>>527 嶺南の木人 さん

>  求めるものが求められていたものである事を知る時、求める心は止むものです。 見性とは、見が性で性が見、の理(ことわり)です。
   即ち、悟りだの迷いだの、それそのものが分別と知る時、悟りを求むる必要は無くなるのです。
   故に、小生は悟前でも悟後でもありません。 』

何度も言ってるので、申し訳ないのですが、わたしは、無師独悟(むしどくご)、独覚(どっかく) です。
わたしがわたしをさとった、と言っています。
わたしの他に、マンゴー先生 と言うコテさんが、この人はさとりを語っている、と言いました。
それだけの事です。
と言うのも、わたしは、この世にはさとっている人はいないのだ、と思っていたのです。

さとりたいのか、という事を聞いているのです。