いんも ある日弘覚大師は衆に示していつた。「いんも事を得ようと思うならば、当然ながらいんも人たるべきである。どうし
ていんも事を案ずる事があろうか」 道元 その主旨は「まつしぐらに究極の悟りに至る」という事をまずしばらく、いんもと
いう言葉に表すのである。この悟りの有様というのは、例えば十方にわたる全宇宙もこの悟りに比べれば、ごくちいさなものに
すぎない、というようなものである。だから悟りは全宇宙よりもなお大きいという事になる。我々自身もまた、かの宇宙のなか
の、様々な姿である。そうしたなかでどうしていんもがあると知られるか、それは私の心身がいずれも宇宙のなかに現われなが
ら、しかし私のものでないから、なるほどいんもになつている事がしることが出来るか。いんも訳は? 「そのように」「この
ように」「そのような」「このような」「ありのまま」「このとおり」〕・・ 考えてもみたまえ、この身はすでに私のものでは
無い、いのちは時の流れに流されて、一瞬も留まらない。・仮に真があるのならそれは私の領域にとどこおるものではない(つづく
(つづき)それがいんもなのである。いんもなれればこそ、ふと思わず菩提心がおこることがある。この心が起こってみるとこれまで
考えあぐねていた事をさらりと投げ捨てて、いまだかつて聴いた事を聴いてみようと願い、これまで体得した事も無い事を体得しよ
うと望む。これはもはや私の仕業では無い。いんも人なればこそ、そうなる事をよくよく思うべきである。どういうわけでいんも人
であると知る事ができるのか。それが先の弘覚大師のいうように、いんも事を得ようと思うから(そのおもいはもはや私のものでは
ない)、いんも人である事が知られてくる。すでにいんも人の様相を備えているから、いんも事を心配する事は無用という事になる
。さらに踏み込めば心配する事も、そのままいんも事であるから、自然と心配は無くなるのである。またいんも事の中にもいんも
事があるという事に驚いてはならない。かりにびっくりして、これは怪しいと思う事がおこつても、それもまたいんもである。