海印三昧 玉城康四郎さんの解説の一部 ・・まず我々が生きているという事は、海印三昧でいえば、海の中を遊泳していると
いう事である。悟ったり修行したり説法したりすることは、この遊泳に他ならない。ところで遊泳といえば、人間は海面を泳ぎ、
魚は水中を動きまわるのだが、海印三昧の遊泳はそうではない。海上を泳ぎながらその足は海底についているのである。つまり
我々は仏の三昧のなかにあるから、われわれもまた仏の根底に徹底して泳いでいるということになる。道元はこのところを
「深深海底行なりと海上を行するなり」と言っている。まずこの点に元ずいて海印三昧が次第に規定されていく。・・・
第五に、以上述べてきた諸点も体験に他ならないが、ここではさらに三昧の体験そのものに注目する。道元はそれを「夜間の背手
模枕子」と言っている。夜間に手を後ろにして枕を探すのである。実は明暗を越えて何物にも触れない状況を指している。しかも
背手模枕子は、億億万功の計り知れない時間であるばかりでなく、このなかで常に法華経が説かれている。第六に道元趣旨を敷衍
して言えば仏道ばかりではなく、キリスト教も毛沢東も悉く万有でないものは無い。そこがすなわち海印三昧である。???
ビル遮那仏が我々の一人に三昧で化ける時は一生の時間を要するのか?それから他の人の一生三昧の観劇みんな三昧の面倒観るし
よつぽど感激好きなのか?浅はかなる浅原さんの中に一生の時間の観劇も体験、私や師匠や他のななしさんやの一生も体験、
まっ暗になつて体験もの凄い量の時間の長い大変な世界の体験ができるトーキーといえば夢の時を過ごす?ご苦労さんブラフマン?