りますから、禅でも浄土真宗でも天台宗でも日蓮宗でも治るでしょう。
(創価学会や幸福の科学のような新興宗教では治らないと思いますが。)
>もう少し、浄土真宗的な悟りの在り方、禅との悟りとの違いを知りたいです。
それは大変な問題ですね。鈴木大拙博士も晩年は浄土真宗の研究に打ち込まれたほどですから、
簡単に理解できることではなく、私自身も将来ずっと(来世も含めて)勉強を続けて行きたいと
思っているテーマです。
浄土真宗については「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれている人々の本を読むことが、まず
「勉強の基礎」として一番よいと思います。(多くの本が出版されています。)
来週から忙しくなりそうなので書き込みが少し途絶えると思いますが、時間ができれば
また戻って来ます。 横からでわるいんですが普遍性の人間本来の悦びとはずばり何ですか?
それは現状どんなに恵まれてなくて多くの悩みや不安不平不満があっても悟りを開けば悦びに変わる?
それは結局自分を騙してるだけに過ぎないんじゃないだろうか
上手くマインドコントロール出来ただけ
まあ精神が落ち着くことが出来れば宗教だって催眠術だって何だっていいんだろうけど >「苦しみや弱さが大切なもの」と思えるのは、それが軽度の時だけでしょう。
無我さんは、痛みや弱さから始まっている芸術には疎いと思う。
大江健三郎も村上春樹も柳美里も、Coccoもレディオヘッドも、
弱さや痛みから始まっているが、それが薄っぺらいものでも、軽いものでもない。 >何としても苦しみから逃れたい、という自覚が生まれて始めて仏道が始まる
これはお釈迦様もそうですか?
だとしたら、『苦しみから逃れたい』の前に、
苦しみに対するとてつもない執着があったのではないですか?
受苦的であることに、とてつもない執着があったのではないですか? 苦しみに囚われたと同時に、ある面では苦しみを志向しているように感じるのは気のせいですか?
余り仏教には詳しくないので、間違えていたらすいません。 『苦しみから逃れたい』の前に、
↓
『苦しみから逃れたい』と同時に、 こんな仏教もあるだね
「いまこの1秒に悩みがなければ、一生悩みがないということ。いまだけを見れば何も悩みがないはずです。」
アルボムッレ・スマナサーラ 煩悩をなくせば苦もなくなる。
それはそうかもしれませんが、少し道理に適わない所があります。煩悩を無くするということは、心の働きを無くするということであり、言うならば植物人間になってしまえと言うことになるからです。
実はそうではないのです。
漢字では「滅」と訳されていますが、原語(サンスクリット語)は「ニローダ」といい、その意味は「制御する」と言う意味なのです。
心を制御せよと言っているのです。
心、すなわち煩悩を制御せよと言っているのであって、無くしてしまえと言っているわけではありません。
漢訳した人が二ローダに滅を当ててしまったので中国では煩悩は燼滅させないといけないという誤解が生じました。
インドではもちろん、煩悩は二ローダするとされているので滅する必要はなく煩悩に流されるのを智慧で防いで制御するという教えになっています。
そのために大切なのは気づき(念、サティ)です。
四諦の滅諦はサンスクリット語ではニローダ・ サティヤと言います。 現代心理学の知識を借りると、七つの欲求とは、1生存欲(生きたい)、2睡眠欲(眠りたい)、3食欲(食べたい)、4性欲(交わりたい)、5怠惰欲(ラクをしたい)、6感楽欲(音やビジュアルなどの感覚の快楽を味わいたい)、そして、7承認欲(認められたい)です。 >>666
>音楽にもそういう力がありますね。
音楽というのは聴いている時(演奏していると時)だけ苦しみを忘れているのです。
音楽で「苦しみが解決される」ことはありません。
人生の根本問題はもちろん、神経症の問題ですら音楽で解決できた人はいないでしょう。
あなたは音楽を聴き続けることで神経症が治りましたか?
>>667
>普遍性の人間本来の悦びとはずばり何ですか?
それは体験して初めてわかることです。
昔から命懸けで修行してそれを得て来た人が沢山いるということです。
催眠術やマインドコントロールと決定的に異なるのは、その内容に普遍性があるという
ことです。普遍性があるから国と時代を越えて伝えられて来たのです。
>668
そのような小説を読んだり、音楽を聴いたりして神経症が治った人がいますか?
彼らはみな凡夫です。お釈迦様のような宗教的天才と比較できるような人達ではありません。
>>669 >>670
仏教を勉強しましょう。ただ、自分勝手に仏教書を読み漁っても本当の教えはわかりませんから、
正師(本当に悟った人・救われた人)の指導を受けるようにしましょう。
>>672
それは南伝仏教(小乗仏教)の人たちがよく言っていることですね。
(それは本質的には正しいですが)そのような考え方が悟りにつながる為には、「時間と空間と
個人意識」を超える体験が必要ですから、現実的にはその考え方で悟りを得るのは難しいでしょう。
(スマナサーラ長老が教えるヴィパッサナー瞑想で神経症を治そうとしても上手くいかない人が多い
のは、その点がよくわかっていないからです。)
大乗仏教では「煩悩と悟り」についてもっと深く徹底的に追求していますから、小乗仏教と大乗仏教
の両方を学ぶことが大切です。 >>673
>煩悩をなくせば苦もなくなる。
>それはそうかもしれませんが、・・・・・
そんなことを言っているのは小乗仏教の人達だけですね。
大乗仏教では
「煩悩即菩提(煩悩がそのまま悟りに変わる)」
「不断煩悩得涅槃(煩悩を断じることなく涅槃を得る)」と教えています。
>>漢訳した人が二ローダに滅を当ててしまったので中国では煩悩は燼滅させないといけないという誤解が生じました。
中国は大乗仏教ですからそんな誤解をしている専門家はいません。
そのように思っている人がいれば、その人は仏教の門外漢(素人)です。
「滅諦」というのは、「苦しみは必ず消滅する。それは真理である」という意味です。
(制御するなどということは関係ありません。)
仏教というものは大乗仏教まで学ばなければ、その全体(本質)を知ることはできません。
小乗仏教の考え方で人々が悟りを開くことができたのはお釈迦様から直接に指導を受けていた
からで、お釈迦様の滅後は悟りを開く弟子がどんどんいなくなって仏教は衰退してしまいました。
(大乗仏教になってから仏教は印度全土に広まって行ったのです。) >>676
なんで命懸けで修行しなきゃわからないんですか?
口頭で伝えられないのはなぜですか? >>678
>口頭で伝えられないのはなぜですか?
祖師と云われる方々は言葉で(書物で)伝えようと苦労して下さっています。しかし、
本物の仏教書というものは普通の人が読んでも簡単には理解できないものです。
「臨済録」や「正法眼蔵」を読んでみて下さい。如何に難関であるかがわかると思います。
(読んで普通に理解できるような仏教書は本物の仏教書ではないということです。)
仏教というのは、「頭」ではなく「意識」が変化しなければ理解できないものですから、
「意識」を変化させるためにはどうしても「修行」が必要になるのでしょう。
私の師匠は「正師(悟った人・救われた人)」の言葉に触れ続けることが一番の修行だと
言われていました。「薫習・ 熏習(くんじゅう)」を受けて意識が変容して行くことによって、
少しずつ仏教の教えが(頭ではなく)「存在全体」でわかるようになって行きます。 >そのような小説を読んだり、音楽を聴いたりして神経症が治った人がいますか?
>彼らはみな凡夫です。お釈迦様のような宗教的天才と比較できるような人達ではありません。
>音楽というのは聴いている時(演奏していると時)だけ苦しみを忘れているのです。
>音楽で「苦しみが解決される」ことはありません。
>人生の根本問題はもちろん、神経症の問題ですら音楽で解決できた人はいないでしょう。
音楽や小説により、生きることに繋ぎ止められた方、未だに繋ぎ止められている方は多数いるかと思われます。
それも無意味で凡庸だとでも?
あなたにそれが出来るとでも?
やはり宗教的な感覚により、ある面では人間味を喪失していませんか?
>>669,670には答えられないんですか? >>679
別に否定とかしたいわけじゃないんですが悟った人の言動を身近に見聞きすればわかってくるって洗脳じゃないんですか?
現在ちゃんと悟った人は日本にどれくらいいますか?
話聞いてみたい
あと命懸けの修行ってただ頭がハイになって幻想を見るだけでそれをなんかの悟りと勘違いするんじゃないですか?
三途の川走馬灯的な
死と生の間に人間は救いを見る?
ホラー映画にあったな >>680
>音楽や小説により、生きることに繋ぎ止められた方、未だに繋ぎ止められている方は多数いるかと思われます。
何度も書いたでしょう。
ここは神経症を治す為のスレですよ。
音楽や小説によって神経症が治った人がいなければ、それらは「神経症には役に立たない」ということ
です。
あなたが言っていることは、肺癌が問題になっている時に、
「この抗生物質で肺結核が治った人は多数いるのですよ。この抗生物質が価値がないと言うのですか?」
と言うのと同じなのです。
以前から何度も言っているように、あなたが小説や音楽によって本当に元気に生きられるのなら、仏教に
関心を持つ必要などはないのですよ。
>これはお釈迦様もそうですか?
>だとしたら、『苦しみから逃れたい』の前に、
>苦しみに対するとてつもない執着があったのではないですか?
当然ですね。だから、お釈迦様は王子の位を捨てて乞食にまでなって修行をしたのです。
そこまで命懸けになったからこそ、最後には完全な悟りを得られたのでしょう。
>苦しみに囚われたと同時に、ある面では苦しみを志向しているように感じるのは気のせいですか?
苦しみを志向していたのではありません。苦しみから逃げないで真正面から解決を目指したのが
お釈迦様だったのですから。
>>681
ですから、洗脳と違って「普遍性がある」と書いたでしょう。
>現在ちゃんと悟った人は日本にどれくらいいますか?
>話聞いてみたい
私は若い頃に、悟った人(救われた人)を探して京都と東京の間を何度も往復したものです。
あなたも、日本中を探してみて下さい。必ず会えるはずです。
>あと命懸けの修行ってただ頭がハイになって幻想を見るだけでそれをなんかの悟りと勘違いするんじゃないですか?
よく
最初の答えと同じです。「普遍性」という言葉についてよく勉強しましょう。
「仏教の悟り」は一般の洗脳やハイの状態とは違って「普遍性」がある世界なのです。
だからこそ、世界中に広まって行ったのです。 >>677
仏教は大乗仏教が誕生する200年以上前のアショーカ王の時代に全インドに広まり更にはスリランカまで広まっています。
アショーカ王の時代に阿羅漢千人を集めた結集も行われています。
煩悩即菩提は煩悩がそのまま菩提になるわけではありません、煩悩を泥に菩提を蓮の花に喩えればよく分かるでしょう。
不断煩悩得涅槃は親鸞のいうものでしたら往生ありて涅槃を得るもので現世涅槃を説いているわけではありません。 A 「滅」の原語の意味
「四聖諦」は原語では、
苦しみdukkhaという真理
苦しみの成立dukkhasamudayaという真理
苦しみの消滅dukkhanirodhaという真理
苦しみの消滅に赴く道dukkhanirodhagamini patipadaという真理
です。
この中の、「消滅」は原語ではnirodhaですが、この原語nirodhaの意味は、インド一般では「修養につとめる(人)」あるいは「(ヨーガ行者が)心や感官を制しておさめる」という意味で用いられているそうです。
チベット訳も「制する」「ととのえる」という意味の訳語にしているそうです。(何かで読んだのですが、チベット訳は比較的原語の意味に忠実であるとされていました。)
中村氏は「nirodha(心や感官を制しておさめる)」ということは、仏教の理想の境地であると考えています。
確かに、スッタニパータにも妄執に突き動かされ暴れる心を馬や馬車に譬え、馬(馬車)をうまく制御することが大切だということを説いています。
ところが、nirodhaを漢訳では「滅」としたために、仏教が虚無論を説くものという印象を与えていると言います。
本来は、四聖諦のnirodhaというのは、ほしいままの欲望を制御し、苦しみをとじこめてしまうのがもとの意味であり、
その結果、静まったやわらぎの状態をもたらすことを目指していたのが本来の四聖諦のnirodhaの意味であるといいます。
http://www.geocities.jp/avarokitei/shotenporin-kuwasiku-miru/5-sishotai.htm uparujjhati 消滅
nirodha 止滅(制する、整える)
http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201509/article_19.html
釈迦は説法に当たってこの二つの言葉を使い分けています。
苦諦はnirodha satyaで本来は止滅の真理の意味 >>683
>仏教は大乗仏教が誕生する200年以上前のアショーカ王の時代に全インドに広まり、・・・
違います。大乗仏教というのは釈尊の滅後から間もなくして生まれていたのです。だから、第二回の
仏典結集の時には「大衆部」と「上座部」の根本分裂として表面化することになるのです。
アショーカ王は政治的権力もあって仏教を力づくで広めた面が大きいのですが、実は、普通の生活をして
いた一般信者達にも悟りを開く人々が現われていたということが大乗仏教が浸透していた証拠なのです。
そのような人々が増えて行ったことが、後に龍樹や世親といった大乗仏教の思想的完成者を生む土壌と
なったのです。
(大乗仏教が浸透せずに)上座部仏教のような小乗仏教の教えだけでは一般信者が悟りを開くことは
できないのですから、インド全土に仏教が本当に広まることなどは土台無理なのです。
>煩悩即菩提は煩悩がそのまま菩提になるわけではありません、煩悩を泥に菩提を蓮の花に喩えればよく分かる
でしょう。
>不断煩悩得涅槃は親鸞のいうものでしたら往生ありて涅槃を得るもので現世涅槃を説いているわけではありま
せん。
悟ってもいない(他力の信仰で救われてもいない)あなたがそんなことを言って何の意味があるのかをよく
考えてみましょう。
>>684
>中村氏は「nirodha(心や感官を制しておさめる)」ということは、仏教の理想の境地であると考えています。
原始仏教の信奉者で「大乗仏教には詳しくなかった中村元氏」の説など意味はありません。
あなたは、仏教界では中村元氏は「悟りを知らない仏教学者」と言われていたことも知らないのでしょう。
( → ) ( → )
あなたは何が目的でこのスレに書き込んでいるのか知りませんが、
ここは神経症の治癒の為のスレですから、あなたのような趣味の仏教論議はこのスレではやめてもらいたい
と思います。(趣味の仏教論議を楽しむスレは宗教板には沢山ありますから、そちらであなたの好きなだけ
書き込んで下さい。)
どうしてもこのスレに書き込みたいのなら、あなたの仏教解釈でどのように神経症が治るのかについて
詳しく説明して欲しいものですね。神経症が治らないような仏教理解は神経症に苦しんでいる人達にとって
はゴミでしかありません。
私も最初はあなたのような素人仏教からスタートしました。悟ってもいない(救われてもいない)人達が
書いた仏教入門書をどれだけ沢山買って読んだか知れません。しかし、そんなゴミのような知識をいくら
頭に詰め込んでも(当然のことながら)神経症には何の変化もありませんでした。
それで、大決心をして大学の仏教学科に入学すると同時に、禅の老師と浄土真宗の高僧の弟子となり、
本格的に仏教を学び続けることによって、やっと神経症が幻(まぼろし)だったことがわかるようになった
のです。
ですから、あなたが書いているようなことは何の実質的な意味も持たない内容であり、「四聖諦のnirodhaと
いうのは、ほしいままの欲望を制御し、苦しみをとじこめてしまうのがもとの意味」などというような理解
をしている限り、神経症が治ることは決してないこともわかるのです。
原始経典の多くは、悟っていない多くの弟子達によって釈尊の言われた言葉の表面的な意味だけが伝えられ
ているものが多かった為に、釈尊の滅後は悟りを開く弟子達が急激に少なくなってしまったのは当然のこと
だったのです。
そのようなことは大乗仏教を学んで初めてわかることです。大乗仏教の教えによって宗教体験が現われるよう
になると、原始経典よりも大乗経典に書かれてあることこそがお釈迦様が本当に教えたかったことだったと
わかるようになるものです。(私もそれがわかるようになったので長年の神経症から解放されたのです。) >>682
>音楽や小説によって神経症が治った人がいなければ、
とりあえず『治らない』と言う。
治った人がいたとしても『軽症だったから』と言う、いつものパターンですね。
認知行動療法やその他の療法で治った方がいても同様のパターンでしょうね。
>それらは「神経症には役に立たない」ということです
神経症と無我以外のことは、下らない、意味のないもの、になっていませんか?
>苦しみを志向していたのではありません。苦しみから逃げないで真正面から解決を目指したのが
お釈迦様だったのですから。
苦しみから逃げないで真正面から解決を目指した=ある面では苦しみを志向していた
ではないんですか?
目をそらすことだって出来たのに。
お釈迦様は王族として生まれて何一つ不自由のない暮らしをしていたんですよね?
あえて三十代で生老病死等に悩む必要はなかったはずです。50過ぎなら分かるけれど。
また受苦的であることにより仏教の教えが生まれたのなら、苦しみや弱さも大切なもの と言えませんか? >>690
>苦しみや弱さも大切なもの と言えませんか?
何度も何度も説明したでしょう。
それは「苦しみや弱さ」の程度が軽い場合だけに言えることなのです。現に、あなたがそのように
思えるのなら、「苦しみや弱さ」を大切にして生きていけばいいのです。
仏教は、神経症でも失恋のようなものであっても、自殺するほどに苦しみや弱さがひどくなった人
にだけ意味のあるものになります。それが「四聖諦」の意味なのです。
以前からずっとそうですが、あなたは自分の考え方が正しいということを主張したいのですね。
自分の考えが正しいと思っているのなら、私に質問する意味はないでしょう。
もう仏教について考えることなどやめて、あなたが正しいと思う方向で神経症の解決を目指して
行って下さい。
今後、あなたが同じようなことを書かれても、もう回答はしませんから悪しからず。 >>691
>>690の答えには全くなっていません。
また、>>680,670の答えにもなっていません。
自殺するほどの苦しみなら、>>668にあげられた人間にも、またこのスレの人間にもある(あった)でしょう。
無我を知ることで人間的な感覚をまさに失ってませんか? >>687-688
神経症に悩んでいる人はあなたのデタラメばかりの仏教講座、とくに史実を押し曲げてまで大乗仏教ばかりを押し付け大乗仏教以外の仏教を見下す、
そのようなデタラメかつ差別思考のレスでは救われないのですわ。
アショーカ王の時代に悟りを開いた一般信者について名前までとはいいませんが、そういう事実があったという証拠を挙げられます?
大乗仏教がインド全土に広がったっていっても別に他の部派仏教が大乗仏教に押されて衰退したという事実はありません。
法顕の仏国記や玄奘の大唐西域記には小乗仏教が盛んだった国が沢山あったことを伝えています。
悟ってもないあなたが煩悩即菩提を解釈を間違えたまま言っても何の意味がないことも考えてください。
二ローダについては中村氏ではなく、チベット仏教で制すると訳されていることに注目したください。
ヨガスートラなどでも二ローダといえば止滅と訳されていますがその意味は制御です。
神経症の治療のスレだからと史実と違うことを書いても誰も救われません。
現にあなたのそのデタラメかつ差別思考の仏教講座で誰か救われたのですか?
またここに来られる方々があなたの捏造のお陰で誤った仏教理解をしてしまうのも不幸なことです。
もしあなたが史実とは違う捏造をここで書いたらこれからはあなたには直接はレスしませんが、ここに来られる方々のために実際はこうなんですよ、とソースをあげて正確な情報を伝えていきます。
あなたに対してではなくこのスレに来る方のためにね。 >>692
→>>691 答えになっていないと思えるなら、もっと国語の読解力を付けて下さいね。
>無我を知ることで人間的な感覚をまさに失ってませんか?
無我がわかるようになれば、「迷いの人間的な感覚」は薄れなくなっていくでしょう。
そして、「本来の人間的な感覚」が鮮明になっていくでしょう。
ただ、鬼和尚も言われているように、「無我」はまだ途中の段階ですから、、その後
「小乗仏教の阿羅漢」になるか「大乗仏教の菩薩」になるかで、「人間的な感覚」の内容には
違いが出て来るでしょう。 >>693
あなたのような素人さんは自分がたまたま入手した一、二冊の仏教書に書かれていることだけが真実だ
と思い込んでしまうようで、大変困ったことだと思っています。
これまでにも、このスレにはあなたのような素人さんが何人か訪れて、自分勝手な解釈を書き連ねて
行ったものですが、基本的に神経症とは関係のない内容ばかりだったので相手にすることはしません
でした。(彼らはみな原始仏教・小乗仏教の信奉者たちでした。)
あなたも原始仏教の素人信奉者であり、神経症に対して何の知見もない人だということがわかりますから、
相手にするつもりは全くありません。
仏教学というものは、古い史実を扱う場合、昔から学者によってその内容・解釈はさまざまになること
が多いものですが、要はその人(僧侶・学者)が「悟り(救い)」を体験したかどうかが最も重要なこと
であって、それを離れて史実の内容を云々するのは(中村元さんのような)文献学者たちにまかせて
おけばよいのです。(本当の仏教者という人達は全く別に存在しているのです。)
その違いは「大乗非仏説論」に対する解釈の違いによってはっきり決着が付いたことでもわかるように、
仏教界では常識になっていることなのです。
このスレで私が主張している重点の一つは、「原始仏教・小乗仏教の教えだけでは神経症は治らない」
ということですから、あなたのような大乗仏教の勉強をしたことのない素人さんが口を出しても何の
意味もないのです。
>もしあなたが史実とは違う捏造をここで書いたらこれからはあなたには直接はレスしませんが、
>ここに来られる方々のために実際はこうなんですよ、とソースをあげて正確な情報を伝えていきます。
素人のあなたに何がわかるのかな?
文献学者達が「ああだ、こうだ」と書いている本を読んで、それを信じて何か本当のことがわかった
つもりになっているだけの哀れなエセ知識人に過ぎませんね。
そんな人間の考える仏教は、神経症から自由になる為には何の役にも立たない「ゴミ知識の仏教」
なのです。 誤ってるけど自分には都合のいい大乗仏教の理解で自我を強化して、それでも薄っぺらな自我のベールで神経症を克服した、つもりね。ふふっ!
しかし無我の通るところでは至る所で論争しか起きず誰も救われてはいない、ははは! >>696
犬さんだね。
そんな下らない書き込みをして喜んでいるようでは、
君の神経症は永久に治りませんよ。 >>695
>素人のあなたに何がわかるのかな?
あなたの最低限の知識も有しない完全ドグマの仏教理解の方が問題あるんだけどね。
煩悩即菩提についても誤解してるし、過去には釈迦に無所有処や非想非非想処を教えたのはバラモン教の僧侶など言ったり、
説一切有部を原始仏教だなどとボケかましたり、そういう無知の上に成り立っている大乗仏教至上主義を持ち出しても仕方ないのだよ、素人さん!
あなたは仏教大学出身ということで武装しているけど、そのお陰で仏教大学というのは随分とレベルが低いんだなというのが分かったよ。
もし本当にあなたか仏教大学の出身であるのならね。
まあ仏教大学に通っていても生徒には色々いるんでしょうけどね。 >>694
レトリックで誤魔化してるだけじゃないですか。
無我さんは、無我以外のものは無意味で、薄っぺらいものに見えてるのは事実でしょう。
他の人間の苦しみも見えなくなってもいるのも事実でしょう。
今までの言動に全て現れてるじゃん。
何故それを認めない?
実はもう無我さんは、非人間的な阿羅漢様なんじゃないか? >>697
自分の神経症を治すことをまず優先させましょう。
そしてあなたの悪い癖、レスの応答になると必ず相手に神経症のレッテルを貼る。
これは、あなた自身が神経症に捉われ続けてるからです。
だから相手に神経症というレッテルを貼るのです。 >>698
君のような素人さんがどんなに背伸びをしても駄目ですよ。
>過去には釈迦に無所有処や非想非非想処を教えたのはバラモン教の僧侶など言ったり、・・
それは誰か他の人と混同しているね、私はそんなことは言ったことがないから。
それだけ君の読解力がないということ。 >>699
>実はもう無我さんは、非人間的な阿羅漢様なんじゃないか?
「阿羅漢様」は小乗仏教とは言え、最高位ですよ。
私がそんな高い境地にある訳がないでしょう。
私は、まだ「無我」がわかった段階だといつも言っているでしょう。 一般的に言って、素人の人が自分で仏教の勉強を始めた場合、原始仏教(小乗仏教)は
(表面的にではあっても)わりに簡単に要点をつかみ易いのに対して、大乗仏教というものは
素人が一人で勉強するのは至難なことなので、どうしても原始仏教(小乗仏教)どまりになって
しまうものです。それで仏教のすべてがわかったなどと勘違いをしてしまうので、>>698のような
原始仏教オタクの素人さんが異を唱える書き込みをして来ることになるのでしょう。
神経症に悩んでいない人が趣味の仏教で何かがわかったと思うのは本人の自由ですが、神経症
から自由になる為には原始仏教(小乗仏教)の教えだけでは不十分で、どうしても大乗仏教を
学ぶ必要があります。(ヴィパッサナー瞑想などにいくら熱心に取り組んでも神経症から自由に
なれない人が多いのは、そこに大乗の視点がないからだと言ってよいでしょう。)
神経症から自由になりたいと思う人は、その点を忘れないでおいてもらいたいと思います。 どうでもいいがこの無我(一号、you)の教えで神経症を克服した者はいない
無我に神経症というレッテルを貼られた者だけが存在する 悟りっていろんな形と段階があるんですか?
段階を詳しく知りたいです。
小悟、大悟、大悟徹底、心身脱落くらいしか聞いたことないです。
あとはここで聞いた『小乗仏教の阿羅漢』『大乗仏教の菩薩』くらいか。
どんな段階の悟りがあって、それぞれどうなるんですか?
無我さんの『無我』って心身脱落のことですか? >>705
>悟りっていろんな形と段階があるんですか?
小乗仏教、大乗仏教各宗派でさまざまな段階の分類がされていますが、
それらは目安であって絶対的なものではないと思います。
四向四果(原始仏教・小乗仏教)
十地品(華厳経の十地の思想)
十住心論(弘法大師)
十牛図(禅)
往相回向と還相回向(浄土真宗)
などを調べてみて下さい。(他にもいろいろな分類をする宗派があるようです。)
>『無我』って心身脱落のことですか?
『無我』にも「体感として自覚できた段階」と「完全になりきった状態」の区別があり、
その中間の状態もあるでしょう。私のは前者でまだ未熟な段階ですが、この段階でも
神経症は消えてしまいます。
道元禅師の「身心脱落、脱落身心」は大悟徹底で、『無我』の最終段階と言ってよいと
思います。 >>706
無我さんは、その中だと、どの分類のどの段階なんですか?
また、鬼和尚、お釈迦様、ダンテスダイジ、キリスト等はどの分類のどの段階なんですか? >>707
私は「無我」の自覚によって神経症が消えたというだけで、「十牛図」で言えば 3.見牛〜4.得牛
の辺りの初心者に過ぎません。
ただ、そのレベルでも神経症は消えるということを神経症で苦しんでいる人に知ってもらいたい
のです。
神経症が酷くて日常生活さえままならない人ほど高僧のような高い境地を目指したがるものですが、
そうするとかえって「悟り」から遠ざかり、神経症も治らないものですから。
鬼和尚は(直接会ってみなければ正確にはわかりませんが) 「四向四果」の阿羅漢向あたりにいる人
のような気がします。
お釈迦様は別格です。
ダンテス・ダイジという人は精神病を持っていた人のようですから「悟った人」としてみるのは
少し問題があるように思います。破瓜型(解体型)統合失調症の人の中には悟りの意識が現われる
ことがあるのですが、悟りの意識がその人の全人格に統合されていない為に、普通の「悟った人」
と同じ次元で考えるのは問題があります。(ダンテス・ダイジさんが破瓜型統合失調症だったかどうか
はわかりませんが、何らかの精神の病気を持っていたことは確かですから。)
イエス・キリストについては、背景にあったユダヤ教の影響を考える必要があると思っています。
(もし、イエス・キリストが印度に生まれていたら偉大な仏教者になっていただろうと思います。) >>708
ダンテスダイジを精神病として捉えるのは何故ですか?
数度の自殺未遂及び、ガス菅を加えての自殺実行から?
統合されていないとして、悟り自体はあったんでしょうか?
また、無我さん自身も、強度の神経症だったんですよね?
神経症は悟りに開かれているとして、統合失調は開かれていないという考えですか? >>709
ダンテスダイジについては私も興味を持っていたのですが、いわゆる宗教家として
「悟っていた人」として捉えることには疑問を持っていました。
その理由は、・・・・・
ここで、ちょっと用事が入りましたので、明日の早朝の書き込みで書きたいと思います。
では、明朝に。 (>>710 の続き)
「悟っていた人」として捉えることには疑問を持っていました。
その理由は、・・・・・
その理由は、彼の悟りの内容に疑問があるからです。
彼は20歳前に「身心脱落、大悟徹底」し、その後、木村虎山老師に「見性」を認められたと
言いながら、それらの後にインドでクンダリニー・ヨーガを修したというのは明らかにおかしい
のです。
私もインドでクンダリニー・ヨーガを習っていたことがありますが、それは私がまだ「無我」を
知らなかった時だからです。無我がわかればクンダリニー・ヨーガなどを習う必要は感じなくなる
ものです。
「身心脱落」や「臨済録の無位の真人」が自覚できた人間なら、身心を離れた意識に目覚めている
ので、身心に属するチャクラやクンダリニーなどは(宗教的には)どうでもよくなるからです。
(実際、インドのヨーガの聖者の中には「チャクラやクンダリニーは妄想だ」という人が沢山います。
私もそのような聖者に何人も会いました。)
つまり、ダンテスダイジさんは禅体験(悟りの体験)は何度かあったのでしょうが、それは部分的な
体験で、彼の全人格に影響を与えるようなものではなかったと考えられるのです。そして、そのことは
彼が何らかの精神病を患っていたことと関係があるのだろうと思うのです。
>統合されていないとして、悟り自体はあったんでしょうか?
深い悟りの体験はあっても「悟った人」にはなっていなかったのだと思います。
統合されていなければ「悟った人」にはなれないでしょう。
(部分的な超越意識だけでは人は本当には救われませんから。)
>神経症は悟りに開かれているとして、統合失調は開かれていないという考えですか?
神経症も統合失調症も病気としての本態が解明されていませんから、両者を分けて考えることが
正しいかどうかは難しい問題ですね。
(神経症にも軽度と重度があり、統合失調症にも軽度と重度がありますから、なおさら複雑です。)
脳神経に器質的な異常がない場合は(単なる機能異常であれば)、どちらにも開かれているだろうと
思います。 ダンテスダイジの場合は実際に関わった何人かの老師に見性等を認められていたんですよね?
それが間違いだったとは中々考えにくい。
悟りって一つの方向しかないんですかね?
つまり、禅的な心身脱落みたいな身体から離れる方向性と、
クンダリーニ的な身体に徹底してこだわった方向性と、
いくつもあるってことはない?
そういえば気功的なものは悟りには関係ないですか? >>687
>仏教界では中村元氏は「悟りを知らない仏教学者」と言われていた
ここでいう仏教界、というのは?
専門誌とかで中村元批判があったんでしょうか
ある宗派の僧侶たちの間で常識的に語られてた。みたいなことでしょうか
詳しく知りたいです >>712
>ダンテスダイジの場合は実際に関わった何人かの老師に見性等を認められていたんですよね?
ダンテスダイジに「印可(悟ったという証明)」を与えた老師が、他の老師たちから
「なぜ、あんな者に印可を与えたのだ?」と非難されていたことは有名ですね。
>クンダリーニ的な身体に徹底してこだわった方向性と、
修行の過程で身体にこだわる方法は当然あるでしょう。
しかし、それはあくまで過程でのことであって、最後まで身体にこだわっているなら、
悟っていないということですね。
ダンテスダイジさんがおかしいのは、印可を与えられてからもヨーガに関心を示していた点で、
それまでの彼の「悟り」が部分的なものっだったという証拠になると思います。
>気功的なものは悟りには関係ないですか?
ヨーガと同じで、修行の過程では役に立つと思います。
>>713
仏教関係の人達ですから、あからさまに人を批判したりすることはありませんが、
仏教学者の先生方が「大きな声では言えないが、中村さんは・・・」というのをよく耳にしたもの
です。私自身も高校生の頃から中村氏の本は何冊も読み、NHKテレビ(宗教の時間、心の時代)での
中村氏の番組はよく見ていましたが、「悟り」の核心に触れるような話がまったくなかったので、
「ああ、やっぱり・・」と思ったものです。
中村氏はサンスクリットやパーリ語の力が優れた人だったので、原始仏教を中心とした仏教文献学者
として優れた学者だったと言えるでしょう。 ☆無我なのか真我なのか☆ [無断転載禁止]©2ch.net・
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1487443014/
>>350
>大乗こそフィクションのオンパレードでしょうが。
宗教体験のない人はそう思ってしまうのです。
>大乗諸経典は非仏説という仏教学の基本も知らないとは...。
君こそまともに仏教を学んだことがないのでしょう。
(私は大学の仏教学科で学んだ人間です。)
明治時代に 「大乗非仏説」が唱えられた時に大騒ぎをしたのは、仏教の素人
の人達だけだったことを知らないのかな?
非仏説の仏は、先にも述べたようにゴータマ・シッダールタのことであって、
仏陀のことではないのですよ。
原始経典は悟りの体験のない弟子達によってゴータマ・シッダールタの言葉の
表面だけをとらえて誇張と創作を加えて作ったものなのです。だから、お釈迦様
が亡くなられてからは悟りを得る弟子がいなくなってしまったのです。
大乗経典というのは悟りを得た弟子達が言葉の表面ではなく、お釈迦様の真意を
伝えるために新しく作った経典群ですが、それによって悟りを得る人達がたくさん
出て来たので、大乗仏教は印度全土に広まって行ったのです。大乗経典を作った人々
はお釈迦様の悟りを脈々と受け継いでいた本当の仏弟子たちだったのですよ。
>>354
>宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
真実は一つなのだから、同じことを言うのは当然だろう。
書く度に違う内容の君達の方が間違っているということだね。
>>357
>嘘をついちゃいかんよ!
全然嘘じゃないだろう。
最終的にイスラム教によって破壊され駆逐されたのだから。
それに、説一切有部など原始仏教系統の教えは玄奘たちには魅力のない
内容だったので、大乗経典の研究と翻訳に全力が注がれたのだからね。
>>357
君は何が魔境かを判断できないだろう。 140 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/04/09(日) 23:10:38.78 ID:49hBLwAk
>>137-139
「悟り」においては死の観念は(したがって、死後の観念も)なくなります。
時間のない世界において死後の世界などというものはナンセンスなのです。
また、仏教の唯識においては、悟りを得ていない迷いの世界にいる人々にとっては
「夢」と同じように死後の世界も存続することになります。
釈尊は苦行中に当時の印度の最高のバラモン達の指導を受けましたが、それらの
どの境地にも満足しなかったことは有名です。
釈尊にとってはヤージュニャヴァルキアの思想も境地も「未だし」だったのです。
141 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/04/09(日) 23:44:32.32 ID:32LssqMa
仏教の経典にだけ出て来る最高のバラモン達ねwww
142 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/04/10(月) 00:03:22.09 ID:aZ3g0Hx0
>>141
頭は大丈夫ですか?
釈尊を超える宗教家はそれ以前には誰も出ていないのですよ。
143 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2017/04/10(月) 00:34:22.54 ID:IykpaPWD
>>140
>釈尊は苦行中に当時の印度の最高のバラモン達の指導を受けましたが、それらの
>どの境地にも満足しなかったことは有名です。
あの無色界瞑想を教えた二人はバラモンではなく沙門だよ。
ま、当時のバラモンにあの二人を超える者がいたのかどうかは知らないけど。 クンダリーニ云々は抜きにして、残っているダンテスダイジの音声及び著作のみから判断した場合、>>706のどの段階になりますか? >>717
「大悟徹底の世界を知っていた人」でしょう。
ただ、それが全人格と統合されていないので「悟った人」と呼ぶことは
できないというのが、私のダンテスダイジさんに対する感想です。
ですから、悟った人の段階のどれに相当するかは言えないと言うしかありません。
(右脳と左脳の連絡に障害があった人なのかも知れないとも思います。) 脳という物質的(現象世界?)な限界(脳の器質的な病気)を越える力は
仏教、無我にもないということですか?
器質性ではない範囲の脳や精神の不調は治す力があると。
そしてその時に出てくる概念が「現象世界を越えた霊的世界の真理」であると。
物質世界の限界を越えるものではない脳の現象に対しての解答が
「現象世界を越えた霊的世界の真理」? >>718
大悟徹底って、禅の悟りの最終段階ですよね?
全人格と統合されていないというのは、彼の著作及び残された音声からも感じられるんですか? >>719
>脳という物質的(現象世界?)な限界(脳の器質的な病気)を越える力は
>仏教、無我にもないということですか?
悟っても癌が消えないのと同じですね。臓器が器質的に壊れたような場合も悟ったからと言って
治ることはないでしょう。ただ、それをどのように受け取るかという「気持ち」や「態度」に
ついては変えられるでしょう。
>器質性ではない範囲の脳や精神の不調は治す力があると。
>そしてその時に出てくる概念が「現象世界を越えた霊的世界の真理」であると。
>物質世界の限界を越えるものではない脳の現象に対しての解答が
>「現象世界を越えた霊的世界の真理」?
(器質的ではなく)機能的な障害の場合は、悟りから得られる「大いなる安らぎ」によって
身心の本来の機能が回復するということはよくあることです。
「現象世界を越えた霊的世界の真理」を知ることによって、人は絶対の安らぎの世界を知ること
ができるので身も心も軽くなって心の病気の多くが治っていくのです。
それと、もう一つ重要なことがあります。それは、
「仏教の真理は物質(脳)を超えている」のですが、「それを人間が完全に自覚できるには、健全
に機能する脳が必要」だということです。脳に器質的な障害がある場合は、完全な形では悟りを自覚
できないということです。
昔、NHKテレビで関牧翁老師がその問題について医学生達に説明して話題になったものです。
(関牧翁老師は慶応大学医学部を中退して禅僧になった人なので、後輩の慶応の医学生達を相手に
仏教の話をされていたのです。)
その問題は「真諦と俗諦」の問題や「大乗仏教が生まれる必然性」とも関係する非常に重要なテーマ
でもあります。 >720
>大悟徹底って、禅の悟りの最終段階ですよね?
彼はその世界(真理)を知っただけで、「その段階に至った人」ではなかったようですね。
どんなに深遠な真理を知ったとしても、それが全人格に統合されたものでなければ日常生活の
中で発揮されることはないでしょう。彼の生活や言葉には統合されていない様子が表れています。
彼はいろいろと深遠なことを話していますが、私の師匠だった方々とは話の内容もオーラも全く
違います。彼は真理を外側から説明しているという印象が強いです。ですから、彼の話を聴き続け
ても、聴いている人が熏習を受けて意識が変容していく可能性は(ないとは言いませんが)それほど
大きくはないという気がします。
彼が自殺したというのは一般的に言えば宗教家として致命的なことですが、私個人としては、その
ことよりも、「見性」の後にクンダリーニヨーガを学んでいるという事実の方が致命的に思えます。
前にも書きましたが、それは彼の「見性」が部分的な体験に過ぎなかったことを表しているからです。
(ダンテスダイジさんは自殺しても本人は満足だったかも知れません。ただ、悟りを知らなくても
満足して死んで行く人は世間一般にもいますから、そのことは悟りとは関係がないことでしょう。) 明日からまた忙しくなりますから、当分の間書き込みが出来なくなります。
今回の書き込みの最後に、(これまでに何度も書いて来たことですが)非常に重要なこと
をもう一度書いておきたいと思います。
それは、「本物の仏教書」というものは普通の人が読んでも意味がわからないものだという
ことです。迷いの中にいる人には悟った人の話がわからないのは当然のことだからです。
「(悟っていない人が書いた)本物ではない仏教書」は、普通の人が読んでも理解できます。
「ああ、良いことが書いてある」などと思えるような仏教書は「本物ではない仏教書」です。
そんな本を沢山読んで仏教がわかったような気がしても神経症はまったく変化しませんから、
そのような理解が間違っていることは本人も徐々に気付いていくものです。
多くの人はせっかく「本物の仏教書」を手にしても、少し読んでみて全く理解できない為に
読むことをやめてしまいがちですが、実は「わからないまま読み続けていく」ことが仏教の世界
に入っていけるかどうかの分かれ目になるのです。
私は師匠に「わからないまま読み続けなさい」と教えられていたので、その通りに実行し続けて、
やがて本当に「無我」を体験できて神経症も消えてしまったのです。師匠が言われていた熏習と
いうものが本当に大切だということを実感したのです。
ですから、仏教によって神経症を治したいと思っている人は、読んでも意味がわからない「本物の
仏教書」を「わからないまま」読み続ける生活を続けて頂きたいと思います。自分勝手に理解して
わかったと思うことを一切やめて、「わからない、わからない」と思いながら読み続けることが何
よりの修行になると思います。 では。 そもそも悟りってなんなんですか?
人生が映画のマトリックスの世界みたいな虚構(幻想)だって気付いちゃうこと?
だったら今現在生きている世界の意味が薄まってっちゃうんだよね?
無我さんは、無我以外のことを話している時は、なんか醒めきってて、精神的な不感症にしか見えない。
神経症が治るとしたら意味があるが、それ以外に対しては、むしろ失うもんのが多くないか? 以前無我の話の例えで、
大きな水源があり、一人一人の人間はその末端の波紋であるみたいな話をしてたけど(うろ覚え)、
ワールドカップなど大きなイベントで集団でニコニコして応援してる人の群れを見ると
何かその話を思い出す。 そもそも無我と普通の人の感覚は別のフェーズの話のはずなんだ。
なのにさ、一方で無我から見て芸術は薄っぺらいとか言ったり(言動全体がそれを示している)、普通の人の感覚や生活を軽く見たり(こちらも言動全体がそれを示している)、余りにも尊大すぎないか?
普通の生活をして子供を育てている人間の方が、はるかに人間らしいし、深みもあるだろう。
普通の日常を送ることの出来なかった情けない自分への良い訳を無我に押し付けてるだけだろ? >>679
>(読んで普通に理解できるような仏教書は本物の仏教書ではないということです。)
ほう、スッタニパータやダンマパダや雑阿含経は本物の仏教書ではないと。
無我の理屈なら唯識唯識三年倶舎八年と言われ、
説一切有部(大乗仏教から小乗仏教と批判された部派)の教義を世親がまとめた阿毘達磨倶舎論こそが本物中の本物の仏教書だなw スッタニパータやダンマパダは難しいと思うけど....
内容が8割方までわかるまで瞑想して何年もかかった
しかももっとも重要な部分は未だにわからないし >>730
瞑想の深度と内容の理解はリンクしてます?
知的ではなく、感覚的に分かるんですかね?
瞑想はどんな感じでしてます? >>731
一般的に言われる小悟に到達しました
ですから 例えば 常によく気をつけ なんてフレーズも最初は何かが起こった時の自分の心構え的な意味だと最初期は思ってました
でも瞑想が進んでいくうちに24時間 自分に気づいておくように という意味だとわかったりします 心構えなんて全然見当外れでした
その他にも馬車の大群が目の前を通っても瞑想中は気づかない そーんなことあるわけねーだろ 仏典は大袈裟だと思ったりしましたが
実際にそれに近い経験をすると ああ そういうことか とわかったり >>732
小悟って感覚的にはどうなるんですか?
瞑想は無我さんみたいな、自分を外から見るような座禅? >>733
あくまでも私の表現ですが 自分という塊 コア 中心というものは無かったということがわかって力が抜けるという感じでしょうか
瞑想は色々試しました 自分が消滅する瞑想 ヴィパサナのような観察の瞑想 今は只管打坐(っていうかそれしかできなくなった)って感じです
私は鬼和尚タイプですが無我さんが仰られることが 訴えられることが良くわかります 一部でも真実をハッキリ見てしまうと自分の存在を前提とした価値観は吹っ飛んでしまう 何も心にとどめてはならない。
手ぶらで行きなさい。 >>734
>一部でも真実をハッキリ見てしまうと自分の存在を前提とした価値観は吹っ飛んでしまう
これって芸術その他の感じ方も含まれますか?
日常や芸術は薄くなったりしました? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています