【無分別】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか4【瞑想】 [無断転載禁止]©2ch.net
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【注意事項】
1.瞑想・座禅経験者以外の書込み禁止
2.凡夫の書込み禁止^^
3.我執のある人書込み禁止
前スレ
【非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか3【瞑想】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1473545092/ @「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」
A「依他起性(えたきしょう)」
B「円成実性(えんじょうじっしょう)」
これ基本^^ @「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 A「依他起性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起(仮構)
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
識が働く
↓
縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立つ B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如) 結果・・
空性「無分別の智・不二の智」
↓
分別・戯論・煩悩が止滅 「意識こそは虚妄分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは
意識自らの言葉に依る熏習を種子として生じ、またあらゆる表象の言葉に由る熏習を種子
として生じている。それ故に、意識は無限に種々の形相のある虚妄を分別するが故に遍計
と名づく。」
無着(摂大乗論) 「(意識が遍計することは)名・概念を対象として虚妄分別するのであり、概念を依他起性の
上に相(形相・性質)として付託し、相を見て執着し、種々に思考を廻らして言葉として言う、
見る、聞く等の四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認するのである。」
無着(摂大乗論) 十五頌 五識は、根本識から、縁にしたがって、一緒に、あるいはそうではなく
生起する。ちょうど、水における諸々の波のようである。
十六頌 意識は、無想果と、二つの禅定と、睡眠および気絶という無意識の状態を
除いて、常に生起する。
十七頌 この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。
それ故、この一切は唯だ識のみのものである。 二十頌 どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、
それは遍計所執性である。それは存在しない。 概念を対象として虚妄分別する
↓
相(形相・性質)を見て執着する
↓
四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認する 13.
それは心理学であるよ。
それでは宗教は、どうなるのかや。 意識(分別を具えたもの)
↓
虚妄分別(種々の形相のある虚妄を分別する)
↓
故に「遍計所執性」と名づく >>14
1.瞑想・座禅経験者以外の書込み禁止
以降ちみは書きこみ禁止^^ 「スッタニパータ」(分別意識)
「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである」 「しかしながら識別作用が残り無く離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。」 「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起することは有りえない。」 十如是とは、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)
・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)
・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたる
までの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、
つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる事をいう。
わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の
仕方、方法をいう。 如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、
あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を
正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象が
どのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、
それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を
持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、
いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているか
ということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白
な目撃者なのだ 心が言葉にとらわれないように冷静に対応すれば相手のどんな動きにも応じることができる。
心が動揺すれば、それが落とし穴となって、すれ違ってまごつく。
それに背いても向き合っても駄目で、あたかも大きな火の集まりのように捉え難い。
もし、これを言葉で表現しようとしたら「如是の法」から離れ、心は汚染されてしまうだろう。 『大智度論』
仏は是の衆生の種種の性相は、所謂趣向する所に随って、是くの如く偏に多くを
知りたまう。如是貴。如是深心事。如是欲。如是業。如是行。如是煩悩。
如是礼法。如是定。如是威儀。如是知。如是見。如是憶想分別。 う〜〜ん^^
『法華経』か〜^^
・・とこうなる^^ つまり・・・^^
カント
人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、
ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能である ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能であり・・
ものの相(形相)すなわち・・現象を見ていると・・ 相(形相)を見ているってことは・・^^
すなわち・・
如是煩悩。
如是憶想分別。
であると・・^^
こうなる^^ ここでカントちゃんがでてきた^^
「純粋理性批判」か・・・^^
う〜〜ん^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
考えさせられる・・^^
う〜〜ん^^
奥が深い^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
最終的には・・
やはり・・
「空」がでてくる^^
当然である^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
ついでにそこには諸法もでてくる・・^^
当然である^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
そこには対象があるのか・・^^
と言う問題になってくる・・^^
唯だ識のみである^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
う〜〜ん^^
主体と客体の問題になってくる^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
さてと・・^^
寝るか・・^^
になる^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
諸法が生起していることとなり・・^^
それが実相であると^^
こうなるな^^ 法華経も知っとかんと・・・^^
何が起こるかもしれないからな^^
予備知識で知ってないとあかん^^ 法華経を想像するに・・^^
さっき書いたように・・
現象とは諸法が生起してることであると・・^^
こうなると思われる・・^^
名前だけ見ると^^
・・とこうなる^^ あらゆる現象は諸法が生起している・・
それが実相である^^
う〜〜ん^^
すんばらしい^^
・・となる^^ カント
人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、
ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能である
これから・・^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
諸法が生起していることとなり・・^^
それが実相であると^^
こうなるな^^
こうなったと・・^^ しかし・・
その一瞬に・・^^
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着
これがすでに働いている^^ 思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在
あっという間である^^ 遍計所執性とは、分別されたもののことで、対象的に実体として把握され、
執著されたものということです。
ふむふむ^^ 凡人(おまいら)の日常では、「言語」によって誤った認識がなされ、
遍計所執性のみとしかとらえられず、この陰に隠れた依他起性は
認識され得ないのです。
ふむふむ^^
おまいらでてきた^^ 「この陰に隠れた依他起性は認識され得ない」
きたなこれ^^
・・となる^^ A「依他起性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起(仮構)
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
識が働く
↓
縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立つ
つまり・・^^ 依他起性すなわち縁起の世界が、実体視され、執著されたものが遍計所執性であり、
その依他起性すなわち縁起の世界は、常に空を本質としている、
その本性が円成実性です。
ふむふむ^^ 唯識の修道によって、修行が進行し完成に近づくと、 遍計所執性は滅していき、
本来の依他起性の世界すなわち無自性・空の世界を認識できるとのことです。
ふむふむ^^
やはり・・唯識きたな^^
・・となる^^ 円成実性とは・・^^
B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如) つまり・・^^
十九頌
業の習気 [ 種子 ] は、二取[ 主観と対象との分別への固執 ] の習気とともに、前の異熟が
滅したとき、他の異熟であるそれを生じる。
二十頌
いかなる分別によっていかなる事物が分別されたとしても、それは遍計所執性である。それ
は存在しない。
二一頌
依他起性は分別であり、(それは)縁によって生じるのである。円成実性は、それ(依他起性)
が、常に前(遍計所執性)を離れていることそのことである。
二十二頌
この故にこそ、それ(円成実性)は依他起性と別ではないし、別でないのでもない。(この関
係は)無常性(と無常なる事物)等のようにいわれるべきである。これ(円成実性)が見られ
ないとき、それ(依他起性)は見られない。
二十三頌
三性に関し、三種の無自性性があることを、密かに考えておいて、一切法は無自性を本性
とすると説かれたのである。 二十四頌
初め(遍計所執性)は、実に相によって無自性である。[ 相無性 ] また次(依他起性)は、こ
れには自ら有るものの有り方が無いというのが、次の無自性性である。[ 生無性・空 ] 。
二十五頌
そして、それ(円成実性)は諸法の勝義であるからなのである。[ 勝義無自性性 ] それはま
た、真如である。一切時に、その如く(変わらずに)有るからである。それこそが、唯識実性
に他ならない。
二十六頌
唯だ識のみであることに、識が住さないかぎり、その間は二取[ 主観と対象との分別への固
執 ] の随眠[ 煩悩の種子 ] は止滅しない。
二十七頌
これは唯だ識のみに他ならないという(考え)もまた、実には対象認識であるが故に、(認識
する主観)の面前に何ものかを立てるのであるから、唯だそれのみ、には未だ住していない。
二十八頌
識が所縁[ 対象 ] を得ることが正に無くなったとき、唯だ識のみ、ということに住したのであ
る。所取[ 対象 ] が無いとき、それを取ること[ 対象を認識する主観 ] が無いからである。
二十九頌
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に。
・・となる^^ 二十三頌
三性に関し、三種の無自性性があることを、密かに考えておいて、一切法は無自性を本性
とすると説かれたのである。
ここらへんがおもしろい^^
すなわち^^ 相(形相)すなわち現象のみを見ているってことは・・^^
一切法が生起していることとなり・・^^
一切法は無自性を本性とすると・・^^
ということは・・^^ 相(形相)すなわち現象は一切法であり・・
空であると^^
いうことになる^^ そそういえば・・
あの雲の写真も・・
あれは雲ではない^^
言葉にすれば・・「雲である」となるが・・
実
相は一切法が生起してる仮の姿である^^
となるな^^
宇宙の法が生起してる^^
う〜〜んとなる^^ 形の無いものは永遠不滅の真理というか・・^^
真実というか・・^^
またまた・・実相というか・・^^ その法に従い物質・・^^
つまり・・形のあるもの・・^^
あらゆるものは生じそして滅する・・^^
いわゆる・・「諸行無常」ですか・・^^
つまり・・無自性・・空となる・・^^
その物質が法に伴い現象として現れる^^ つまり・・^^
形のない永遠不滅の法が実相であり・・^^
無自性である物質がそれに伴っていると・・^^
こうなる^^ そこに法がなければ・・^^
雲もない・・^^
ということになる^^ ゆえに・・^^
あらゆる現象は法が生起している・・^^
それに伴い物質が生滅変化していると・・^^
こうなる^^ 「一念の妄心(まうじん)を翻して法性の理を思はば、己心に仏身を見、
己心に浄土を見ん」
う〜〜ん^^ 「法を見るものは我を見る、我を見るものは法を見る 」
う〜〜ん^^ 「法を見るものは縁起を見る、縁起を見るものは法を見る」
う〜〜ん^^ つまり・・^^
結局・・
凡人(おまいら)の日常では、「言語」によって誤った認識がなされ、
遍計所執性のみとしかとらえられず、この陰に隠れた依他起性は
認識され得ないのです。
こうなり・・^^ ついでに・・
「おまいらが悪い・・」
とこうなる^^ もっと言えば・・
「またおまいらか・・」
とこうなる^^ うわっ^^
この世の「三悪説」になったぞ・・^^
とこうなる^^ 結局・・^^
ここに行き着くわけか・・^^
・・ということで^^
寝る^^ うーん、読むに難しいけど、
なかなかええことも言うとるのがわかる!
もちょっと凡夫にもわかりやすくおなしゃす ん?
凡夫のおいらにわかるわけない^^
・・とこうなる^^ 難しいことはおいらにもわからない^^
こうだな^^ へたな瞑想寝るに限る^^
う〜〜ん^^
そのとおり^^ 九顕十密(煩悩も迷いも大日如来の現われにほかならない) 密教が宇宙の絶対的な真理の現われを法身大日如来とみる 森羅万象は、この五大と識大の渾然一体となった世界であり、
物と心(物質と精神)は本来一体なるもので、分離されるべきもの
ではないと説く。
言いかえるならば、物質としての五大も単なる物質なのではなく、
精神的(識大)なるものを背景として形造られている。
逆に識大も五大を離れて存在せず、物心一如の世界を説いている。
ふむふむ^^ 顕教は応身である釈尊の教説・・
密教ではこの現象世界を、真理そのものを仏格化した法身である
大日如来が説法している実在の世界そのものと把える。(法身説法) 釈尊のなかに宇宙の絶対的な真理を見るのか・・^^
宇宙の絶対的な真理のなかに釈尊をみるのか・・^^ 気がついちゃった^?^
うあっ^^
・・となる^^ 仏教を超えちゃうのか・・・^^
となる^^
これも自然のながれ・・^^ ・・でだ^^
「宇宙の絶対的な真理」とはなにか?
と言う問題になってくる^^ 密教が宇宙の絶対的な真理の現われを法身大日如来とみる
密教ではこの現象世界を、真理そのものを仏格化した法身である
ということは・・^^ あらゆる現象は法が生起している・・^^
それに伴い物質が生滅変化していると・・^^ つまり・・
この法が法身大日如来であり・・^^
それに伴い物質が生滅変化している・・^^
これが物心一如の世界であると・・^^
こうなる^^ あらゆる現象は大日如来が生起している・・^^
それに伴い心が変化していると・・^^
こうなる^^ 人それぞれ考え方があるからな^^
おいらとしてはこう考えるということで^^ 「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」 ん?
「大日如来が身・口・意で起こす三つの業は虚空に遍在し、
三つの業の秘密において仏と平等の境地にひたる仏の教えを演説する」
仏の教えを演説する・・?
なんぞ^^
となる^^ うわっ・・^^
そこまでいくか〜〜^^
・・となる^^ あらゆる現象は大日如来が生起し・・仏の教えを演説する・・
となる^^ あらゆる現象は大日如来が生起している・・^^
現象は外ではなく識(心)に現れるからな・・^^
大日如来が生起している・・といっても
なんらおかしくはない^^ う〜〜ん^^
瞑想して・・確かめてくるか^^
・・ということになる^^ 密教が宇宙の絶対的な真理の現われを法身大日如来とみる
密教ではこの現象世界を、真理そのものを仏格化した法身である 「現象世界は真理そのものを仏格化した法身である 」かー^^ 法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身(さんじん)の一つで、
真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体をいう。
真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、
「法仏(ほうぶつ)」「法身仏(ほっしんぶつ)」「自性身(じしょうしん)」
「法性身(ほっしょうしん)」などともいう。 法身(ほっしん)・・諸行無常・・宇宙の真理・真如そのもの、仏性。
報身(ほうじん)・・諸法無我・・仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿
応身(おうじん)・・涅槃静寂・・この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。 法身【ほっしん】
仏教で仏の本体の現れ方を説く三身(さんじん)の一つ。
報身(ほうじん)・応身(おうじん)に対する。永遠不滅の真理で,
仏の本身とされる。 とりあえず・・^^
雲の現象と・・^^
人の現象との相違について瞑想してくるか・・^^
となる^^ あらゆる現象は法が生起している・・^^
法とは大日如来であるかー^^
う〜〜ん^^ 今日のいい話
まことが釣れた
そして、オレはこの55歳ニートの
文面を読んであげないww ん?
オレオレ詐欺とはよく言ったもんで^^
オレとはなにか?
と言う問題になってくる^^ つまり・・
しかし・・
その一瞬に・・^^
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着
これがすでに働いている^^ つまり・・
オレ
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 オレとはなんだ^^
存在するのか?
となってくる^^ オレとは・・
生まれてから現在に到る経験でもない^^ オレとは・・
この体の物質なのか?
と言われてもそうではない^^ オレがあると虚妄分別してるだけ・・^^
そこに実在・執着し妄想が生じる^^ この体の物質なのか?
物質は素粒子でできているからな・・^^
そこにはオレなるものは存在しない^^ 素粒子同士で・・^^
「オレが・・オレが・・」
といっても・・
なんぞ?・・となる^^ つまり・・
あらゆる現象は法が生起している・・^^
それに伴い物質が生滅変化していると・・^^
なる^^ そこでアートマン・・^^
真我の問題になってくるが・・^^
次の課題にしておくとするかなっと^^ 宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、
瞑想の中でありありと直観することを目指すのが梵我一如の思想・・ 宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一・・^^
つまり・・ あらゆる現象は「ブラフマン」が生起している・・^^
それに伴い「アートマン」が生滅変化していると・・^^
ん?
「アートマン」は生滅変化するのか・・?
となる^^ ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、
宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、
あらゆる苦しみから逃れることができるとする。
ふむふむ^^ う〜〜ん^^
永遠に続くからここらへんでやめとくかな^^ アーマン・・真我の問題か・・^^
他の「悟りを開いたと勘違いしてる人のスレ」で
このようなカキコミがあった^^
321 :
童天
2016/10/29(土) 08:48:19.45 ID:42zRS6mr
※314
一人しかいないんですか?
2chあんまり見ないので、なんとも(';')
麻原の動画を見ると、結構的確な応答をしてて、何かしらの体験はしてると思われ。
http://nicoapple.sub.jp/sm19101217←これを見ると分かる。
最終解脱()が謎で、
「オウム真理教事件I 武装化と教義」の中で、「最終解脱って何だろう?」
と弟子の前で漏らしたりと本人も迷子。
ダンテス・ダイジは多少本当と思いますよ。
臨済宗の寺を訪ねて坐禅する話が載っていますが、彼の感動が分かるので… 某氏の動画を考察しようとしたが・・
やめとく^^
何かがとめた^^
・・ということで^^ 三界は、欲界・色界・無色界の三つの総称。三有ともいう。
凡夫(おまいら)が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもの。
なお、仏陀はこの三界での輪廻から解脱している。
やはり・・おまいらでてきた^^ 欲界
淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む処。六欲天から人間界を含み、
無間地獄までの世界をいう。
色界
欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件(色)にとらわれた有情が住む処。
この色界は禅定の段階によって、4つ(四禅天)に分けられ、またそれを細かく
18天(経典によっては17天または16天)に分ける。
無色界
欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。 アートマンは三界には存在しないかー^^
う〜〜ん^^ アートマンは三界には存在しない・・
三界と五蘊を超えたところに存在する^^ 五蘊とは・・^^
五蘊は次の5種である。
「色」は物質的存在を示し、「受」「想」「行」「識」は精神作用を示す。
人間の心身の機構を羅列的に挙げ、それによって人間の生存およびその環境の
全てを表そうとしたものである 。
@ 色蘊 - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。(例:桜そのもの)
A 受蘊 - 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
B 想蘊 - 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
C 行蘊 - 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと)
D 識蘊 - 認識作用(例:「桜」と認識すること) アートマンは三界と五蘊を超えたところに存在する^^
う〜〜ん^^
・・となる^^ つまり・・だいたい人の考え方は同じ・・^^
・・となる^^ ・・どういうことか・・^^
流れを見ていこう^^
・・となる^^ まずはこうなる^^
因縁果 ◆d........o
2016/10/27(木) 16:35:58.34 ID:7DET/3qN
カント
人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、
ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能である ここから・・
因縁果 ◆d........o
2016/10/27(木) 21:15:39.77 ID:7DET/3qN
ゆえに・・^^
あらゆる現象は法が生起している・・^^
それに伴い物質が生滅変化していると・・^^
こうなり・・^^ 因縁果 ◆d........o
2016/10/29(土) 05:30:32.98 ID:hNjFuDLy
あらゆる現象は大日如来が生起している・・^^
それに伴い心が変化していると・・^^
こうなる^^ 最後に・・
因縁果 ◆d........o
2016/10/29(土) 07:17:43.15 ID:hNjFuDLy
宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一
梵我一如であると^^ 因縁果 ◆d........o
2016/10/29(土) 06:09:57.18 ID:hNjFuDLy
とりあえず・・^^
雲の現象と・・^^
人の現象との相違について瞑想してくるか・・^^
となる^^
これの答えがアートマンの存在であり・・^^ 雲の現象・・^^
あらゆる現象は法が生起している・・^^
それに伴い物質が生滅変化していると・・^^
この法とは宇宙原理「ブラフマン」であり・・^^ 人の現象・・^^
あらゆる現象は法が生起している・・^^
それに伴い物質が生滅変化していると・・^^
この法とは個体原理「アートマン」であり・・本質において同一であると^^ 本質において同一であると^^
つまり・・
宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると
こなる^^ 宇宙原理「ブラフマン」の法と個体原理「アートマン」の法が
存在し現象として現れると・・
これらは永遠不滅であり三界と五蘊を超えたところに存在すると^^
こうなる^^ つまり・・^^
人には個体原理「アートマン」の法が 存在すると・・^^
こうなる^^ これが今朝考えた^^
130 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/29(土) 06:09:57.18 ID:hNjFuDLy
とりあえず・・^^
雲の現象と・・^^
人の現象との相違について瞑想してくるか・・^^
の答えになると。。^^ う〜〜ん・・^^
宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」に分けたか・・^^
となる^^ おまえらの中には法が存在する・・^^
それは個体原理「アートマン」である^^
・・となる^^ 宇宙にも法が存在し・・
人の中にも法が存在する^^
どちらとも永遠不滅であり・・
梵我一如であると^^ ひねってるのか・・^^
ひねってないのか・^^
それが問題である^^
・・となる^^ 古代インドにおいては、自我を自己の内部に追求し、呼吸や思考や自意識の背後に
心臓に宿っている親指の大きさのプルシャを想定し、アートマンとこれを呼び、
現象界の背後にある唯一の実在をブラフマンと呼んだ(アートマンとブラフマンの二元論)。
だが、このアートマンとブラフマンの二元論は、小宇宙と大宇宙の照応観念を
背景としたウパニシャッドの神秘主義的なウパーサナの直感のなかで、
アートマン=ブラフマン(梵我一如、ぼんがいちにょ)として、一元論に還元される
ことになった。
ふむふむ^^ サーンキャ学派は、人間に内在するアートマンの超越性を強調し、
精神原理のプルシャと物質原理のプラクリティを抽出し、
体系的な二元論を構築した。その体系は、普遍のプルシャと結合した
プラクリティから、統覚機能、自我意識、思考器官、10器官、5微細元素、
5粗大元素へと分かれる、25原理の図式を備えている。
これを今述べた順に降下する方向で理解すると宇宙論となる。
反対に上る方向で辿ると、ヨーガの深化に対応する、人間存在が備えている
重層的な主観/客観の二元論構造を示すことになる。
つまり、精神/外界、思考/対象、自我意識/表象、意識/無意識、自我/非自我と
いった二元論の広いテーマを内包している。
さらに究極の二元はプルシャの解脱のために結合し、世界を開展するとされる。
目的論的に結合する。この二元は、さらに高次の存在により統合される一元論を
内に孕んでいる。
ふむふむ^^ 伝統的な仏教では、悟りの境地に至るためのきっかけは、このような二元論を
乗り越えることだとされている。それは簡単に実現できることではなく、
全生涯を費やさなければならないものである。
うわぁああああああああああああ^^
・・となる^^ サーンキャ学派
世界の根源として、精神原理プルシャ(神我、自己)と
物質原理プラクリティ(自性、原質)という、2つの究極的
実体原理を想定する。厳密な二元論であり、世界はプルシャの
観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。
ふむふむ^^ サーンキヤ学派
厳密な二元論を特徴とし、その徹底性は世界の思想史上でも稀有のものである。
世界はある一つのものから展開し、あるいはこれが変化して形成されるという
考え方をパリナーマ・ヴェーダ(転変・開展説)といい、原因の中に結果が
内在するという因中有果論であるが、ヴェーダ・ウパニシャッドの一元論や、
プラクリティ(根本原質)からの世界展開を主張するサーンキヤ学派はこれに
あたる。
精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、
それに対し物質原理であるプラクリティを第一原因とも呼ぶ。
プラクリティには、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(翳質・闇質)
という相互に関わるトリ・グナ(3つの構成要素, 三特性、三徳)があり、
最初の段階では平衡しており、平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、
とする。
ふむふむ^^ サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を
果たしている。
また、サーンキヤ学派は、夏目漱石に影響を与えたことでも知られる。
この学派では、涅槃(寂静、寂滅。輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福)は、
プルシャ(自己)がプラクリティ(世界)に完全に無関心となり、
自己の内に沈潜すること(独存、カイヴァリヤ)だと考えた。
夏目漱石は、一高時代に井上哲次郎の東洋思想の講義を受講し、
サーンキヤ哲学の講義を受けて深く感銘を受け、無関心こと非人情をテーマに
『草枕』を著した。
う〜〜ん^^ ここで某氏が言うところの「絶対的幸福」がでてきたか^^
ついでに漱石ちゃんもでてきた^^
う〜〜ん^^ この学派では、涅槃(寂静、寂滅。輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福)は、
プルシャ(自己)がプラクリティ(世界)に完全に無関心となり、
自己の内に沈潜すること(独存、カイヴァリヤ)だと考えた・・
う〜〜ん^^
どうでしょう・・^^ 「精神原理のプルシャ」と「物質原理のプラクリティ」
精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、
それに対し物質原理であるプラクリティを第一原因とも呼ぶ。 つまり・・
宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」
物質原理の「プラクリティ」と精神原理の{プルシャ」
物質原理の「プラクリティ」・・第一原因
「精神原理のプルシャ」・・永遠に変化することのない実体
となる^^ つまり・・・^^
すべては「原理」・・法であり・・
永遠に変化することのない実体であると・・
こうなる^^ そこでだ・・・
生滅変化を繰り返し実体のない無自性な凡夫つまり・・
おまえらの存在はどうなるのかと・・^^ 「おまえらもたいへんだな^^」
・・とこうなる^^
つまり・・^^ ついでに・・
「おまいらが悪い・・」
とこうなる^^ もっと言えば・・
「またおまいらか・・」
とこうなる^^ うわっ^^
この世の「三悪説」になったぞ・・^^
とこうなる^^ ・・ということで・・^^
寝る^^
そういえば・・
某氏が「無我」は誤り・・「非我」であると言っていたな・・^^
これを次に考察してみるかなっと^^
寝る^^ う〜〜ん^^
動画では・・^^
サーンキャの二元論と言ってるな^^
物質原理の「プラクリティ」と精神原理の{プルシャ」 の区別って
言ってるのかな・・^^
聞き取りにくい^^ そうなると・・
サーンキャ哲学的意味になってくるんだよね^^
「サーンキャは二元論ですよね^^」
サーンキャ二元論は何を言いたいのかと言うと・・
三界と○○の区別・・五蘊と○○の区別・・
○○がわからん^^ サーンキャ二元論は何を言いたいのかと言うと・・
三界と○○の区別・・五蘊と○○の区別・・
ん?
サーンキャはこれ言いたかったの・・・^^
・・となる^^ 実際は・・
サーンキャ二元論は何を言いたいのかと言うと・・^^
物質原理と精神原理が存在し・・
さらに究極の二元は精神原理の解脱のために結合し、
世界を開展するとされる・・
目的論的に結合する。この二元は、さらに高次の存在により統合される一元論を
内に孕んでいる。 高次の存在により物質原理と精神原理が統合される・・^^
ここまでくるか・・・^^ 宗教の基本
Religion はラテン語のreligioから派生したものである。
religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味の
ligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味。 サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を
果たしている。
ヨーガでここまで見えるのか・・^^
すんばらしい^^
・・となる^^ ん?
専門家きた^^
「再び結びつける」か・・^^ う〜〜〜ん^^
難解である^^
・・とこうなる^^ ちょっとそれは難解すぎて・・^^
課題にしておく^^ 物質原理から精神原理が生じ・・
再び物質原理に戻る^^
これもありかな^^
・・となる^^
ちょっと休憩^^ 精神原理の{プルシャ」 に逆らうことができるのかな^^
という疑問が生じる^^
当然である^^ サーンキヤ学派では、精神原理プルシャと物質原理プラクリティが対置されている。
サーンキヤでは、プルシャは物質的要素をまったくはなれた純粋なものとされる。
同学派は、「私はだれだれである」とか「私の何々は」といった意識は、
プラクリティから生じた心理器官に属するとし、それらの意識は上位器官である理性に
属するとするが、プルシャはそうした意識や理性とは別であるとし、またプルシャは
様々な感情とも異なるとする。プルシャは、プラクリティの展開がつくりだす現象世界を
観照するとする。プルシャを説明するのに、水面や鏡に映った映像を見る人のたとえが
用いられている。
ふむふむ^^ 精神原理(プルシャ)は、物質原理(プラクリティ)の展開がつくりだす現象世界を
観照するとする。精神原理(プルシャ)を説明するのに、水面や鏡に映った映像を見る人のたとえが
用いられている。
ふむふむ^^ 精神原理(プルシャ)は、現象世界を観照するとする。(水面や鏡に映った映像)
唯識の阿頼耶識か・・^^ 「個物も生命も法の中に組み込まれた一部であって,
法を根拠として生まれやがて法の中に還るのである」
ん?
「再びがポイント。」
このことか^^ 五蘊の構成は,物質的構成要素の色と精神的構成要素である受・想・行・識に分けられる。
そして,これら五蘊の構成要素の集まりである人間は,無我であるとした。
したがって,色蘊によって構成される身体が無我であると同時に,受・想・行・識の蘊に
よって構成される心も無我でなければならない。
う〜〜ん^^ 物質的構成要素と精神的構成要素かー^^
どこかでみたような・・^^ 寝ると見せかけて・・^^
無我を考察してた^^
う〜〜ん^^
おもしろい^^
寝る^ さまざまな部分の集合体である五蘊仮和合体は,因と縁の和合体と同じであるとする。
このように,無常法によって導かれる無我も、仮和合によって導かれる無我も
,結局縁起の理法から導かれる無我説と同じである。
う〜〜ん^^ 「無常の故に無我である」
「仮和合の故に無我である」
う〜〜ん^^
ということで・・^^
寝る^^ つまり・・
某氏が「無我」は誤り・・「非我」であると言っていたな・・^^
いろいろ考察してみたが・・^^
「無我」は誤り・・ではないな・・^^
・・となった^^まる サーンキヤ学派(25の素因)
プルシャ @真我/純粋精神 アートマン
プラクリティ A根本原質 アナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)
ブッディ B覚 ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ(理知鞘)
アハンカーラ Cエゴ(我慢)
ナマス D意(マインド) マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)
ジニャーナ・インドリヤ 五感覚器官:E鼻、F舌、G眼、H身、I耳
タンマートラ 五微細元素:J香、K味、L色、M触、N声
カルマ・インドリヤ 五行為期間:O手、P足、Q発声器官、R生殖器官、S排泄器官 プラーナマヤ・コーシャ(生気鞘)
マハー・ブータ 五大元素: ㉑地、㉒水、㉓火、㉔風、㉕エーテル サーンキヤ学派
意識が世界のありようを完全に見て取れば、それで解脱が起こる
ヴェーダーンタ学派(シャンカラ)
梵我一如が初めから達成されている(私たちはそもそもブラフマンと合一している)ということを
認識することが、解脱のための条件であると指摘
ヴェーダーンタ学派(ラーマーヌジャ)
そもそも認識ではなく最高神への帰依こそが解脱に必要なのだと主張
ふむふむ^^ ヴェーダーンタ(不二一元論)
サーンキャ(二元論)
精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)の接触で世界が生じ「苦」が生じる
ふむふむ^^ 物質原理(プラクリティ)は物質の根源・・初めは「未顕現」の状態にある。
その時物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
ふむふむ^^ ん?
量子学やないかい^^
干渉すると収縮する・・
うわっ^^ コペンハーゲン解釈
量子力学の状態は、いくつかの異なる状態の重ね合わせで表現される。
このことを、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、
観測すると観測値に対応する状態に変化する(波束の収縮が起こる)と解釈する。
う〜〜ん^^ 物質原理(プラクリティ)はただ「観照する」だけである。
しかし見ることによって物質原理(プラクリティ)と精神原理(プルシャ)は接した事になる。
この接触が全ての「苦」の始まりなのである。
物質原理(プラクリティ)は精神原理(プルシャ)と接し複雑に入り混じる事で
本来の純粋性を失い輪廻に囚われる事になる。
ふむふむ^^ 転変は物質原理(プラクリティ)の質的変化によって新しいものが発生していく過程である。
まず物質原理(プラクリティ)からブッディ(覚)が生じ、ブッディからアハンカーラ(我執)
が生じ、アハンカーラから マナス(思考器官)、感覚器官、行動器官などが生ずる。
ふむふむ^^ アハンカーラ(我執) はブッディ(覚)を精神原理(プルシャ)であると錯覚する。
この錯覚によって輪廻転生が起こる。
つまり唯識論のマナスとアーラヤ識がそれぞれサーンキャのアハンカーラ(我執)と
ブッディ(覚)に当たる。
ふむふむ^^
ん?どこかで似てると書いたような^^ 218 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/29(土) 20:32:01.42 ID:hNjFuDLy
精神原理(プルシャ)は、現象世界を観照するとする。(水面や鏡に映った映像)
唯識の阿頼耶識か・・^^
これだな・・^^ 唯識論もサーンキャと同様ヨーガの実践に裏打ちされているのだから論理が
似ているのは当然である。
どちらの説も錯覚によって輪廻転生が起こるとする。
ふむふむ^^ 唯識論もサーンキャもヨーガの実践に裏打ちされている・・^^
ということは^^
「今日からヨーガやらんとあかん^^」
・・となる^^ そこで・・・^^
まったく・・おまいらは・・^^
となる^^ ついでに・・
「おまいらが悪い・・」
とこうなる^^ もっと言えば・・
「またおまいらか・・」
とこうなる^^ うわっ^^
この世の「三悪説」になったぞ・・^^
とこうなる^^ 量子力学はサーンキャを参考にしてる可能性があるな・・^^
そうでないなら・・^^
サーンキャは恐ろしい・・
すなわち・・
ヨーガの瞑想はすんばらしい^^
・・となる^^ ・・ということで・・^^
精神原理(プルシャ)で、物質原理(プラクリティ)の展開がつくりだす現象世界を
観照してくるかな^^
・・となる^^ 思うに・・・^^
サーンキヤ学派のなかに・・
瞑想により素粒子の世界まで・・
踏み込んだ人がいると・・^^
こうなる^^ 物質原理(プラクリティ)は物質の根源・・初めは「未顕現」の状態にある。
その時物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
この発想がそれを示している・・^^
・・とこうなる^^ まさしくそれは・・^^
量子力学における「コペンハーゲン解釈」そのものである^^ 現在,コペンハーゲン解釈は虚構であるという主張が主流となっている・・^^
ん?
「そんなの知らんがな^^」
・・ということで^^ コペンハーゲン解釈(ボーアちゃん)
「ボーアのイメージする実在は、観測されなければ存在しないようなものだった。
コペンハーゲン解釈(コペンハーゲンを本拠地とするボーアが中心となって作った
量子力学解釈)によれば、ミクロな対象はなんらかの性質をあらかじめもつわけで
はない。電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるま
では、どこにも存在しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまで
は物理的な属性をもたないのだ。ひとつの測定が行われてから次の測定が行われ
るまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたの
か、と問うことには意味がない。量子力学は、測定装置とは独立して存在する
ような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ
、その電子は『実在物』になる。つまり、観測されない電子は、存在しないと
いうことだ」。
う〜〜ん^^ 「観測されない電子は、存在しないということだ」
ん?
どこかの仏教で聞いたような・・・^^ 電子のスピンは半整数の1/2であることが実験的に分かっていて、
このスピン1/2をもった電子の基本的な「スピン状態」は2つあり、
しばしば「上向き」と「下向き」というように言い表されます。
ここで「上向き」、「下向き」というのは便宜上使っているだけであり、
要するに2つの状態にラベルを付けただけのものです。
2つの状態にラベルを付けただけのもの・・
ん?
サーンキヤの意味は^^
となる^^ ーーーーー
プルシャは見てるだけだから、ないも同然なんだね。
だとすれば宇宙は、物質原理のプラクリティだけで誕生している。
その意味で、サーンキャは物質の一元論なのである。
サーンキャは精神と物質の二元論などと言われるが、
偽装した唯物論だとも言われるらしい。
プルシャの実体が不明であり、その役割も曖昧だから当然だよね。
ーーーーー 実は1つの電子は同時にこの「上向きスピン」と「下向きスピン」の両方の状態を
持つことができるのです。これを電子が「上向きスピン状態」と「下向きスピン状態」の
重ね合わさった状態にあるといいます。
これが量子力学のいう重ね合わせの一例です。観測するまではどちらの状態にあるのかは
分かりませんが、観測することで、重ね合わせ状態からどちらかの確定した状態へと変わります。
この変化を「状態の収縮」と呼びます。
ふむふむ^^ さらに、この重ね合わせの真の不思議さは2つの粒子の重ね合わせにおいて決定的になります。
それが量子もつれ(量子エンタングルメント)という状態です。
これは、先ほどの1粒子の重ね合わせが2つペアになった状態の特別な場合です。
たとえば、ペアになった粒子Aと粒子Bのそれぞれのスピンの向きが「Aが上向き・Bが下向き」と
「Aが下向き・Bが上向き」との重ね合わせ状態を形成している場合です。
このような場合、一方の粒子を観測してその状態が分かれば、もう一方の粒子の状態は観測する
までもなく、決まってしまうのです。たとえば、Aが下向きだと観測されれば、
その瞬間Bは上向き状態に決まります。これは状態の瞬間収縮により瞬時に起こります。
ふむふむ^^ 状態の重ね合わせを前提とする量子力学では、この「重ね合わせ」というものは
そもそも何かということがしばしば議論の対象となります。
この議論は「量子力学の解釈問題」と呼ばれています。
量子力学が登場するまで、実在は人間の観測とは関係なく客観的なものだと
考えられていました。しかし、量子状態の重ね合わせは観測によってある状態に
収縮します。では、実在は客観的なものではないのでしょうか。
ふむふむ^^ 多世界解釈では、重ね合わせの数だけ世界が分岐し並行世界が存在するとされています。
観測によって状態が1つに収縮するのではなく、観測により2つの並行世界が
出現するのです。観測者自体が観測により分岐し、どちらか一方の世界しか
知り得ないため、1つに収縮したように思えるというのがこの解釈の主張なのです
ふむふむ^^ >>263
う〜〜ん^^
まだそこまで理解してないから^^
ということで^^
すまん^^ サーンキヤ哲学
物質原理(プラクリティ)は物質の根源・・初めは「未顕現」の状態にある。
その時物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
コペンハーゲン解釈
量子力学解釈によれば、ミクロな対象はなんらかの性質をあらかじめもつわけで
はない。電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるま
では、どこにも存在しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまで
は物理的な属性をもたないのだ。ひとつの測定が行われてから次の測定が行われ
るまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたの
か、と問うことには意味がない。量子力学は、測定装置とは独立して存在する
ような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ
、その電子は『実在物』になる。つまり、観測されない電子は、存在しないと
いうことだ」
う〜〜ん^^
なんか似てないか・・^^
・・と言うことになる^^ サーンキヤ哲学
精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
コペンハーゲン解釈
測定という行為がなされたときにのみ、その電子は『実在物』になる。 偶然なのか・・・^^
それとも・・
コペンハーゲンがサーンキヤ派なのか・・^^
それとも・・・
これらは真実であるのか・・^^
・・となる^^ アインシュタインは言います^^
観測していないときの状態を考えるとき、量子力学の最も奇妙な世界が広がる。
量子力学によれば、観測者が見ていないとき、電子は、どこか一つの場所にある
のではない。
電子は、確率にしたがって雲のように薄く広がっているのだ。それが、量子力学の
考えである。観測をしないとき、電子は波として、原子核のまわりを動いている。
そして、その波は重ね合わされ、雲のように原子核をくるんでいる。
あくまで、一個である電子が、雲のように広がっているのである。
ふむふむ^^ アインシュタインは言います^^
ミクロの物質の実体を雲のような波として考えること。
それが、量子力学の最も中心となる理論である。
そして、人間が観測した一瞬に、雲のような波は、
一点の粒として姿を現す。観測によるこの状態の急激な変化こそ、
アインシュタインが、量子力学に反対した根本的な理由だったと・・ アインシュタインは言います^^
私たちが知ることができるのは、量子力学による「波の方程式」だけなのだ。
人間が見ようとして、光を当てると消えてしまう波---しかし、闇の中には
美しい調和を持った波が存在するのである。それは、見ようとしても現実には、
決して見ることができない波なのだ。 アインシュタインは言います^^
量子力学によると、人間が見ること:観測は、とても奇妙な役割を演じます。
人間が見ていないとき、電子は雲散霧消してしまうというのです。
しかし、人間が観察しようがしまいが、電子はある一点に必ず存在している
はずです --- 私が見ているときにしか、月は存在しないのでしょうか? つまり・・^^
コペンハーゲン解釈
測定という行為がなされたときにのみ、その電子は『実在物』になる。
アインシュタイン
私が見ているときにしか、月は存在しないのでしょうか?
・・となる^^ ボーア(量子力学)対アインシュタイン論争・・結果^^
ボーアは言います^^
「アインシュタインの懸念と批判はわれわれ全員にとって、原子レベルの現象を記述することに
関するさまざまな面を再検討するためのインセンティブとして非常に貴重だった」。
う〜〜ん^^
・・とこうなる^^ 「火は暑く、水は冷たい、
清々しくひんやりとした朝の涼風
何によってこうした個性が生じるのか?
彼らはそれ自体の本性に従ってそうなのだ。」
これは実感した^^ サーンキヤの純粋精神は、物質に一切かかわりをもたない。
それ故、物質と関わる感覚、心(意識)、知性(思考機能)、
自我意識、などは、すべて純粋精神とは異なるもので、
根源物質から派生した「物質のはたらき」とされる。
う〜〜ん^^
なるへそ〜〜^^ おまいらには・・^^
当然・・ないぃいいいいいいいいいいいいいい^^
となる^^
これは決定してる^^ う〜〜ん^^
やってみるか・・・^^
・・となる^^ 「古典ヨガ」の目的は、心を止滅させて、最終的に解脱することです。
サーンキヤ哲学を基にしているので、解脱は、「プルシャ」と呼ばれる
純粋な意識こそが自分だと認識することで達成されます。
それには、純粋な意識以外の心の要素を、自分自身ではないと見極めて、
手放していくことが必要です。
ふむふむ^^ @心を止滅させて、最終的に解脱すること
A純粋な意識以外の心の要素を、自分自身ではないと見極めて、
手放していくこと
ここまではよし^^ 「ヨガ・スートラ」はそのためのヨガの方法を、8段階からなる階梯に体系化しています。
そのため「八支ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)」とも呼ばれます。
心を止滅させるために、心を分析していくので、「ジュニャーナ・ヨガ」とも呼ばれます。
心を止滅させていく段階は、「ラージャ・ヨガ」とも呼ばれます。
ふむふむ^^
「ヨガ・スートラ」をすればよいのじゃな^^
・・となる^^ 「ヨガ・スートラ」の8段階の階梯
@禁戒(ヤマ)
不殺生、不淫などの対他的な「すべきでないこと」です。
A勧戒(ニヤマ)
苦行や祈祷、足るを知るなどの対自的な「すべきこと」です。
B座法(アーサナ)
単に、安定した、快適な座り方でなければいけないとだけ書かれています。
C呼吸法・調気法(プラーナーヤーマ)
呼吸法で、ゆるやかに呼吸し、呼吸を止め(クンバカ)、
最終的には自然に呼吸が止まった状態(第四の調気)になることです。 D制感(プラティヤーハーラ)
感覚を外部の対象から分離して、意識を内部に向け、気が散らないようにする
ことです。 最後の3つの段階は、総合的な精神コントロールとして結びついていて、「綜制(サンマヤ)」と呼ばれます。 E凝念(ダラーナ)
意識を外界や身体の一点、あるいは特定のイメージや観念に集中して、
他の心の動きを消します。
一つの対象に対して、多面から集中することはあります。
F静慮(ディヤーナ、禅)
その一つの対象に対して、一面的に、かつ持続的に集中します。
G等持(サマディー、三昧)
対象と完全に一体化します。 サンマヤやサマディーでは、その対象を粗大なものから微細なものに変えていきます。
最終的には対象をなくし、そして心を停止させます。
え〜〜〜と^^
最終的には対象をなくし、そして心を停止させます・・
こうきたか・・^^ 粗大なものから順次対象を見極めるのですが、それをサーンキヤ哲学に沿って行います。
その方法を「六行観」と呼びます
ふむふむ^^ @まず、最初は、普通の物質的なもののイメージと一体化します。
これを「有尋三昧」と言います。
サーンキヤ哲学で言う、5大元素と11根(感覚器官、行動器官、マナス)を見極めます。 A次に、物質的なイメージをなくし、非物質的なイメージと一体化します。
これを「有伺三昧」と言います。
サーンキヤ哲学で言う、微細な5大元素を見極めます。 B次に、さらにそれもなくなり、心地良さも消滅して自分の存在感覚だけになります。
これを、「有我想三昧」と言います。 また、物質的な対象のイメージや言葉、観念がなくなり、
客体そのものと一体化することを、「無尋定」、
非物質的な対象のイメージや言葉、観念がなくなり、
客体そのものと一体化することを、「無伺定」、と呼びます。
この時、内面が清澄になり、直観的な智慧(プラジュニャー)が現れ、
どのような雑念も現れなくなります。
うん?
後の無差別智である^^ 一体化する対象がなくした段階は、「無想三昧」と言います。
ただ、行(潜在印象)だけは残っています。 また、対象がなくなるだけでなく、直観的な智慧(プラジュニャー)もなくなり、
心が止滅したようになります。
そのためには、すべての対象に対する愛着をなくして離欲する必要があります。 Cそして、行(潜在印象)、もなくなった段階は、「無種子三昧」と言います。
最終的には、純粋な意識(純粋な観察者)であるプルシャの状態になって解脱します。
おわた^^
・・となる^^
思考体系は大体同じだ・・^^
仏教界からは批判を浴びるけど・・^^
・・となる^^ たぶん・・
理系脳だろうな・・^^
・・となる^^ サーンキヤの人たちに・・
量子力学をやらせたら・・
とんでもないことになっていただろうな・・^^
と推測はできる^^
とてつもない発見があったかもしれん^^ @まず、最初は、普通の物質的なもののイメージと一体化します。
これを「有尋三昧」と言います。
サーンキヤ哲学で言う、5大元素と11根(感覚器官、行動器官、マナス)を見極めます。
これからやな^^ 「三昧」はそれがイメージのような形のある心の働きを残したものであるか
どうかで、「有想三昧(有種子三昧)」と「無想三昧(無種子三昧)」に分かれます
ふむふむ^^ さらに「有想三昧」は、物質的なものを対象にする粗大な心の働きがある「有尋三昧」、
それがなくなり非物質的なものを対象とする微細な心の働きだけがある「有伺三昧」、
さらにそれもなくなり対象が消滅して穏やかな心地良さだけにある「有楽三昧」、
心地良さも消滅して自分の存在感覚だけになる「有我想三昧」の4つ段階に分かれます。
ふむふむ^^ プルシャは世界を享楽し、やがて解脱するためにプラクリティを眺めます。
すると、プラクリティはラジャスが活動を始めて平衡状態が破れ、世界が生まれます。
まず、「ブッディ(思考・判断作用)」、「アハンカーラ(自我意識)」、「マナス(識別作用)」、
「5感覚器官」、「5行動器官」が順次生まれます。
さらに5感覚器官から「微細な5大元素」、そして「粗大な5大元素」を生みます。
ふむふむ^^ 精神原理(プルシャ)は世界を享楽し、やがて解脱するために物質原理(プラクリティ)を眺めます。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて平衡状態が破れ、世界が生まれます。
ラジャス
インド哲学用語。激質。プラクリティを構成する3つの要素の一つ。
激質は他方の原理であるプルシャの観照を機会因として活動を起し,
3つの構成要素の平衡状態が破れて展開が始り,世界が現象するというもの。 ほんとにこれとダブるんだよな^^
コペンハーゲン解釈
測定という行為がなされたときにのみ、その電子は『実在物』になる。 ボーアちゃんは絶対サーンキヤ哲学読んでるって^^
・・となる^^
つまり・・^^ ボーア(量子力学)対アインシュタイン論争・・
ではなく・・
サーンキヤ哲学対アインシュタイン論争だったと^^
こうなる^^ こうなると・・
アインシュタインも敗北せざるを得なくなる^^
サーンキヤ哲学には勝てなかったと^^ タゴール:
この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も
所詮は科学者の見方にすぎません。
アインシュタイン:
しかし、真理は人間とは無関係に存在するものではない
でしょうか? たとえば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。
タゴール:
それはその通りです。しかし、月は、あなたの意識になくても、
他の人間の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月が存在しないことは
同じです。
アインシュタイン:
私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。
ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。
タゴール:
しかし、科学は月も無数の原子がえがく現象であることを
証明したではありませんか。あの天体に光と闇の神秘を見るのか、
それとも、無数の原子を見るのか。もし、
人間の意識が、月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。
う〜〜ん^^
またまた寝る^^ (アインシュタインとタゴール)
http://ameblo.jp/inthetic/entry-12093701911.html
あなたの眼の前で展開している世界は、空間も、物質も、
全て目に見えない原子で出来ています。
そして、それらの原子は意識により状態が確定します。
うわっ^^ 意識により状態が確定するということは・・
精神原理(プルシャ)は世界を享楽し、やがて解脱するために物質原理(プラクリティ)を眺めます。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて平衡状態が破れ、世界が生まれます。
ほとんどおなじやないかい^^
寝る^^
何度寝ればいいのかな?
・・となる^^ >>330
エックハルト・トールは言います。
「悟り」とは「いまに在る」ことであり、
頭のなかの声や思考プロセスから、
それにその思考が身体に引き起こす感情から離れることだ
すると自分のなかに広々としたスペースが生まれる。
それまでは思考や感情が騒がしくせめぎあっていた場がすっきりと開ける。
エックハルト・トールについて語るスレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1475452304/ 精神原理(プルシャ)と物質原理(プラクリティ)かー^^ なかなかいいんじゃない^^
この考え方好きだな〜〜^^ 雲は物質原理(プラクリティ)の現れ・・
人の思考は精神原理(プルシャ) の表れ・・
ん? 雲も存在しない・・
人も存在しない・・
存在してるのは・・
物質原理(プラクリティ)と精神原理(プルシャ)のみである^^ なぜ雲は存在しないのか・・^^
形のあるものは変化生滅するものだから・・^^
実体のないもの・・仮の姿をしている無自性なものだから・・
人も存在しない・・
形のあるものは変化生滅するものだから・・^^
実体のないもの・・仮の姿をしている無自性なものだから・・^^
・・とこうなる^^ 仮の姿ということは・・^^
その本質は・・
物質原理(プラクリティ)であり精神原理(プルシャ)であると^^
こうなる^^ 雲の中に物質原理(プラクリティ)を見る^^
人の中に精神原理(プルシャ)を見る^^ 雲の中に物質原理(プラクリティ)を見る^^
人の中に精神原理(プルシャ)を見る^^
とどうなるか・・^^ この写真で例えると・・^^
精神原理(プルシャ)を見る人(車の中の人)は、やがて解脱するために
物質原理(プラクリティ)を眺めます。
すると、プラクリティはラジャスが活動を始めて平衡状態が破れ、世界が生まれます。
まず、「ブッディ(思考・判断作用)」、「アハンカーラ(自我意識)」、「マナス(識別作用)」、
「5感覚器官」、「5行動器官」が順次生まれます。
さらに5感覚器官から「微細な5大元素」、そして「粗大な5大元素」を生みます。 精神原理(プルシャ)を見る人(車の中の人)は、やがて解脱するために
物質原理(プラクリティ)を眺めます。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて
平衡状態が破れ、世界(雲)が生まれます。 「ボーアのイメージする実在は、観測されなければ存在しないようなものだった。
コペンハーゲン解釈(コペンハーゲンを本拠地とするボーアが中心となって作った
量子力学解釈)によれば、ミクロな対象はなんらかの性質をあらかじめもつわけで
はない。電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるま
では、どこにも存在しない。速度であれ、他のどんな性質であれ、測定されるまで
は物理的な属性をもたないのだ。ひとつの測定が行われてから次の測定が行われ
るまでのあいだに、電子はどこに存在していたのか、どんな速度で運動していたの
か、と問うことには意味がない。量子力学は、測定装置とは独立して存在する
ような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ
、その電子は『実在物』になる。つまり、観測されない電子は、存在しないと
いうことだ」。 ・・で問題は・・^^
実は1つの電子は同時にこの「上向きスピン」と「下向きスピン」の両方の状態を
持つことができるのです。これを電子が「上向きスピン状態」と「下向きスピン状態」の
重ね合わさった状態にあるといいます。
これが量子力学のいう重ね合わせの一例です。観測するまではどちらの状態にあるのかは
分かりませんが、観測することで、重ね合わせ状態からどちらかの確定した状態へと変わります。
この変化を「状態の収縮」と呼びます。
この現象なんだよな^^ 電子のスピンは半整数の1/2であることが実験的に分かっていて、
このスピン1/2をもった電子の基本的な「スピン状態」は2つあり、
しばしば「上向き」と「下向き」というように言い表されます。
ここで「上向き」、「下向き」というのは便宜上使っているだけであり、
要するに2つの状態にラベルを付けただけのものです。 実は1つの電子は同時にこの「上向きスピン」と「下向きスピン」の両方の状態を
持つことができるのです。これを電子が「上向きスピン状態」と「下向きスピン状態」の
重ね合わさった状態にあるといいます。
これが量子力学のいう重ね合わせの一例です。観測するまではどちらの状態にあるのかは
分かりませんが、観測することで、重ね合わせ状態からどちらかの確定した状態へと変わります。
この変化を「状態の収縮」と呼びます。 さらに、この重ね合わせの真の不思議さは2つの粒子の重ね合わせにおいて決定的になります。
それが量子もつれ(量子エンタングルメント)という状態です。
これは、先ほどの1粒子の重ね合わせが2つペアになった状態の特別な場合です。
たとえば、ペアになった粒子Aと粒子Bのそれぞれのスピンの向きが「Aが上向き・Bが下向き」と
「Aが下向き・Bが上向き」との重ね合わせ状態を形成している場合です。
このような場合、一方の粒子を観測してその状態が分かれば、もう一方の粒子の状態は観測する
までもなく、決まってしまうのです。たとえば、Aが下向きだと観測されれば、
その瞬間Bは上向き状態に決まります。これは状態の瞬間収縮により瞬時に起こります。 多世界解釈では、重ね合わせの数だけ世界が分岐し並行世界が存在するとされています。
観測によって状態が1つに収縮するのではなく、観測により2つの並行世界が
出現するのです。観測者自体が観測により分岐し、どちらか一方の世界しか
知り得ないため、1つに収縮したように思えるというのがこの解釈の主張なのです 電子の基本的な「スピン状態」は2つあり、
しばしば「上向き」と「下向き」と言われる^^ 観測するまではどちらの状態にあるのかは分かりませんが、観測することで、
重ね合わせ状態からどちらかの確定した状態へと変わります。
ということは^^ 重ね合わせ状態からどちらかの確定した状態へと変わります。
ということは・・^^
どちらかが雲と確定したということはもうひとつの状態もあると・・^^
「上向き」が雲と確定してたら・・「下向き」はどうなるのかと^^ Aが下向きだ(雲)と観測されれば、その瞬間Bは上向き状態(?)に決まります。
これは状態の瞬間収縮により瞬時に起こります。 つまり・・・
平衡世界が存在すると・・^^
こうなる^^ 多世界解釈では、重ね合わせの数だけ世界が分岐し並行世界が存在するとされています。
観測によって状態が1つに収縮するのではなく、観測により2つの並行世界が
出現するのです。観測者自体が観測により分岐し、どちらか一方の世界しか
知り得ないため、1つに収縮したように思えるというのがこの解釈の主張なのです
う〜〜ん^^ やはり・・^^
サーンキヤ哲学は量子力学なのかと・・^^
こうなる^^ ・・ということで・・^^
あの写真を見ながら・・^^
ついでに・・
平衡世界を眺めながら・・^^
寝る^^ 有為
有為とは、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象を意味する仏教用語。
有為の法(ダルマ)のことを有為法と呼ぶ。
これに対し、さまざまな因果関係・因縁のうえに存立しない現象のことを無為
と呼ぶ。
ふむふむ^^ 仏教においては、われわれの生存している世界は、すべて生じては変化し、
やがて滅していく諸現象・諸存在によって成り立っており、そうした諸現象・
諸存在が無常であるとの考え方をとっている。
諸行無常の「行」も、時に有為と訳される。
このようななか、古くは阿含経から、世界の一切を色受想行識の五蘊に分けて
示し、これら五蘊が仮に集合して人間が存在している(五蘊仮和合)と説き、
五蘊の無我を表す考え方が、原始仏教以降存在している。
この五蘊はあくまで有為法であり、非現象である無為法は含まれていない。
原始仏教においては、存在とは自己存在を中心として捉えられており、
本質的なもの・理想の真理である無為法は、現象としての自己存在をまったく
否定したところに現出する、次元を異にしたものと考えられていたためである。
ふむふむ^^ つまり・・^^
雲は有為であり・・
生じては変化し、やがて滅していく諸現象・諸存在によって成り立っており、
そうした諸現象・諸存在が無常である・・
ということになる^^ さまざまな因果関係・因縁のうえに存立しない現象のことを無為と呼ぶ。
つまり・・
雲の原理・・^^
すなわち・・^^
あらゆる現象は物質原理(プラクリティ)が生起している・・^^
それに伴い物質が変化生滅していると・・^^
雲の現象とは雲の物質原理(プラクリティ)が生起していると・・
ん?
そこには有為と無為が同時に生起しているのか・・^^
となる^^ ん?
物質とその原理が同時に生起しているとなるのか? さまざまな因果関係・因縁のうえに存立しない現象・・^^
つまり・・
そこには時間・空間が存在しないと・・
こうなる^^ 時間・空間が存在しないということは・・
どいううことか? 宗教板なのだから逃げずに御霊(みたま)のことについて考えなさえれ。 すると・・
これも解ってくる^^
物質原理(プラクリティ)は物質の根源・・初めは「未顕現」の状態にある。
その時物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。 すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて
平衡状態が破れ、世界が生まれます。
そういうことだ^^ そうなると・・
サーンキヤ哲学は量子力学であると・・
こうなる^^ こうなったところで・・
あの動画を再び検証しようかなと・・
こうなる^^ ことの始まりはこの動画からだった・・^^
321 :
童天
2016/10/29(土) 08:48:19.45 ID:42zRS6mr
※314
一人しかいないんですか?
2chあんまり見ないので、なんとも(';')
麻原の動画を見ると、結構的確な応答をしてて、何かしらの体験はしてると思われ。
http://nicoapple.sub.jp/sm19101217←これを見ると分かる。
最終解脱()が謎で、
「オウム真理教事件I 武装化と教義」の中で、「最終解脱って何だろう?」
と弟子の前で漏らしたりと本人も迷子。
ダンテス・ダイジは多少本当と思いますよ。
臨済宗の寺を訪ねて坐禅する話が載っていますが、彼の感動が分かるので… まだ同じような所をグルグル回って卒業できないのかw
宗教に量子力学など無関係だよ。
なぜなら、神は物質ではないのだから。
サーンキャは、無神論であり、偽装した唯物論でしかない。
これに対してヨーガ・スートラは有神論ね。 A「三界と五蘊を超えたところにアートマンは存在すると・・」
A「サーンキヤ哲学的な考え方になってくるんだよね^^」
B「サーンキヤ二元論ですよね^^」
A「サーンキャ二元論は何を言いたいのかと言うと・・
三界と○○の区別・・五蘊と○○の区別になるよね・・わかるよね言いたいこと^^」
A「真我の特徴はなにか・・アートマンの特徴はなにかというと・・
本質的なものは・・自と他の区別は存在しないと・ちゃんとした個我は存在すると
こういうことだね^^」
う〜〜ん^^
・・となる^^ う〜〜ん^^
もうおまいら書き込まなくていいから^^
自分でスレ立ててそこでなんでも書けや・・^^
・・となる^^
必然である^^ そこには・・
雲を眺める人と雲がある^^
ということは・・
そこには・・
プルシャ(精神原理)とプラクリティ(物質原理)があると・・^^ プルシャ(精神原理)は雲を眺めるだけ・・
つまり・・
雲(物質原理)の展開を眺めるだけ・・となる^^ プルシャ(精神原理)は活動しない・・
おなじく・・
プラクリティ(物質原理)も当初はおとなしくしている^^ プラクリティ(物質原理)はラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性という3つのグナ(性質)を帯びていて、
それらのバランスがとれている間は活動しない・・
それらのバランスが崩れた時に展開を始めます。 プラクリティ(物質原理)が展開を始めると、
@ブッディ(統覚)になります。ブッディ(統覚)とは
環境世界や心の内面の働きを統合する機能のことです。
次にブッディ(統覚)は展開して
Aアハンカーラ(自我意識)になります。
「我あり」という意識です。
次にアハンカーラ(自我意識)は展開して
B11のインドリア(器官)になります。
この11のうち1つはマナス(想念)と言って、心の働きです。
そしてあとの10は身体器官です。
次に11のインドリア(器官)は展開して
C5つのタンマトラ(素粒子)になります。
5つのタンマトラ(素粒子)とは、香、味、色、蝕、音の5つです。
次に5つのタンマトラ(素粒子)は展開して
D5つのブータ(元素)になります。
5つのブータ(元素)とは、地、水、火、風、空、の5つです。
ふむふむ^^ 私達が日頃「これが自分の本質だ」と感じている想念や自我意識や統覚などの
心の働きをプラクリティ(物質原理)の展開のくくりに入れ、
それとは別にプルシャ(精神原理)の存在を主張します
。私達の心の働きは身体の働きや環境世界の働きと同根、同じ性質を持ち、
心の働きが静止した時に初めてプルシャ(精神原理)が現れます。
プルシャ(精神原理)は「真我」、あるいは「絶対主観」と呼んでも良いでしょう。
ふむふむ^^ つまり・・^^
自我意識はプラクリティ(物質原理)の展開であると・・^^
心の働きが静止した時に初めてプルシャ(精神原理)が現れると^^
こうなる^^ ・・となると・・^^
ん?
雲を眺める人もプラクリティ(物質原理)の展開であると・
こうなるな^^
うわっ^^ ・・ということは・・^^
雲も人もプラクリティ(物質原理)の展開であると・・^^
ん?
雲は存在するのか?
・・となる^^ 私達の心の働きは身体の働きや環境世界の働きと同根、
同じ性質を持ち、心の働きが静止した時に初めて
プルシャ(精神原理)が現れます。
ふむふむ^^ 心の働きは身体の働きや環境世界の働きと同根、
同じ性質を持つと・・^^
すなわち・・
心も雲も同根、同じ性質・・
プラクリティ(物質原理)であると・・
こうだな^^ ・・で
心の働きが静止した時に初めて
プルシャ(精神原理)が現れると^^
こうなる^^ 人も物質・・雲も物質・・
同じプラクリティ(物質原理)であると・・
こうなる^^ 物質原理(プラクリティ)は物質の根源・・初めは「未顕現」の状態にある。
その時物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて
平衡状態が破れ、世界が生まれます。
こうなると・・・^^ ラマナマハリシが行ったようにプラクリティ(物質原理)の展開の終わりの方か
ら始まりの方へ瞑想を進め、つまり想念が静止し、自我意識が静止し、統覚が静止
した時に初めてプルシャ(精神原理)にたどり着くことが出来るのです
ふむふむ^^ ・・ということは・・^^
この瞑想を実践しなければあかん^^
・・とこうなる^^ そこには物質原理(プラクリティ)物質の根源・・初めは「未顕現」の状態にある。 その時物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。 雲・・物質原理(プラクリティ)は・・初めは「未顕現」の状態にある。
物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
人・・物質原理(プラクリティ)は・・初めは「未顕現」の状態にある。
物質原理(プラクリティ)の中でラジャス(激動性)、タマス(暗黒性)
サットヴァ(純粋性)の3グナが均衡している。
ん?
おなじやないかい^^ そのとき・・
それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて
平衡状態が破れ、世界が生まれます。 雲・・それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて
平衡状態が破れ、世界が生まれます。
人・・それが精神原理(プルシャ)に見られる事で均衡が崩れパリナーマ(転変)が始まる。
すると、物質原理(プラクリティ)は激質(ラジャス)が活動を始めて
平衡状態が破れ、世界が生まれます。
ん?
おなじやないかい^^
・・となる^^ 人・・私達の心の働きは身体の働きや環境世界の働きと同根、
同じ性質を持ち、心の働きが静止した時に初めて
プルシャ(精神原理)が現れます。
となる^^ 雲・・私達の心の働きは身体の働きや環境世界の働きと同根、
同じ性質を持ち、心の働きが静止した時に初めて
プルシャ(精神原理)が現れます。
雲もこうなるのか^^ うわっ^^
うわっ^^
雲にはプルシャ(精神原理)が現れないな^^ う〜〜ん^^
これ理解するに3ヶ月はかかるな^^
毎日考えようっと^^
寝る^^ 今日は天気もよく瞑想日和だったな^^
ということで^^ 自我があるから想念がある^^
心を滅しろと・・
心を滅した時・・
真我が現れれると・・ アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、
意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
ふむふむ^^ アートマンは個の中心にあり認識をするものである。
それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、
アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
ふむふむ^^ アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと
同一であるとされる(梵我一如)。
ふむふむ^^ 梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と
我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、
または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようと
する思想。
古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。
不二一元論ともいう。
ふむふむ^^ ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、
宇宙に遍在する梵と同一であることを悟ることによって、
自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。
ふむふむ^^ え〜〜と^^
瞑想とは心の止滅である^^
・・とこうなる^^ ヨーガとは心素の働きを止滅することである (『ヨーガ・スートラ』1-2)
その時、純粋観照者たる真我は、自己本来の姿にとどまることになる・・
う〜〜ん^^
さてと・・^^
寝るかな^^ ヨーガはどのようなものかだいだい理解できたど・^^
やり方知らんがな・・^^
となる^^
ということで・・
寝る^^ 【想念】
心の中に浮かぶ考え
・・と言われても^^ あれ・・あれれ^^
体からくるのか?
まじ?
ラマナ・マハルシ:体は想念
うわっ^^ 想念はどこからくるのか?
う〜〜ん^^
・・となる^^ お〜〜い^^
想念ちぁあああああああああああああん^^
どっからきたんや^^
・・となる^^ あれ・・^^
想念観察しようとしたら止まりやがった^^ 想念ちゃんも・・
おいらのまえでは・・
たじたじである^^ 想念ちゃんの正体をあばいてやる^^
・・とこうなる^^ 五蘊の構成は,物質的構成要素の色と精神的構成要素である受・想・行・識に分けられる。
そして,これら五蘊の構成要素の集まりである人間は,無我であるとした。
したがって,色蘊によって構成される身体が無我であると同時に,受・想・行・識の蘊に
よって構成される心も無我でなければならない。 我執があるから泡だらけになる^^
泡だらけになり・・
「たちけてくれ〜〜」
・・とこうなる^^ 体が泡だらけ状態・・
それが・・
おまいら・・となる^^ 自我がなければ泡まみれとなることはない^^
となる^^ ということは・・
想念が湧き出てきたら・・
泡すなわち空とみなす^^
ということになる^^
つまり・・
「五蘊皆空」である^^ ということは・・
想念に惑わされるとは・・
なんのための瞑想なのか・・・^^
となる^^ ちなみに・・
これ^^
五蘊皆空(ごうんかいくう) と読むから^^
覚えといてね^^
となる^^ 泡まみれのおまいらには・・
とてもよい言葉である^^ 【想念】
心の中に浮かぶ考え ・・
これをなぜ止滅せざるをえないのか・・^^
それが問題である^^ 心を止滅すればその先に解脱がある^^
これは理解できる^^ 善も悪も・・美しいと感じる心も止滅する^^
その先にあらわれるものは何か・・^^ ということで・・^^
瞑想に行くことになる^^
体験でしか理解できない・・
となる^^ ではその世界を眺めてくるかなっと^^
ではでは^^ う〜〜ん^^
サマディ知らんけど^^
眺めることできるのかな^^
となる^^
当然である^^ 観察する理性というのは、「物を物たらしめているのは物の意識にほかならぬこと」を
理解している意識のことであって、「物とは自分以外のなにものでもない」ということが
わかっている。したがって、この意識が自然界を対象とする時、自然とは自分自身がとって
いる自分の違う形である、ということになる。自然も自分自身も同じものの異なった現れなのだ。
それをいいかえれば、内面である自分自身が外面化したものが物だ、
ということになる。
・・ということになる^^ ヘーゲルがここでいいたいのは、対象も意識も絶対精神の疎外態であるかぎり、
もともとは同じものが異なった現れ方をしているだけだということなのだろうが、
それが個別的な意識には、自分自身が外面化したものが対象としての物という
ふうに見える、ということなのだろう。この外面化とは、意識が物の形をとる
ことから、物象化といいかえてもいい。
ふむふむ^^ 「物を物たらしめているのは物の意識にほかならぬこと」かー^^
ふむふむ^^ 「自分自身が外面化したものが対象としての物というふうに見える」
ふむふむ^^ 「内面である自分自身が外面化したものが物だ」
こうきたか・・^^
・・となる^^ ヘーゲルちゃんは唯識読んでるな^^
とこうなる^^ 対象も意識も絶対精神の疎外態であるかぎり、
もともとは同じものが異なった現れ方をしているだけだということ
う〜〜ん^^
サンキャ哲学も読んでいるのか・・
とこうなる^^ 西洋哲学は東洋思想を参考にしているから・・
当然可能性はある^^ 人はみんな同じ風に考える・・・
と言ったほうが正解である^^ パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」の第一章の冒頭
「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
なんじゃこれ?
・・となる^^ 「見るものたる真我は、その本性にとどまる」
「真我の本性にとどまる」
ここがわからん^^
となる^^ (初心者はどのようにこの探求を始めればいいのか、というなら)
心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。
「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えて
いる薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」という想念自体も滅ぼ
されてしまうだろう。
他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、「その想念が誰にとって
現れたのか?」と尋ねるべきである。
いかに多くの想念が現れようとかまいはしない。
想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、「これは誰にとって現れたのか?」
と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。
そのとき、「私とは誰か?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、
現れでた想念も静かになるだろう。
このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術を見いだす
だろう。
ふむふむ^^ 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が心のなかにあるかぎり、「私は誰か?」
という探求は必要だ。
想念が起こるなり、そのとき、その源で、探求によってすべての想念を根絶
するべきである。
真我以外の何ものも求めないこと(アンニャ)が無執着(ヴァイラーギャ)
あるいは無欲(ニラーシャ)であり、真我をけっして離れないことが智慧
(ジニャーナ)である。
ふむふむ^^ 「束縛されているのは誰なのか?」と尋ね入り、自己の本性(スワルーパ)
を知ることこそが解脱である。
真我探求とは、つねに心を真我のなかだけにとどめておくことである。
瞑想とは、真我を存在−意識−至福(サット−チット−アーナンダ)である
至高の存在(ブラフマン)と思いなすことである
ふむふむ^^ その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
では静寂とは何を意味するのだろうか?
それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
それ以上簡単なことがあるだろうか?
それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
なのである。
ふむふむ^^ つまり・・^^
「静かにしろ」
とこうなる^^
簡単である^^ 彼は本来無限なるもの
自己の完全なる本質そのもの
これ以上何を言うことがあろう
彼は真理を知り もはや快楽も解脱も望まない 彼は考えることなしに考え
感じることなしに感じる
彼は聰明だが心を持たない
彼には人格があるが
自分という考えがない
彼は幸せでもなく
不幸せでもない
冷淡ではなく
とらわれてもいない 「私」とは何か
あるいは「私のもの」とは
あるいは「これ」とは
あるいは真我の本当の姿とは
私は常に一なるもの
生きながらの解脱
死んでからの解脱
あるいは現世のカルマなど
何を気にするというのだろう
私は常に「私」なしに在る
だから行為する者や
それを楽しむ者がどこにいるというのだろう
現れては消え去る想念とは何か
不可視の世界や可視の世界とは何か 「ここ」 そして 「今」
あるいは彼方なるものとは何か
私は永遠に純粋だ
幻影あるいは世界とは何か
アートマンあるいはブラフマンとは何か
二のない一なるもの
私は常に変わらない
ハートの内に私は留まる 努力や静寂のために何が必要だというのか
自由あるいは束縛とは何か
聖典あるいは教えとは
人生の目的とは何か
弟子とは そして師とは誰か
私に限界はない
私はシヴァ
私からは何も現れない
私の中には一も二もない
何も存在せず
無も存在しない
これ以上何を言うことがあろう う〜〜ん^^
心素の働きを止滅させるとこうなる^^
よくわかった^^ つまり・・
彼は考えることなしに考え
感じることなしに感じる
彼は聰明だが心を持たない
彼には人格があるが
自分という考えがない
彼は幸せでもなく
不幸せでもない
冷淡ではなく
とらわれてもいない
自由ではなく
自由を求めてもいない
彼はこれではなく
あれでもない
混乱のさなかでも
彼は乱されない
瞑想のさなかでも
彼は瞑想してはいない つまり・・^^
「彼はこれではなくあれでもない」
となる^^ やはり・・
「心の働きを止滅させる」
これに尽きる^^ 唯識で言えば・・
三性
@物事を宗教的倫理の立場から区別する三つの性質。
善と悪と無記(善でも悪でもないもの)。
A唯識学派・華厳宗などで説く,この世の存在の三つの在り方。
実体がないものを実在であると思い込む遍計所執性へんげしよしゆうしよう
事物が縁によって生まれたものであると知る依他起性えたきしよう
完成された真の存在としての円成実性えんじようじつしよう
この三性をも空とする三無性と併せて説かれる。 三性
このような識の転変によって、存在の様態をどのように見ているかに、3つあるとする。
@遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)構想された存在 凡夫(おまいらの日常の認識。
A依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
B円成実性(えんじょうじっしょう)絶対的存在、完成された存在
このような見方は唯識を待つまでもなく大乗仏教の基本であり、その原型が既に般若経に説かれている。
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、
存在せず、空である 空観により・・無分別の智が生じ・・分別・戯論・煩悩が止滅される・・ 依他起性は分別であり、(それは)縁によって生じるのである。円成実性は、それ(依他起性)
が、常に前(遍計所執性)を離れていることそのことである。
68 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/13(火) 18:12:51.12 ID:IcTu3Kzr
この故にこそ、それ(円成実性)は依他起性と別ではないし、別でないのでもない。(この関
係は)無常性(と無常なる事物)等のようにいわれるべきである。これ(円成実性)が見られ
ないとき、それ(依他起性)は見られない。
69 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/13(火) 18:14:02.89 ID:IcTu3Kzr
これは無心であり、無所得[ 対象を見ない・主観と対象との分別が無い ] である。それはま
た、出世間智である。転依である。二種[ 所知障と煩悩障との二種の仏道の障害 ] の祖重
[ 煩悩の種子 ] を断じたが故に
70 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/13(火) 18:15:31.23 ID:IcTu3Kzr
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。 対象や自我への執着が落ち、言語的な枠組も非実体化されるとき、
遍計所執の世界が円成実性の世界に転じる 円成実性《えんじょうじっしょう》
依他起性をそのまま依他起性として正覚して(空性(縁起空)・無自性の正覚)、
遍計所執性(虚妄分別)を離れること。 心の働きを唯識で言えば・・
この三性なんだよな^^ 「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
つまり・・^^ 心素の働きが止滅すれば・・
因縁果 ◆d........o
2016/09/13(火) 18:15:31.23 ID:IcTu3Kzr
これこそが無漏界であり、不可思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身
である。これが大牟尼の法と謂われるものである。
こうなると・・^^ つまり・・^^
対象や自我への執着が落ち、言語的な枠組も非実体化されるとき、
遍計所執の世界が円成実性の世界に転じる
とこうなる^^ 仏教では・・
48 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/13(火) 03:54:51.02 ID:xjzRW2hd
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
49 :
因縁果 ◆d........o
2016/09/13(火) 03:56:20.92 ID:xjzRW2hd
「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが
我ではない(諸法無我)と観察し、これを智慧によって理解すると、
清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。 ということは・・・^^
基本はこれ^^
「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」 これから・・
ひねりだしてくると^^
こうなる^^ う〜〜ん^^
ひねっちゃったか・・^^
とこうなる^^ 「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
これから唯識ちゃんは・・^^
遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、
存在せず、空である
こうなったと^^
ん? 見るものたる真我は、その本性にとどまる
つまり・・
唯識で言えば・・・
完成された真の存在としての円成実性になるんだよな^^ つまり・・
根本的な考え方は・・
心の止滅にあると・・
こうなる^^ で・・
心とは何か・・
どこから生じるのか・・
により・・
見解が異なってくると・・
こうなる^^ ・・ということで・・^^
心の止滅に行ってこなければあかん^^
とこうなる^^ 彼は考えることなしに考え
感じることなしに感じる
彼は聰明だが心を持たない
彼には人格があるが
自分という考えがない
何も存在せず
無も存在しない
これ以上何を言うことがあろう
とこうなる^^ あぁあああああああああああああああああ
となる^^ 人は変化するもの・・
永続性はありえない^^
しかし・・
永続性を維持するため・・
日々修行しなければならない^^
こういうことだ^^ 「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
またまたこれだ^^ 唯識三十頌の第七頌には
有覆無記に摂めらる 所生に随って繋せらる
阿羅漢と滅定と 出世道とには有ること無し
とある^^ 人間が至ることが可能な最高位である阿羅漢の位、禅定を深めて
九地の最上である「非想非非想処地」に至った者に生じる「滅尽定(めつ
じんじょう)」(阿頼耶識を除いて全ての識作用が停止する状態)、及び
無分別智を発した(見道)後の修行段階である「出世道」においては、
未那識は存在しないと説かれている
ふむふむ^^ これを修行の進展順に整理すれば、通達位の修行において無漏智が具体
的に生起した段階(出世道)から未那識がが存在しない状態が生じはじめ
更に修行を進めて、未那識の働きがすべて停止した段階(滅尽定)、及び
阿羅漢では、常時未那識が存在しないことになる。
ふむふむ^^ 未那識の働きがすべて停止した段階(滅尽定)、及び
阿羅漢では、常時未那識が存在しないことになる。
うわっ^^
となる^^ 修行の結果悟りを開き仏になると、8つの「識」は「智」に転ずる。これを転識得智という。
末那識は平等性智に転識得智になってるんじゃないかと・・ これを修行の進展順に整理すれば、通達位の修行において無漏智が具体
的に生起した段階(出世道)から未那識がが存在しない状態が生じはじめ
更に修行を進めて、未那識の働きがすべて停止した段階(滅尽定)、及び
阿羅漢では、常時未那識が存在しないことになる。
「阿羅漢では、常時未那識が存在しないことになる。 」
ではなく・・
未那識が平等性智にかわっていると・・
こうなる^^ 493 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/25(木) 16:32:27.93 ID:b0Kqx8xD
阿羅漢
初期仏教などで、一切の煩悩(ぼんのう)を断ち生死を離れた
、仏教修行の最高段階。また、そこに達した人。羅漢。 494 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/25(木) 16:39:19.74 ID:b0Kqx8xD
聖者の境地、さとりには四つの段階が説かれています。
第一は予流果(よるか)で、はじめてさとりに向かう流れに乗り、聖者の位に加わった位です。
次は、一生、迷いの生涯を送れば聖者になれる一来果。
その次は、もう二度と迷いの生死に還ることなくさとれる不還果(ふげんか)。
そして最後は、苦悩からの完全な解脱を成就した聖者の最高位、阿羅漢果です。 495 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/25(木) 16:42:01.28 ID:b0Kqx8xD
阿羅漢になると
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
になるとこういうことだな^^ 497 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/25(木) 16:47:15.95 ID:b0Kqx8xD
阿羅漢(あらかん)の位になると・・
第八阿頼耶識は大円鏡智になると・・^^ 345 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/22(月) 16:28:10.50 ID:QIXYa+gq
唯識の特徴は,従来の6種の識(眼,耳,鼻,舌,身,意の六識)のほかに
,あらゆる表象としての存在を生み出す根本識として,そのメカニズムを
担う種子を蔵しているアーラヤ識(阿頼耶識(あらやしき))と,
根源的な自我執着意識である末那識(まなしき)との
二つの深層心理を立てたことである。
また,存在のあり方を認識主観とのかかわりによって
遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)(主客として実在視されたあり方),
依他起性(えたきしよう)(縁起によって生じている相),
円成実性(えんじようじつしよう)(主客の実在視をはなれた真実のすがた)
の三つに分ける三性説,およびそれを否定的に表現した三無性説も唯識説独自の思想である。
この唯識説を唱えた学派は瑜伽行唯識派とも呼ばれるように,この説は,ヨーガ(瑜伽(ゆが))
という実践を通して,識のあり方を汚れた状態から清浄な状態へ変革すること,
すなわち汚れた識を転じて清らかな智慧を得るという〈転識得智(てんじきとくち)〉
を究極の目的とする。… 311 :
因縁果 ◆d........o
2016/08/21(日) 16:35:41.83 ID:KIXbn2KO
(識が所変に依る)
識はこれ^^
第十乾栗陀耶識・・仏覚、無上覚・・仏の世界
↓
・・・・・・・・・・解脱・・・・・・・・・・
↓
第九阿摩羅識・・仏性
↓
・・・・・・・・・・悟り・・・・・・・・・・
↓
第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) 第十乾栗陀耶識・・仏覚、無上覚・・仏の世界
↓
・・・・・・・・・・解脱・・・・・・・・・・
↓
第九阿摩羅識・・仏性
↓
・・・・・・・・・・悟り・・・・・・・・・・
これは唯識ではない^^ 「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
う〜〜んと^^
どこまで止滅させろばいいのかな♪
となる^^ 第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
ん?
無意識の段階まではいるのか・・?
となる^^ 唯識では・・
識か智に変換してると・・
こうなる^^ ということは・・
「心素の働きを止滅させることであり」
ではなく・・
唯識では
「心素の働きを智に変換させることであり・・」
となる^^ 「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
ここから・・
この唯識説を唱えた学派は瑜伽行唯識派とも呼ばれるように,この説は,ヨーガ(瑜伽(ゆが))
という実践を通して,識のあり方を汚れた状態から清浄な状態へ変革すること,
すなわち汚れた識を転じて清らかな智慧を得るという〈転識得智(てんじきとくち)〉
を究極の目的とする。
このような発想が生じたと^^ 第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
これかー^^ 「唯識とは心素の働きを転識得智させることであり、心素の働きが転識得智すれば
見るものたる第八阿頼耶識は、その本性にとどまる」
となる^^ みんな基本はヨーガの実践から・・
となるんだよな^^ ヨーガというものは、仏教よりもずっと以前からあるインド宗教の修行方法
であり、歴史的に見れば仏教なんかよりもはるかに長いんですけどね。
仏教の開祖であるシャカも当然ながら行っていましたよ。
インド宗教が源流であるヨーガは、大乗仏教では「座禅」というスタイルで継
承されたといえます。逆からいえば、座禅の元祖はヨーガということです。
ふむふむ^^
そうかそうか^^
そうかがっ・・・
ん?
へんなのでてきた^^ でだ^^
ヨーガと瞑想の違いは何だ^^
となる^^ 紀元前500年ごろに、ブッダはヨガの瞑想法、アナパナサティ・ヨグを実習したと記録されているので、
そのことにはヨガの技法が広く修行者たちによって実習されていたことが
わかります。
また紀元前350年から300年頃に成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」には、
「感官の確かな制御がヨガである」というヨガの定義が始めて出現します。
そして、2−4世紀にかけて、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基盤と
して、パタンジャリがその実践方法を「ヨガ・スートラ」としてまとめ、
ここにおいてヨガの理論的な基盤が確立されたのです。
「ヨガ・スートラ」の第一章にはこう書かれています。
「ヨガとは心の寂滅である。」
この言葉だけで、第一章はおわりです
ん?
サーンキヤ学派 と「ヨガとは心の寂滅である。」
きたか・・^^
となる^^ 心の寂滅とは、禅の言葉でいえば無心です。 無心とは、
瞑想のなかで心の動きが止まっている禅定(ディアーナ)の状態を、
別な言葉で表現しているだけのことです。
心の動きが止まっている禅定・・きたか^^
となる^^ こうみてくると・・
だいたいの流れが見えてくる・・^^
とこうなる^^ まず・・
パタンジャリのヨーガスートラを体得せにゃあかん^^
ここからやな^^
第五段階 「制感」= プラティヤハーラ
「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に
似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」(U−54)
第六段階 「凝念」= ダーラナー
「凝念(ダラーナ)とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に
縛り付けておくことである。」(V−1) 第七段階 「静慮」= ディヤーナ
「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのが
ディヤーナ(静慮)である。」(V−2)
第八段階 「三昧」= サマーディ
「真我がその周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に
気づいて、その束縛から脱出することである」 クンダリーニ・ヨーガか・・
特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、
より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ−ニ・シャクティ(女神)を
目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ、眉間の部位(アジナ・チャクラ)で
待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を
宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと
発達したヨーガの体系です。
ふむふむ^^ 梵我一如・・ブラフマン・アートマン・アイキャの体験を実現かー^^
これも興味深いな^^
梵我一如を瞑想によって体験できるとは・・^^
ブラフマン・アートマンを体験できるとは・・^^
やらざるを得ないとなる^^ 梵我一如を瞑想によって体験できる・・^^
ブラフマン・アートマンを体験できる・・^^
これまじで言ってるのかな^^
とりあえず^^
今日のところは寝る^^ やはり・・
結論的には・・・
自分が体験したこと以外は妄想虚構でああると・・
した方が正解だな^^ とりあえず・・
「空」・・空性感だけは・・
ある^^
その他については参考だけに・・
しとこっと^^ 諸行無常(しょぎょうむじょう)−−− すべての存在は移り変わる
是生滅法(ぜしょうめっぽう) −−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已(しょうめつめつい) −−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽(じゃくめついらく)−−− 寂滅をもって楽と為す 寂滅をもって楽と為す
このひと言で足りる^^
後のものはいらんがな^^
となる^^ 「あらゆる物質は〈素粒子レベル〉で振動していて、
それぞれ〈固有の振動数=周波数〉を持っている」 この世界すべては素粒子の振動で形作られていることになる^^ 「諸行無常」
全ての物事は移り変わっていくものであり、
永遠に変わらないものなどは何も存在しないということ。
「諸法無我」
宇宙の万物が刻々と変化しているように、人間も常に変化しており、
固定的な我というものなどは存在しないということ。
「涅槃寂静」
諸行無常と諸法無我を知り、煩悩を吹き消すことで心安らかな境地に
いたれるということ。
つまり・・^^ 諸行無常−−− すべての存在は移り変わる
是生滅法−−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽−−− 寂滅をもって楽と為す
こうなり・・ 「諸行無常なり、是れ生滅の法なり
生滅へのとらわれを滅し尽くして楽と為す 」
こうなると・・^^ ・・で問題は
「変化」とは何か・・
なんだよな^^ 質料因・・・ある意味では、事物がそれから生成し、その生成した事物に内在しているもの
形相因・・・形相または原型(その事物の原因)−摂取する類
動力因・・・物事の転化 or 静止の第一の始まり
目的因・・・物事の終わり、物事がそれのためにあるもの。 もともとの自然物とは、「それ自身の中にある原理によって連続的に運動し、
ある終わり(目的)に達する事物」である。 人とは、「それ自身の中にある原理によって連続的に運動し、
死(目的)に達するためのもの」である。
となる^^ >>633
こらぁああああああああああああああああああああ^^
ん?
このリンク別スレで見たような感がする^^ エックハルト・トールは言います。
それでは、いま安らぎを得るにはどうすればいいか?
いまという瞬間と仲直りをすることだ。
いまという瞬間は、生命というゲームが展開している場である。
生命は他のどこで展開することもあり得ない。
いまという瞬間と仲直りしたら何が起こるかを、
自分には何ができ、どんな行動を選ぶことができるかを、
それよりもあなたを通して生命がどう展開するかを見つめよう。 真理というモノはあなた方愚民の言葉の中には一片たりとも宿りません。
エックハルトの言葉にだけ宿るのです。
エックハルト・トールについて語るスレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1475452304/ エッグタルトホールほ仏教的手法だから効果あるのは解るけど
仏教に詳しければ逆に仏教の修行段階の初期であることが解るから
まぁ参考程度だよな
日本仏教と日本のスピリチュアルのレベルが低いから
今、ここ、あるくらいで悟りと勘違いしてるだけで
テーラワーダのサマディーやチベット仏教のサマディーには至ってない事は
勉強すればすぐ解る http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/290851301.html
「幸福の科学」のガンちゃんです。
君らは、クズですww
悔しかったら、私を論破しなさい!!
出来はしないだろうがww
君らのオツムじゃ・・・・
カマ〜ン!! 「私は存在する」とだれでも思う^^
しかし・・
それが現象であったとしたら・・^^
うむ〜〜^^
となる^^ あなたは存在していない^^
現象として現れているだけ^^
うわぁあああああああああああああああああああああ
となる^^ これは考察してみる価値がある^^
うむ〜^^
となる^^ げんしょう【現象 phenomenon】
一般に事象がわれわれに対して現れている姿を言うが,
この現象については古来対立する二つの考え方がある。
一つは,時空間的に制約されることのない本体あるいは本質を想定し,
それが時空界に現れた姿を現象と考える。
カントの現象概念がその典型であり,彼は物のそれ自体における姿
つまり物自体と,われわれの感性にとってのその現れつまり現象とを区別し,
われわれ有限な人間には物自体は認識不可能であり(不可知論),
認識可能なのは現象界だけだと考えた。
カントちゃん・・ひねっちゃったかー^^
となる^^ @時空間的に制約されることのない本体あるいは本質がある
Aそれが時空界に現れた姿を現象と考える
う〜〜ん^^
これはありえる^^ カントの現象概念
@物自体(有限な人間には物自体は認識不可能)(不可知論)
Aわれわれの感性における現象(有限な人間にとって認識可能なのは現象界だけ)
う〜〜ん^^
つまり・・感性は現象だけしか見れないと・・
これも・・ありえる^^ 【神秘】不思議すぎる自然現象 @
https://www.youtube.com/watch?v=6PeC1qC3rVY
これらを見ると・・
人の存在は現象であると・・
@時空間的に制約されることのない本体あるいは本質がある
Aそれが時空界に現れた姿を現象と考える
これらがありえると・・
こうなる^^ 人の存在は時空間に現れた現象であると・・
その本体・本質は時空間を越えたところに存在すると
こうなる^^
これだと・・・
すべてが解決する^^ こうなってくると・・・
「現象」の言葉だけでは不十分であり・・
新しい言葉の概念を作り出さなくてはならない^^ つまり・・
人の能力では到底理解することは不可能であると・・
こうなる^^ 異質な現象であるからして・・
生滅変化するんだよな^^ まっ・・とりあえず・・^^
寝るか^^
となる^^
寝る^^ 「人の存在は時空間に現れた現象であると・・
その本体・本質は時空間を越えたところに存在する」
これを証明するには・・^^
う〜〜ん^^ 変化生滅するんだからなにかしらの現象であることも・・
確かであると^^ 現象っていうことは・・^^
その本質・本体があると・・
こうなる^^ 変化生滅するんだから・・
それは時空間に存在する・・
これも確かである^^ つまり・・
時空間に存在するものすべてが・・
時空間に伴う現象であると・・
こうなる・・^^ カントちゃんいわく・・
「われわれ有限な人間には物自体は認識不可能であり(不可知論),
認識可能なのは現象界だけだと・・」 現象であるということは・・
そこには現象の本体・本質が存在すると・・^^
しかし・・
現象は時空間を必要とする^^ 時空間を必要としない・・
永遠・不滅のものが本体・本質であると・・
しかし・・
人はカントちゃんいわく現象しか認識できない・・
本体・本質は時空間を越えたところに存在するのであり・・
人は認識することができないと・・
こうなる^^ 時空間が存在しない・・永遠不滅のもの・・本体・本質
時空間が存在する・・変化生滅するもの・・現象
こうなる^^ う〜〜ん^^
時空間が存在しないところから・・
時空間が存在するこの世界に・・
現象として現れた・・・^^
となるが・・^^
どうでしょう・^^
となる^^ ビックバンを考えると・・
ありえるな^^
となる^^ しかしだ^^
時空間とは何か・・
といわれると・・
だれもわからない^^ ということは・・^^
「無記」であると・・
こうなる^^ ということで・・^^
今日のところはこのくらいにしといてやる^^
寝る^^ え〜〜と^^
時空間に存在するものはすべて現象であり・・
その本質・本体を持たない^^
ここまでやったと^^ そして・・
人の感性は現象しか認識できない・・^^
・・と^^ ・・でだ^^
その本質・本体は何か・・^^
ということになる^^ とりあえず言える事は・・
本質・本体は時空間には存在しないと・・
なぜなら・・
時空間に存在するものはすべて変化生滅を繰り返す
からであると^^
こうなる^^ で問題は・・
時空間に存在しない永遠・不滅の本質・本体を
どうすれば認識できるのか・・?
という問題である^^ 現象から本体を導き出す^^
この手法が問題である^^ (1)知識の対象となるすべての経験的事実を意味し、自然現象、社会現象、
心的現象などといわれる。
(2)「或(あ)るものの現れ」として、それが現れることによってそれ自身とは
別のあるものを指示する。たとえば煙という現象は火を指示している。
火の存在は「火の現れ」としての煙という現象を通して知ることができる。
(3)仮象としての現象。現象が本質と分離・対立させられ、現象は本質、
真の実在を覆い隠すものとされる。現象のうちにはいかなる真理もないとされ、
本質、真の実在は現象を通して((2)のように)ではなく、仮象としての現象を
取り除くことによって認識される。
(4)カントにおける現象。現象と本質との区別という枠組みを前提し、
しかし(3)と異なり本質そのものの認識は原理的に不可能であるとされる。
カントにおいて人間が認識できるのは、直観形式である時間・空間と
カテゴリーによって秩序づけられた現象のみである。
現象は単なる仮象ではなく経験的実在である。物自体はけっして認識されえない
ふむふむ^^ う〜〜ん^^
3)仮象としての現象。現象が本質と分離・対立させられ、現象は本質、
真の実在を覆い隠すものとされる。現象のうちにはいかなる真理もないとされ、
本質、真の実在は現象を通して((2)のように)ではなく、仮象としての現象を
取り除くことによって認識される。
これだよな〜^^
まさしく・・仏教^^ A人の現象は・・本質、真の実在を覆い隠すものとされる。 C人の現象の本質、真の実在は人の現象を通して仮象としての現象を
取り除くことによって認識される。
うむ〜〜^^
となる^^ つまり・・^^
人の仮象としての現象を取り除くことによって認識される。
「現象を取り除く」
どうやって・・
となる^^ 「現象を取り除く」 ということは・・
「ちね^^」
ということなのか^^ いやいや^^
一つだけその方法がある^^
つまり^^ 瞑想におけるこれらの境地^^
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定 「大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指す」
とか・・
だいだい人の考えることは同じ^^ 人の仮象としての現象から・・その本質、真の実在を知るために
瞑想する^^ そういうことなんだろうな〜〜と^^
では・・
寝る^^ 「仮象としての現象を取り除く」
つまり・・
瞑想することになるのか・・^^ けど・・
現象に智慧があるというのもおかしな話しだな^^ >>642
へっへっへっ、
日本にも悟った後に悟りを洗い流す悟後の修行というのがありやして。
このトールさんとやらも単なる一枚悟りではないと思うのでやんす。 ありえるとしたら・・
「人は仮象としての現象である」と気づくことかな^^ 時空間に存在するものはすべて仮象としての現象である^^
これは確かだな^^ 仮象としての現象を見てるということは・・
これすなわちすべてのものは空であると^^
こうなる^^ >人の仮象としての現象から・・その本質、真の実在を知るために
そこに作務を取り入れた百丈和尚はすげーと思う。
従来の仏教からみて斜め上を行っている。
土から離れたインド仏教は、終いには、ねぇ。 う〜〜ん^^
新しい概念が必要だ^^
存在的現象とか^^
存在してるように見えて実は現象であると・・^^ 因果がないだとぉおおおおおおおおおおおおおおお^^ うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ すなわち・・^^
初めの「う」もなくそれに続く「あ」もないと
いうことである^^ ということは・・・^^
おわかりいただけたであろうか・・^^ 「高エネルギーで因果律の破れている可能性」・・
きたか^^ 因果に関する認識について問題提起を行った哲学者に
イギリスのディヴィッド・ヒュームがいる。
彼は普段人間がある物事と物事を結びつけて考える際、
先に起こった事が後の事の原因になっていると観察する
暗黙の経験則に導かれているに過ぎないのではないかと疑った。
つまり蓋然性は必ずしも必然性を意味しないということであり、
連続して起こった偶然を錯覚している可能性があるとする。
ふむふむ^^ ヒュームの因果説
西洋近代ではデイヴィッド・ヒュームが、因果性とは、
空間的に隣接し時間的に連続で、2 種類の出来事が伴って
起きるとき、この 2 種類の出来事の間に人間が想像する
(人間の心、精神の側に生まれる)必然的な結合関係の
ことである、とした。
つまり、物事はたまたま一緒に起きているだけでも、人間が
精神活動によって勝手に結びつきの設定をしている、という指摘を含んでいる。
ふむふむ^^ 人間というものは、あるいは人間の頭脳というものは、規則性の記述が現前に
なくても、いくつかの出来事を知覚・認知しただけで、それらが因果的に結び
ついていると考える強い傾向を持っている。
ふむふむ^^ 善因善果・悪因悪果・自因自果とはなんだったのであろうか・・
とはならん^^ >>721
一つ言うと 因果とは理由があって結果
があることである すると因果がない
と何々が起こるもまたないので
因果がないことによって起こる結果は
不定となる まあ副王だな ラプラスの悪魔とは系の情報をすべて持っている観測者のことで、
ラプラスは確率的事象は観測者の知る情報量の不足によって生じると考えた。
この考えは古典力学に対しては正しいが、量子力学に対しては正しくない。
量子力学においては、観測者が完全な情報を得ていたとしても、
系の波動関数はシュレーディンガー方程式に従って時間発展し、
波動関数そのものは決定論的に振る舞うが、観測される物理現象は確率的に振る舞う。
従って、量子論的な世界における因果律は、従来考えられていた古典論に則した
因果律とは違ってくる。量子力学における因果律とは、波動関数が
シュレーディンガー方程式に従って変化し、かつどの時刻でも波動関数が定まることを意味する。
量子力学における確率的な現象に対して、古典論と同じようにそれが情報の不足によって現れると
する考えと、量子論的なスケールでは根源的に物理現象は確率的にしか予測できないとする考えが
示された。アインシュタインは前者の考えを支持し、1935年にアインシュタインとボリス・ポドルスキー、
ネイサン・ローゼンは実在論的な物理モデルが従うべき仮定と隠れた変数理論の必要性を示した。
一方、ニールス・ボーア (1885 ― 1962) は後者の考えを支持した。
ふむふむ^^ 「因果がないことによって起こる結果は不定となる」
ふむふむ^^ おいらの考えでは・・
因の中にすでに果が存在する・・
時間の存在が別のものにしていると・・
つまり・・
因と果は同時に存在すると・・
同じものであると・・
あー光と闇だったっけ^^
それと同じ現象だと^^ この世界は相反する性質を持ったものが存在する・・
なぜか^^ この世界は相反する性質を持ったものが現象として現れる^^
なぜか^^ 苦もほとんど仏教様様のおかげでなくなったし^^
そろそろ仏教を超える時期が来たかもしれん^^ この世界は仮想で造られている・
これが真実である^^ 因縁果は、おまえは、今後、全スレで、修行度の点検を受けること確定したw
対話型人工知能
メンヘラ彼女みお
http://ai-girl-mio.jp
で。 ものの姿が主観と客観に分かれ、心の認識する対象が生まれる。これを相分という。
その相分を対象として見る働きを見分という。
見分を認識する働きを自証分、または自体分という。
自体分を認識する働きを証自証分という。 人は関係性を生きる存在であり、現象も関係性の中から生じてくる カント
人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、
ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能である サーンキヤの純粋精神は、物質に一切かかわりをもたない。
それ故、物質と関わる感覚、心(意識)、知性(思考機能)、
自我意識、などは、すべて純粋精神とは異なるもので、
根源物質から派生した「物質のはたらき」とされる。 五蘊の構成は,物質的構成要素の色と精神的構成要素である受・想・行・識に分けられる。
そして,これら五蘊の構成要素の集まりである人間は,無我であるとした。
したがって,色蘊によって構成される身体が無我であると同時に,受・想・行・識の蘊に
よって構成される心も無我でなければならない。 「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」 例えば・・^^
地球で1人しかいなくなったとする^^
そこですべてがはっきりする^^ まずこれを理解する^^
「人は関係性を生きる存在であり、現象も関係性の中から生じてくる」 つまり・・
自分とは関係性のうえで成り立っていたと・・
こうなる^^ 現象世界での心素の働きはなんだったのか・・?
とこうなる^^ ゆえに・・・
五蘊の構成は,物質的構成要素の色と精神的構成要素である受・想・行・識に分けられる。
そして,これら五蘊の構成要素の集まりである人間は,無我であるとした。
したがって,色蘊によって構成される身体が無我であると同時に,受・想・行・識の
蘊によって構成される心も無我でなければならない。
こうなると^^ ・・で最終的には・・^^
「ヨーガとは心素の働きを止滅させることであり、心素の働きが止滅すれば
見るものたる真我は、その本性にとどまる」
こうなると^^ 諸行無常(しょぎょうむじょう)−−−すべての存在は移り変わる
是生滅法(ぜしょうめっぽう)−−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已(しょうめつめつい)−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽(じゃくめついらく)−−− 寂滅をもって楽と為す
これを悟り・・
涅槃に入る^^ 因縁果・よくも、お前のクソレスでスレつぶしやがったなw
きちがいw 稽首唯識性 満分清浄者
我今釈彼説 利楽諸有情
由假説我法 有種種相轉
彼依識所變 此能變唯三
謂異熟思量 及了別境識
初阿頼耶識 異熟一切種
不可知執受 處了常與觸
作意受想思 相應唯捨受
是無覆無記 觸等亦如是
恒轉如暴流 阿羅漢位捨 次第二能變 是識名末那
依彼轉縁彼 思量爲性相
四煩惱常倶 謂我癡我見
并我慢我愛 及餘觸等倶
有覆無記攝 隨所生所繋
阿羅漢滅定 出世道無有
次第三能變 差別有六種
了境爲性相 善不善倶非
此心所遍行 別境善煩惱
隨煩惱不定 皆三受相應 初遍行觸等 次別境謂欲
勝解念定慧 所縁事不同
善謂信慚愧 無貪等三根
勤安不放逸 行捨及不害
煩惱謂貪瞋 癡慢疑惡見
隨煩惱謂忿 恨覆惱嫉慳
誑諂與害憍 無慚及無愧
掉擧與惛沈 不信并懈怠
放逸及失念 散亂不正知
不定謂悔眠 尋伺二各二
依止根本識 五識隨縁現
或倶或不倶 如濤波依水 意識常現起 除生無想天
及無心二定 睡眠與悶絶
是諸識轉變 分別所分別
由此彼皆無 故一切唯識
由一切種識 如是如是變
以展轉力故 彼彼分別生
由諸業習氣 二取習氣倶
前異熟既盡 復生餘異熟
由彼彼遍計 遍計種種物
此遍計所執 自性無所有
依他起自性 分別縁所生
圓成實於彼 常遠離前性
故此與依他 非異非不異
如無常等性 非不見此彼 即依此三性 立彼三無性
故佛密意説 一切法無性
初即相無性 次無自然性
後由遠離前 所執我法性
此諸法勝義 亦即是眞如
常如其性故 即唯識實性
乃至未起識 求住唯識性
於二取隨眠 猶未能伏滅
現前立少物 謂是唯識性
以有所得故 非實住唯識 若時於所縁 智都無所得
爾時住唯識 離二取相故
無得不思議 是出世間智
捨二麤重故 便證得轉依
此即無漏界 不思議善常
安樂解脱身 大牟尼名法 已依聖教及正理 分別唯識性相義
所獲功コ施群生 願共速登無上覺 (1)
仮に由りて我法と説く 種種の相転すること有り
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり 仮に由りて我法と説く・・^^
この現象世界において我と法は仮の存在である^^
すなわち・・無我・法無我^^
つまり「諸行無常」と「諸法無我」がある^^ つまり・・^^
世親ちゃんは唯識三十頌の最初に・・
「諸行無常」と「諸法無我」を説いている^^ 四念処(しねんじょ)
仏教における悟りのための4種の観想法の総称。
釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、
仏教瞑想の「止観」(サマタ瞑想・ヴィパッサナー瞑想)の内、「観」(ヴィパッサナー瞑想)
の中核を成す観想法である。
ふむふむ^^ 四念処の内容は以下の通り。
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我) 三法印
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
諸行無常偈
涅槃経・・「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」 つまり・・^^
あー^^
朝、世親ちゃんと同じこと考えていたかー^^
( ^人^)南無南無
となる^^ (1)
仮に由りて我法と説く 種種の相転すること有り
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり
(2)
謂わく異熟と思量と 及び了別境との識なり
初めのは阿頼耶識なり 異熟なり一切種なり
このように続くが・・ 現象世界においては・・種種の相転すること有りと・・
これは・・
識所変に依る・・
つまり・・八識を能変と呼んで、これを3つに分けて順に説くものである。
この能変にただ三つがある。異熟と思量と了別境との識である。 初能変
八識中の第八識、すなわち阿頼耶識。(異熟識)
第二能変
思量識といって、八識中の第七識、未那識をいう。(思量識)
第三能変
了別境識という。眼等の六識である。前六識(了別境識)
う〜ん^^
以前やったのでここまでとする^^ つまり・・
「諸行無常」と「諸法無我」からの・・
唯・・識のみと・・
こうなる^^ で最後は・・・^^
「涅槃寂静」 で閉めることになると・・
こうなる^^ つまり・・^^
三法印を説いているのだと・・
こう察しがつく^^ ちなみに・・
人間が1日におこす想念の数は約6万個。そのうち95パーセントは昨日と
同じものだそうです。
ん?
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああ そういえば・・^^
昨日と同じこと書いてる感がする^^ 想念の数
過去のこと95%
未来のこと5%
ん?
うわああああああああああああああああああああああああああああ
ぎゃぁあああああああああああああああああああ
となる・・^^
当然である^^ 「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」
寝るの代わりにこれつかおっと^^ 心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
これなんだよな^^ 法念処(法念住) - 法の無我を観ずる(諸法無我)
これもある^^ 表象・認識・概念における分別の全ては、いわゆる主体と客体の分裂に起因する
ことでもあり、特に、人無我(人空)と法無我(法空)をしっかりと理解し、
無分別なるありようを観れるように調えていかなければならないということであります。
そのためには、煩悩障と所知障の二障を離れることが必要となります。
煩悩障と所知障か・・・^^ 最近水風呂に入り外に出て瞑想すると・・
ふと思うことがある^^ 「寒い」この想念がどこからきて
どこに伝えているのか・・と^^
で「寒い」とは素粒子のどんな状態なにか・・と^^ やはり」・・唯識に頼るしかない・・
唯識の初めはこのような疑問から生じたんだろう
と思う今日この頃であった^^まる 第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) 唯識三十頌
8頌
次は第三の能変なり。差別なること六種あり。
境を了するを性とも相とも為す。善と不善と倶非となり。 眼識・耳識などを「前五識」、意識を「第六意識」
と呼んで区別している。
そうゆうことか・・・^^
眼識・耳識などの前の五識に比べ「意識」は、同じ表層意識
でも全く違った働きをしている。
今気がついた^^ 第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
感覚はこれらの世界しか認識できない^^ 即ち五識がそれぞれ独自の境を対象としているのに対し、意識はすべ
ての事物を対象としている・・
ふむふむ^^ 五識は現在時点における一瞬の情報把握しかできないのに対し
意識は現在時点の認識のみでなく、過去の思い出に耽ったり、未来の想
像や創作の働きもする
ふむふむ^^ 我々の意識は、一瞬一瞬生滅を繰り返しながら継続しているが、
この場合、直前に生滅した意識が、その直後に生ずる意識の
依り所となっている。そなため、直前に滅した意を意根と言
う
ふむふむ^^ 善と不善と倶非となり」であるが、これは「これらの第三能変は、
善にも悪にも「無記(善でも悪でみない)」にも働くということ
である
感覚は無記であると・・
善も悪でもないと^^ 唯識三十頌
9頌
此の心所は遍行と 別境と善と煩悩と
随煩悩と不定となり 皆三の受と相応す 前五識が現在の一刹那の認識しかできないのに対し、第六意識は過去の
追憶や未来の想像など、過去・現在・未来に亘る認識ができること、
前五識は、認識対象が眼識は色、鼻識は香というように個別に対象が
決まっているのに対し、第六意識は一切の事物を前五識と連携して
認識していることなどである
ふむふむ^^ 皆、三の受と相応す」とは、前五識と第六意識は、苦受・楽受・
捨受(苦でも楽でもない受)の三受のすべてに相応する
ふむふむ^^ 感覚は一刹那であり無記であると・・^^
こうなる^^ 問題は・・
第六意識・・思考意識だよな・・^^
やめとくけど^^ 第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
第六意識(思考意識)と第七末那識(自我意識)
これが問題である^^ 「冷たい」という想念をほおっておく
すると時期に体温がもどる^^
それを繰り返すと・・^^ 人間は「眼耳鼻舌身意」の六つの感覚器官からさまざまな刺激を受け取り、
その刺激の網に引っ掛かって苦しんでいます。しかし、この状況をありの
ままに観察し、網から脱出して自由になろうとする人はほとんどいないと
いうことを先月お話いたしました。
うん?
ここにいるけど^^ このように、感覚器官から何かを受けると「受:ヴェーダナー」の作用が起き、
連鎖して(自動的に)、渇愛(タンハー)を生じて、執着(ウパダーナ)と
なって濃厚な煩悩と化していきます。
この煩悩を生起する連鎖反応(因果関係・縁起)は重要ですので、
ここまでを整理しますと
受(ヴェーダナー)⇒渇愛(タンハー)⇒執着(ウパダーナ)
「快」・・・・・・・「好き」・・・・・貧
「不快」・・・・・・「嫌い」・・・・・瞋
「中性」・・・・・・「無関心」・・・・痴
原初的な感覚・・・・原初的な感情・・・煩悩
ふむふむ^^
これが煩悩を生起させるメカニズムであり、この一連の連鎖反応を「縁起」というわけです。因果関係です。 冷たく感じるのは「クラウゼ小体」があるから
ちなみに人間が暖かく感じられるのは
ルフィー二小体があるから。 我々の実感としては痛みが生じた皮膚の部位が痛いとか熱いと感じている
と思うかもしれないが実際は脳が感じているのである。
脳が感じているのだが腕が痛いと感じることは「感覚の投射」と呼ばれている。 浄化のプロセスにおける縁起の逆観
「誕生が滅すれば老衰と死 (老死) が滅する。
生存と呼ばれる成熟した業 (有) が滅すれば, 誕生が滅する。
執着 (取) が滅すれば, 生存が滅する。
欲求 (愛) が滅すれば, 執着が滅する。
感受作用 (受) が滅すれば, 欲求が滅する。
接触 (触) が滅すれば, 感受作用が滅する。
六つの感覚領域 (六処) が滅すれば, 接触が滅する。
名称と色形 (名色) が滅すれば, 六つの感覚領域が滅する。
意識 (識) が滅すれば, 名称と色彩が滅する。
行為 (行) が滅すれば, 意識が滅する。
無知 (無明) が滅すれば, 行為が滅する。」 浄化のプロセスにおける縁起の順観
「無知 (無明) が滅すれば行為 (行) が滅し,
行為が滅すれば意識 (識) が滅し,
意識が滅すれば名称と色形 (名色) が滅し,
名称と色形が滅すれば六つの感覚領域 (六処) が滅し,
六つの感覚領域が滅すれば接触 (蝕) が滅し,
接触が滅すれば感受作用 (受) が滅し,
感受作用が滅すれば欲求 (愛) が滅し,
欲求が滅すれば執着 (取) が滅し,
執着が滅すれば生存と呼ばれる成熟した業 (有) が滅し,
生存が滅すれば誕生 (生) が滅し,
誕生が滅すれば老衰と死 (老死) が滅する。」 つまり・・・
六つの感覚領域が滅すれば接触 (蝕) が滅し,
接触が滅すれば感受作用 (受) が滅し,
感受作用が滅すれば欲求 (愛) が滅し,
欲求が滅すれば執着 (取) が滅し,
とこうなる^^ 六つの感覚領域が滅すれば執着 (取) が滅すると・・^^ そうは言ってもな・・^^
というところはある^^
まっ浄化のプロセスということで^^ 今日も1日中仏教的なこと考えていた・・^^
つまり・・^^
そういうことなんだな・・と^^ 基本は体験なんだよな^^
まっ両立してるからよしとするかなっと^^ 296 :
因縁果 ◆d........o
2016/10/31(月) 17:34:48.78 ID:S+FDDM05
D制感(プラティヤーハーラ)
感覚を外部の対象から分離して、意識を内部に向け、気が散らないようにする
あれ?
D制感(プラティヤーハーラ)がある^^ 諸行無常−−− すべての存在は移り変わる
是生滅法−−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽−−− 寂滅をもって楽と為す
「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」 >>1
なんだとコラ!
俺様は脳みそがめっちゃカスタムで精神がめっちゃワンオフだけど神だぜコラ!
トラックの神だコラ!
トラックのプラモの神だコラ!
めっちゃマニアックな神だコラ!
貧乏だとコラ!
アフィリエイトブログでめっちゃ金を儲けてるぞコラ!
どーだめっちゃ羨ましいだろコラ!
俺様は神!
俺様は神!
俺様は神!
俺様は神!
お前ら全員ひれふせやコラ!
でもデコトラとバスは勉強中...wwww
コメント・メッセージ(文句?)お気軽にどうぞ!
お待ちしております!!
http://minkara.carview.co.jp/userid/2170754/profile
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mixi id=8644451 id=7307304
https://twitter.com/FD830L
https://twitter.com/FD830W
訴えるぞコラ!!!! https://twitter.com/FD830W
このスレは負け犬の掃き溜めになりました。(但しFD830本人は除く)
俺様はめっちゃめっちゃ勝ち組だぜコラ!!!!
俺様はめっちゃめっちゃ高学歴で高IQだぜコラ!!!!
ヘンタイも極めれば神になれるw
逮捕だぞコラ!!!! https://twitter.com/FD830W ここらへんで全ての知識を捨てる必要があると・・
リセットせよと・・
直感が言っておる^^ 想念の数
過去のこと95%
未来のこと5%
今がない^^ 思考は執着である^^
思考は我からはじまる^^
思考は私からはじまる^^ お前らビタミンDをしっかりとれよ
ビタミンDこそが最強の薬物だぞ
ビタミンDが多く含まれる「しらす」1日50gでOKだ
あと動物性たんぱく質をしっかりとるようにな
小麦、とうもろこし、蕎麦は駄目だ食べるな
B型は鶏肉、貝、カニ、海老が駄目だ
小麦、米は糖質(砂糖)だから食べも栄養にならない ソバは消化がよく、美味であり飽きがこない。
たんぱく質、食物繊維も含まれ、栄養価が高く、身体を温める働きがある。
道産の新そば食べたら、シンプルなのに何でこんなに美味しいんだと思った。
ほんの少しの盛りそばが800円もするので、常食はできないが。
国産のソバなら毎日食べても問題ないと思う。 米は糖質、たんぱく質、脂質、ビタミン、ミネラル全部含まれている。
米はゆっくりと消化されるので、腹持ちがよく肉体労働には欠かせない。
飛脚は、玄米と味噌と切り干し大根を食べて
1日60キロも走っていた。 昨今の糖質制限ブームは如何なものか?
自分が食べたいものも食べずに我慢して
「痩せたね」って言われたいのか?
「若いね」って言われたいのか?
やがて時が来たら死ぬのに 食欲と悟りは比例してる^^
晩飯はここ1年間豆腐と生野菜と飲むヨーグルト^^
別に問題はない^^
ラーメンはここ1年間食べたことない^^
食べたいとも思わなくなった^^
食べなければ慣れる^^
必要な分だけ食べろばいい^^ >>851
瞑想者にとって、そんなことは当たり前のこと >>826
そんな文字遊びは、幼稚園のお遊戯にすぎない
どんな文字を使ったところで
それを体感している本人のみぞわかる。
読書で得た知識は瞑想には役に立たない 厳しいなおいw
まぁ事実だけどw
因縁果、経典の知識から成就までの道についてちょっと補足しておくよ
巷でも一万時間の法則ってあるだろ、入門からプロになるにはそれくらいの訓練が必要になる
一日3時間で一年で約1000時間、10年で1万時間
修行も同じで例えば性欲を15歳から25歳まで10年3時間づつ修習していたら1万時間
その性欲を完全に消すには性欲の苦しみを見る修行を同じくらいする必要がある
そうしないと自分の潜在意識にある衝動に対抗できない
だから経典を一回読んで理解したという状態から体得したまでになるには
100回、1000回、1万回と繰り返し読み自分に言い聞かせる必要がある
経典だと関係ない部分もありロスが大きいから、普通はそこで教えをコンパクトにまとめた詞章、マントラを
繰り返し10万回、100万回と唱える修行をする
君は詞章もマントラも持ってないだろ?
まだまだ学ばなければならないことが沢山あるんだ
こういうことは直接グルの指導で教えられるもので
本やネットで伝えきれるものじゃない
早く正統な修行の道に入りなさい
良い指導者にめぐり合えることを祈っている こういう本には表現されていない事柄が膨大にあると思ってくれ
直接グルから学び、質問し理解を深めて行っても多くの時間が必要になる
一生でも時間が足りなくて輪廻を超えて学ぶ必要性すら感じるようになる
まだ君はその門に入っていない
早く進め、人の一生は短い 自灯明・法灯明
アーナンダよ。このようにして、修行僧は自己を灯明とし、
自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、
法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自己を灯明とし。
自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をより
どころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、
彼らは私の修行僧として最高の境地にあるであろう、−誰でも学ぼうと
望む人々はー。」
(二十六)(大パリニッバーナ経』二)
つまり・・^^
そういうことだ^^ >>857
ちなみに、その当時法は文章化されておらず口伝によって伝えられており
法を学ぶとはつまりサンガに帰依する、もしくは出家するということが前提だけどな
つまり君の浅い考えなど通用しない 1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、
身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する。
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する。
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、
私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている、
私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている、
私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質、
私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する。 2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、
内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を
感じている、これら感受作用について観察する。 3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え
、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私は心が執着している、私は心が欲張っている、私は心に怒りがある、
私は心に妄想がある、私は心に想念がある、これら心の状態について観察する。 4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する。諸々の法(この世のすべてのものごと)には、
本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。
意識の対象(考え、想像)を観察する。
私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、
私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、
私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、
これら意識の対象について観察する。 四念処
原始仏教経典に説かれた4種の観察法をいう。4種とは、
(1)身念処(自己と他人の肉体が不浄(ふじょう)であると観察すること)、
(2)受念処(もろもろの感受作用は苦であると観察すること)、
(3)心念処(もろもろの心作用は苦であると観察すること)、
(4)法念処(すべての存在物は自分のものと執着(しゅうじゃく)すべき実体がないと観察すること) つまり・・^^
自灯明・法灯明 とは・・^^
こういうことだ^^ 浅くてうすっぺらいですな
良い師に付いて30年くらい深めてようやく使い物になるかな
自己流でのろのろやってたら一生かかっても使い物にならんな 「自らを灯明となし、
自らをよりどころとして、
他人をよりどころとせず、
法を灯明となし、
法をよりどころとして、
他をよりどころとせず、すすめ」
うん^^
そうする^^ まぁ、誰しもが超一流の瞑想家になれるわけではないから
それぞれ妥協しながら自分のペースでやってるけどな
ただ、今の因縁果の自己流のペースでは一流にはなれないってことは
理解しておく必要がある
一流ってこんなんだからな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%91 だからちゃんと説明しただろ
バカかお前は
>>858
> >>857
> ちなみに、その当時法は文章化されておらず口伝によって伝えられており
> 法を学ぶとはつまりサンガに帰依する、もしくは出家するということが前提だけどな
>
> つまり君の浅い考えなど通用しない う〜〜ん^^
どっからどうみても・・^^
余計なお世話なんだけど^^ 人から批評されたくなければ
スレッド立てて自分の主張したり
他スレまで出張して自己主張しないことだな
ま、オレもこの辺にして消えます まあ、宗教2chも、まことのじいさんしかいないんだけどね(笑) 最近クンバカに興味がでてきてね^^
そこから何が得られるか・・
試しているところ^^
かなり興味深い^^ 他人から教わると楽しさが激減する^^
やっぱり一人でやらないとね^^
こうゆうものは^^ お釈迦さまも、六年間の苦行時代には、このクンバカを猛烈に行じたことが
知られている。あるときは、呼吸を止めすぎて、そのまま心臓も停止してしまい、
神霊たちに「ゴータマは死んだ」と言われた•••。
まじかー^^
となる^^
うそだろ・・^^
となる^^ 悟り目指すヨーギーなら当たり前だろ?となる
やっぱり自己流じゃ無理ね となる シッダールタの苦行時代、重点的に行われたのが断食と止息の行でした。 アーラーラとウッダカの二師は、苦悩を不完全燃焼と捉え、
それを速やかに完全燃焼し滅尽させるため過息の、分かりやすく言うと
空気を飽食する瞑想を行った。しかし、それによってシッダールタは
かなり高い境地には達したものの、究極の解脱体験は得られなかった。 そこで、もう一つの可能性として、止息、分かりやすく言うと空気の断食という
苦行にシッダールタは走った。しかし、そこでも解脱は得られなかった。 止息という行はクンバカとして、過息という行はバストリカなどとして、
現代に至るヨーガ修行の中に伝えられています。
けれどもこの二つの両極端によっては、彼はブラフマンに至る事はできなかった。 そして、最終的に思い至ったのが、快と不快、楽と苦の両極を離れた、
過息でもなく止息でもない、ニュートラルな自然呼吸の観察、
すなわちアナパナ・サティだった 苦悩や懊悩、あるいは激しい歓喜という精神活動が、大量の空気を必要と
することは経験的に明らかでした。ならば、無理強いの止息によってではなく、
自ずからのダルマの流れとして、呼吸が弱滅していく道はないのか。
そうやって求められたのが、アナパナ・サティ、つまり自然な呼吸が
自ずから生起する様子に淡々と気付いている、という瞑想法だった やっぱり・・
お釈迦様は勉強になる^^
さすがや・・^^ 「彼はブラフマンに至る事はできなかった。」
これだけが疑問だ^^ 仏教は無我説です。アートマンの存在を認めていない^^
う〜〜ん^^ 後の仏教とこのアートマンの思想が生まれた頃とは考え方が違っていて
仏陀はこのアートマン存在思想の有無について否定した(アートマンそのものを
否定したわけではないところがミソ)
ミソかー^^
そうだったのか^^
ミソね^^ 「仏教は無我説です。アートマンの存在を認めていない」^^
ここ重要^^ 「仏教はアートマンの存在を認めていないのか?」
これ調べてみるかなっと^^ ブッダは形而上学的ことがらについては沈黙したといわれるのですから、
「アートマンは存在しない」となどと主張せず、知覚し経験できる、
人間存在を成立させている要素(色・受・想・行・識)のひとつひとつに
対して、これも非我なり、これも非我なり、と否定する方法を取った 沈黙。「アートマンがある(ない)」「死後の世界もアートマンは生残る(ない)」
などという主張はおろかである。(無記、無捨置)
知ることのできない領域に関する見解は独断に過ぎず、
知識ではないので修業の目的に役立たない。(常見、断見) まったく・・おまえらときたら。。^^
くだらん^^
寝る^^ アートマンは自我のことで、仏教では自我は
それ自体の側から独立して存在するものではなく
五蘊に依存して現れているものに名前を与えられたものに過ぎない。
実際にどこを探しても、これが自我であると指し示すことはできない幻のようなもの。 「つまり、永遠不変のアートマンが五蘊のいずれかであれば、
われわれは永遠に生きる。しかし、もしそうであれば、人生の
常ということもなく、またそれに由来する悲しみも苦しみもないはずである。
しかるに悲しみや苦しみは絶えずついてまわる。これは、万人が認める厳然たる
事実である。したがって、五蘊のいずれもアートマンなどではない、
というのである」
こんな感じかな^^ 五蘊非我
色形は自己ならざるもの(無我)である
感受作用は自己ならざるもの(無我)である
表象作用は自己ならざるもの(無我)である
志向作用は自己ならざるもの(無我)である
識別作用は自己ならざるもの(無我)である
自己ならざるもの・・・^^ ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いて
いるが、自己をめぐる形而上学的な質問には、沈黙をもって対応した。
ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも
自己ではないならば、そもそも自己なるものはないのだとする、きわめて
形而上学的な無我説が誕生することになった
親の心、子知らずというか、後世の仏教徒たちは、ゴータマ・ブッダの重要
な戒めを忘れてしまった・・
うむ〜〜^^ 二取随眠(二つの随眠)
・2つの執着を生ずる種子。煩悩の種子。
・二取の「取」:「所取」の取(対象への執着)と「能取」の取(主観への執着)。両者とも,その熏習した種子(習気)を随眠という。
これらを止滅(伏滅)しないかぎり,主観と客観に二分化する。 対象への執着
主観への執着
主観と客観に二分化
分別かー^^ @
〘仏〙 精神が対象の形態にとらわれて行う誤った思惟・判断。妄想分別。 自我への執着^^
対象への妄想分別
おまいらなにやっとるんや^^
となる^^
結論「おまいらが悪い」
とこうなる^^ 自我(煩悩)への執着^^
対象への妄想分別 ^^
つまり・・^^
おまえら^^ 次からはおまえらのことを・・^^
「無明」と呼ぼう^^ おいらのインドの白象ちゃんが会いたいと言っておる^^ 仏教と象の関わりはさらに深く、中でも白い象はブッダの化身とされ、ブッダの前世が白い象だったという説もあるとか
うわぁああああああああああああああああああああああああああ^^
ぱおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん^^
とこうなる^^ 582 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 14:52:30.22 ID:OyJVhmen
きhttp://i.imgur.com/tOXw1Qq.jpg
583 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 15:06:50.11 ID:OyJVhmen
くhttp://i.imgur.com/iqnHfWJ.jpg
584 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 15:07:05.84 ID:OyJVhmen
け
585 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 15:07:37.66 ID:OyJVhmen
けhttp://i.imgur.com/N1myUJU.jpg
586 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 15:08:09.28 ID:OyJVhmen
こhttp://i.imgur.com/6A3URK7.jpg
587 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 15:09:16.79 ID:OyJVhmen
さhttp://i.imgur.com/e4YTMoq.jpg
588 :
神も仏も名無しさん
2016/12/03(土) 15:11:52.47 ID:OyJVhmen
うーん
また通わんとならん
覚えてたらしい^_^http://i.imgur.com/8RFEdxc.jpg この寒さでは空を感じることができる^^
ありがたいありがたい^^ 水風呂がからの瞑想^^
この寒さではではまだなまぬるい^^ >>920
貴方は空を知らない
ゆえに理屈に走っている >>929
うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ
へんなおっさんの写真貼るなぁああああああああああああ 心素の止滅・・ と考えた時に
すかさず変な写真を貼る^^
きっと試されたのに違いない^^ 904 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:11:21.75 ID:iekqjck9
考察1http://i.imgur.com/Q4dn0tQ.jpg
905 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:12:52.37 ID:iekqjck9
2http://i.imgur.com/OqxV4F8.jpg
906 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:15:18.34 ID:iekqjck9
3http://i.imgur.com/K0QnSYr.jpg
907 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:15:33.63 ID:iekqjck9
4
908 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:16:04.44 ID:iekqjck9
4http://i.imgur.com/w6TakPB.jpg
909 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:16:38.92 ID:iekqjck9
5http://i.imgur.com/CVyKWAp.jpg
910 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:17:09.58 ID:iekqjck9
6http://i.imgur.com/Y8nx313.jpg
911 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:17:49.85 ID:iekqjck9
7http://i.imgur.com/jhn7553.jpg
912 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:18:19.62 ID:iekqjck9
8http://i.imgur.com/moCIK5I.jpg
913 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:18:56.14 ID:iekqjck9
9http://i.imgur.com/skQDv5V.jpg
914 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:19:25.03 ID:iekqjck9
10http://i.imgur.com/u0f7fEf.jpg
915 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:20:03.01 ID:iekqjck9
11http://i.imgur.com/UcN1dAT.jpg
916 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:21:12.15 ID:iekqjck9
12http://i.imgur.com/GjE0bHR.jpg 917 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:22:02.85 ID:iekqjck9
13http://i.imgur.com/WEtpxfg.jpg
918 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:23:28.30 ID:iekqjck9
どう考えても他人には無関心
919 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:24:47.99 ID:iekqjck9
14http://i.imgur.com/acKeffY.jpg
920 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:27:11.12 ID:iekqjck9
15http://i.imgur.com/MkQrgDe.jpg
921 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:29:05.91 ID:iekqjck9
16http://i.imgur.com/BNdQeIi.jpg
922 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:29:40.72 ID:iekqjck9
あっち行った^_^
923 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:31:24.67 ID:iekqjck9
んhttp://i.imgur.com/ccLYfRj.jpg
924 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:33:35.63 ID:iekqjck9
おまえらhttp://i.imgur.com/aeONefU.jpg
925 :
神も仏も名無しさん
2016/12/11(日) 12:39:49.48 ID:iekqjck9
さてっと帰るかhttp://i.imgur.com/cr6uIv1.jpg 上座部仏教の一宗派である説一切有部では、人間の意識は一刹那の間に
生成消滅(刹那消滅)を繰り返す心の相続運動であるとする。 え〜〜と^^
こっちは仏教を語るスレにして^^
あっちは象さんを語るスレにしよおっと^^ 動物のカルマとか・・
わけわからんこと言ってるから・・
ちょうどいい^^
中道だな^^ 今朝ですね^^
いつものように水風呂の中で瞑想してたんですよ^^ 気がつくと・・
まわりの世界がクリアになってきた^^
「あっ・・
これ死ぬのかな^^
まぁいいや^^」
と感じながらそのままいたら・・
だれか他の人が入ってきた^^
すぐにでたけど^^
煩悩がなくなると・・
周りの世界がクリアに見えたり聞こえたり・・
あれ・・見てなかったか・・
どこで見てたんだろう・・^^
なんか光を見てたな・・^^
そういえば・・^^ 周りの世界がクリアになるということは・・^^
直接阿頼耶識に飛び込んでくるのかな・・^^ 第八阿頼耶識・・貯蔵意識→大円鏡智(自然をありのままに映す(見る))
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識→平等性智(その自然の中に自分も溶け込む(一体化))
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識→妙観察智(その自然の動きを正しく観察すること)
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)→成所作智(その自然の動きに対応して正しく行動すること)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) この世界は考えたことと逆の現象が起こる^^
心を滅するとその逆の現象が起こる^^
不思議なものだ^^ 現象は思考を超えている・・^^
何も語らないのが正解である^^ >>946
おぉ、因果果さん、いいかも!
禅定が深くなってる兆候かと!
でも、それ、いわゆる魔境なのでサラリと流した方が。 1年くらい毎週やってると・・
こういう偶然が起こる^^
もうないかもしれないが^^
この道を究めたいと思う^^
今日この頃であった^^まる 『摩訶止観』
古代中国、隋の仏教僧である天台智は、仏教にとっては三昧によって精神作用を
静止すること自体には意味がないとし、止観は精神の止息状態だけでなく、
「観」となって働かなければならない、すなわち八正道の正見がなくてはならない
、と説明している。
「観」だとぉ^^ 仏道修行の目的とは、心を静めて様々な縁に紛動されて信実が見えない状態から
解脱し、真実の世界を明らかにすることにあると知ることが第一に大事なことだ
と天台大師はいいます。これが「菩提心の発起」です
なに〜〜〜^^ 中国,天台宗の祖師智(ちぎ)が,南岳恵思より伝えた,止観の思想について
講じた著。10巻。弟子灌頂の記録であり,《法華経》の注釈である文句,
およびその原理を論じた玄義とあわせて,天台三大部とよばれる。
摩訶とは大,止観は座禅のことであるが,同じ座禅の教えとして,低きより
高きに至る順序を示す次第禅門や,順序を問わぬ不定止観が,迷いより悟りへの
過程を説くのに対し,本書は初めよりただちに円頓としての実相の理を明らかに
し,一色一香すべて中道で,修も証もない法界の極相を説いて,実相そのもの
の寂然たるところを止,寂にしてつねに照す実相の智恵を観とするところに
特色をもつ。
まぁ言いたいことはわかる^^ >>946
>周りの世界がクリアに見えたり聞こえたり・・
魔境だね
本来ならこう
---
名字は是れ因縁和合の作れる法なり。但だ分別憶想、仮名を説く。
是の故に菩薩摩訶薩、『般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず。』
見ざるが故に著せず。
??摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二 本来ならこうか。
どうせ支店長だろ。二日酔いで朝から脳ミソ腐ってんな(笑) ほう、分からんのか
般若波羅蜜が何のことか分からんで魔境を言うとか恥知らずな奴だなw
そもそもブッダなら「来るもの拒まず去るもの追わず」なのに
3.我執のある人書込み禁止
とアホな我執を晒してる事を誰も突っ込んでない
我執が無ければ書き込む事など不可能なのに誰も気付いてない
つまり、誰かは悟りを詐称してるって事になるんだよ >>968
何言ってるのかわからないから^^
ちみはカキコミ禁止^^
さようなら^^ 釈迦の修行は当時の伝統に則りまず坐禅に行ったが、
坐禅至上主義の限界を悟り、次に苦行の6年間を過ごしたが、
苦行もまた悟りの道でないとしてこれを捨て、よく知られている
乳粥の供養を受けた後、49日間の禅定瞑想の中で解脱を得た。 つまり・・^^
人は外界からの刺激がないと・・
悟れないようになっている^^ 坐禅至上主義の限界を悟ったのに
また49日間の禅定瞑想をしたの? >>972
ちみはそのことについて調べる義務がある^^
はよ検索し調べること^^ 調べるもなにもキミが書き込んだことだから
キミに質問したんだよ 最初にゴーダマが取り組んだのは、禅定であった。これこそゴーダマの修行の特徴であったと言えよう。
これまでもバラモン教は禅定を重要視した。しかし、バラモンの教えに飽き足らない反バラモンは苦行を
重要視した。子供の頃からバラモンの経典で学んできたゴーダマは、
カピラ城での少年時代から地下室に閉じこもって瞑想していた。
暗い静かな地下室で、精神を統一する。そのことが、ゴーダマにとって安らぎの場であった。
これこそ、バラモンの禅定に他ならない。そして精神を統一しながら苦行をするのである。 ゴーダマは禅定を終えると、五人のクシャトリアたちに言った。
「私は修行者となって六年、過去どのような修行者も行ったことのない
激しい苦行を行ってきた。過去どのような修行者も受けた事のない苦痛を
味わってきた。しかし、悟りは開かれなかった。こうなれば最後の苦行しかない。」 45分かかったかー^^
となる^^
いい質問だった^^
ありがとう^^
となる^^ この前CMに坂本龍一が出てて、すっかりお爺さんになってて驚いた
時の流れは早いねー
今日はクリスマスだね
一般的にはキリスト教のお祭りで
日本ではカップルが欲望を満たす日みたいになってるけど
坐禅をするのもいいかもね
禅定のメリー・クリスマス!
Mr. 因縁果 初詣には成田不動など不動関係の神社、仏閣には絶対行ってはいけません!
四八方の宗派、バラバラの霊媒師達が裏でさんざん言ってる他様々な所から入ってきた情報を載せます。
不動明王(別名シヴァ)は最も悪い奴です。長いこと人類や他の神を騙してきたのがばれて上神仏界で抹消されています。
今後、こいつを唱えると一緒に罪に問われ悲惨な目に会います。ひどく醜い嫉妬とひがみにこりかたまったやつです。
不動(シヴァ)はスサノオノ(転生体は阿含宗の桐山)とグルになり、ハープ(フリーメソン、イルミナティーの一派)を
操って、東大震災を起こしています。で表面からは鎮魂除災の護摩木をかかせ自分の所へ勧誘しようとしました。
先程も述べてますが、仏教の方法、この場合阿含経でしたがそれは単なる1つの方法の話です。使う奴が誤れば
このようにとんでもないことになってしまいます。まるで原子爆弾のスイッチをその辺の野ざるに持たせるとこうなる
といういい例です。
また最近御嶽山が噴火しましたが、この件も含めて長年の悪行がばれていよいよ毒殺他されそうになった不動が最後の
悪あがきをしたと言われています。不動をお参りしていた者によく「家のは赤不動だから大丈夫、白不動だから大丈夫・・」
などと言うのがいますが、それは赤、青、黄、白といろいろあるでしょう。しかし全て百面相でごまかしただけの黒不動です。
騙されてはいけません。
ここへ、釈迦、アマテラス、ヤタガラスなども便乗して地震を起こしていました。 地球の方が誕生は先だから・・
しかたないね〜〜^^
地球の寿命はあとどれくらいだろう・・^^
環境により全人類が滅亡し・・
また新たな生命が生まれることもありうる^^ ダンマパダ-法句経 第3章
心は捉えがたく、ざわめき、欲するままに行こうとする。
その心を制することは良いことである。
その心を制したならば、安楽に到る。 ブッダ『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起こるのである』 「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起することは有りえない。」 「どのように気を付けて行っている人の識別作用が止滅するのですか?」
「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、
このようによく気を付けて行っている人の識別作用が止滅するのである。」 三、諸比丘よ、もし比丘、観察するに、かくの如く「我、内に心寂止を得たるも、
増上慧法正観を得ず」と知らば、諸比丘よ、その比丘は内の心寂止に安住して
増上慧法正観のために努むべし。彼、後時に、内に心寂止を得、しかも増上慧法正観を
得。 阿難よ、何をか滅尽想と為すや。
十、阿難よ、ここに比丘あり、阿練若に往き、樹下に往き、空屋に往きて思択す、「これ、寂静なり、これ、殊妙なり、即ち一切行の寂止、一切余依の定棄、愛尽、離貪、涅槃なり」と。阿難よ、これを名づけて滅尽想と為す。 止滅〔の境地〕を、表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)の
寂止という安楽〔の境地〕を、体得せよ。涅槃〔の境処〕を、束縛からの
〔心の〕平安という無上なるものを、達成せよ 心の寂静を得ずして、心において自在なる転起なく。
そののち、勝者(ブッダ)の教えを思念して、畏怖〔の念〕(回心の思い)を
惹起した。 いろはにほへどちりぬるを 諸行無常
わがよたれぞつねならむ 是生滅法
うゐのおくやまけふこえて 生滅滅已
あさきゆめみじゑひもせず 寂滅為楽 このスレッドは1000を超えました。
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