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十十十 カトリック246 十十十©2ch.net
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0001大西沙織 転載ダメ©2ch.net
垢版 |
2016/10/06(木) 21:31:19.96ID:ds/tzgwG
ある日水瀬いのりちゃんのストーカーすずはらみさきち ◆5oR0dKBDzYに
       手紙が届きますた・・・
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0665老クリスチャン
垢版 |
2016/11/23(水) 10:00:52.15ID:+JhiMk8m
【典礼憲章に学ぶ @】
「神父さまが白と言えば白、黒と言えば黒。 信徒は自分で考えたり、意見を言ったりしない」 というのが、カトリックの信仰だと思っている人たち、特にそういう高齢の信者が多いことを、私も知っています。

皆さんよくご存じの 「聖書と典礼」 が発行されて、多くの教会で一般に利用されるようになったのは、1970年代の終わり頃からでありました。
「ローマ・ミサ典礼書の総則」 と 「典礼暦年に関する一般原則」 の二文書だけをまとめた別冊本が、一般向けに初めて出版されたのは1980年のことす。
私が本格的にカトリックのミサについて学び始めたのは、その頃からでありました。
やがてほぼ一年に亘って、毎週司祭館をお訪ねして神父さまのご指導をいただいた後、2000年1月から主日のミサに参加させていただくようになりました。
その頃の私の心には、カトリックの神学と信仰への深い尊敬と共に、カトリックの信者の皆さんへの大きな期待がありました。
そして、第二バチカン公会議の公文書集を真剣に学ぶようになったのです。

しかしその結果は、信徒だけではなくて司祭たちまでもが、事実上まるでほとんど典礼憲章と典礼刷新を理解していないという実態を、嫌というほど知らされたことでした。
私はそれ以来、「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べ」(ロマ 10:21) ておられる主の愛に、ひたすら信頼して祈ることを学ぶようになりました。
私が15年間、私の Website に掲載し続けた 「聖書の学び」 は、このような状況の中で書かれたものだったのです。
0666老クリスチャン
垢版 |
2016/11/23(水) 10:01:31.91ID:+JhiMk8m
【典礼憲章に学ぶ A】
(22 典礼に関する聖職位階の管轄権) 「§1 聖なる典礼の規制は、教会の権威によってのみ行われる。
この権威は使徒座のもとにあり、かつ法の規定に従い司教のもとにある。」
「§3 したがって、他の何人も、たとえ司祭であっても、自己の考えで何かを加えたり、削除したり、変更したりしてはならない。」

カトリック教会ではたいてい、「キリストと我等のミサ」(サンパウロ) か、「ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕」(オリエンス宗教研究所) を使って、主日のミサを行っています。
誤解してならないのは、これはみんなが自分たち独自のミサを工夫したり作り出すための資料ではないということです。
決してミサに独自の解釈や工夫を加えてはなりません。
そうではなくてこれは、「ローマ・ミサ典礼書の総則」 に沿って実際にミサがささげられるための要約書、ないしガイドブックなのです。

意図的にせよ、無知によるにせよ、ミサが 「勝手気ままな」 仕方で行われている実状を嘆いて、ラッツィンガー枢機卿は2002年にその著書の中で次のように書きました。
「このことに関して、率直に言って典礼への養成は今日、司祭に対しても信徒に対しても、悲しくなるほどに欠けています。」(典礼の精神 p.189)
0667老クリスチャン
垢版 |
2016/11/23(水) 10:02:08.33ID:+JhiMk8m
【典礼憲章に学ぶ B】
(14 典礼教育と行動的参加の推進) 「母なる教会は、すべての信者が、十全に、意識的かつ行動的に典礼祭儀に参加するよう導かれることを切に望んでいる。」
(26 位階的・共同体的行為としての典礼固有の性格に基づく基準) 「典礼行為は個人的な行為ではなく、教会の祭儀である。」

この、もっとも基本的なミサ理解のために、我が国の司教協議会も 「ミサ典礼書の総則」 によって特に強調して指導して来ました。
しかし、ここ 2ch でも、「教会の祭儀」 よりも 「個人の信心」 を優先させるような主張が、繰り返し書き込まれています。

(ローマ・ミサ典礼書の総則 42) 「 ・ ・ ・ 会衆の動作と姿勢は、・ ・ ・ 個人の好みや自由裁量に対してよりも、・ ・ ・ 神の民の霊的共通善に寄与することに対して注意が向けられなければならない。
すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、聖なる典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである。」
0668老クリスチャン
垢版 |
2016/11/23(水) 10:02:47.16ID:+JhiMk8m
【典礼憲章に学ぶ C】
(56 ミサは一つ) 「ミサをいわば構成している二つの部分、すなわちことばの典礼と感謝の典礼は、一つの礼拝行為となるように相互に固く結ばれている。」

かつてプロテスタントの連中に非難されたように、現在でもなおカトリックの信者自身が 「ことばの典礼」 を軽んじて、聖書の朗読と司祭の説教から神の言葉を聞くという熱意に欠けている傾向があります。

(7 典礼におけるキリストの現存) 「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる。
聖書が教会で読まれるとき、キリストご自身が語られるからである。」

次の主日ミサへの参加の備えとして、私の 「聖書の学びからの抜粋」 を活かして用いようとする人々だけではなくて、かえって目障りに感じる人がいるのも、「ことばの典礼」 への無理解と軽視によるものだと思われます。
0669老クリスチャン
垢版 |
2016/11/23(水) 10:03:17.51ID:+JhiMk8m
【典礼憲章に学ぶ D】
司祭の主要な任務は、「キリストの名によって人々のために過越の食事を整えて、救いのいけにえをささげ、
ことばと秘跡によって神の民を力づける」ことであると言われています(聖木曜日の聖香油のミサの叙唱から)。
ですから、通常の主日のミサにおいては、「ことばの典礼」 の中で説教 (Homily) をすることと、「感謝の典礼」 で 「神の民全員の名において、いのちに満ちた、とうといいけにえをささげる」 ことが司祭の任務です。

カトリック教会では、「必要な場合は信徒が教会で教話 (Predigt) をすることが認められる」 と定められています (新教会法典 766-767) が、これは Homily とは別のものと理解されています。

私は以上の事情をよく理解した上で、15年間に亘って 「聖書の学び」 を、毎週 WebSite に掲載して来ました。
しかもそれは、教会の活動の一部としてではなくて、(Web 上の) 純粋に私的な活動として、区別して行って来たものです。
ですから 2ch で、ある人たちがこれを 「神父ごっこ」 と呼んで非難するのは、全く見当外れなことなのです。
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