人生ってたまんないね!! [無断転載禁止]©2ch.net
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年収(手取り)170万円
月の生活費
ネット7000円
携帯7000円
車保険5000円
ガソリン6000円
家に入れる分4万円
その他出費1万円
絞めて7.5万円
7.5×12=90万円
170-90=80万円
80万円からその他車検や冠婚葬祭、大きな買いもなど色々引いて年に60万円は貯金できる
25歳から働いていて今年29歳になる
今の貯金が200万円で今年の末に260万
来年30歳の年に320万円10年後の40歳で920万円
さらに10年後の50歳で1520万円
さらに10年後の60歳で2120万円
さらに5年後65歳定年で退職金含めて貯金2700万円くらい
年金を年に100万貰えるとして
1年の消費を多く見積もって200万円
つまり実質年100万円の消失
2700÷100=27年は生活水準を下げずに生活できる
そして65+27=92歳(ここまで独身童貞)で人生に幕を閉じ
天国に向かう 俺は仕事に疲れていたのではなく、消化に疲れていたのかもしれない
夜の食事を抜くだけで充実する ゴールを求めて行動すれば苦しみと焦りがつきまとう
遊びに楽しみは無い 己の吐いた言葉に固執し、他人に付けられた評価に固執することがある
それも放下、放下 その緊張をくまなく味わい、緊張と一体となり、緊張している事をひたすら認め確認する
そうすれば緊張のみが存在し己が消える
己が消えれば、緊張はなくなり、他者もなくなり、こだわりも消える 色を付けているのはお前だ
他人じゃなく、お前だけだ >>88
テレビは魔法のように人の知力を下げる道具だ。
マンガは、知能を下げようと思えばどこまでも下げることができる。
そして、どの作品も考える作品は存在するが、まったく教育になっていない。
その理由は、売るためだけに作っているから。
教育番組ですら、視聴率を誇る。
まずはその特徴(金が全てという価値観が世界を支配していること)を知っておく必要がある。 テレビは視聴者の反応を決めてから作ることにしている。
どんなに「面白い作品を」といったところで、真の意味で視聴者の立場になることはない。
これは話題の選択により、ごまかせる。
日本のテレビはあり得ないほど知能が低い番組を作る。
仮にCMで教育しようという組織があれば、何もわかっていない。
「宣伝は知能が低いほど良い」とヒトラーが書いている。
そして、日本のテレビはおそらく、ありとあらゆる要素をCMに替えようとしている。
さらに登場俳優の行動はテレビ業界の押し付けたい概念の洗脳のために用意されている。
これに従わない芸能人は、仕事を干されることによって、事実上の永久追放になる。
(見た目は、売れない芸能人にとっては、売れないまま有名になることを諦めることになる) 外国のメディアの話し方を知るとわかるが、日本はあり得ないほど
内容に考えるところが見いだせない。
あきらかに、たった一つの意味だけですべてを表現しようとする。
「そうだけど、そうじゃない!」などとアニメで言いそうなセリフだが
これこそが、難しい意味を全く言わないように努力した結果だ。
日本のメディアは、難しいことを言わないようにするあまり、
信じられないほど頭の悪い表現だけで話を作っている。
まず、これだけでも視聴者の知能は下がる。 学校教育は、ただロボットのように入力したから消えない程度にしか考えていない。
子供たちの記憶力の限界や、成長速度に対応することは不可能である。
教育を実行する前に、だいたいの方針を考えた時点で結果が決まる。
平均の実力を設定し、実力が平均に達しない人間は、どんな理由が有ろうと切り捨てる。
落ちこぼれた人間は、やり直しをしようと努力して社会に出てきても、排除するだろう。
なぜなら、学歴のせいである。
成長速度には対応しなくていいため、あとで使える人間になっても排除し
半永久的な人材不足に陥るだろう。
学校に限らずあらゆる組織は、学習者の記憶力の限界は想定外だ。
覚えない人は、定性的なことも定量的に判断し、容赦なく切り捨てる。
教育は10年で考えろと言っているのは、結果を見たからであり、考えたからではない。
森友問題を上げるまでもなく、日本にある組織の多くは、やっていることに一貫性がない。
頭の回転が異常なほど遅い。
「日本人は点検が苦手です」リー・クアン・ユー『目覚めよ日本!』より メディアの扱う言葉が単純すぎて、
日本人の多くは、難しい表現を一つも知らない人がいるだろう。
だが、実際に就職し、職場に行けば形式ばった表現も扱えないといけない。
(テレビの言葉遣いに格式語はない。格式語はファッションであり、
俗語との切り替えは一時的なものでファッションであり
ありとあらゆる表現が、ひねくれたしかめっ面をした登場人物の話し方になる。
エリート警察官ですら、なんだかひねくれたような態度で小さな声で話す。
日本のテレビでは小さな声でしゃべる意味はない。
元気がないか、ハリウッドのマネ程度である。
余談だが、カメラワークはハリウッドのマネが増えてきている
ハリウッドのカメラワークを採用し、その意味は解らないままいきなり使われる) BBCなどの番組を見るとわかるが、日本人と話し方が全く違う。
BBCなどのほうが知的な話し方であり、内容が濃い。
難しいことをサラッという。
日本は難しいことを言わないようにして、ぎこちなくしゃべる。
洗練された学芸会の演技である。
特にアクションはへたくそである。慣れていないのが目に見えている動きをする。
ハリウッドは慣れていないのがさっぱりわからない、自然な動きである。
ハリウッドの場合でも俳優は深く考えなくても表現できればいい気がするが、深く考えているように見せるのがうまい。
日本はゆっくり動いているだけであり、テンポが遅すぎて内容と行動が合わないことが多い、それが日本の主流であろう。
この日本のゆっくり過ぎる行動は、あまりにもゆっくりなので
遅すぎて、思考しようがない。
BBCなどはテンポが速くて、一度に多くのことを言っているが
慣れれば、非常に細かいこともしっかり表現する。
日本は、そう見えるように言葉が並んでいるだけであり、
俳優が感情をこめて音読しているだけである。
あまりにもゆっくり過ぎて、そう見えてしまうし、実際にそうしているのではないだろうか 難しいことを決して言わないため、
誰も難しいことを言えなくなってしまっている。
すると、よく考えてさらっとしゃべる人なんていないので
よく考えているように見えて考えていなくて、ゆっくりぎこちなく音読している人ばかり見ている。
CNNですら原稿を読まない。
ニュースの内容を作っているところを見たことはないが、おそらくこうしていると思う。
話の内容のチャートみたいなものを用意し、順番を決めて流れを表にする。
その内容で、その順番になるような展開だけを用意しておく。
日本のテレビみたいに、ありとあらゆる要素を文字にしてそれを見て報告しろ、というわけじゃないと思う。
内容と展開が決まれば、知っていることを結論に向けてその場で作りながら話す。
その方がスムーズに言えるからだ。
もし、元寇を用意し、一言一句を正確に読まないといけないのなら、前を見てはなせない。
何度も視線を下に落とさなければならず、そういう報告方法だと印象が悪い。
だから普通、報告するなら、原稿をすべて用意して正確に音読しようとはしないはずだ。
話の展開を決めておいて、そうなるようにその場で言葉を紡ぐ方がいい。
こうすると、正確に読むときに間違ったら対応できないのとは違って、
咬んでもすぐ言い直せば済む。原稿を用意すると、咬むことが許されなくなるのだろう。
だから正確に読まないといけないような原稿は作らない。
日本はすべてのスピーチが、すべての言葉を正確に読まないといけない。
これだと、目の前の人に話しかけることができないため、相手のいない主張になる。
テレビはその意識で作られていると思われる。 原稿を用意して、すべての言葉をかまないように読むと
相手のいないスピーチになるしかない。
それに言葉にまったく自由が存在しないので、咬むことを心配しなければならない。
だからそういうスピーチの用意の仕方があること自体が、おかしいのである。
たとえば、ビジネスの個人のプレゼンでも、一言一句を間違ってはいけないような原稿は最初から作らないほうがいい。
何の話を、どの展開で話すか、という準備方法をとるほうがいい。
正確に読むやり方だと、全部暗記しなければいけなくなり、内容に集中できないからだ。
よって、テレビのように考えないで音読するだけの話し方になる。
プレゼンは相手が質問してくるのだから、原稿丸暗記だとその対応はほとんど不可能であるからだ。
暗記することで、内容を意識していない声で話すことになる。
日本のテレビは内容を意識しているとは思えない声なのである。
これは、感情がこもるとどんな声になる物か、知っておくと区別がつくようになってくる。 いろいろ言ったが、日本のテレビにこれらのことはほとんどないはずだ。
原稿を正確に読むのに気が奪われ、今ここで何があるかがわからない。
だからそんな声の表情になっている。
そんな人が下手な演技で笑って見せたりするから、違和感がある。
それが洗練されたのがテレビドラマだろう。
テレビはおそらくありとあらゆる要素をCMにしていると思う。
CMにすることで、自然と内容の知能は下がる。
アメリカのテレビのCMでハリウッド映画並みの、考えないとわからないようなCMを見たが
私にはあれでいいのかはわからない。
CMで売りつけたいものを記憶に刷り込むなら、別に考えないといけない内容にする必要はない。
アメリカはそうしたいから、そうしているのだろうか。
私にはどっちがいいのかはわからない。
ヒトラーの言葉で、そういうもんかと思っているが、アメリカでもそういうもんかという気もしてくる。
どっちでも記憶しそうだし。
それはともかく、日本では内容の薄すぎる話しかない。
現実のニュース、ドキュメント、教養ですら、深い意味が見当たらない表現しかない。
日本のテレビは表現が易しすぎるのだ。 日本のテレビは、修飾語でしか話さない。
「こういうことをしてこうなった人」これで説明したと思い込んでいる。
外国から見ても、おそらく「人」と言われただけだと思う。
「こういうことがあって、こういうことをした男性」と日本のテレビは好んで使う。
おそらく、これだと「男性」としか示されていない。
すると「その男性がどうしたの?」となる。
「男性」「女性」と並ぶだけで、何か文章を作ったと思っている。
外国では、意味だけで文章を作って「そうか」と、言葉にしないで思うことはない。
外国では、言葉で100パーセントに限りなく近い表現を書き尽くし、
そのうえで、意味だけの文章が出来上がるという方法をとる。
日本は、「男性。」「女性。」といっただけで修飾語で説明したと思う。
「こういうことがあって、こういうことをした男性」といえば、映像でも「男性」が一人写っているだけ。
なんでそこにいるのかは、まだ示していないがテレビは示したと思っている。 視聴者も、修飾語でしか話せなくなってしまう。
そして、ビジネスで信用される話し方ではない。
これだと、勉強を身に着けるなと言っているに等しい。
テレビは魔法のように知能を下げる道具だ。
おそらく、情報伝達危機はすべて、知能を下げる道具かもしれない。
スマホをいじって、トランス状態になる人もいるくらいだ。
頭を使っていないから、トランス状態になっている。 頭はいくら使っても構わない。
身体はどこかで限度が来るかもしれないが、頭はそういうことはない。
年を取って衰える以外のことはほとんど怒らない。
ちゃんと思考して過ごしている場合は。
物事がどういう仕組みになっているか、
どんなストーリーだったか、頭の中でイメージしながら、人の話を聞くといい。
文字だけをイメージしてもダメである。
映像、動画でイメージする方が理解しやすい。
ちゃんと音声もつけて、生き生きとイメージできるといい。
一方向の映像だけではなく、回転させてあっちこっちから眺める。
これでかなり頭が鍛えられるはず 人から何か言われて、意見が言えないとすれば
考えが足りないのか、考えを言う意識があまりないのだろう。
普段は考えを言う機会がないが、急に誰かに聞かれるので
少しはイメージを働かせて生活しておく必要がある。
そうすることで、ある程度の理解力を一生維持しようではないか。 そのためには、普段から、ある程度内容のあることを言うこと。
そして、内容のあることを言われたら、
理解しようとすると同時に、質問すること。
そして、質問された人は、省きすぎないこと。
これができるようになるには、意味のあることをテレビが言うこと。
おそらく思い込みでぎこちない話し方になっていると思うが
BBCなどは自由に言葉を作っている。
たとえばニュースのように原稿を読めない時は、話の展開を考えておくだけだから。
いつでもどこでも正確に全部読めることを気にしなくていい。
そんなことに神経をすり減らしながら、現実に対応できる人は見かけない。
だから丸暗記は敵視されているわけである。
記憶に振り回され、目のまえの人が言っていることが頭に残らないのである。
こうやって、店員や公務員の相手を見ないサービスになる。 日本人の知能を下げないためにも、話し方を工夫したほうがいい。
説明を省きすぎないことである。
日本人は、言わないでわかってもらおうとしているが
言ってくれない限り分からないのは、外国と変わらないのだから。
早く初めければ、日本人はまだまだ知能が下がる。 わないでわかってもらうのは、成功しないこともある
なぜか。
一人一人、知っていることが違うのにもかかわらず
みんな同じことを知っているかのように思い込んでいるから
みんな同じことを知っているなら
知らないことを言われて考えさせられることは決してない
ほんの少しでも考えなければいけないことを言うと嫌がる人がいるが
その人は考えるのが嫌なのだろう。
しかし、考えるのを止めると頭が衰えてくる。
頭は使えば使うほど冴えてくる。 認知症ではなく、頭を使っていないだけの人もいる。
考えると言っても、難しいことをわからなくてもいいし
理解すると言っても、100%わかることが前提ではない。
この世に100%理解できることなど、一つでもあるだろうか。
学校の問題は他人が用意した限定された問題なので、100%わかることも可能だろう。
人生は学校で他人が用意した問題はない。 学校で習ったことは知っておくと理解しやすい材料である。
学校の外では、学校で用意される問題以外の問題が発生し、学校の知識は使わないと役に立たない。
大事なのは、自分で学校の知識を役立てる気があるかどうかである。
だから、100%の理解を想定する時点で非現実的なのである。
もうちょっと想像を巡らせば、100%理解できることがあるかどうか、習っていなくてもわかるはずである。
それでもわからないと思ったり、こうして言われたから否定して反撃しようとする人がいれば
その人は習っていないことをどうするか、わかっていないことになる。
習うのは基礎の段階であり、すぐに応用できるように使い始めなければ、教育の意味がない。
学校は、読み書き以外で使うことを想定していない。
学校では読み書きができる機械さえでき上れば、人間の事情など知ったことではない。
というか、教師の方が指導をよくわかっていなくて、育てたくてもできないのである。 学校の教師の多くは、人の育て方など知らない。
試験にパスしたから。
教師になる前にいくつか学校を回って現場を見るらしいが
それで教育の仕方がわかる人がいるとは思えない。
やっぱり、勉強以外に、人がどうやって学習するのかとか研究していないとわかりづらい。
そして、教師になれる人ほど勉強熱心な人は、教師になる勉強以外に勉強する余裕があるだろうか。
基礎は数回見たら、すぐに使うために準備することは学校では想定していないはずである。
最初は半分、遊びに近い形で学び、レベルが上がったら講義形式にすることも考えにないはずで
そういうところは他校との差別化程度にしか考えていないはずである。
だったら、差別化でうちの学校だけはどんなにひどいと言われても、これでいいと信じてやりますと
キレイ事のように言って見せて、その根拠がそれらしく聞こえさえすれば、他人を騙せるだろう。
そして、何も知らない生徒は、教育が悪いから成績が上がらないと思うことはできず
自分の勉強不足だけが理由だと信じ込まされる。
社会問題の議論では、自分の学校よりも遠い世界の社会問題として、教育問題に取り組むだろう。
こうして、機能しない社会が形成される。 日本人の理解力を付けるために言っている。
学問上で、論理的思考ができるだけが理解力のすべてではない。
そんなものに人の気持ちの理解はない。
論理的に自然な帰結とは、脳みそ的に不自然な帰結だからである。
たとえば、綺麗にリストになってまとまったノートをとって
勉強をするのは、脳みそには不自然なノートになるという。
あと、箇条書きでただ、文章を並べているだけのノートがあるが
これも脳みそには不自然で学べないノートである。
ただの丸暗記でもしない限り、こんなノートでは記憶すらもできない。
脳みそにもわかりやすいノートの取り方を知っている人は少ない。
(そういう人全員が、自然なノートを取れていないわけじゃないが、
なんとなくそうなっただけであり、意識してできる人はもっと少ない。
脳みそに自然なノートを取った人は、たまたまそうなったのである
そのノートがなぜ、自然なのか知らないでなんとなくノートを取っていただろう
だからわかっていて自然なノートを作れる人は少ないと思う) 不自然なノートは日本人だけではなく、みんながやってしまうことらしい。
言われたことを、ただ書き留めれば勝手に箇条書きになるからしょうがないことではある。
だがきれいに整理するほど、脳みそには不自然なノートなのである。
覚えろと言われたのに、どうしても覚えられないのは、実は、自分だけのせいじゃなかったのだ。
だが世の中は、勉強できないのは全部自分のせいにするように洗脳されている。
自分のせいにするのは、他人が命令してやらせることだろうか? 自分のせいにするのは、他人に言われたからやることだろうか?
よく考えて、自分が悪いと思ったところだけ反省する方が現実的だろう。
なんでもかんでも自分のせいにしなさいと誰かに示すのは、常識のいけないところである。
ここは自分のせいだ、ここはしょうがないことがあったと、区別する方がいいに決まっている。
なんでもかんでも自分のせいにしなさいと、言われた人は、考えなくてもいいではないか。
はい、全部自分が悪いですと、何も考えずに言わせたいのだろう。
言わせようとする人の非現実性に巻き込まれる生徒がかわいそうである。
ちゃんと身に着ける方法があるのに、知らないまま、人から言われるままにやっているのである。
世の中は若者に期待するのはなぜだろうか。
よくわからないまま、ただ期待しているんじゃないだろうか。
それに、期待するからには、それが実現できる社会にしなければいけないではないか。
現実はあっちこっちの組織が邪魔しあっている。
夢が実現できないのは、本当に努力不足だろうか?
周りの応援が全く無く、夢は実現するだろうか?
学生はなぜ「みんなのお陰で自分はここにいる」というのだろうか?
感謝の言葉を言わせていないだろうか?
夢のためにがんばっている人の苦労を、周りは知らないのだから
余計な口出しをしないほうがいいのではないか?
暖かく見守り、待つのは、実は勇気がいることで、緊張の連続なのではないだろうか? たとえば、人が学び、ある程度成長すると、指導者、周りの人にとって悲しい現実が待っている。
かなりの部分を、学んでいる人に任せなければならない。
分かってもいないくせに、細かいことまで口出しする段階は終わったのだ。
分かっているからと言って、細かいことまで口出しするときでもない。
分かっている指導者は、今まで以上に、タイミングをよく考えて
少なめにアドバイスする以外にない。
難しいのは、普段は放っておいて、問題が深刻になりそうな時だけ
すべて把握したうえで的確なアドバイスをすることだ。
これが出来たら、神監督である。そんなことできる人は多くない。
指示やしつけはしても、教え込む段階ではない。
そして、もっと覚悟がいる現実がある。
指導者を、生徒が超える時が来ることである。
これをわかっていないのが日本社会の一般である。
実際の指導者の一部が、俺を超えてくれたらうれしいと思っているだろう。
多くの指導者は、学校教師のように指導できない未熟者だから、超えてもらっては困ると思っているはずだ。
超えてもらっては困ると思う指導者、教師がいるとしたら、その人たちは
生徒はいつかは超えるんだとわかっていないことになる。
良い指導者、良い教師なら、俺を超えてくれることを喜びとするはずだ。
だから、それが喜びとなるくらいに、腹をくくっていないといけない。
それができないから、超えられたらみっともないなどと思える。
もちろん、無関係な周りも「教え子のほうができるのは、指導者、教師が無能」という
安直な常識をもってはならない。 教え子が超えたら、急に無能になることが現実にあるだろうか?
よく考えたらおかしいとわかる。
「一人で励ましているなんて寂しい―」というのも間違った常識だ。
一人ぼっちの人は、励ます人は自分しかいないのに、やってはいけないとは何事か。
だが、一人で励ますのがみっともないと思うのか、自分で自分を励まさない人が多い。
いつまでも「つらい」を連呼し、そのままにしている人が多い。
もっと自分を大切にしなさい。
また「一人が悪い」「一人が寂しいから、一人になってはいけない」という価値観も間違った常識である。
まさか、常にべたべたしろというのか。
これは、何か頑張ることがある人には、良いことである。
何か頑張っていると、一人なれるほうがいい。
人間関係が苦手なのではなく、人がいると気が知って、がんばっている感覚が消えてしまうからだ。
他人がうろちょろし、時間をおいて声をかけてきたりすると、いちいち途切れてしまう。
何かを学ぶときには、一人になるしかないのである。
一人になって、ちょっとしっかり学んでおかないと、身につくものも身につかないのである。
それがわかってないのか、全員とずっとべったりするアニメばかりである。
もちろん、寂しくないわけじゃないし、人付き合いは大事である。
だからといって、ずっとべたべたするものではない。
いい関係は、一緒にいて、何もしないでいられる関係がいい。 沈黙していられるのだから。
一緒にいて、キャッキャウフフしなければいけないわけじゃない。
一緒にいて、何もしないで何時間いても居心地がいい、そんな関係になれればいい。
ただ、勉強会はおおいにやってくれていい。 ほぼ同レベルの人同士で教え合うのは、いい勉強だ。
できれば、問題を解くだけじゃなくて、問題に関係あってもなくてもいいから
議論を交わすことである。
そうすると、物事を考えるようになる。
学校で習う問題の是非まで考える人はいるかもしれないが、その議論を他人に吹っかけたことはないだろう。
そこまでできると、もっと知的になれる。
日本の表社会は議論がキライに見える。
5ちゃんのように知的な会話を求める人ばかりじゃないからだ。
5ちゃんで知的な会話の人が優勢になりやすいのは、文字だけのためである。
文字だけでやりとりすると、スマホなどに関係なく、漢字が増える傾向にあるのをご存じだろうか?
そういう、物事の性質による特徴というのもあって、物事は発生しているのである。
いろいろ知っていると、頭だけで理解できた時はうれしいものだ。
ただサボりたいから頭だけを使っていたいのとは違う。
頭だけで過ごすということは、いろいろ知っていないと難しいことなのだ。
何も知らない奴が頭だけ使って寝ていたいなら、さぼっていたいのだろう。
それが本当にできる人とは、勉強家なのである。
だから、寝転んで考えているだけなのに、怠けているわけじゃないのだ。
怠けて見えるし、自分は最初から寝ていたいから、何でも知っていて引きこもる人になりたいと思う。
そんなことができる人は、世界最強である。
自分がそんなことはできないなら、さぼりたくても動くしかない。
上記のように言えば、怒るかもしれないが、リーダーシップとしては
暇そうにして、実は能力高い人は尊敬される。
だから、あなたもそうなれば、寝ていても怒られないのである。
それに、やらなきゃいけない時に、動けないという感覚もない。
そうなるために学ぶのもいいのではないだろうか。
あくまでもサボりたいから学ぶのではなく、世の中をよくするためには影響力がないと人は動かないということだ。
いろんなことを知っていると、何を言われても途方に暮れることはなく、想像がつく。
非常に楽しい、インテリのようなライフが遅れる。
知識があると人生が楽しめる。 また己の意識がでてきたぞ
今だけを見ろ
食事の時は味と口の動き、歯触り、香りのみに集中しろ
物があり、肉体で味わい、肉体に情報を受ける ゴールを見て行動するのは誤り
人生のゴールは死のみ
その過程を安楽に過ごすのが正しい 死を見すぎなくてよし
充実するように今を長く過ごす 時間とは、今の連続
先も無ければ過去もなく、比較もない
故に老いも死も無い
今を見るが故に、過去の後悔、未来への不安がない
比較が無い故に、優劣も無い 充実した今を過ごすのを
ずっと続ける
忙しければ
嘆く暇なし 快楽を求めようとしている
受ける感覚を選り好みしている
これは違う
快も苦も、ただの肉体的な現象と知り、観察するのがただしい
今、快楽から抜けろ 快楽に満足は無い
刺激に満足は無い
己の外に意識は無い
すべて憶測と勘違い (性的とは限らない、いろんな)快楽の何がいけないかというと
際限なく求めるのがいけない
ビジネスは際限なく快楽を求めるようにCMしている
しかし、楽しむことがすべてダメというと人生が辛くなる 「淫」
エロいという意味ではない。
本当は、「現実の区別がつかなくなるほど乱れる」という意味だそうだ 現実とは、ただあるがままの存在
そこに価値を上乗せするから苦しむ さあ、幻想を捨てろ
夢を捨てろ、淡い期待を捨てろ、計画を捨てろ
全てそろっている
今だけ見る 運など無い
実力も関係ない
良し悪しの判断をしているだけにすぎない
比較をせず、ただあるがまま
あるがままを、ただ没頭する
怠けず、無理をせず 正解も不正解も、ただの判断
快楽や苦痛を考えなければ、人間の判断した正解も不正解も関係無い --
† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイによる福音書7章13節)
-- 現在、この瞬間に生きるのみ
結果とは未来でしか無い 己の世界に溺れている
思考と価値観を取り除く
人は脳内で勝手に世界を作り出し、意味を上乗せし、意味に対して喜怒哀楽を発生させている
意味なんて無い
水は水、土は土、石は石
海はそのまま海、山はそのまま山
魚は魚、獣は獣、人間は人間
ただの物質に意味を上乗せしない 自分を自分だと思い込んでる精神異常者が俺だ
自己とは本来空白
妄想が他人を生み出している その非難に対する負の感情は他人の価値観ではない
己の、お前の価値観だ お前が見るように世界の意味は変わる
お前が創造主だ
その苦しみの創造主は己
その怒りの創造主は己
その不安の創造主は己 ああ、とらわれている
過去と己の価値観に縛られている
放下せよ
お前は、何者でもない
他者すら、己のつくりだした幻想
この世とは、己の色眼鏡で通してみた世界
憶測しか存在しない、あやふやな世界
憶測に憶測を重ねれば、現実は遠ざかる とりのぞけ
今しか存在しない
仕事をしているときは仕事をし
飯を食っているときは飯を食い
皿を洗っているとなかは皿を洗い
眠るときは、ただひたすら眠る 努力を重ねれば思い入れが強くなり、怒りも生じやすい
放下せよ
努力と結果がイコールと断じるのは欲だ 結局は不安と恐怖が怒りを誘発する
思い入れを持つな
人は空っぽだ
人間本来無一物
心などない 有るのは記憶だけだ
反応があるだけだ
他者のイメージを想定し、それを己に投影するだけ
自己があり他己を認識するのではなく、他己を想定したうえで自己なる幻想を想定するのが、頭の反応のようだ
己と言う人間性、自意識、定義は、他者が消えた場合には消える
己とは他者の想定を推測したものに、記憶の色をつけたものでしかない そもそも、全ては循環する
流れる水など放っておけ
私は水
その、反応は私ではない
私はいない
他者も、いない 怒りは不安の裏返し
推測と憶測の結果にすぎない
無一物のこの身、何を守る必要があるか その反応は己ではない
己がやった良いこと、悪いこと
判断はすべて機能でしかないし
行動も機能でしかない 悟った人は、社会の中で、山で生活するように物事を見る 一人居で人前に出るのと同じ様にすごし
社会の中で、一人居と同じ様にすごす お前は、他者からの評価が欲しいのか
他者からの理解が欲しいのか
他者からの同情が欲しいのか
それを手に入れても、何も得るものは無い
勘違いの上塗りをするだけだ
社会とは価値観の上塗りであり妄想だ
妄想に推測を重ねても、妄想があるだけだ 怒りの正体は不安や恐怖
不安や恐怖は、常日頃己が気にしている事から生じる
故に、他者によって怒りや不安は発生しない
苦しみだけでなく、全ての感情の根元は、己の中だけにある 他者の評価に重きを置かなければ、人生は楽になる
ありのままで没頭する >>167
そうやって無感動になろうと努力していると
かってに心をかき乱されるようなことが起きるだろう
そこに人生のヒントがあるんだよ 分別は迷いの証
今、迷っている自分をそのまま見る
自己は己ではなく、比較によって生まれた存在
評価や区別がなければ己なるものも他者なるものも、自然も宇宙も無い ただ、目の前のことをやり、その他の意味付けはいっさいしない
感想すらもたず、ただひたすら取り組むだけ 社会の重さではない
己の一人分の重さだ
まるでビー玉
手のひら程度の重さだ ただ見つめる
今の抱いてる価値観すら幻想
たとえ全てが上手く行こうとも不満を感じるだろう
己を己と思いたい欲望がすでに、苦しみへの道である あれやこらやの考察は要らん
他者の価値観を推し量る必要すらない
ただ、放下せよ 飯を食い、服を着、働き、眠る
これ以外に何か必要があるか さあ、色眼鏡を外せ
意味の上塗りがなくなれば、全ては、ただ有るだけ
有ることにたいして、あれやこれやと文句を言う必要すらない
進化は欲が起こすものではなく、環境への適応であり、自動運転でしかない 人間の本体とは心でも感情でもなく、その肉体的な働きにある
脳も内臓も四肢も同じ 骨は己の本体ではない
骨をつつみこむ肉体はおのれの本体ではない
思考は社会の模倣であり、本体ではない
己の本体などない
ただ、機能がそこにあるだけである
感覚が繋がっているだけである
感覚があり思考がある事も、とくだん善ではないし悪でもない そのまま、その命を生きれば良い
優劣は認識によるものであり、存在しない概念
【調査】女性が結婚相手に望む年収「400万円」、昨年比200万ダウン 年収700万円以上を求める女性は2割のみ★11
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1525952190/ >他人が何者であろうと、どんな人格であろうと
>自分が何者であろうと、どんな人格であろうと
>今を集中して生きる事に変わりは無い
>
>体を動かし、頭をうごかし、ひたすら今を生きるのみ
>社会などなく社会通念もなく心すら無いのに、何にこだわる必要がある >程度が低いなら低いで精一杯生き、程度が高いなら高いで精一杯生きれば良い
>
>どんなに狩の上手い生物が居ようと、人間にとっては意味は無い
>どんなに徳の高い僧侶も、自然に生きる生物にとっては意味がない
>動物や人間の死も、自然にとっては物質の循環でしかなく、意味を持たない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています