591 名前:嶺南の木人[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:02:44.31 ID:/8Hw/Jd/ [1/5]
>>577
いやはや、悟りだの捨てるだの体得するだの、騒がしい普通のオサーンですな。別に知識を捨てる必要はありませんし、妄想も勝手に湧いてくる根無し草の様なもんですから、捨てるというか放っておけば良いのです。

ただ、気づきがあれば良いのです。心は万境に従って転ずる、これで良いのです。

592 名前:嶺南の木人[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:12:59.71 ID:/8Hw/Jd/ [2/5]
>>577
>公案は、理ではありませんよ。

ははは、貴殿は参禅されてないから、公案については語らぬ方が宜しい。公案には理致・機関・向上等があり、理も事も学びますから。華厳教学との親和性もありますから。

593 名前:嶺南の木人[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:21:27.12 ID:/8Hw/Jd/ [3/5]
>>577
>とくに初関を透る、とは、無我を言います、>一の如し、を言います。

これも然り。貴殿は参禅されてないからこれも言わぬが宜し。初関は法身の公案、貴殿の言う無我や一如は、まぁ、機関の公案で捌くところですかな。

594 名前:嶺南の木人[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:26:17.43 ID:/8Hw/Jd/ [4/5]
>>577
>これはとくに言っときますが、坐禅でさとった人は皆無です、ただの一人もいらっしゃりません。

はてさて、古仏道元曰く(でしたかな?)、坐禅をせず悟ったものはおらぬ。

貴殿は隻手を聞かれたそうだが、変わった御仁ですな。

595 返信:嶺南の木人[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:32:10.62 ID:/8Hw/Jd/ [5/5]
>>578
公案として使われているのは、無門関第一則、後の方ですな。隻手は卓洲系、無字は隠山系で初関の公案に使われていると聞きますが。  』

坐禅と言う、
坐ると言う行為、隠語古来の習慣ですね、指定が静かに坐っているのです。
静かに坐る、坐禅です。
知識の披歴にきゅうきゅうとしてますね。不必要です。