524-547 名無し さん

>>515
>私の心臓も、肺臓も、何も考えずに働いております。

心臓も肺臓もそうなのかも知れませんが、貴方はどうでしょうか?「(これらは)何も考えずに働いている」とは、一体何方のお考えなんでしょうね。

南岳磨甎と言うお話があります。
何の為に坐禅に打ち込んでるのか、とお師匠の南岳懐譲禅師に問われて 弟子である馬祖道一は「仏に成る為です」 と頓珍漢を言います。この時、道一さんはまだ、坐禅の意味も仏とは何かも分かってませんから無理もありません。

それを聞いたお師匠懐譲禅師は、やおら足元に転がってた礫で近場にあった瓦を擦りだします。

突然お師匠さん、意味不明な行動をおっぱじめだし、道一さんは気になって気になって坐禅どころじゃなくなります。道一さんはその師匠に、「何をなされてるんですか?」と。

お師匠は「この瓦をこの礫で磨いて鏡をつくるのじゃ」と。

道一さんは言います、「瓦を磨いても鏡にはなりません」と。

この時点で両者、鏡とは何か、瓦とは何かがハッキリ分かってる会話なんです、それを踏まえてお師匠さん、「では坐禅をして何故仏になれると言えるのかな?」と。瓦と鏡とが何かを道一は知ってても、仏も坐禅も意味が分かってない道一を礫と瓦を使って指摘する訳です。
そしてお師匠さんは、牛車を例にして教示されます。
「牛車が窪みに嵌って動けなくなった時、お前は車輪を鞭打つか、それとも牛を鞭打つか?」
牛車に窪み脱出の為の力を動力源である牛からしぼりだすには、車輪と牛のどちらに鞭打つべきかと言う問いです。
お師匠は道一が思い行っているその坐禅は、まるでこの例えのなかの車輪に鞭を振るってるのと同じだと教示されてる訳です。
これを聞いた道一さんは途端に見性されます。

坐禅は作仏に非ず習禅にも非ず。
「わからない」と思うのも一旦やめてみましょう。坐って落ち着くのも大事な所作なんですから。

>>543
馬祖道一禅師のお師匠さんが南岳懐譲禅師ですよ。
南泉普願禅師は馬祖道一禅師の「お弟子さん」w

瓦を礫で擦って道一さんに教えたのが南岳懐譲禅師です。 』

この公案は、分別しない、唯嫌揀択(ただけんじゃくをきらう)の真理さとり、である、と受け取っています。