>>272
> 禅師曰く、坐禅は「修証一如」だと。
何かと騒がしい己を、一時でも手放せる最も手軽にして最も難儀するのが坐禅なんでしょう。しかして端坐参禅に挑みては、何を以て己があるでしょう。
何が己か、ここに現成公案と言う難題が眼前に鎮座まします訳です。
自己をならうのが仏道との教示で、自己他己の身心が脱落したとき己とは何だったのかがわかるよ、と道元禅師は仰せな訳です。 」
>>275
道元師はちゃんと書き残してますよ。インチキはやめましょうね。 』
凹○コテッ
道元の死後、修行僧たちへの説法の座に上るときのための 手控え帳をお弟子さんたちが見つけてしまったんだね。
いわゆる、メモ帳ですね。
道元がそんな死んだ言葉を残すはずが無いのですよ。
国費留学生であった道元が中国から早々に帰国したとき、空手(くうしゅ)でした。手ぶらで帰ってきたのです。
皆さん、仏教書を山ほど持ち帰って来るのです、そんな時代にあって、そんなでした。
ただ、持ち帰ったのは、
眼は横に付いている、鼻は直(たて)についている、と、真理さとり だけを持ち帰りました。
先日、公園の花壇のわきで出会ったとき、そう言ってましたから。。