大乗非仏説知っているのに大乗仏教信仰する人って [無断転載禁止]©2ch.net
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>>10
在家向け説法のこと。
釈尊の次第説法における、施論、戒論、生天論の部分。 大乗仏教はただのビジネスであって宗教ではない
釈迦としては偶像崇拝禁止
つまりシステムとして、経典というか教科書のようなものがあり
現代風に言えば、データを自分にインストールして、自分の価値が上げようというのがブッダの考えたシステム
大乗仏教は勉強しなくても仏像やら仏壇やら買って拝めればそれでいいというシステム
これは武士の時代に収入源が無くなった貧乏貴族が、陰陽師などを立ち上げ
金を貰って様々な儀式をやったのと同じ 功業を誇り、知識を見せびらかすのは、みな後天的に取得した物にたよって生きているにすぎない。
心の本体は玉の輝くように完全であって、もともと失われることはない。
たとえ少しの功業もなく、一字も読めなくとも、正々堂々と人間として生きていけるのだ。
(菜根譚) >>10
功徳積んで天に生まれようってのは通仏教的な教え >>12
>大乗仏教は勉強しなくても仏像やら仏壇やら買って拝めればそれでいいというシステム
そういう信による道(=方法、方便)は大乗にも上座部にもあるけど
勉強しなくても三帰依して十事正見くらい知ってれば立派に仏教徒でしょう 大乗仏教を滅ぼすのぢゃ
仏像はいくら破壊してもかまわん
寺はいくら燃やしてもかまわん
経典はすべて焚書してしまえ
(-人-) 上座部にも仏像はあるしパリッタ呪術や儀式もあるし
上座部で布施の功徳によって天に生れる(生天)は常識
生天や増益を願って在家がお布施する、
それによって上座部寺院のお坊さんは伽藍を整え生活してるのだから 波羅蜜を積んで三因心に生まれるってのもあるけどな
三因心じゃないと悟れないから 信心が重要なのだ。
オマイら
グタグタ言わずに
お題目を唱えろ!
南無妙法蓮華経 お題目を唱えてるオレは
ほれ、こんなに幸せ。
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 >>1
大乗非仏説の『仏』の定義によって議論は分かれる。 仏の定義なんていって何とかごまかそうとするのは
大乗の悪あがきだな。
素直に認めろ。
釈尊の説法からは大乗は大きく逸脱している。
重なってるところはわずか。
大乗経典総て、
インドの名もない仏教僧が書き上げたものだ。 >>17
本物ですか?…ずっと探してました。なんか不思議と寂しくて。 『仏』=『釈迦』で
『仏説』=『釈迦の説いた』ならば、
上座部(小乗)も大衆部(大乗)も大して変わらない非仏経典ですね。
どちらも、釈迦が亡くなって数年ではなく約100年後に経典として形作られたから。
ただ、早いか遅いかの違い。
『仏』=『覚者(釈迦を含め)』で
『仏説』=『覚者が説いた』ならば、
上座部(小乗)も大衆部(大乗)も同じ仏説として成り立つ経典ですね。
…ってか、『仏』は『ブッダ』であり『覚者』であるから、仏教の双子の宗教といわれているジャイナ教にも『ブッダ』は登場する。
あの当時のインドでは『ブッダ』というのは一般的な言葉であって仏教が出来てからの言葉ではない。 >>28 寄って…
大乗非仏なら小乗も非仏であり、大乗が仏説と成り得るなら小乗も仏説と成り得る。
あくまでも、『釈迦が説いた』を軸に上座部(小乗)と大衆部(大乗)を分けることは出来ない。と私は考える。
中村元氏の本にもあったように、上座部経典を参考に仏舎利の入った骨壺が見つかったことから、上座部経典の内容はインドの歴史の一端が分かり歴史書としても価値があると評価されている。
其れ迄は、釈迦が実在した証拠が無かったので本当に実在した人物なのか疑われていた時代もあったらしい。 信心が重要なのだ。
オマイら
グタグタ言わずに
お題目を唱えろ!
南無妙法蓮華経 >>30
了解しやした♪
( ̄^ ̄)ゞ
では、題目を3回唱えさせていただきます。
糸満平和会館がなんかウーマンぽい…いや!金マンコだよ♪w
糸満平和会館がなんかウーマンぽい…いや!金マンコだよ♪w
糸満平和会館がなんかウーマンぽい…いや!金マンコだよ♪w 信心が重要なのだ。
オマイら
グタグタ言わずに
お題目を唱えろ!
南無妙法蓮華経 成実宗では詳しく我空と法空という二空を論じている。
そして、一切を観察するため二つの立場を設定している。
⒈人空観。
花瓶の中に水が無く、空っぽであるように、人間の構成要素(五蘊)にも
私自身(我)というものはどこにも存在しない。
⒉法空観。
花瓶の中に水が無いだけでなく、花瓶自体も存在しない。
人間の構成要素(五蘊)自体も仮のもので、実体は存在しない。 第九節 我空法有
問い。倶舎宗ではどのような空を明らかにするのか。
答え。生空を明らかにするのみで、法空は説かない。
生空を説くというのは、万物には実体があるという執着(我執)を離れる事である。
物質の構成要素である五蘊には、人の実体は無い。
ただ、五蘊の組み合わせによって、人が仮に存在しているにすぎない。
実際には人という存在があるわけではない。
このように観察すれば、我空という真実が明らかになる。
しかしながら、万物を構成する法体が過去・現在・未来の
三世にわたって存在すると考えるので、他宗から「我空法有宗」と呼ばれるのである。 生空を説くというのは、万物には実体があるという執着(我執)を離れる事である。
以前どこかに書いたな^^ 物質の構成要素である五蘊には、人の実体は無い。
ただ、五蘊の組み合わせによって、人が仮に存在しているにすぎない。
するどい^^ 煩悩障とは我見に基づく煩悩であり、所知障とは、経験領域にある取捨すべき
真実に関しても全ての形象を知り尽くしていないこと、しかもそのため、
様々な手段によって四諦を人々に説明できないことである。
そのうち煩悩障は、無我を直接知覚することで除去される。
さらに所知障除去のためには、その無我見を注意深く中断なく長時にわたって
修習する必要がある。
つまり所知障除去のためには、まず煩悩障を除去する必要がある。
ふむふむ^^ 煩悩障は、無我を直接知覚することで除去される。
所知障除去のためには、その無我見を注意深く中断なく長時に
わたって修習する必要がある。
う〜〜ん^^
まったりいこうや^^
寝る^^ そういえば・・・^^
世親ちゃんも唯識三十項でおなじこと言ってたような・・^^ 煩悩障の正体を実体視することだとすると、その薫習とはどういうものなの
でしょうか。
次ぎのような説明をしています。煩悩障がなくなると、諦執はなくなるが、
薫習によって、顕現境に対して迷乱を起こす心が生じると教えています。
諦執が無くなるとは、幻の如き空性を体感することをいうことになる訳で、
迷乱は何かという話しですが、これは、真智と権智が同時に動く仏に対して、
清浄三地の菩薩は未だ同時に動かないという点で、迷乱が起きていると
言っている訳です。
所知障がある私達は現量で認識が出来ず、比量によって、推量して考える
しかありません。ところが、仏様になると一切の所知障が断滅されるので、
一切を現量で認識が出来るようになります。
ふむふむ^^ ☆
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E4%BD%95%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E7%A9%BA%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B
チベット ゲルク派
空性の現量了解(空を直観的に体得している智慧)が必要になります
ttp://nakano-zenjuku.com/?p=269
普勧坐禅儀
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
「想いを手放す」という想いも手放して
非想非非想も超えて
滅に触れて
スッタニパータ 21 師は答えた
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
苦集滅道も手放して
(仏の智慧慈悲)そのものに成る:成仏する←因縁果 ◆d........o殿? うん?
分別がなければ自他もない^^
それを慈悲と言うのはいかがなものか・・^^ 自他を分けるのは我執である^^
我空を悟れば自他もなくなる^^ 我空を悟れば我執を離れる事ができる^^
しかし・・^^
その道のりは険しく遠い^^
まったりいこう^^ 縁起なるものは空であるのに実体があるように見える^^
まさに・・煩悩障である^^ 二取随眠(二つの随眠)
・2つの執着を生ずる種子。煩悩の種子。
・二取の「取」:「所取」の取(対象への執着)と「能取」の取(主観への執着)。両者とも,その熏習した種子(習気)を随眠という。
これらを止滅(伏滅)しないかぎり,主観と客観に二分化する。 ☆
> 執着を離れるのに宗派によってちがう
たとえば↓これも世界観とかが違うかもしれない
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク
中観自立
仮設としての
無明している世界の中で
仮の現れとして
自性ありとする
中観帰謬
自性ではない
ttp://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識
無相唯識 瞑想を毎日続けると松果体が鍛えられてセロトニンが出やすい脳になるんだよ
そうなると余計なものへの執着はなくなる
もっと簡単に執着を捨てたいのならSSRIというセロトニンを増やす抗うつ剤を飲むといいんだけどな 消したいトラウマ記憶を“切り抜く”技術が開発される 一生思い出すことは不可能、洗脳に悪用される可能性も=アメリカ
http://tocana.jp/2017/06/post_13604_entry.html
英紙「The Daily Mail」をはじめとする複数の海外メディアによると、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校
(UCLA)をはじめとするアメリカの科学者チームが、脳内の酵素を研究した結果、被験者に過去の苦しい記憶を思い出させることなく、
記憶により引き起こされる恐怖反応を和らげる技術を開発したと発表している。
この酵素は酵素シンテターゼ(ACSS2)と呼ばれ、何かを思い出そうとする機能と長期記憶の形成に働きかける。 >>70
そうだよ。無相唯識の流れは摂大乗論を奉ずる摂論宗。途絶えたけどね >>68
うつ病してSSRI飲んだ事あるけどそんなのなかったぞ ☆
ttp://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
無相唯識から → 瑜伽行中観から → カマラシーラから → チベットとかに
そして
>無相唯識の流れは…途絶えた
知りませんでした。ご教授ありがとうございます m(_ _)m
おじゃるには難しくて、わからないけど、とりあえず
ttp://p.booklog.jp/book/69908
カマラシーラ『修習次第』初篇
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/14/2/14_2_760/_article/-char/ja/
カマラシーラの修習次第 その著作をめぐつて
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110006164655
カマラシーラの二諦説
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/50/1/50_1_340/_article/-char/ja/
カマラシーラの知識論と因果論の検証 ディグナーガ, ダルマキールティの見解の活用と批判 >>73
ただ摂大乗論は再評価が進んでるけどね。大乗仏教の百科全書と呼ばれる >摂大乗論は再評価が進んでるけどね。大乗仏教の百科全書と呼ばれる
知りませんでした
摂大乗論というのが、どういうものか?わからないけど
とりあえず、ご教授ありがとうございます m(_ _)m
_ _ _
今すこしだけ↓これを見たけど
ttp://p.booklog.jp/book/69908
カマラシーラ『修習次第』初篇
これなら、わかる部分もあるかもしれない
おじゃるは =^・ ・^= ねこ以下の低脳みそなので
初心者向けの現代語訳で、よろしくお願いいたします スマソ m(_ _)m
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 真言とか陀羅尼とか
英語でいえば
カタカナ英語だよな。
発音滅茶苦茶。
あれで功徳があるなんて思うなよ。 がてーがてーぱらがてーぱらさんがてーぼでぃすばはー ☆
おじゃるは =^・ ・^= ねこ以下の低脳みそなので
中論 第二十五章 ニルヴァーナ(涅槃)の考察
涅槃と輪廻にある存在との間には、わずかな違いすら存在しない
これは↑わからないけど
中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
勝義諦:世俗諦
現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない
この現象的なんちゃらのところなら
部分的に、わかるところも、あるかもしれない スマソ m(_ _)m マハーマティよ、不二の相は何かといえば、すなわち、影と日光の如く、
長と短、黒と白の如く、二をもってあらわされるものが、それぞれ別異でない
ことである。同様に、輪廻と涅槃とが〔不二である〕如く、マハーマティよ、
一切の存在は不二である。マハーマティよ、涅槃があるところ、
そこに輪廻はない。また、輪廻のあるところ、そこに涅槃はない。
識別の理由が存するからである。しかし、輪廻と涅槃とが〔不二である〕如く、
一切の存在は不二であるといわれる。それ故に、実に、マハーマティよ、
空性と不生と不二と無自性の相にたいしてヨーガがなされねばならない。 分別から虚妄が始まる・・^^
「一切の存在は、遍計所執性として不可言説であるから、不可言説の空性である。」 唯識、すなわち唯だ識(八識)のみの世界は、そのまま依他起性
すなわち縁起の世界なのです。
ところがおまえら凡人の日常では、「言語」によって誤った認識がなされ、
遍計所執性のみとしかとらえられず、この陰に隠れた依他起性は認識され得ない
唯識の修道によって、修行が進行し完成に近づくと、 遍計所執性は滅していき、
本来の依他起性の世界すなわち無自性・空の世界を認識できる
そしてこの依他起性の中での本性としての円成実性が了解される おまえら凡人の日常・・^^
おまえらを追加してやった^^ おまえらの遍計所執性をどうにかせい^^
と言う話や・・^^ 遍計所執性に執着しているおまえら^^
う〜〜ん^^
縁起を悟れという話やな^^ 分別があって物事が認識されるか・・^^
しかもそれは虚妄であると・・^^
現量で観るか・・^^
比量で観るか・・^^
の話やな^^ 現量で空性を観れるか・・^^
そうなれば・・^^
執着も離れていくであろうな・・^^ ☆
仮設としての
阿頼耶識 → 末那識 → 第六意識 → 前五識
現量
法界体性智をもって
第八阿頼耶識を転じて大円鏡智
↓
第七末那識を転じて平等性智
↓
第六意識を転じて妙観察智
↓
前五識を転じて成所作智
円成実性
如来の智慧をもって
現象は本質を離れず、本質は現象を離れない
勝義諦(本質):世俗諦(現象)
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
さらに無の世界も超えて、菩提心を起こして元の世界に戻ってきて
移り行く世界の様を
現量をもって、ありのまま見つめている
こんな感じでつか? 自分とその他のすべての存在という分別視された現象観の仮説は
実に種々の相をもってそれは生起流転しているように見えるけれど、
それは根源的には唯一の識の転変=心の活動に依っており、
そして その能く転変するところは三重の層からなる構造を持つ 自分と対象・・・^^
分別視された現象観の仮説か・・^^
すんばらしい^^ そこには根源的に識の転変のみあると・・^^
つまり・・・^^
唯識のみであると・・^^ 対象は分別視された現象観の仮説であり・・^^
識の転変に依って生じると・・^^ う〜〜ん^^
だれが鋭いこと言えと・・^^
とこうなる^^ この転変といふのは如何なることか、異なることである。
郎ち、転変は因の刹那が滅したと同時に、果が、因の刹那とは
異なって、生ずることである・・
うん^^ 刹那滅とは、文字通り、瞬間的に存在がなくなってしまうこと。
絶対的な今以外には、なにも存在しない。
その「今」に後続しているように見える、「私」とか「世界」というのは、
概念によって構想された虚構なもの、というわけです。
ふむふむ^^ >>92
>さらに無の世界も超えて、菩提心を起こして元の世界に戻ってきて
色即是空 空即是色
般若心経だな ☆
色即是空から → 空即是色へ
上座部系と大乗は何が違うのか?
わからなかったけど
(今も、わかってないけど)
空即是色のところが
上座部系とは違う(のかもしれない)
ttps://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
…
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである
大乗の場合は、この滅に触れてから → 空即是色へ。みたいな感じですかね?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
如来が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し
如来と衆生の双方の縁起が相応一致して
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>92
この類の書籍を紹介していただけると助かります。
宜しくお願いいたします。 ☆
>>103殿へ
2chの規制でリンクの貼り付けができないので、とりあえず
[ だるま文庫 八宗綱要 ] を検索して
[ 法相宗 ] のところをクリックして
第九節 菩提と涅槃
第一項 転識得智と四種涅槃
1.大円鏡智、2.平等性智、3.妙観察智、4.成所作智である
初地に入る時、第六意識と第七末那識を転じて妙観察智、平等性智を得る
悟りを得る時、前五識と第八阿頼耶識を転じて大円鏡智、成所作智を得る
この瞬間に四智は完全に備わり、煩悩障・所知障は菩提・涅槃へと転換する
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
転識得智
前五識は 成所作智に
意識は 妙観察智に
末那識は 平等性智に
阿頼耶識は 大円鏡智に転ずるとされている
転識得智の考え方は天台宗や真言宗、チベット密教のニンマ派にも受け継がれている >>104
素早い返事をありがとうございます。
まだ、事細かくチェックはしていませんが、およそこんな感じの情報を望んでました。
本当に助かりました。
ありがとうございます。
感謝。
↓読んだことがないので良い書籍なのか?わからないけど、とりあえず
ttps://www.amazon.co.jp/product-reviews/4344980778/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
カスタマーレビュー
十牛図入門 「新しい自分」への道 (幻冬舎新書) 横山紘一
ttps://www.amazon.co.jp/product-reviews/4149104093/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
カスタマーレビュー
心の秘密を解く 仏教の深層心理・唯識 上 (NHKこころの時代) 横山紘一
_ _ _
チベット嫌いな人もいるかもしれないけど、とりあえず
ttps://www.amazon.co.jp/product-reviews/B001IB7076/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
DVDです
カスタマーレビュー
[DVD] NHKスペシャル チベット死者の書
<映像特典>
《Disc2》
☆ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
「チベット仏教の叡智を語る。―瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ―」
約60分/音声:英語/字幕:日本語/片面1層 「NHKスペシャル チベット死者の書」で描写されてるのは文化が違うだけで四十九日の引導だから
日本の仏教と差はない筈だけどね
浄土真宗は引導はないとwikiに書いてあったけど >>106
この前、自分と向き合った時『六入』でん?…ってなった。
後少しなところで集中力が切れて…
追究し切れなかった。…というよりも頭の整理も出来てなかった。
一度、おじゃる?さんが紹介て頂いた書籍を参考に頭の整理をして追究しようと思います。
因みに、チベット関連の事は好きも嫌いありませんので、気にしないで下さい。
ただ、自分にはまだ早い又は解釈が追いつかないと思う程度です。
ありがとうございました。
後、おじゃる?さんが書き込んでいる内容は、私も時間が作れる時はチェックしてますので、引き続きおじゃる?さんの気が向いた時に書き連ねてくださると助かります。
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立
火を火たらしめている火自体の側にある固有の属性(自性)を仮設として承認します
中観帰謬論
仮設として、いま我らによって(妄想して)分別して「これが火の自性である」と設定している
− これに対して −
誰も分別しなければ「これが火の自性である」と設定されることはない
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
− これを対処するために −
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
無常(変化しないものではない)という理に心の働きを馴らしていかなければなりません
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
(光り輝いている如来と、煩悩に依存して)
如来と無明の双方の縁起が相応一致して
仮設としての仮の現れとして色受想行識の仮和合が現れている:依他起性
地水火風空識に依存している。それゆえに
(それ自体、単独で自立しているものは)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で自立しているものが)有ると思う虚妄の執著である:遍計所執性
円成実性をもって → 依他起性を観察して
現象は本質を離れず、本質は現象を離れない × 中観帰謬論
〇 中観帰謬派
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
第八節 三性と三無性
円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない
如来の智慧と慈悲をもって
円成実性の世界から
依他起性を観察していく
円成実性の世界から
遍計所執性に囚われている人のことを理解していく
頭ごなしに「我はない!」と説明しても理解してもらえないので
とりあえずは中観自立を説明してから
その次に中観帰謬を説明していく。みたいな感じ?
ちなみに、おじゃるの場合は
「輪廻の主体となる魂のようなものがあるはずだ!」
と掴もうとしている想いが現れている中観自立派でつ スマソ m(_ _)m
ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
内山興正老師語録
仏教では輪廻転生説を受け入れて説いているわけですが
もし諸法無我を客観的真理のコトバとするならば
輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます
諸法無我はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています