2011年(主日A年) 1月23日 年間第3主日

イザ 8:23b〜9:3  Iコリ 1:10〜17  マタ 4:12〜23
「そのときから、イエスは、 “悔い改めよ。 天の国は近づいた” と言って、宣べ伝え始められた。」(マタ v.17)

現代人である私たちは、福音書をまるで優れた小説に対するように、その物語りの展開にワクワクしながら読んでしまいがちです。
登場人物たちが、読者の心の舞台に生き生きと浮かび上がって来て、感動や感激を与えてくれれば、読後の満足も大きいことでしょう。
ところがこれは本来、文学作品として書かれたものではなくて、初代の使徒たちが宣教した 「御国の福音」(マタ v.23) であって、いわば原始教会の説教の集大成でありました。

ですからそこに登場するイエスは、すでに “わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座についておられる”(ニケア・コンスタンチノープル信条) 救い主であり、
今や代々の教会の宣教と共に 「世の終わりまで、いつも」(マタ 28:20) いてくださる方なのです。

神の国は人間が造り出す理想の世界のことではなくて、それは “み国が来ますように” という祈りの対象であり、信条が明言している “待ち望みます” という私たちの希望、神が将来実現される “来るべき世” に他なりません。

御国の福音の宣教は、当時の都エルサレムではなくて、ガリラヤの片田舎から始まったと言われているように、人間の権力や経済力の大きさによってではなく、ただ “神の秘められた計画” として実現する “天の国” を主題としていました。
イエスの最初の弟子たちも、ただのガリラヤの漁師たちでありました。
私たちは、現代の教会の働きもこの使徒たちの宣教の継続であるということ、
従って御国の福音は 「宣教という愚かな手段によって」(Iコリ 1:21) のみ、今も 「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ロマ 1:16) であり続けることを、信じることが大切なのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より