>>135
>最初の論点は、「俺なら棄教する」という
>冒涜者どもが大罪を宣言する問題点だったはず。

私はそんな論点には参加していない。レスも入れていない。

>「遠藤の作品は文学であり教義ではない」と言っておきながら

これは私が言った。
 
>遠藤周作の支持者どもが教義のように信奉している現実がある。

全員がそうではない。
当然、私にはそのような「現実」は当てはまらない。全国の遠藤周作のファンの
信徒もそういう「現実」は当てはまらない。だから以下にも参加していない。

>実際に井上司祭は教会内で遠藤周作の作品と解釈を持ち込んだミサを挙げていたし、
>教会内で遠藤周作を教義のように支持している連中を目撃したこともある。

私もそして多くの信徒が「作品と解釈を持ち込んだミサ」の中身を知らない。
ただ、カトリック信徒に印象が悪いことは確かだろう。

印象は悪いが、
 
「教義のように支持している連中」に見えても「実は遠藤周作のファンなだけかもしれない」。
「教義のように支持している」というのはあなたの想像の域を出ない。
「教義のように支持している」とは、どのような教義なのか。
井上洋治神父様が、奇跡もない、復活もない、というのを教義にするとは思えない。

ただただ、印象が悪いから、私は、全員がそうではない、と強調しておく。
しかし、はたしてそれが善いか悪いか、神の目から正しいことなのか、正しくないのか、
カトリックではどうなのかというのは別問題である。
私はそれについては良いとも悪いとも言わないし断罪もしない。