>あなたは身体とマインドに起こりうるすべてを超えた、純粋な観賞者としてのあなた自身を見いだすだろう。

マハラジだろうとラマナだろうと別に構わんけど、この「純粋な鑑賞者」が一体何の事かが分かってないだろ信者は。
精々メンタルヘルスが問題で、それを緩和出来る程度の気休めにはなるのだろうけど、
根本問題が等閑にされるのが非二元の欠点だと言える。
その結果、大抵の非二元者は極めると本出し始めるか、ブログで解説を始める。
まあ、自我がさく裂するんだろうな。

仏教は無我の教えで、それは事実であり真実なのだが
自分と呼ぶ何らかは現にこの場にあって、だからこそ悩み苦しみ道を求める訳だ。
その気休めに非二元は相当流行ってるのは、つらつら資料をみるとなるほどと感心する。
仏教は難しいと言う先入観を非二元じゃ解消できないのかなと思う。
逆だと簡単なんだけどな。

観念に固執する毎日の緊縛から解放されれば至福だと言うなら
そんなのは坐禅三昧してれば数日で可能だ。
教学も理屈も体験談すらも不要、坐って無心を極めれば良い、簡単さ。
問題はその先にある。
本当の至福も。

残念だがラマナもマハラジもOshoもシャンカラでさえも、そこには到達出来なかったと言える。
単に無心を極めただけじゃ、それがどうしたで終了だ。
冥想解いたら元に戻る実際から目を背ける体験談しかないのが非二元の実際と言えよう。

どうすんだべ。