☆無我なのか真我なのか☆ [無断転載禁止]©2ch.net
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自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう 横から失礼します。
無我についてですが、「無我である」と認識している主体は何ですか? >>351
>明治時代に 「大乗非仏説」が唱えられた時に大騒ぎをしたのは、仏教の素人
>の人達だけだったことを知らないのかな?
そうではなく、
日本仏教はシナ経由の天台仏教が流入したものであり、
すでに日本は大乗の宗派仏教に洗脳されてるから宗門は聞く耳を持たなかった。
そして、僧侶の中にこっそりと原始経典の勉強してるのがバレルと
宗門からは破門されてメシの食えない坊主にされてしまったのです。
つまりは見せ絞めということ。
>非仏説の仏は、先にも述べたようにゴータマ・シッダールタのことであって、
>仏陀のことではないのですよ。
史実の確認できる唯一の如来はゴータマだけです。
そのゴータマが説かれた教えが仏教であり、それ以外なし。
成仏の仕方は仏陀となられた御本人にしか語ることができない。
仏教とはつまり、ゴータマの実体験に基づくものです。
その伝承された教えが経典として纏められたのが原始経典。
すなわち、パーリ五部聖典と漢訳四阿含ということ。
大乗の如来というのは架空と設定上のホトケであり、
後代の弟子らが自分たちの勝手な内容を盛り込んで創作したものが大乗諸経典。
それは解脱成仏の体験に基づくものではなく、外道に由来するものです。
あなたは史実の唯一なる如来であり、
仏教の開祖であられるゴータマを「非仏説」などと呼称する仏教徒に有るまじき暴徒です。
>それによって悟りを得る人達がたくさん出て来たので
ハァ? 一体、それは誰々のことですか?
初耳ですな。 >>351
>君こそまともに仏教を学んだことがないのでしょう。
>(私は大学の仏教学科で学んだ人間です。)
『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・
ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗
仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その
内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としてい
るのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口
伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。
大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の
創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。』(Wiki) >>373
本来、「無我」は“アートマンはない”という意味ではなくて、
“それらはアートマンではない”という「非我」の教えからきたものです。
無我をアートマンはないなどという意味の存在論へと変色、誤認したのは部派でした。
そして、結果的にはニルヴァーナをニルヴァーナであるとして知覚するのはアートマンだといわざるえないのです。
ただし、アートマンの有無そのものについては無記の姿勢でしたが…。 >>367
>意識というのは釈迦が分類した五蘊の一つであり
>死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw
ゴータマは、「識」が輪廻主体であると明言しました。
当然、それは死後にも継続するので「断滅」しません。
ただし、これをアートマンと勘違いする者がいるから、
誤認してはならないと弟子たちを諭したのです。 >>374-375
>史実の確認できる唯一の如来はゴータマだけです。
>そのゴータマが説かれた教えが仏教であり、それ以外なし。
それは何の宗教体験もなく、ただ言葉の上だけで仏教と関わっている
哀れな人々に共通する見解なのです。
数学(微積分学)に例えれば、ニュートンから微積分学を学んだ人々が、
ライプニッツの方法で同じ問題を解いた人に対して、「それは正統な表記法
ではないので答えも間違っているはずだから認めない」 というのと同じぐらい
馬鹿げた考え方なのです。
ゴータマ・シッダールタに現われた真理が尊いのであってゴータマという個人が
尊いのではないのです。初期の弟子達はそのことが解っていなかった為に釈尊の
言葉を表面的にしか理解できず、重要ではない原始経典が沢山残されてしまった
のです。
>ハァ? 一体、それは誰々のことですか?
その書き込みによって、何も仏教の勉強をしていないことがバレてしまったね。
君のような浅はかな考え方をしている人は元オウムの人に多いから、君もオウム
だったのかな? 大乗仏教に目覚めてオウムときっぱり絶縁した人の中には立派な
境地になった人達もいるようだから、君を彼らを見習うとよいでしょう。 ↑ 訂正
君を彼らを見習うとよいでしょう。 (×)
君も彼らを見習うとよいでしょう。 (○) >>375
>最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、
それは「文献学」としてそう言えるということに過ぎず、宗教的には無意味なのです。
数学の大学教授が小学生に算数を教えた時に、その小学生たちがノートに書き留めた
内容はその教授が直接に話したことだからと言って、その内容を大学教授の数学の世界
だと考える愚かな人はいないでしょう。原始仏教至上主義の人達はそれと同じ愚かなこと
をしているのです。(それは宗教体験を持った時に初めてわかることなのです。)
「大乗非仏説論」などは、本物の宗教体験のあった僧侶・学者にとっては何の意味もない
ものだったのです。 >>377
「死後には[識別する]意識samjna(仏教でいう想蘊)は存在しない、は梵我一如を達成した解脱者の場合ね。
凡夫はブラフマンに帰入しないのでsamjnaは存在し続けて輪廻する。
これがヤージニャヴァルキヤの思想。
釈迦も解脱者(如来)は五蘊は捨てられているとした。
これは解脱者の話、そういうことね。
4.4.6 [ヤージニャヴァルキヤはつづけた]「これについて、[次の]詩句がある。
それゆえにこそ、執着のある人は[輪廻における]微細な原理lingaであるかれの心manasが執着しているところに、業とともにおもむく。
この世においてかれがいかなることをなそうとも、その行為の終末(=報い)を得て、かの世から、またもとどおりこの世に還って来る。
――行為をなすために。以上は欲望をいだいている者である。
次に欲望を起こさない者(=解脱した人)を説こう。
欲望を起こさず、欲望を離れ、アートマンのみを欲望として、欲望を達成した人からは気息は出て行かない。
[それら(気息)はそこ(=アートマン)に合一するのである。
彼は]すでにブラフマンそのものであるがゆえに、ブラフマンに帰入するのである」と。 >>358
>それに、説一切有部など原始仏教系統の教えは玄奘たちには魅力のない
>内容だったので、大乗経典の研究と翻訳に全力が注がれたのだからね。
仏教大学では説一切有部を原始仏教系統などと出鱈目教えるの?
せめて小乗仏教系統というのなら話は分かるけど
あと玄奘は説一切有部の教理が大半を占める阿毘達磨倶舍論30巻を翻訳してるんだけど仏教大学で習わなかった? >>383
『阿毘達磨倶舎論』は後に大乗仏教哲学者として大活躍をした「世親」の
著作だったので、関連を研究するために翻訳する必要があったということ
ですね。著者が「世親」でなければ完訳することはなかったかも知れません。
日本で研究されて倶舎宗ができたのも同様の理由によるものです。
大学者がまだ若かった頃の著作・研究を調べることには大きな意義がある
ことは他の学問でも同様ですね。 六足論
阿毘達磨発智論
阿毘達磨大毘婆沙論
世親関係なし 大乗仏教というものが解っていない人があまりにも多すぎる。
大乗仏教というものの本質が解れば、仏教は大乗と非大乗に分けてよい
ことがわかるはずだ。それ以上の分類はどうでもよいのである。
大雑把に言えば、煩悩を滅して悟りに至ると考えるのが非大乗で、煩悩の
あるままで悟るのが大乗である。
小乗は一人乗りの舟で、大乗は大きな客船に喩えられることがあるが、
その喩えの真意を理解している人は非常に少ない。小乗は一人で悟る道で、
大乗は大勢で悟る道だなどと考えているようでは話にならない。
端的に言えば、小乗というのは個人が存在していることを前提にして求道
を始めるのであるが、大乗では先ずそれが誤りであることを知ることが
出発点になるということだ。
「個」が浄化されて行って普遍的なものと合一するのではないのだ。
これが解らなければ大乗仏教の道に入ることは出来ないと言ってよい。 >>386
あなたが小乗仏教だと思っている、その仏教で修行している人たちが
修道の過程でなにを経験するかというと、その個人の自我がもともと
虚構であることを知るんですよ。
しかも、概念智としてではなく、体験智としてね。 >>381
>本物の宗教体験のあった僧侶・学者
いつもの、中論を読んで悟ったと言ってる人でしょう。
脳内仏教乙。 >>387
>修道の過程でなにを経験するかというと、その個人の自我がもともと
>虚構であることを知るんですよ。
君も、「修行を続けていけば、いつか自分もそうなれる それも体験智で」
と思っているのでしょう。
それが間違いなのです。だから原始仏教・部派仏教は印度で衰退して行ったのです。
>>388
頭は大丈夫かな?
仏教の入門書しか読んだことがないの? 五蘊であるところの自己は無我であって、もともと執着の対象ではないのだから
>>386 の批評は的外れ。
頭で考えた「僕の仏教」でしかない。 >>390
そのまま求道を続けて行っても、晩年に後悔することになりますよ。
世親(天親)が舌を切ろうとした逸話でも調べて、よく勉強することが大切です。 キリスト教もスピも仏教も一緒やな
必ずエゴエゴの魔境を生んどる >>392
それはまったく間違いなのだよ。
日蓮上人があれだけ他宗を強く批判したのも、自らが歩んだ道によって
必ず人々が救われるという自信と信念があったからなのだ。
だから、宗教者たちが自分の宗教が正しいと言って論争するのは何も間違っては
いないのだよ。それが個人のエゴに見えるのは、宗教体験を知らずに宗教が道徳
の完成か何かと勘違いしている人間だけなのです。 例えば、妄想で相手の言ってることミスリードしても気付かん酷い人とか >>394
ミスリードの正しい意味を勉強しましょう。 今日の宗教体験君ID:1gimmpbw
ID:1gimmpbw = ID:TOO7PAXW = ID:Az3RXDm4 = ID:JcRcwyY5 = ID:w1z4XHAj = ID:aZ3g0Hx0 = ID:49hBLwAk
宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
パン君よりもコミュニケーション能力が有りませんのでご注意を。 魔境って基本的に教条主義だけど、エゴの都合の良い解釈を教条主義的に扱うんだな
だから、自分の発言のコピペになる
相手が誰かとか、何について話し合っとるか、
とかどうでもよいわけだ
ただエゴエゴ教条のbotと化すわけだな 真実は一つなのだから、いつも同じことを言うのは当然なのだ。
宗教体験のない者は核となるものを持っておらず頭で考えたことを
言うしかないので、いつも言うことがコロコロと変わるのだ。 第十八章 我に関する考察
もし諸蘊が我であるのならば、生滅あるものとなるだろう。
もし諸蘊とは異なるのなら、蘊の特質は無であることになる。
我が有るわけではないのに、我所が一体どうして有るだろうか。
我と我所とが寂滅するが故に、我執と我所執も滅するのである。
我執と我所執を欠いているもの、それもまた存在しない。
我執と我所収は無いと見る者、彼はまた何も見ていない。
内部でも外部でも、我と我所執が尽きているならば、
取は滅するだろう。それが尽きることで生も尽きることとなる。
業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別による。
それらは戯論より派生するが、空性によりそれは滅することとなる。
我であるとも増益されるし、無我であるとも説かれている。
諸仏たちは我と無我とのいづれもが無いと説かれている。
語られるべきものは消滅している。心の活動領域が退けられているからである。
不生不滅であることが、法性なのであり、涅槃に等しいものであるからである。
すべてのものは正しく、また、正しくなく、正しく正しくなく、
そして、正しくなく正しくなくない。これが諸仏の教えである。
他によって知られず、寂滅しており、戯論によって戯論されず、
無分別であり、別異なる対象ではないもの、それが実義の特質である。
何らかのものを縁として起こっているもの、それはまずそれ自身ではない。
更にはそれとは異なるものでもないが故に、それ故に不断・不常なのである。
同一の対象でもなく、別異なる対象でもなく、不断にして不滅なるもの、
これが世間の救い主である仏たちの教えの甘露である。
正等覚が未だ出現しておらず、声聞たちが既に滅している時でさえ、
独覚たちは智慧を師によらずとも生じるのである。
https://www.mmba.jp/archives/17129
中論によると煩悩や業は空性であり、第二十四章をも踏まえると世俗諦ということになるのだろうが、
仏性や如来蔵は空性なのだろうか?彼岸に行ったら捨てられる筏に過ぎないのだろうか? >>373
認識する主体をプルシャという
心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たるプルシャは自己本来の態にとどまることになる。
ヨーガとは心の働きを止滅することである。
(ヨガスートラ1-3) 真我 と 智慧 #ニサルガダッタ・マハラジ
真我を忘れることが暗闇なのだ。
真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
それは不自然なことではない。
しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧があるのだ。 >>402
プルシャと呼ばれるものは、ブラフマンと同一化されているのですか? >>405
404です。
ブログ教えて頂きありがとうございました。
勉強になります。 無我説ではなく非我説をとる人についてスマナサーラさんは
「要するに彼らは『仏陀は我がないとは言っていない』と言いたいのですね。
子供の言いがかりのように感じます。
これは彼らが『無い』ということの難しさを理解していないからです」
と仰っています。 存在する全ては「意識」だ。
それは現象が生じてくる「源泉(Source)」だ。
個人の意志ゆえに起こることは何もない。
神の意志でなければ何事も起こりえない。
そして、私がここで「神」と言うのは「源泉」を意味している。
まず第一に、存在する全ては「源泉」だ。
「意識」と呼んでも、ラマナ・マハルシの言うように「真我」と呼んでも、あなたの好きなよう呼んで構わない。
それが意味しているのは、一つの源泉=二番目のない一なるものだ。
(ラメッシ・バルセカール) >>407
仏教の無我説は本来、「非我」であり、
元々は「アートマンは無い」などということではなかったことが仏教学的な事実として判明しています。
その意味を変色させたのは部派であったことも知られていることです。
残念ながら、ゴータマの教えに近いと評価されている現存する南方仏教とて部派の生き残り(継承)に過ぎません。
『仏教は無我説を立てることで有名であるが、その思想内容は歴史的にかなりな変遷がある。それにともない「諸法無我」の解釈
にも変化がみられる。
無我説の始まりは、最古層の経典の執着するな、わがものという観念をすてよという教えにある。初期の無我説は、「我は存在しな
い」ことを説くのではない。倫理主体としての真の我の確立は、むしろ積極的に求められていた。
「常に思念をたもち、自己に関する誤った見解を捨てて、世界を空なるものとして観よ。そうすれば、死を超越したものとなるであ
ろう。このように世界を考察するものは、死神には見えない。」(Sn.1119.)
無我説はこのように、我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教えから始まる。当初の
「諸法無我」は、無執着の立場から、「すべての事物は我(自己)ではない」と説かれたものである。したがって、無我(我がない)
説というよりは非我(我ではない)説であった。』
(インド思想史略説) 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。 これは、「主語+述語」の
文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我 ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という
意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ
論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるもの
であることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。
ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな) これは、経典を作
りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(石飛道子ヴェブサイト『マニカナ掲示板過去ログ2739.』)
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm 五蘊無我。
五蘊はどこをとっても非我だから、五蘊は無我。
涅槃は五蘊じゃない。
おわり 学僧や学者さんの世界の話だよなぁ。
戒と定に支えられた、体験智としての慧がない。
立体データを言葉で表現しようとするから、文章が長いこと。 >>409-410
それらは言葉に捉われているからであって、結局は同じことなのですよ。
無我の「我」をどのように捉えるかということに過ぎないのですから。
アートマンを個人性のあるものとして捉えれば「否定」することになり、
個人性のないものとして捉えれば、真我として「肯定」することになります。
言葉の定義によって説明自体はどのようにも変えることが出来る訳です。
解脱の体験のない人が書いた宗教関係の書物を読んで勉強すると、初心者には
却って迷いのもとになることが多いですから注意が大切でしょう。 瞑想しない学者さんの言葉は概念智のみで、体験智の裏付けがまったくない。
全然ない。
びっくりすぐらいなんいもない。
すっからかん。
人間の思考の産物しかない。 >>413
いえ全然、同じじゃないですよ。
「アートマンは無い」などというゴータマが説きもしないことを頑なに信じ続けたインド仏教は、
バラモンたちにも、そして、大衆の庶民らにも相手されなくなって入信者が絶えて、遂に滅んだのです。
彼らは、これがブッダの教えだといって忠告の声に耳を傾けようとはしなかった。
>>411は正解ですが...。
>>414
確かにそうではあるけれども、
しかし、間違った信仰(迷信や洗脳)を打ち破るのは学問ということだと思います。
もちろん、自分自身がその境地まで体験すれば真実を確認できますけれど...。 >>415
同じなのですよ。
解脱の体験のない人だけが言葉の違いに捉われてしまうのです。
宗教は体験であって概念を整理して分かったつもりになることではありません。
日本仏教の中でも、体験がない人は禅宗も浄土真宗も日蓮宗も別々の宗教だと
思ってしまいますが、体験があれば同じ仏教であることがわかるのです。 シャンカラが説いたことは、仏教的です。
シャンカラは、「仮面の仏教徒」と言われていたくらいです。
歪んで伝承されていた仏教を、シャンカラは、ヒンドゥにおいて是正したとみなすこともできます。
仏教に、ヒンドゥ(アドヴァイタ)やヨーガを取り入れることは、真っ当であると思います。
真我を仮にでも認めないから、他の宗教と相入れなくなる。
「諸法無我」の文言を額面通りに受け止め過ぎ。
究極の答えにたどるための、方便としての真我は実際は有益。
後世の大乗仏教は、真我を取り入れているのですが、
テーラワーダも真我を認め、取り入れる必要があります。
そうすれば、「テーラワーダだけが正しい」みたいなドグマなことは言わなくなるでしょう。
これだけでも「健全」になります。
伝承されたパーリとかアビダンマだけ云々とするのは、
原理主義的過ぎるように思います。
http://blog.livedoor.jp/yururinn/archives/12402535.html >>417
そのサイトの人も解脱の体験がないので言葉に捉われているのですね。
>「諸法無我」の文言を額面通りに受け止め過ぎ。
というところも全くわかっていない証拠です。
なぜなら、「「諸法無我」と言った時点で、そう言った主体があることが
表れているるからです。「認識主体もない」などと言う場合も同じです。
「認識主体もない」と言っている者がいるのですから。 >>418
諸法無我の文言を額面通りに受け止め過ぎ
ているのは
テーラワーダの人というのがそのサイトの人の主張でしょ >>419
そのサイトの人自身が
「テーラワーダは、いきなりゴールのニルヴァーナを目指します。
途中経過としての真我は否定しています。しかし、実際問題として、
途中経過としての真我は必要だと思います。」と書いてあるでしょう。
「真我」という言葉にとらわれているのです。
「我」の定義によって「真我」の意味はどのようにでも変わります。
表現に捉われているのはテーラワーダの人々もそのサイトの人も同じです。 >>420
あなたは逆にもう少し言葉に対して慎重になった方が良い
サイトの人の
「実際問題として」
「真我を仮にでも認めないから、他の宗教と相入れなくなる」
「方便としての真我は実に有益」
をスルーして自分の価値観だけで我というものは言葉の定義だけでうんちゃら言っても仕方ない
サイトの人は一般論として言ってるわけだから
「結局、仏教は他の勢力によって滅ぼされたのではない。仏教はインドの風土に合うことなく自然死していったのだ」
「ジャイナ教は賢明にもこの点でヒンズー教に妥協した。インド哲学の主流である有の哲学の立場をとり、
インドの現状を認めカースト制度を認めた。賢明にもインドの伝統的、支配的な風潮と妥協した」
ジャワハルラール・ネルー(インド初代首相)「インドの発見」より
http://i.imgur.com/lWm9FIq.jpg
「ネルー氏は何も体験がないからそんなことが言えるのです」とか言うのならどうぞご勝手に >>421
そこに書かれているネルー氏の説明は別に間違っているとは思いませんが、宗教の本質には
関係のないコメントでしょう。仏教がインドに残ることが良かったとは限らないのですから。
より合った土壌に渡って深化・発展することの方が後世の人類のためには良いことだったと
言えるでしょう。 >>422
>より合った土壌に渡って深化・発展することの方が後世の人類のためには良いことだったと
>言えるでしょう。
その深化・発展はまず真我に変わるような土着の精霊を受け入れたり
儒教の先祖崇拝と結びつけて霊魂の存在を認めたりしたからあり得たこと
在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1244.html?sp
だから実際問題として方便として真我やそれに類するものを取り入れた方が深化・発展のためにも有益なんだよ >>423
>方便として真我やそれに類するものを取り入れた方が深化・発展のためにも有益なんだよ
あなたは「(方便としての?)真我」を取り入れて悟りを開いたのですか?
そうでないのなら、すべて想像(妄想)の話になってしまうでしょう。
藤山みどり ? そんな仏教の素人が頭で考えたものを読んでいても本当のことは何も
わかりませんよ。 >>424
論点が完全にずれている
もう一度>>423を読み返して下さいな
特に
>在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから
の意味を汲んで読み返してくださいな
それでも分からなかったら
「瑩山紹瑾が現れなかったら曹洞宗は廃れていた可能性が非常に高いと言われている」
と書けば分かるかな
道元の悟りとか教えの問題じゃないんだよ >>425
宗教の本質を考える場合は、論点がずれているのはあなたの方なのです。
あなたの関心は料理のメニューのようなもので、それでは何の栄養にもならないのです。
「在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから」などと言っても、私は禅宗でも浄土真宗でも
見性したり救われたりした在家の人をたくさん知っています。その比率は昔とそれほど変わらない
と思っています。
世間的なデータなどに意味はありません。創価学会や幸福の科学の信者が増えたからと言って、
そこに何か宗教的な意味があると考える愚か者はいないでしょう。それらは社会現象の問題であって
宗教の本質とは何の関係もないのです。
曹洞宗についても、瑩山紹瑾禅師のおかげで悟りを得る弟子が増えた訳ではありません。信者や檀家が
増えただけのことです。宗教的本質だけを考えるなら日本曹洞宗(道元禅)は「正法眼蔵」だけで十分
なのです。 >>426
瑩山紹瑾がいなければその正法眼蔵も日の目を見ることがなく
今日君が正法眼蔵を目にしてたかどうかも怪しい
そういうことを言っている >>427
瑩山紹瑾禅師が出ようが出まいが「正法眼蔵」の宝石のような輝きには何の変わりもないのです。
心ある人々に読み継がれて、やがて八百五十年後に私の手元まで来て私に身心脱落の体験を与えて
くれたことに変わりはなかったでしょう。
宗教というものは本質だけを見なければいけません。周辺の非本質的なことがらに惑わされるなら、
単なる宗教文化のお勉強で終わってしまい、貴重な人生を無駄にしてしまうことになるでしょう。 ↑ >>427 の訂正
八百五十年後 (×)
八百年後 (○) ブラフマンがどんなものか口では言えないのだ。
塩人間が海の深さを測りに行った。どれほど水があるのか報告するつもりだった。
でも報告することができなかった。海に入ったとたんにとけてしまったから。
−いったい、誰が海の深さを知らせることができるかね?
(ラーマクリシュナ)
http://fuu-nirvaana.blogspot.jp/2010/01/blog-post_07.html?m=1
塩人間とはアートマンのことで
とけてしまったというのはブラフマンと合一した
という解釈でいいのかな? 頭で考えた概念は、ぜんぶ違う。
言葉で表現されたものは、ぜんぶ思考概念になってしまう。
「それ」じゃない。 >>433
>頭で考えた概念は、ぜんぶ違う。
これも頭で考えた概念で言葉で表現されたものだから真ではない おれ 「思考概念はすべて思考概念に過ぎない。」
お前 「同意。」
↑お前が言ってるのはコレ >>435
違う、>>433に書いてあることは頭で考え出され言葉で表現されたものだから
単に思考概念であって真理や真実ではないと言っている。 >>433
もう少し分別智である言葉を大切にした方が良いと思う
特に言葉によって成り立っている掲示板のようにコミュニティに参加している以上は
言霊はオカルトかもしれないが信じている人には効果はあると思うし
羽生結弦はアファメーションしてから本番に臨むことで有名
https://grong.jp/blog/about-affirmation >最初に苦を観察しない者は個我をアートマンじゃと間違ってみているのじゃ。
>だから苦があるのじゃ。
>苦を観察して個我はアートマンではないと気付けば苦はなくなるのじゃ。
>間違ったアートマンの使い方を否定しているのじゃ。
鬼和尚のこの理解は正しい。
ゴータマは(六師外道や唯物論についての)間違いはキッパリと否定されるが、
アートマンについては否定していない。
そう、これもその通りです。 これまで時折、拝見してきたところでは
鬼和尚の見解がこの私と特に異なることは今まで何もなかった。
だから、鬼和尚だけに聞くのもよし。
私にも聞くのもよし。
私からなら、またもう少し違う話もできるかもしれないし...。 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。
(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁)
wwwwwwwwwwwwww >>442
あのね...
この私は、パーピマンを相手するために投稿したわけじゃないから。
私は忙しいのwww
それ鬼の首を捕ったつもりの経文提示だけども、
まっ、それらの現代語訳は翻訳が下手なのだと思うね。
本来の非我の教えを訳が悪いとそのようにアートマン否定意として書くのです。
その証拠に今だにそういう訳語調を好んで提示する学者などは、もう殆どいないから。
それと増谷氏は阿含経の研究は素晴らしいけれども、ただし残念ながら典型的な唯物論者。
そして、ダライラマはもちろん素晴らしい方だが、この方も南方的な間違った無我の教えを洗脳されて誤解してる。
つまり、あの一代と同じムジナということ。
当時のバラモン聖者はジーヴァ(魂)を永遠なるアートマンと勘違いしたのです。
それがゴータマが否定的に指摘した梵納経の内容なのです。
まっ、パーピマンにはジーヴァ(魂)とアートマンの違いも理解できないし、
所詮、唯物論者にとってはどちらも無いものとしては同じ扱いでしょうから(笑)
「唯物論」についてはゴータマは明確に否定しており、それは最も低い見解だと説いたにも関わらずです。
パーピマンとの対話は、
以上にてお・わ・りです
たのむから、もう、邪魔しないでくれる?
悪いけれども、この後はスルーさせて頂くから。
もし、対話したくてウズウズしてるなら、他の相手を見つけてくれ!! >そして、ダライラマはもちろん素晴らしい方だが、この方も南方的な間違った無我>の教えを洗脳されて誤解してる。
wwwwwwwwwwwwww
宝珠の見解は、ダライラマを超えているそうだw
ありがたい、ありがたいw >しかし悟ればアートマンとブラフマンは一つで
>あったと知れるのじゃ。
>本来別の法であったものも悟った後には一つと
>知れるだけなのじゃ。
バカ鬼のレベルが分かるだろw バカ鬼は、「釈迦はブラフマンに至る道を説いた」と言っている。
そして、「ブラフマンは空と訳すべきかの」と言っている。
頭ピヨピヨのデパスマンだよwww >>444
くぅ〜〜〜
たくっ、もう一言だけ相手しておくわ。
この私がダライラマより上なんじゃなくてw
つまり、あのですね...
仏教者の多くというのは「縁起」と永遠性の、
要するに、「恒久」「不死」「永遠」「永久」「永劫」「不滅」...
といったものとの関係についての理解を失敗してるのです。
だから、「仏性」を説いて如来蔵思想を展開するに至ったヒンドゥー化の大乗と
南方仏教の説く縁起とは矛盾するものとして混乱してるのです。
これは数百、いや無我の間違いと同じく二千年来、こうしてずーと混乱を続けてるのです。
ハテ、理解に悩む平均的仏教徒らは、果たして「縁起と仏性」のどちらの方を最終的に選択するでしょうかね?????
しかし、混乱しない私のような者は、
この関係をまったく矛盾しないものと知るのです。
矛盾してるのは彼らの勝手です。ダライラマも然り。
はい、最後です。 >>445-446
むしろ、仏教者の中にこれだけ分かってる人がいることの方が驚きです。
わたしには...。
大抵はだんだん嫌気が差してきて、
仏教枠からは自ら出ていきますからね(笑)。
まっ、
内容が伴っていればすべて仏教扱いとする鬼和尚ですから、
それは当然といえば当然のことです。
私は、ゴールは仏教でなくても他の宗教からでも可能と言うことが多い....。
もちろん、和尚のようにいうこともある。
ゴータマは元々、「これから仏教を説く」などとは教えてなかったでしょうからね。 宝珠さん、パチパチパチパチ
そのとおりであります。
応援してまっせー(´・ω・`)
あとコピペして天空寺に貼るわ。よろぴこー 宝珠さんは悟った方なのですか?
どのような方なのですか?
煽りではありません
どのような方がそういう理解に至っているのかお聞きしたいのです >>450
仏教徒たちの話をみていると、
“悟った”という云い方についても間違った使われ方があまりにも多いのです。
よく上げられる事例として、「コンダンニャが悟った!」などという時というのは、
実際には、何か一つの事柄や事象の関する疑問を解消したことを示すものに過ぎません。
本来の意味での悟りというのは完全解脱のこと。
輪廻を脱してニルヴァーナ(涅槃)に到達し、修行を完成したことをいうのです。
智慧が生じて一切智者であるところの生ける如来となった時に、初めて人は“悟った”ということになる。
私は生まれついての霊的思考者であり、
小学低学年からすでに誰に教わることもなく自力で思索して、
人間の意識(命)は不死であり、そして、後に知ることとなる仏教の説く業報輪廻を真実だと見なしていました。
また、誰からも教わることなく瞑想の習慣を持ちました。
なので小学低学年の頃から私の基本的な理解は何ら変わっていません。
自然内的な自覚としてはそれだけです。私のレベルなど全然低いです。
私が仏教(原始経典と密教)と出逢ったのは、18歳頃のことですでに35年になり、
間もなくして、すぐにヒンドゥー・ヨーガを学び、その後は近代神智学へと傾倒。
現在は真言宗の不動尊信仰を日常としつつ、ババジ直系列でパラマハンサ・ヨガナンダ指導のクリヤ・ヨーガ、
そして、アリス・ベイリー派の神智学を学びつつ、ベンジャミン・クレームの運動を支持しています。 >>448
そうですか。
私から観たバカ鬼は余りににも酷くてね。
ありゃ精神を病んでますよ? >>446
>>452
こりてないなあ・・・ジャンキー君。 >>451
悟りの定義などお話にあることはわかるつもりです
ところで仏教以外もお詳しいようですが、
鬼和尚さんがマハラジの弟子のラメッシやダンテスダイジ、非二元の教師あたりを悟ってない(完全解脱してない)と言っていましたが、それに関してはどういうご意見ですか?
聞いてないですがヨガナンダやアリスベイリーなども悟ってないと言いそうな気がします。
ちなみに宝珠さんはババジをどういう存在だとみなされているのですか?
悟った存在ですか? よく話にあるように時空を超えて出現したりできる存在ですか? >>454
鬼和尚のリカちゃん人形かもな。
宝珠を乗せるネタがでてこん。 >>454
ババジは恐ろしく驚異的な存在です。神智学においては悟りを開いた者(覚者)の意識レベルを進化段階における第五段階イニシ
エートと評しますけれども、この方は他の天体から来られたアヴァターであり、その進化段階は第八段階以上です。ババジはこの
惑星を支えるロゴス的な役割をされていて、現在の青年の姿のままヒマラヤ山中において変わらず数千年の不老不死の肉体を保持
しており、更にこのまま数十万年この惑星に留まる決意をされています。もちろん自ら時空を超えて肉体の現出消滅や瞬間移動な
ど意のままです。ヨガナンダ著には、ババジがヒマラヤの断崖絶壁から飛び降りて死んだ男を瞬時に蘇らせた出来事などが紹介さ
れています。
ヨガナンダはババジの直弟子ラヒリマハサヤのそのまた直弟子スリ・ユクテスワの直弟子であり、彼らはすべてアヴァター(基本
的に五段階以上のイニシエート)存在です。ヨガナンダはババジ直伝のクリヤ・ヨーガを欧米に伝える使命を全うして、若くして自
ら肉体を脱ぎ捨てました。そのマハー・サーマディの脅威の奇跡は彼の死後の肉体も腐敗することのない不朽現象を示して、その偉
大なる死に対してインド政府より記念切手が発行されました。ヨガナンダのこの驚異の境涯は昨年、この日本でも映画が上映されて
います。
アリス・ベイリーはチベット人/ジュアルクール覚者の弟子でその教えを著した3.2段階のイニシエートでした。仏教的にいえば
阿那含(不還向)に近いあたりでしょう。マハラジ系列というのは、まだまだ覚者の域ではないと私は思います。
私自身は、これまで完成者からの本物の教えを求め続けて歩んできました。それが結果的に宗教の何教であるか?といったカテゴ
リやレッテルなどは実際、どうでもいいこと。
映画「永遠のヨギー 〜ヨガをめぐる奇跡の旅〜」
http://yogi-movie.com/index.html >>456
それはすべて妄想・魔境の世界ですね。
そのようなことに興味が向くということ自体が宗教の本質がわかっていない証拠です。 無我なのか真我なのか非我なのか、
さてまたアートマンとかブラフマンとかなんとかかんとか。
それらは全て、単なる言葉遊びに過ぎないことに気付いてこそ、
初めて、スタートラインに立つことになる。
それまでは迷路をうろうろしながら毎日を送るのみ。 >>456
454ですが、自分も宝珠さんほどではないですがババジやヨガナンダ、アリスベイリーや神智学の本も読んだことありますので、
そういう知識的なことはある程度知っています。
もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが文面から伺えるのでそれで納得します。
ありがとうございました。
ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、
ヨガナンダ本人を知っているわけでもないですしわかりません。
ちなみに自分は鬼和尚さんは好きですし疑問に思うこともありますが基本的に納得しています。 とりあえず、アートマンは我や真我ではない。
アートマンは決して認識できない。
と鬼和尚が言うとった(´・ω・`) >>460
認識できない認識主体をアートマンと呼び、漢訳では真我と訳しただけの話だよ。 宝珠のコテで、最近読んだ本で行き当った。
http://www.k-jz.com/price/9784864030038.html
稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)
宝珠は伏見稲荷の密教の伝統を受け継いでいるのであった・・・・・。
宝珠は大きい狐。 やっと、宝珠とやり取りできるネタを手にいれた、伏見稲荷。
しかし、野狐の霊が憑いて騙しに来るとか。
伏見稲荷に行ったことはねえが。
伏見稲荷のお山に登る根性が出ねえ笑。
宝珠と、やり取りする付き合い程度だな。 >>459
>そういう知識的なことはある程度知っています。
了解。
>もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが
私は自分なりの見解というものも持っていますが(そして、それをとても大切にしている)、
けれども、大部分においては神智学の特にベイリー著とクレーム著、
そして、クレーム氏の師である覚者から提供された情報をとても信頼しています。
なので特に異なった個人的な見解でない場合には、そのまま学んでいる教えと情報に対して私も同意しているということです。
クレーム氏の師である覚者から提供されたイニシエートたちの進化段階の公表についていえば、
これまで私自身の評価する殆ど想定通りそのままのものばかりが発表されてきたので、これについてはとても信頼しています。
尚、ただし当初において少しだけ面食らったのは空海の進化段階2.0についてでした。
真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。
それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。
>ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、
クレーム氏もごく一部についてですが、あまり評価しない部分を持っていたような気がします。
ただし、アヴァターというのは意図的に不可解なところや未成熟な印象を態と演じている場合などもあるので難しいところです。
そもそも人間の人生における霊的歩みの模範を演じているのがアヴァターですから。
そのために敢えて受肉し公衆の中で生きているということ。
また、仮にもしヨガナンダが五段階のレベルだったとするならば、
仏教の開祖、ゴータマ王子の肉体を通して働かれたシャンパラのブッダの八段階と比較するならば、
そのレベルの違いは歴然です。 >>454
>非二元の教師あたり
これは近年〜現代だとどういう教師たちがいるのでしょう?
さすがに新しめの情報にはちょっと疎いかもしれません。
私がとても強く認めているのはラマナ・マハルシです。
神智学協会が見出した元世界教師の器だったクリシュナムルティは4.0段階でしたね。
私もまだ覚者には至ってないものと見てましたから、これはまさに想定通りの進化段階でした。 >>466-467
ハテ?私のこと?
それとも、狐が加える玉(摩尼宝珠)のことかな?
確かに私のハンドルネームは「マニ宝珠」「チンター・マニ」からきてるが...。
まっ、稲荷には関心ない。
というよりは、むしろ意識的に全く関わらないようにしてる。
参拝もしないし、無視です。 あと...時間とれたら、
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