梅華玉城康四郎さんの解説。 ・・・さて、「雪裏の梅華」とは何か、一言で表すならば、それはもともと古今にわたって
見開かれている目の玉である。表裏一体、表も裏も無い。限りなく古くから、我が全人格体の礎にポッカリと華開いている。
そこに思い及ぶとき、疑うべきものはまつたく消滅し、「天上天下唯我独尊」の目の玉であることがわかる。あらゆるもの
が目の玉に繋がっている。この梅華こそ、迦葉に付属し、そして次からつぎへと託していく「ただ一枝」である。その梅華が
道元にようやく明らかになつてきたのである。道元自身の目の玉として見開かれていきたのである。それはまさしくかん頂位
というべきである。 しかしながらこの梅華の最も行じたいのは、瞑れるはずのない目の玉が、実感として瞑れたときである。
如浄の一説はそれを次のように語る。「釈尊の目の玉が瞑れるときも、雪の中で梅の一枝は華開いている、いまや見渡す限り
の茨や棘はかり、それを笑うように春風は華の咲き乱れる中を吹き渡っているが如くである」この茨や棘ばかのを道元はどう
処理するのか。もし魔が差してきて、目の玉が見えなくなつたとき、「今日はわたしの今日にあらず、大家の今日なり、直に
梅華眼晴なるべし、さらにもとめることやみぬ」もとめればもとめるほど見えなくなる。求めてはならない。そして私の今日
ではなくて大家の今日に気ずくべきである。そのとき目の玉は直に開かれるであろう、と言う。そして「ただ一枝という語の
命脈のなかに、身をひるがえしていく」のである。・・・?よくわからない悟つたひとも悟りの中に
私を探しもう止められないくて私の目になりまた私の中の悟りに行っていくのか
鏡が鏡を移す如しなのか?私は経験ないから良くわからん