(1)聖ペトロの三度の否み、と、踏み絵。の観点。

(2)踏み絵の問題は、棄教を形で示すことになる。
それでいいとして、では、誰に示すのかといえばそれは周りの人間に対してなわけだ。
神は、その人の心の中、腎の中まで見通される。神に対しては棄教しない心がある場合は
どうだろうか。踏み絵を踏んで隠れ切支丹となった人々は、その後、三度否んだ
ペトロのような罪悪感から、信心を篤くしていた。これはどうだろうか。

16 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。
偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

このような神である。人の目に映る姿を重視されるのではなく、その人の心の内側を見通される。
祈るときもひとり部屋に閉じこもって祈りなさい、と教えられる。

(1)は考察中。
※注意
俺は、踏み絵を踏んでいい、踏んだらだめ、どっちでも論を張れるから、
感情的なレス、義憤にかられた投稿をしないでね。考察の観点の提供だから。
 
だいたい、この掲示板で、自分は踏まない、自分は踏む、どちらを宣言したとしても、どちらの
雰囲気を人に醸し出して見せたとしても。
自分は絶対に踏まないと思っていた者が、踏んでしまう場合もある。
逆に、自分は絶対に踏んでしまうだろうな、と思っていた者が、踏まない場合もある。