カトリック [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
フライデーに噛み付いていた91年は、実は教団内部も混乱していました。
教団は、猛烈な抗議で講談社の電話回線をパンクさせた、笑い話のようですが、実はその裏で教団には、電話回線がパンクするほどのクレームが寄せられていたのです。
その原因は、出鱈目な伝道(信者獲得)が横行したことです。
総裁が信者100万人を目指せといったものの、そう簡単には集まらない。
そこで職員たちは同窓会名簿や電話帳を丸写しして、どんどん会員登録していったのです。
そこへ教団の雑誌の購読申し込み書を送れば、「入会した覚えはない」というクレームが山と寄せられるのは当然の流れです。
その上この時期、教団は全国に支部を次々と開設していました。
ところが、信者獲得は出鱈目で会員は増えていませんから、教団に入るお金も変わらない。
年末までに100億必要なのに、全く足らない。
このままでは資金ショートする、と教団幹部は真っ青になった。
で、教団が8000人ほどのコアな信者たちに頭を下げて貸付金を募ったのです。
すると、すぐに100億近い金が集まった。
これはやっぱり宗教のすごいところですが、振り返れば、教団の歴史は混乱とドタバタの連続でした。
そして少しずつ歯車が噛みあわなくなっていったのです。
幸福の科学という宗教団体も、私と総裁の夫婦関係も−。
http://spiruna.blog89.fc2.com/blog-entry-670.html
老クリスチャン
東京神学大学大学院修了 神学修士(聖書神学専攻)
東京神学大学>>>>>>越えられない壁>>>>>>上智大学神学部
◎
∧_,,∧ ∩
(*`∀´)彡 老クリスチャン万歳!老クリスチャン万歳!
◎⊂彡
トラマンホスチア
http://www.coara.or.jp/~trappist/image06/hostia_02.jpg 老クリスチャン先生万歳
288: 老クリスチャン [] 2016/11/23(水) 10:12:31.22 ID:+JhiMk8m
【信仰とは @】
私たちは主日のミサの中で、説教の後に一同で起立して、必ず 「信仰宣言」 を唱和します。
カトリック教会では、永らく幼児洗礼が入信の通常の形であって、多くの信者が (いわば) 生まれながらのカトリック信徒でありました。
成長して学齢に達する頃に、簡単なカテケージスの後に堅信の秘跡を受けて、ミサで聖体を拝領するようになったのです。
彼らにとって 「信仰宣言」 は、いつものミサで唱える決まり文句に過ぎず、改めて自覚的に 「信仰」 というものを深く考え、反省するというような人は、滅多にいませんでした。
初めてカトリック教会の門をたたく成人が、これから信仰を持ちたいと思うとき、しばらくすると、先輩のカトリック信徒からはほとんど何も学ぶことが出来ないことに気づくようになります。
彼らは 「信仰宣言」 の旗印の下に、同じ一つの信仰を守って結束している共同体ではなくて、ただのカトリック的文化を共有する (建前上) 善意の人々の、寄り集まりに過ぎないと気づくからです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542/288 55: 老クリスチャン [sage] 2016/06/08(水) 17:38:08.16 ID:ygB0Q/ht
今年の 「聖書講義」 に、<2016-3> を追加しました。
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
特にプロテスタントの方々は、かなり抵抗感を持たれると思いますが、
2.カトリック教会の形成
で私が述べている問題提起について、ぜひ皆様の異論・反論を聞かせていただければ幸いです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1461572046/55 66: 老クリスチャン [] 2016/06/23(木) 12:41:31.63 ID:l+8bV7Sc
今年の 「聖書講義」 <2016-3> に、
4.初期カトリシズム
5.ユーカリスト(聖餐)の起源
を追加しました。
http://www.kuwaei2000.com/Study/2016/2016.html
この小論によって皆様が、教会の "生きた体験的な信仰の遺産" への理解を持ってくださることを期待します。
2ch の似非知識人たちが、聖書から機械的に読み取った記述に基づいて、"これが本来の方式だ" "これが正しい聖餐の意味だ" などと新奇な主張をしていることへの、健全な批判力を養うために ・ ・ ・ ・ ・
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1461572046/66 老クリスチャン先生みことば
49: 老クリスチャン [] 2017/03/09(木) 12:16:57.23 ID:aOVC5X+S
皆さん、とても素直に聖書を読んでいらっしやることが、素晴らしいと思います。
今年の四旬節が、ご一同にとって、恵み豊かな期節となりますように、
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1481540994/49 ■「カトリックは在特会よりも危険な団体である」by公安当局■
平成26年03月19日に、カトリックの反日活動が国会で取り上げられて、その際に国家公安委員長が答弁したのがこれな。
「これは、まず一般論として申し上げますけれども、やはり、諸外国からいろいろな対日の諸工作が仮にあったということで、
そういったことは、実は平素から相当我々も関心を持って、
警 察 が 必 要 な 情 報 は し っ か り 集 め て い ま す 。」
↑
ちゃんと情報収集して監視しているそうだwww
正平協よ震えて眠れ。
ちなみに同年10月24日に在特会の件が取り上げられたが、警察庁警備局長は
「(在特会は)いわゆる監視の対象ではありません」とキッパリ明言している。
本当にカトリックが在特会よりも「安全な」団体ならば、
「まず一般論として・・・」と回りくどい説明をせずに、
素直に「カトリックはいわゆる監視の対象ではありません」と明言してもよいはずだ。
そうじゃないということは、公安上の危険性は「カトリック>在特会」とみなされている何よりの証である。 なお国家公安委員長があえて回りくどい説明しているのは、
バチカン市国との外交問題になることと、バチカン当局そのものが反日活動を使嗾しているわけじゃないからな。
バチカン当局も日本のカトリックを警戒して、教皇選出で大きな役割を果たす枢機卿の任命をしていないからな。
大司教の岡田武夫なんか2010年の時点で枢機卿に任命されるとwktkしてたのに任命されないでやんのwww
教皇がなかなか訪日しないのも、パヨク化した日本のカトリックを増長させてはならないというバチカン当局の深謀遠慮からきている。
日本の正平協は好き勝手にやっているが、バチカンの目は節穴ではないぞ。 老クリスチャン先生きょうのみことば
2017年3月17日
http://hissi.org/read.php/psy/20170317/MzNkVG1vL3E.html?name=all&thread=all
♪
老クリスチャン先生万歳
♪
♪
♪ ♪
∧_∧
(#・∀・) /
( つ \○ ♪
/彡/(⌒) ))
\/_) . ̄ 老クリスチャン先生きょうのみことば
2017年3月18日
http://hissi.org/read.php/psy/20170318/U3FRaWFPa2E.html?name=all&thread=all
♪老クリスチャン万歳♪♪
♪ _ ♪ ∧∧, []
\`・-、、_ (゚∀゚ ) || ♪
∧∧ /\ `ヽ. ♪ .γ⌒ヽ つ
( ゚∀゚) / ♪\ ノ ∧∧ ゝ、_ ノu' ‡
|| ノ つΓT .∧,,∧ ̄`i ( ^o^ )、∧∧⊂ヽ ♪
||( 匚___⊥(* ゚Д゚)≠n=ョ (ョノlとノ(・ω・('┃ )
〓〓J=|| ヽ う~ノ' (@ノu' ( ⊃-)廾(
|| || || `u-u' `u-(, ┃ ) 【国際】ローマ法王、必要に応じて悪魔払い師(エクソシスト)を頼れ 司祭らに助言
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/●1489824727/
1: みつを ★ [sage] 2017/03/18(土) 17:12:07.34
http://www.afpbb.com/articles/-/3121921?act=all
【3月18日 AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王は17日、司祭らに対し、教区民から問題のあるざんげを聞かされた場合はちゅうちょせずに悪魔払い師(エクソシスト)を頼るよう助言した。
フランシスコ法王は、信者から罪の告白を聴く方法を司祭らに指導するためにローマ法王庁(バチカン)が行っている研修セミナーで、優れた聴罪司祭は特に「本当の霊障」に対処する必要がある場合はそのことを明敏に見抜かなければならないと説いた。
さらにフランシスコ法王は、心身の不調は超自然的なことを含め、さまざまな事柄に起因している恐れがあると示唆。そうした場合に聴罪司祭は「細心の注意を払った上で…エクソシストに頼ることをちゅうちょしてはならない」と述べた。
フランシスコ法王が悪魔払いの話をするのは今回が初めてではない。フランシスコ法王はこれまでの歴代法王よりも悪魔に言及することが多く、悪魔はこの世に存在するとの考えを明らかにしている。(c)AFP
2017/03/18 16:49(バチカン市国) 2008年(主日A年) 5月25日 キリストの聖体
申 8:2-3,14-16 Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
この 「主の口から出るすべての言葉」 とは、律法のことだと旧約のイスラエルは考えていました。
しかし 「キリストは、律法の終わり (テロス) となられた」(口語訳 ロマ 10:4) のです。
新共同訳聖書はこれを 「律法の目標」 と訳出し、フランシスコ会の聖書は訳注で 「律法を完成する」 と説明しています。
それは、ヨハネ福音書が 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 と、イエス・キリストの受肉の出来事を説明している通りです(1:14)。
この 「言」 を、フランシスコ会の聖書が 「御言葉」 と訳しているのは、示唆に富んでいます。
このようなわけで、私たち会衆が共にミサをささげるとき、「キリストは常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している」(典礼憲章 7) のであり、
そこでは御言葉となられたキリストが食され、心は恩恵に満たされて、神の国の民である共同体がその旅路の力を得るのです。
教皇ヨハネ・パウロ二世が回勅の中で、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です」 と語られたのは、ほんの7年前のことでした。
今年もキリストの聖体の祭日を祝う全世界の教会の上に、神が知恵と啓示との霊を与えて信者の心の目を開いてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 『老クリスチャンの長文コピペ』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視して見せる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望して見せる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。プロテスタントの歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリックを変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目にはファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンをだれも注意しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2014年(主日A年) 6月22日 キリストの聖体
申 8:2-3,14b-16a Iコリ 10:16〜17 ヨハ 6:51〜58
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 v.3)
世俗の人は、世の中から苦しみや飢えを無くすることが、人類の課題であると考えます。
少しだけ信心深い人は、そのためには “神の言葉” に耳を傾けることが有益であると主張します。
そこにある前提は、歴史を造り出すのは人類であるという理解です。
しかし聖書が語っている神は、御自分の民を苦しめ、飢えさせることも、そして人は神の言葉によって生きることを知らせるためにマナ (思いがけない出来事) を食べさせることもされる方であります。
神は歴史の主であって、御言葉によって世界は造られ、神の言葉によって歴史は導かれるのです(詩 33:6,9)。
しかもその歴史は、究極的には終末の裁きと神の国の完成に向かって行く救済史でありますから、「言葉を侮る者は滅ぼされ、戒めを敬う者は報われる」(箴 13:13) のです。
私たち教会が “共にミサをささげる共同体” であるということは、神の言葉を、神が与えられる苦しみや飢えと共に受けることであって、そのようにして歴史の完成者である “わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいる” のです。
「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25) キリストを忘れて(申 8:14a)、
人間が自分たちの能力と努力によって歴史に善い方向性を与えることが出来、その目的のために都合よく利用できるものが “神の言葉” であるなどと錯覚してはなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>31
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2005年(主日A年) 6月19日 年間第12主日
エレ 20:10〜13 ロマ 5:12〜15 マタ 10:26〜33
使徒たちや教師たちに語っておられる復活の主の宣教命令 (マタ 28:20) を、初代教会がいかに生き生きと聞いていたかを、私たちはこのテキストから理解します。
それは過去のイエスの説教の思い出ではなくて、現在の生きた語りかけであり、しかも語っておられる方は死者の中から復活して教会の宣教と共におられる天上のキリストだからです。
現代の私たちにとってと同様に、初代教会のキリスト者にとっても、十字架の福音は決して分かり易い常識的な教えではありませんでした。
キリストの救いは 「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Iコリ 1:23) でありますが、救われた人々の体験では、隠されているものを知り(マタ v.26)、暗闇で語られているものを聞く (マタ v.27) ようにして得た福音でありました。
神が受肉して人となり、私たちの罪のために死んで復活し、神の右に上げられてそこから聖霊を地上の教会に注ぎ、終わりの日の再臨を待っておられるという事実があればこそ、
「恐れるな」(マタ vv.28,31) という語りかけは今もキリストの福音の宣教者にとっての力強い慰めなのです。
私たちにとってキリストは伝説の人でも、伝説を元に書かれた小説の中の登場人物でもなくて、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙 1:4) であればこそ、私たち自らがキリストの側に立つかどうかが決定的な意味を持つのです。
そのような信仰的な決断を伴わない単なる慣習としての宗教、人生の節目を飾る偽りの気慰めとしての宗教行事が、いかに歴史の教会で容認されて来たかを私たちは知っています。
それは 「神のことばの食卓の富を豊かに与える」(典礼憲章 51) 務めを教会が怠って来たからでありました。
しかし主は生きておられます。
このキリストは 「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために (終末の日に) 現れてくださるのです。」(ヘブ 9:28)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 6月22日 年間第12主日
エレ 20:10〜13 ロマ 5:12〜15 マタ 10:26〜33
エレミヤの初期の預言は、エレ 7章 および 26章 に記録されています。
彼は先ず、当時の異教化し、迷信化した神殿中心の宗教に反対して、“ヤーウェに聞き従え” と叫びました。
そして続いて、ヤーウェは御自分の言葉に従わず、その呼びかけに答えないイスラエルの罪のゆえに、“この神殿はシロのようになり(滅ぼされ)、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる” と語ったのです。
エレミヤは、祭司と職業預言者たち、また民衆から大いなる迫害を受けました。
彼がどれほど悩み、さらに迫害者たちへの復讐をすら願ったことか。
その嘆きが、エレ 20:7-18 に残されているのです。
「確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだ」(エレ 26:15) と宣言するエレミヤは、自分の訴えをヤーウェにうち明け、ヤーウェに任せるしかありませんでした。
使徒たちから伝えられた勝利者キリストに関する福音を、現代の教会が語ることも、またそれに耳を傾けることもしていないという実態を、神はいつまでも見過ごされはしないことでしょう。
聖書と聖伝を通して私たちに語っている方は、神なのです。
教会の教導職や指導者たちだけではなくて、その会衆一同に向かって、“この御聖堂はシロのようになり(滅ぼされ)、そのミサは荒れ果てて、住む者もなくなる” と、神はエレミヤの言葉を用いて警告しておられます。
「一人の (アダムの) 罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の (キリストの) 正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」(ロマ 5:18)、
その 「一人の人イエス・キリストの恵みの賜物」(ロマ 5:15) が豊かに注がれることを願って、私たちは各自、心を改めて、自ら聖書に親しもうではありませんか(神の啓示に関する教義憲章 25 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2002年(主日A年) 6月30日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
主イエスが、お選びになった12弟子を派遣するに当たって語られた教えの最後の部分を、今朝私たちは聞かされています。
人はだれでも自分の父や母を大切に思い、自分の息子や娘を愛しているものです。
しかし使徒たちには、これらのもの以上に主を愛するという覚悟が要求されました。
「主よ、 ・・・・・ あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ 13:37) と叫んだペトロの言葉は、すべての使徒たちの思いでもあったに違いありません。
私たちキリスト者はだれでも、この思いを十分に理解することが出来ます。
しかしだからと言って、その生涯の中で実際に 「自分の十字架を担って主に従う」(マタ v.38) という、いわば極限状態に私たちが立たされるようなことは殆どありません。
しかしマタイ福音書はこの物語りを、主イエスが使徒たちに求められた特別な要求として、私たちに読まれることを期待していました。
現代のキリスト教会で、使徒たちの後継者である全世界の司教たちと、この司教たちに従属する各地の司祭たちとは、マタイ福音書によれば、この主イエスによる12弟子への要求と派遣の直接の対象となっている人々です。
“使徒” という名称そのものが “遣わされた者” という意味であるように、これら現代の司教たちと司祭たちも確かに主によって “遣わされた人々” であります。
ですから、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタ v.40) という言葉は、私たちの司教と司祭に当てはめて読むことが出来ます。
このように私たちの教区の司教および司祭たちは、実際に私たち信者にとって特別な人々であるのです。
主イエスは言われました。
「はっきり言っておく。 わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタ v.42)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2002年(主日A年) 6月30日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
主イエスが、お選びになった12弟子を派遣するに当たって語られた教えの最後の部分を、今朝私たちは聞かされています。
人はだれでも自分の父や母を大切に思い、自分の息子や娘を愛しているものです。
しかし使徒たちには、これらのもの以上に主を愛するという覚悟が要求されました。
「主よ、 ・・・・・ あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ 13:37) と叫んだペトロの言葉は、すべての使徒たちの思いでもあったに違いありません。
私たちキリスト者はだれでも、この思いを十分に理解することが出来ます。
しかしだからと言って、その生涯の中で実際に 「自分の十字架を担って主に従う」(マタ v.38) という、いわば極限状態に私たちが立たされるようなことは殆どありません。
しかしマタイ福音書はこの物語りを、主イエスが使徒たちに求められた特別な要求として、私たちに読まれることを期待していました。
現代のキリスト教会で、使徒たちの後継者である全世界の司教たちと、この司教たちに従属する各地の司祭たちとは、マタイ福音書によれば、この主イエスによる12弟子への要求と派遣の直接の対象となっている人々です。
“使徒” という名称そのものが “遣わされた者” という意味であるように、これら現代の司教たちと司祭たちも確かに主によって “遣わされた人々” であります。
ですから、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(マタ v.40) という言葉は、私たちの司教と司祭に当てはめて読むことが出来ます。
このように私たちの教区の司教および司祭たちは、実際に私たち信者にとって特別な人々であるのです。
主イエスは言われました。
「はっきり言っておく。 わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタ v.42)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 6月26日 年間第13主日
王下 4:8〜16 ロマ 6:3〜11 マタ 10:37〜42
「それともあなたがたは知らないのですか。 キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ vv.3-4)
使徒パウロは、これを信仰の事実として述べています。
それは出来事であって、決して一つの思想、一つの哲学ではありません。
洗礼を受けてキリスト者となった人は新しく生まれた人であって、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(コロ 3:3) のであり、
「秘められた計画」 に従って生きており(エフェ 1:8-14)、「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(Iペト 1:5)
この 「秘められた計画」 は神のものでありますから、神の怒りの下にあるこの世の歴史とは区別された、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」(Iテサ 1:10) 神の救済史に属しています。
キリストの福音は、この 「秘められた計画」 を啓示するものなのです(ロマ 16:25)。
そして神の救済史は、私たちの眼前にあるこの世の歴史よりももっと確かな現実であります。
「このように ・・・・・ 考えなさい」(ロマ v.11) と使徒は教え、それを彼は 「(使徒たちから) 伝えられた教えの規範」(ロマ 6:17) と呼びました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2002年(主日A年) 7月7日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10 ロマ 8:9〜13 マタ 11:25〜30
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタ v.25)
“これらのこと” という言葉が、マタイ福音書では非常に明瞭に 「御国の福音」(マタ 4:23) を指していることに、私たちは注目しなければなりません。
マタイ福音書は多くのイエスの教えを取り入れ、これを主題別にまとめているのですが、この教えの外側の枠をなしているものがこの 「御国の福音」 なのです。
この 「御国の福音」 こそが初代教会における使徒たちの宣教の内容であり、その後の各時代の教会の “教え” もまたこの使徒たちの宣教の枠の中に常に位置づけられて来ました。
“教え” は各時代の必要に応ずるために再解釈を繰り返されるものですが、それを入れる枠である 「御国の福音」 は永遠に変わることのないものなのです。
今朝の旧約と使徒書の日課は、この 「御国の福音」 を私たちが理解するための光であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 7月6日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10 ロマ 8:9〜13 マタ 11:25〜30
ゼカリヤ書9-14章 は、マカバイ時代のある敬虔な人によつて書き加えられた、半ば預言者的、半ば黙示文学的作品であると考えられています。
そこに描かれた平和を告げるメシアの映像が、キリストの預言として福音書の中で用いられました(マタ 21:5)。
そして、この方は再び来られます(ヘブ 9:28)。
キリストの霊が私たち現代の教会の内にも宿つているなら、使徒たちが宣教した福音の希望は今なお私たちの希望であり続けます。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:20-21)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 7月3日 年間第14主日
ゼカ 9:9〜10 ロマ 8:9〜13 マタ 11:25〜30
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ v.9)
私たち教会の子らは、神の御子イエス・キリストが私の主となってくださったことを信じているのです。
それは具体的には、御子イエスが私を罪と死と悪魔から贖ってくださり、私たちに復活の希望と神の国の約束を与えてくださったということです。
ロマ v.9 は、そのような信仰のことを言っているのです(ロマ 8:1-3参照)。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」(ロマ 10:14)
聖書を知らず聖書に親しんでいない人たちが説教を聞き、聖書を知らず聖書に親しんでいない司祭が “キリストの福音” ではなくて “自分の思想や意見” に熱弁をふるっているところでは、だれにも “キリストの霊を持っている” などということは起こり得ません。
歴史の教会は今日に至るまで常に、自分たちが “知恵ある者や賢い者” と “幼子のような者” のどちらに属しているかを、聖書によって問われて来ました。
テキスト前半の ゼカ v.9 は、福音書の受難物語りの冒頭でイエスがエルサレムに迎えられるところに引用されています。
キリストは罪と死と悪魔に勝利して神の教会を贖い取られた王であると、初代教会は宣教しました(使 20:28、黙 6;2, 19:16 参照)。
「あなたの王が来る。」
私たちが共にささげるミサの中で、「十字架につけられた者としてのイエス・キリストが目の前に描き出された」(ガラ 3:1/フランシスコ会訳) のではありませんか。
この勝利者である王キリストを見るために、主が私たち一人一人の傲慢と不信仰を打ち砕いて、幼子のような者にならせてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>1『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2002年(主日A年) 7月14日 年間第15主日
イザ 55:10〜11 ロマ 8:18〜23 マタ 13:1〜23
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。」(イザ v.11)
第二イザヤ (40〜55章) の結尾で歌われているこの イザ vv.10-11 は、“神のことば” には神の力が満ちていて、従ってやがて出来事となるのだという預言者の確信を述べています。
“神のことば” は、それが神から出たものでありますから、人間の過去の記憶のように次第に薄れて行くようなものではありません。
「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザ 40:8)
“神のことば” は、すなわち神の計画であるということが出来ます。
「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。 わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザ 46:10)
このような確信に第二イザヤが、イザヤ書全体が、さらに聖書全体が支えられていることを、私たちは今朝聞かされているのです。
その際、私たちが十分に心を留めるべきことが二つあります。
一つはそれが 「わたしの口から出るわたしの言葉」(イザ v.11) であることと、第二には 「それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザ v.11) ということです。
もちろんこの “わたし” とは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ 8:32) 父なる神であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 7月13日 年間第15主日
イザ 55:10〜11 ロマ 8:18〜23 マタ 13:1〜23
「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい。」(マタ vv.8-9)
私たちはここで、初代教会が、イエスのお言葉と譬えとを当時の変化していく状況に合わせて、再解釈したことを示す実例に出会います。
それは初代教会の説教であって、種が道ばたに落ちたとは、石だらけのところに蒔かれた種とは、茨の中に蒔かれた種とはどういう意味かを寓喩的 (allegorical) に説明することによって、教会の信者たちに警告を与え、また励ましました。
種を蒔く人もキリストであるとは限らない。
だれにせよ信仰深い説教者は、最後にはその働きから実が結ぶことを期待してよいのです。
恐らくイエスが最初に語られたときの譬えの主題は、“天の国は近づいた”(マタ 4:17) “神の国は来ている”(マタ 12:28) という “御国の福音”(マタ 4:23) でありました。
“既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている”(ヨハ 4:36) と、イエスは御自分の活動の意味を説明されたのでしょう。
教会の実際の歴史は、“しかし、すべての人が福音に従ったのではありません”(ロマ 10:16) というものでありますから、そのような状況の中でこの譬え話は再解釈されねばなりませんでした。
「天の国の秘密」(マタ v.11) が説教で語られているか、という説教者の資質の問題が早くから問われたように思われます(マタ vv.16-17)。
しかし今日のように、信者は自由に聖書を買い求めて読み、また自分の出席するミサでの説教だけではなくて、ほかにも注目すべき優秀な多くの神父たちの著書からも学ぶことが出来る時代になると、私たちは新しいイエスの呼びかけを聞くことになります。
あなたは “御国の福音” にとっての “良い土地” であるだろうかと。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
この励ーーッ!この励ーーッ!コノコノコノコノ ハゲハゲハゲハゲ ♪
\ ちがうだろ!ちがうだろ!ちーがーうーだーろーーっ! /
彡⌒ミ
♪ (´・ω・`) ♪
♪ _ ノ(__)> キュッキュ♪
彡 ⌒ ミ /.◎。/◎。/| 彡 ⌒ ミ 励まし励まし
(´・ω・`) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | (´・ω・`) ♪
(mYm_) | | ┌( ┴--っ
<二ニニニ二ア ヽ 彡 ⌒ ミ ⊂⊃ | [|U≡(=m□ ♪
].[~UJ~].[ ⊂´⊃(´・ω・`) / , .| `(_)(_)
| !⌒!!⌒!つ ,-=- ♪
.||,─、(⌒)─、 | |
( ○ )( ○ )||.|
/ `ー ´ `ー- /へ 2011年(主日A年) 7月10日 年間第15主日
イザ 55:10〜11 ロマ8:18〜23 マタ 13:1〜23
「被造物だけでなく、“霊” の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ロマ v.23)
“霊の初穂をいただいている” ということの大切さを、今日どれだけの信者が実感として理解しているでしょうか。
私たちカトリックの子らは、キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台であるという、カテキズム 1212,1285,1322 の教えを、よく味わいもせずに分かったことにして、卒業してしまってはなりません。
「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していない」(ロマ 8:9)、「聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」(エフ ェ1:14) ということの重大性を、司祭たち自身がどれだけ本気で信じ、また信者に教えて来たか、大いに怪しいのが事実なのです。
私たちは主日のミサにおける聖書朗読と説教で、また奉献文と交わりの儀で、本当に復活された天上のキリストにお会いし、生ける御言葉を聞いているのか、それともただ低俗な宗教心の満足を得ているだけなのかを問われているのではありませんか。
教会が今日に至るまで宣言し続けて来た 「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます」 という信条は、
あなたにとって本当に 「心の中でうめきながら待ち望んでいる」(ロマ v.23) 希望なのかと、天上のイエスはミサの中で私たち一人一人に問いかけておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,,..,,_
,. -''"´ `゙''-、
,." `ヽ
l l
l__ 、、、_ } { _、、 、__.l
{l〈 ヽ., --)-(-=- _ノ 〉!}
ヾ|  ̄ノ  ̄ |シ
r‐、,,、,,_ γ') l (、{,___,},.) l )
\ "'' { l\ :'ァ‐=‐ ト /:l ようこそ!
\,,__, -'''1 ヽ ヽニニノ\ / 老クリ(まむしの目と心)ワールドへ!!
ゝ-''"^''ー-,, \ /
\ ^' - ,, _ノ '-====-'ヽ
\: : : : . ^''ーy―-,,ノ;o;;ヘ,- ー―';ヽ,
\:: : :: /;;ヘ;ノ;;;ゝ;;、_;;;__;;;;ノ;;;;ヘ、__
^' ,: : : : :/:::::l;/;;;::::;:;:::::;;;:;:;;o;;/:, -' `ヽ
\::/::::::/:::;;;;:::::;;:::;:;:;;:;:;:;:;/ , ー―---
,'::::::::/::ヘ:::;;;:::;;:;:;;;;;;:;;;;;o:;/ . :: :: :: .
,';;;:::::,i::::::::;;;;:;;:;;;;;;:;:;;;;;;;;;;;/ :: :: :: :: :: :: , -、 ー- 、:: :: ::.... ... .
i:::::::/:::::::;;;;::::;;;:;;;;;;;;;;;;;;O;;l、:: :: :: :: :: γ ^"''ー――''
_,--'"~~~~~~~~`'ー-、_ _。--=''""~~`''ー--、_,,、_
r'~: : : : : : : : : : : : : : : : :~'v--=''""~: : : : : : : : : : : : : : : :~`ー-、_
|: : :●: : : : : : : : : :● : : : : `i: : : : : : : _。--=''""~~`ー--、__: : : : :~`ー-、__。--''"~~`'ー-、_。-ー--x、_
.[-───┬┬─────┤---''"" _。--=''"~~`''ー-、_ ~`''ー---、___。--''"~`'ー-、_。-'"~`ー-`:、__
| ││ .i^ _。--''" ~`''ー---、___。---''"~`'ー-、_。-'''"~~~^^" ̄
`ー、_ |ハ.| __r" ̄ ̄
 ̄`''ー---==--''"~ ,,,,,..ー彡彡ミミ))))ミノ、、、、
彡彡///ミミミ)))))))ノノ)))ヽ
//////ゞゞヾノノノノ//ノヾヽ
////////////゙ヾ、ノノノノ"~///ミミミミミミ
r//////////// ミミミヾ)))))
ノノノ///////// ミヾ)))))))))
ノノノノ////////,, _、 ミ)))))))))ノ
((////////// `ヽ i ; ,/ ヾノノノノノノ
ノノノ.((((/////ノ.;; __ \ ,, ,; ./ __ ノノ((((((ノヾ
ノノノ///////ノノ´、●ヽ, /●`ゝ ((ヾヾヾヾ)
((((((((((///.  ̄ ` .i |  ̄ |ヾヾミミヽ
((((((((((/ r.| .,,./ ;⌒`、 .|^/))))))))
((((((((((.\_| / ( ._ )\ |/)))))))))
((((ヾヾヾヾ .l .f ,,,-===.v===-、ヽ .iノノノノノノノ
λヾヾヾヾヾヽ l.`、.LlLlLlLlLl 7´.l ./ノノノノノノノ この、ハゲーーーっ!
((ノノノノノノノノ.ヽ ゝ ゝ 二二二ノ ./ ./ノノノノ
λヾヾヾ| ヽ\ /./ノノノノ
\\.| ヽ.ヽ、 ノ/ \
/ ヾヽ \```ー.´´/ \
この励ーーッ!この励ーーッ!コノコノコノコノ ハゲハゲハゲハゲ ♪
\ ちがうだろ!ちがうだろ!ちーがーうーだーろーーっ! /
彡⌒ミ
♪ (´・ω・`) ♪
♪ _ ノ(__)> キュッキュ♪
彡 ⌒ ミ /.◎。/◎。/| 彡 ⌒ ミ 励まし励まし
(´・ω・`) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | (´・ω・`) ♪
(mYm_) | | ┌( ┴--っ
<二ニニニ二ア ヽ 彡 ⌒ ミ ⊂⊃ | [|U≡(=m□ ♪
].[~UJ~].[ ⊂´⊃(´・ω・`) / , .| `(_)(_)
| !⌒!!⌒!つ ,-=- ♪
.||,─、(⌒)─、 | |
( ○ )( ○ )||.|
/ `ー ´ `ー- /へ
この励ーーッ!この励ーーッ!コノコノコノコノ ハゲハゲハゲハゲ ♪
\ ちがうだろ!ちがうだろ!ちーがーうーだーろーーっ! /
彡⌒ミ
♪ (´・ω・`) ♪
♪ _ ノ(__)> キュッキュ♪
彡 ⌒ ミ /.◎。/◎。/| 彡 ⌒ ミ 励まし励まし
(´・ω・`) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | (´・ω・`) ♪
(mYm_) | | ┌( ┴--っ
<二ニニニ二ア ヽ 彡 ⌒ ミ ⊂⊃ | [|U≡(=m□ ♪
].[~UJ~].[ ⊂´⊃(´・ω・`) / , .| `(_)(_)
| !⌒!!⌒!つ ,-=- ♪
.||,─、(⌒)─、 | |
( ○ )( ○ )||.|
/ `ー ´ `ー- /へ
この励ーーッ!この励ーーッ!コノコノコノコノ ハゲハゲハゲハゲ ♪
\ ちがうだろ!ちがうだろ!ちーがーうーだーろーーっ! /
彡⌒ミ
♪ (´・ω・`) ♪
♪ _ ノ(__)> キュッキュ♪
彡 ⌒ ミ /.◎。/◎。/| 彡 ⌒ ミ 励まし励まし
(´・ω・`) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | (´・ω・`) ♪
(mYm_) | | ┌( ┴--っ
<二ニニニ二ア ヽ 彡 ⌒ ミ ⊂⊃ | [|U≡(=m□ ♪
].[~UJ~].[ ⊂´⊃(´・ω・`) / , .| `(_)(_)
| !⌒!!⌒!つ ,-=- ♪
.||,─、(⌒)─、 | |
( ○ )( ○ )||.|
/ `ー ´ `ー- /へ 2002年(主日A年) 7月21日 年間第16主日
知 12:13〜19 ロマ 8:26〜27 マタ 13:24〜43
現代の教会が再び使徒たちの証言に耳を傾け、キリストの福音の豊かな富に与かるために、第二バチカン公会議から始まった典礼刷新は、ミサにおける “ことばの典礼” の重要性を強く主張して来ました。
“神の啓示に関する教義憲章” は、この使徒たちによるキリストの福音の証言が “聖伝と聖書” という二つの形で教会に託されていることを述べていますが、
それは私たちの神が現代の教会に対しても初代教会の時代と等しく、使徒たちの証言を通して福音を語り続けておられることを信じているからです。
私たちが今持っている新約聖書は、第2世紀の教会が結集した文書群から成っているのですが、それは当時 “使徒たちに由来する文書のみを採用する” という配慮をもって創られました。
キリストの福音の証言を使徒たちに聞き、以後の時代における人間の無能による歪曲を最小限に食い止めようとした当時の教会の意図を、現代の私たちは深く理解しなければなりません。
今朝のマタイ福音書のテキストにおいては、その前後関係も含めて、天の国そのものの力強い成長と終末の正しい裁きに信頼することの大切さを、しかもそれを使徒たちの証言として、私たちは聞かされるのです。
聖なる者たち、すなわちすべて洗礼の秘跡によって救われたキリスト者会衆は、天の国の相続人であって、
その日には 「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(マタ 13:43) ことに期待して良いのだという使徒たちの証言を、私たちは今朝聞かされているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
この励ーーッ!この励ーーッ!コノコノコノコノ ハゲハゲハゲハゲ ♪
\ ちがうだろ!ちがうだろ!ちーがーうーだーろーーっ! /
彡⌒ミ
♪ (´・ω・`) ♪
♪ _ ノ(__)> キュッキュ♪
彡 ⌒ ミ /.◎。/◎。/| 彡 ⌒ ミ カトリック 励まし励まし
(´・ω・`) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | (´・ω・`) ♪
(mYm_) | | ┌( ┴--っ
<二ニニニ二ア ヽ 彡 ⌒ ミ ⊂⊃ | [|U≡(=m□ ♪
].[~UJ~].[ ⊂´⊃(´・ω・`) / , .| `(_)(_)
| !⌒!!⌒!つ ,-=- ♪
.||,─、(⌒)─、 | |
( ○ )( ○ )||.|
/ `ー ´ `ー- /へ ,,,,,..ー彡彡ミミ))))ミノ、、、、 そんなつもりはないんです〜〜♪
彡彡///ミミミ)))))))ノノ)))ヽ
//////ゞゞヾノノノノ//ノヾヽ そんなつもりはないんです〜〜♪
////////////゙ヾ、ノノノノ"~///ミミミミミミ
r//////////// ミミミヾ))))) そんなつもりじゃなくても、お前の娘をひき殺して、
ノノノ///////// ミヾ)))))))))
ノノノノ//////// ミ)))))))))ノ そんなつまりなかったんです〜〜って言われているのと同じ〜〜〜♪
((//////////.,,、、,,, )( ,,,,,,、、、ヾノノノノノノ
ノノノ.((((/////ノ. ヾ゙ゝ // ./''" ノノ((((((ノヾ 嗚呼、それじゃ、しょうがありませんね!
ノノノ///////ノノ.∠ ●ヽ /●`ヽ、 ((ヾヾヾヾ)
((((((((((///. ` ー~ ` | | `ー ´ |ヾヾミミヽ そんなつもりなっかたんなら、しょうがありませんねーー!!
((((((((((/ r.| .,,.- l l 、 .|^/))))))))
((((((((((.\_| / ( (._) )\ |/))))))))) そんなつもりが無かったら〜〜
((((ヾヾヾヾ .l .f ,,,-===.v===-、ヽ .iノノノノノノノ
λヾヾヾヾヾヽ l.`、.LlLlLlLlLl 7´.l ./ノノノノノノノ そんなつもりが無かったらいいの〜〜〜♪
((ノノノノノノノノ.ヽ ゝ ゝ 二二二ノ ./ ./ノノノノ
λヾヾヾ| ヽ\ /./ノノノノ お前の娘が交通事故でひき殺されて死んでさ、
\\.| ヽ.ヽ、 ノ/ \
/ ヾヽ \```ー.´´/ \ 「ひくつもりは無かったんです」って言われたら腹たたない? 余談ですがフリーメーソン(イルミナティー)は絶対お参りしたりついてっちゃ駄目です。
やつらはひがみの不動(シヴァ)のかたわれでそれも悪さがまったく逆に出たものです。
ひどい差別社会ばかりになります。 2005年(主日A年) 7月17日 年間第16主日
知 12:13〜19 ロマ 8:26〜27 マタ 13:24〜43
紀元325年のニケア公会議から451年のカルケドン公会議に至る時代のカトリック教会が、三位一体の教理をめぐる論争の過程でアリウス主義を初めとする多くの異端を排除することによって、自らを確立して行った歴史を私たちは知っています。
これを教会が使徒継承の上に固く立つための戦いであったと理解するなら、その戦いは現代のカトリック教会にも受け継がれていることになります。
21世紀の教会もまたその信仰を、ニケア・コンスタンチノープル信条によって宣言する教会だからです。
「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」 という宣言は、現代においても自らの中から毒麦を排除するという戦いの継続を意味しているからです。
私たちが実際に経験している通り、多くの地方教会にはしばしば “困った君” が存在していて、しかも彼らがかなり影響力のある立場に立っています。
それが信徒であるにせよ教導職であるにせよ、いわば教会の “癌” となってキリストの体を甚だしく損なっているということがあるのです。
「先走って裁いてはいけない」 という美辞の陰に隠された教会の自浄能力の欠如が一方にあり、他方には狂信的な魔女狩り的攻撃者が特に近年のインターネットの世界では声を大にして暴れています。
神の国の先取りである歴史の教会を、守り育ててやがて完成に至らせてくださるのは神の御業であって、決して人間の能力や努力によってではないことを語られたイエスは、
それと並んでまた今、終わりの日には神の国を受け継ぐのは御国の子らだけであることを語っておられるのです。
復活された天上のイエスが語られる神のことばが、歴史の教会に毒麦を見分けて排除する自浄能力を与えて来たことを、21世紀の教会は重く受けとめなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
,,,,,..ー彡彡ミミ))))ミノ、、、、 そんなつもりはないんです〜〜♪
彡彡///ミミミ)))))))ノノ)))ヽ
//////ゞゞヾノノノノ//ノヾヽ そんなつもりはないんです〜〜♪
////////////゙ヾ、ノノノノ"~///ミミミミミミ
r//////////// ミミミヾ))))) そんなつもりじゃなくても、お前の娘をひき殺して、
ノノノ///////// ミヾ)))))))))
ノノノノ//////// ミ)))))))))ノ 『神のみこころですから〜〜』って言われているのと同じ〜〜〜♪
((//////////.,,、、,,, )( ,,,,,,、、、ヾノノノノノノ
ノノノ.((((/////ノ. ヾ゙ゝ // ./''" ノノ((((((ノヾ 嗚呼、それじゃ、しょうがありませんね!
ノノノ///////ノノ.∠ ●ヽ /●`ヽ、 ((ヾヾヾヾ)
((((((((((///. ` ー~ ` | | `ー ´ |ヾヾミミヽ 『神のみこころですから〜〜』んなら、しょうがありませんねーー!!
((((((((((/ r.| .,,.- l l 、 .|^/))))))))
((((((((((.\_| / ( (._) )\ |/))))))))) そんなつもりが無かったら〜〜
((((ヾヾヾヾ .l .f ,,,-===.v===-、ヽ .iノノノノノノノ
λヾヾヾヾヾヽ l.`、.LlLlLlLlLl 7´.l ./ノノノノノノノ そんなつもりが無かったらいいの〜〜〜♪
((ノノノノノノノノ.ヽ ゝ ゝ 二二二ノ ./ ./ノノノノ
λヾヾヾ| ヽ\ /./ノノノノ お前の娘が交通事故でひき殺されて死んでさ、
\\.| ヽ.ヽ、 ノ/ \
/ ヾヽ \```ー.´´/ \ 「わたしはひくつもりは無かったんです。
でもこの世で起こることはすべて『神のみこころですから〜〜』 有難く受け入れないといけない」
って言われたら腹たたない? 何度でも言うのじゃ
カトリックで加藤リックなのじゃ
みな、加藤リックを流行らせるのじゃ
,,,,,..ー彡彡ミミ))))ミノ、、、、
彡彡///ミミミ)))))))ノノ)))ヽ
//////ゞゞヾノノノノ//ノヾヽ
////////////゙ヾ、ノノノノ"~///ミミミミミミ
r//////////// v ミミミヾ)))))
ノノノ///////// ミヾ)))))))))
ノノノノ//////// ミ)))))))))ノ
((//////////.,,、、,,, )( ,,,,,,、、、ヾノノノノノノ ♪あるんでちゅか〜
ノノノ.((((/////ノ. ヾ゙ゝ // ./''" ノノ((((((ノヾ あるならどうしてそなんことに
ノノノ///////ノノ.∠ ●ヽ /●`ヽ、 ((ヾヾヾヾ) な〜る〜の〜か〜な〜〜〜
((((((((((///. ` ー~ ` | | `ー ´ |ヾヾミミヽ そんなことに〜なるのかな〜〜〜
((((((((((/ r.| .,,.- l l 、 .|^/)))))))) どうして〜 どうして〜
((((((((((.\_| / ( (._) )\ |/))))))))) こんなことばかり毎日
((((ヾヾヾヾ .l .f ,,,-===.v===-、ヽ .iノノノノノノノ 明日は何が起こるのかな〜
λヾヾヾヾヾヽ l.`、.LlLlLlLlLl 7´.l ./ノノノノノノノ ドキドキ〜
((ノノノノノノノノ.ヽ ゝ ゝ 二二二ノ ./ ./ノノノノ どんな恐ろしい神の嫌がらせが
λヾヾヾ| ヽ\ /./ノノノノ まっているのかな〜〜〜♪
\\.| ヽ.ヽ、 ノ/ \
/ ヾヽ \```ー.´´/ \
神の虐待に 『最後まで耐え忍ぶ者は救われる』
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2008年(主日A年) 7月20日 年間第16主日
知 12:13,16〜19 ロマ 8:26〜27 マタ 13:24〜43
使徒パウロは ガラ 5:7 で、“思い違いをしてはいけません。 神は、人から侮られることはありません” と書きました。
アダムの罪以来、人は “神に口答えする”(ロマ 9:20)者となりました。
私たちが人間の目で物事を見る場合にはいつも、人間の側には不正はなくて、神の側に問題があるように考えます。
なぜ世界には多くの悲惨や不幸が存在するのかと、その責任を神に押しつけるのです。
そしてあげくには、“世の中に神も仏もあるものか” となるのは、昔も今も同じです。
神を信じる人は弁明して言います。
“不正な裁きはしなかったと、証言なさる必要はない。”(知 v.13)
“あなたは、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。”(ロマ 2:4)
知恵の書が教える教訓は、私たちキリスト者にとっては今なお将来への課題なのです。
“こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった。”(知 v.19)
それは実現してしまったのではなくて、これからこの課題を実らせ、刈り入れに至らせるために、聖霊は弱い私たちを執り成し続けてくださっているのです。
“刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。”(マタ v.30) これは主の言葉です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>71
617
老クリスチャン !
神父と牧師では立場が違う。
カトリック教会
神の定めた真の教会=かしらがキリストの12使徒のいる羊の群れ
プロテスタントの教会
人間が創始した信仰団体=かしらが人間の12使徒のいない羊の群れ
ゆえに
神父は神に認められた正式な聖職者。
牧師は神に認められていない自称聖職者。
老婆心ながら忠告
上記のように、カトリック教会と他教会では、天地の差があるから
カトリックスレで、牧師であった自分(老クリスチャン)のスレへ導いてもカトリック信者は、カトリックの伝統的解釈を取ることを悟るべきだ。
(>>617 >>618のような毎回のレスは無駄骨に終わるからやめよう)
又、カトリック教会への改宗は、12使徒が所属する羊の群れに移るわけだから、牧師の肩書きなど何の意味も持たず、一般信徒に他ならない。
「老」クリスチャンは 死に備え、謙虚に自分を見つめることが先決。
(⌒Y⌒(⌒Y⌒)
(⌒*☆(⌒*☆*⌒)
(⌒Y⌒) ☆_人,(⌒Y⌒)
(⌒*☆(⌒Y⌒)(⌒*☆*⌒)
~(⌒(⌒*☆*⌒)(__人__)~
(⌒*☆(__人__)゙\☆ )
゙(__人__,)\ / ヽ )
!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (__人_) | クルッポ〜!
\ `ー' /
/ ::::::\
;;し ::::: ))
/しし :::::i ))
ししん ::::|J)
し/i ヽ,rrr ::::/u/
\__ ソ ./
ヽ ノ""´
´`` ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2002年(主日A年) 7月28日 年間第17主日
王上 3:5〜12 ロマ 8:28〜30 マタ 13:44〜52
「天の国は次のようにたとえられる。」(マタ v.44)
マタイ福音書は使徒たちを 「天の国のことを学んだ学者」(マタ v.52)になぞらえています。
私たちは今朝、その使徒たちが学び(マタ v.52)、理解した(マタ v.51)天の国の福音を、一同で聞いているのです。
最初の二つの譬え話は、かけがえもなく値打ちの高いものを手に入れることが出来た人の喜びと幸せを語っています。
使徒たちはそのようなかけがえのない天の国の幸いを手に入れた喜びを、自ら体験していました。
そのような者として、キリストの福音の証人の役割を果たした使徒たちの上に、キリスト教会はその基礎を置いています。
実に使徒たちの伝承の背後には、その伝承の本来の担い手である復活のキリストが立っておられます。
ですから、使徒たちに由来する文書群である新約聖書がミサで朗読されるとき、それは神のことば(Iテサ 2:13)、キリストの言葉(ロマ 10:17)なのです。
この譬え話は、天の国のことを、しかもそれだけを語っています。
それは徹頭徹尾キリストの福音に関わる譬え話です。
そして私たちキリスト者は、この福音によって救われるのです(Iコリ 15:2)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
この励ーーッ!この励ーーッ!コノコノコノコノ ハゲハゲハゲハゲ ♪
\ ちがうだろ!ちがうだろ!ちーがーうーだーろーーっ! /
彡⌒ミ
♪ (´・ω・`) ♪
♪ _ ノ(__)> キュッキュ♪
彡 ⌒ ミ /.◎。/◎。/| 彡 ⌒ ミ 励まし励まし
(´・ω・`) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | (´・ω・`) ♪
(mYm_) | | ┌( ┴--っ
<二ニニニ二ア ヽ 彡 ⌒ ミ ⊂⊃ | [|U≡(=m□ ♪
].[~UJ~].[ ⊂´⊃(´・ω・`) / , .| `(_)(_)
| !⌒!!⌒!つ ,-=- ♪
.||,─、(⌒)─、 | |
( ○ )( ○ )||.|
/ `ー ´ `ー- /へ ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2011年(主日A年) 7月24日 年間第17主日
王上 3:5〜12 ロマ 8:28〜30 マタ 13:44〜52
「天の国は次のようにたとえられる。 ・・・・・ 」(マタ v.44)
この譬えを、海賊が宝物を隠すために埋めた畑の話のように考えてはなりません。
今日世界的な争奪戦が繰り広げられているレアアースの鉱床を新たに見つけた人の場合のように、理解しましょう。
高価な真珠の譬えも、次のように考えると良いでしょう。
愛知県の豊田市美術館で、現在二ヶ月半にわたるフェルメール展が開かれています。
フェルメールの絵は “地理学者” という題の小さな作品一枚だけで、これに同時代の多数の作品が一緒に展示されているに過ぎません。
彼は17世紀オランダの画家で、生前はあまり注目もされず、その後19世紀になって高く評価されるまでは忘れられた存在でした。
それが今ではたった一枚で、堂々フェルメール展なのです。
ですから、もし18世紀頃にでもある人が彼の作品の真価に目を留めて、その作品の一枚を自分にとって支払い可能な値段で入手していたとしたら、まさに高価な真珠の譬えのようではありませんか。
“憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし”(エフェ 2:4-5)、
“イエス・キリストによって神の子にしようと”(エフェ 1:5)罪と死の世界から贖い出してくださいました。
私は個人的には、未だに正式にカトリック教会の信者としては受け入れられず、ミサの交わりの儀では拝領に代わって司祭の祝福を受けていますが、“私は洗礼を受けている!” という高価な真珠を、何ものにも勝る宝として誇りにしています。
司祭の祝福が、どうしてそれ以外の何かを意味し得るでしょうか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
ウェハハハハ
∧_∧
⊂〈`∀´ 〉つ-、
/// /_/:::::/ ウェハハハハハ
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |ホルホル
| |-----------| |
ホルホル
ニダーニダーニダーウェーハァッハァッハァッホコラシーニダーホコラシーニダーチョパーリホコラシーニダー
ウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッチョパーリ
ウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッ
ホルホル
∧_,,∧ ウェーハッハッハ
< `∀´>
( )
し―-J >>80 「私は個人的には、未だに正式にカトリック教会の信者としては受け入れられず」
意味不明です。 転会の許可がおりないのか、あなたが転会の意思を持っていないのかどうか
わかりません。 このような文章を書いている限り、だれからも信用されないと思います
(蝙蝠のように)。 2011年(主日A年) 7月24日 年間第17主日
王上 3:5〜12 ロマ 8:28〜30 マタ 13:44〜52
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ v.28)
“万事が益となる” とは、神がこの世とその中にいるキリスト者一人一人を究極の目的へと導いてくださる、測り難い秘義であるという意味です。
キリストの福音とは何の関係もなく、ただ、世の中は結局すべて良くなるという楽観主義を、神は保証する責任がある ・・・・・ などという主張ではありません。
“神を愛する者たち” という言葉を誤解しないようにしましょう。
救いも神の国も、信者が自分の功績によって、つまり自分の信仰と愛の力によって獲得するものではないからです。
使徒パウロがここで言っている “神を愛する者たち” とは、“御計画に従って召された者たち” のことです。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5:8)
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ 4:10)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>87
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています