仏教の「無い」志向は間違いに違いないw【09】 [無断転載禁止]©2ch.net
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1 :神も仏も名無しさん:2016/05/08(日) 16:35:09.84 ID:mGNFHB6S
1 :神も仏も名無しさん:2016/03/28(月) 02:04:39.49 ID:Pr+YuIny
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いだ。
「実体がない」などという表現はまさにこの無いの主張の代表的なもので間違いであり、
「実体は分からない」と正しく使うべきである〜w
「ない」と「分からない」では意味は大いに異なる。
精神的苦痛を除くのが仏陀である〜。
精神的苦痛などは元々無いのであり、それに執着しているのが苦痛の原因である。
執着を無くせ〜。 という教えは有難く承ろう〜。
が、しかし精神的苦痛は現代では脳内の病による肉体的苦痛と同義である一面もあり
2500年前と同じように精神-肉体を別に考えるわけにはいかない。
鬱や統合失調症に薬物治療が行われるのは神経伝達系に作用する薬で肉体的に治療をするのであり、
まさに精神は肉体という事になろう。
これを2500年前の仏陀のように単に執着をなくせ〜の一言で済ますのは現代においては誤りである。
さらに仏陀は肉体の苦痛については何ら解決策を述べておらず、まさか肉体的苦痛の苦痛などは無い、
気のせいだ〜と言うわけにもいかずお手上げ状態であり、ただ耐えるより無いのである。
仏陀も下痢に悩まされ体力を削がれ横たわって休むよりなかった〜。
現代においてはその道の専門家の医者にかかり治療を受ければ速やかに回復するだろうw
何でも全部一字一句2500年前の仏陀の教えに従う必要は無い。内道の仏教徒である必要などさらさら無い。
外道で外から自由に取捨選択して自分に合う教えだけを取り込めば十分である。 心身脱落、脱落心身。
無というものが存在している。
存在という用語になるかや。
無という存在とは何か。
そこが問題である。 華厳宗の一即多多即一と日蓮の一念三千って何がどう違うの? まこと君
ネット検索だけではなく、オレのように
実践して修行しなさい >>1
そんなことはありません
生死の問題は現代でも宗教的な解決に頼るしかありませんね
無って、ないってことでしょ
諸行無常だったらそりゃそーなりますやんか 心身脱落、脱落心身、は悟りか。
それは心身の一定の状態であるだけのことである。
それによって、どんな問題が解決されるのか。
そこが問題である。
なんでか。
悟りは大疑問に対する答えであるからである。
心身脱落は何の問題も解決していないからである。
なんでか。
それは問題解決ではなくして、心身の事実状態を表現しただけであるからである。
道元の限界が、そこにあることになる。
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/06.htm
身心脱落 (しんじんだつらく)
(無明の暗闇に覆われた世界の中からの)
解脱と同じ意味で
(縁起したものを離れ)
一切のしがらみから脱して心身共にさっぱりした境地を言う 9.
一切のしがらみから脱して心身共にさっぱりした境地を言う、か。
それは心身の事実状態を表現したものである。
それによってして、どんな問題が解決されたのか。
そこが問題である。
さっぱりした境地が良いのか。
それが気分が良いのか。 そういえば、オレも昔は、ネット検索をしまくってたなあ
所詮、まことの悟り話も初心者レベルなんだよwww http://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20160928/index.html
ボケない!脳が若返る めい想パワー SP
2016年9月28日(水)午後7時30分
2016年10月4日(火)午前0時10分
http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
NHK スペシャル シリーズ キラーストレス
マインドフルネス
雑念が出てきたことに気づいても、その辺りに漂わせておくようにして、(自然に)消えていくのを見届けます
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp553.html
NHK サイエンス ZERO
No.553 新・瞑(めい)想法 マインドフルネス で脳を改善
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
(無明の暗闇に覆われた世界すべて一切を阿弥陀仏にお任せして)
(智慧を以て、智慧の世界から)
世界すべて一切を 『 空性なり 』 と観察せよ 12.
カルマと苦悩、煩悩が消滅したところに涅槃がある、か。
そんなことはない。
それは迷信である。
なんでか。 >>12
>(無明の暗闇に覆われた世界すべて一切を阿弥陀仏にお任せして)
この詳しい説明をお願いします。 http://☆mat☆ome.naver.jp/odai/2141839213021020701
自力(我の力)で往生などしようとしないで
(無明の暗闇に覆われた世界すべて)
一切を阿弥陀仏にお任せしていく
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%9C%AC%E9%A1%98
他力本願
「他力」とは
他人の力をあてにすることではなく
阿弥陀如来の力を現す言葉であり
「本願」とは
人間の欲望を満たすような願いのことではなく
あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
智慧を以て
智慧の世界を知覚して
智慧の世界に住んで
智慧の世界から観察して、そして
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせて
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、そして
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものが幸せでありますように >>15
>あらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである
凡夫の煩悩を消すことが阿弥陀仏にできるとするなら、どうして阿弥陀仏にそれができるのか? 16.
凡夫の煩悩を消すことが阿弥陀仏にできる、か。
それは、できないことである。
そう信じるのは迷信であることになる。
なんでか。 阿弥陀仏の極楽浄土に生まれた人には、一切、苦しみはなく、ただ、色々の楽しみだけがある。だから極楽というのである。
至る所に「七宝の池」がある。
池には八功徳水が満々と湛えられ、池の底には金の砂が敷き詰められている。
池の中には、車輪のような大きな蓮華が咲き、華の色は、青・黄・赤・白、色々あって、それぞれが、青光・黄光・赤光・白光を放って、まことに絶妙で、香りも芳醇である。
周囲には、金・銀・財宝で飾られた階段があり、登った上にそびえたつ宮殿楼閣は、金や銀、水晶や瑪瑙などの宝玉で荘厳され、天空からは、常に心地よい音楽が流れ、ときどき妙華が降ってくる。
絶えず涼しい風が、そよそよと吹いて、宝石で彩られた並木や網飾りが揺れて、それらが奏でる音色は、幾千かの楽器を同時に演奏するようである。
また、オウムやカリョウビンガなどの色々な鳥がいて、和やかな美しい声で尊い法を説き、聞いたものはみな、心に歓喜が起きるのである。
日々、応法の妙服を着て、百味の飲食を食べて楽しむのである。 阿弥陀経でこのように称えられている極楽浄土ですが、この国土には煩悩を刺激するものがないそうです。
インドの浄土教徒の間では、この汚れた末世にはおいては仏道修行など望むべくもないから、
阿弥陀仏に頼って極楽浄土に生まれて、阿弥陀仏や観音菩薩、勢至菩薩を始め二十五菩薩から直接指導して頂いて仏道を修行し、
やがて悟りを開いて涅槃に入り仏となることを目指していました。
極楽浄土は仏道修行には最適な場所なのです。 >>1
メガネスーパーに逝って空眼、仮眼、中眼の検査をしてくるがいい
>空眼、仮眼、中眼
↓ これ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE
中観派
空諦、仮諦、中諦
空観、仮観、中観
「空」(空性)も
「仮」(仮名・仮説・仮設)も
「中」(中道・中観)も
全て
「縁起」「無自性」の言い換えであり
同じ内容を違う言葉・表現で言い表してる
「同義語」として使用している
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
真俗二諦
その当時のインド人々に仏教を理解させるためには
その当時のインド人々にとって世間的な考えを認めて、その理解のうえで
その当時のインド人々に仏教を理解させる
というやり方がとられねばならなかった
仏は二諦によって、衆生のために法を説く。一には世俗諦、二つには第一義諦なり
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
悉檀
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
対治悉檀(煩悩ぼんのうを打ち砕く)
第一義悉檀(真理に直接導こうとする) パーリ増支部に
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」とある(いわゆる心性本浄説)
光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される
自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている
たとえば
光り輝いている
阿弥陀如来
(智慧を以て、智慧の世界からの)無限の光
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
↓
智慧を以て、智慧の世界からの無限の光(阿弥陀如来)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、無明を裂け落とさせるものである
↑ こんな感じかしらん? m(_ _)m ≻>26
ジャイナ教では、罪は物質となってその人の身体に付着する、という教えがなかったか?
それは道理のある考え方である、と言わなければならないと思う。
死の物質は罪の心となって、しかも物質となって、自分は身に覚えがある。
その物質は、明らかに物質となって、自分は執着している。執着とはそれに心がとらわれていると言うことだ。
こういう思想であれば、 ジャイナ教の教理には暗いけど、彼らは真実は無相なものと考えているのではないか?
物質ではないと。物質は真実真理ではなく、迷いに他ならないと言うことだ。
この考え方と同じに、仏教でも、迷いは物質となって、自分に付着し、それに執着するのが
迷いの苦しみの人生となると考えるようになる。
仏教の場合は、その物質は、頭の存在となるのだ。頭があると考えるようになるのだ。
それは、ジャイナ教のような小さな物質ではなく、頭と言う大きなものだ。
頭が痛くなる、と言うことは頭があると言うことの表れなのだ。迷いがあるとは頭があると言うことなのだ。
頭でこそ、迷いが解決できると妄想するのだ。自分は頭が悪いので、迷いから解脱できない、となるのだ。
頭の良い人につき従おうと言うことになるのだ。
ところが迷いを離れる教えを理解すると、その頭は、裂け落ちるという心象を持つのだ。
こんな風に思えるのだが、どう?
>ジャイナ教では、罪は物質となってその人の身体に付着する、という教えがなかったか?
ジャイナ教のことは、わからないけど
前五識 − 眼耳鼻舌身
第六意識 − 自覚的意識
末那識
潜在意識
寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる
熟睡中も末那識は活動し、自己に執着するという
阿頼耶識
この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し
他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている
阿頼耶識と種子のはたらき
人がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると
その影響は種子(阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる
これを薫習という
ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる
このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ
阿頼耶識の「阿頼耶」は「蔵」という意味のサンスクリット語である
さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ
また、種子は阿頼耶識を飛び出して → 末那識 → 意識に作用することがある
さらに → 前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると → 外界の現象から縁を受けることもある
この種子は前五識から → 意識 → 末那識を通過して → 阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される
これが思考であり、外界認識であるとされる
このサイクルを阿頼耶識縁起と言う >迷いを離れる教えを理解すると、その頭は、裂け落ちるという心象を持つのだ
「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想も超えて
「想いを手放す」という想いも手放し、そして
智慧を以て
智慧の世界を知覚して
智慧の世界に住んで
智慧の世界から観察して、そして
智慧の世界からの無限の光(阿弥陀如来)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
無明の暗闇に覆われた世界すべて一切を裂け落として、そして
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ、そして
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい」と掴もうとしている想いの終わりである
それこそが「無明の暗闇に覆われた世界すべて一切」の終わりである 29.
想いを手放し、そこで、苦しいという想いの終わり、か。
それは心理学である。
それでは、無明の暗闇に覆われた世界すべて一切、の終わり、とはならないものである。
そう想うことは錯覚である。その想いを手放すことも錯覚である。
忘れることも錯覚である。両忘は錯覚である。 しかし親鸞の語り口は大変に魅力的です。
その語り口には聞く人を驚かせ、そして強く納得させるものが有ります。
例えば、
「たとい法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」、
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」、
「親鸞は父母の孝養の為とて、一返にても念仏申したる事いまださふらはず」、
「親鸞は弟子の一人も持たずさふらう」、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも、面々の御はからいなり」、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にて有りけり。よくよく案じみれば、天に踊り地に踊るほどに喜ぶべき事を喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまふなり」
等と、聞く人をぐいぐいと引き込んでしまう魅力に溢れています。
どこかで聞いた語り口だと思いましたら、新約聖書でした。
親鸞の言葉はイエス・キリストの言葉によく似ています。
「阿弥陀仏」を「父」に置き換えれば、親鸞はキリシタンになってしまいます。
イエス・キリストのような話し方をする人に解脱体験の無かろう筈が無いと、私の心はいっぺんに振り出しへ戻ってしまいました。
親鸞に解脱体験が有ったのか、無かったのか、謎です。どなたかご存知有りませんか。
http://blog.goo.ne.jp/anandabhavan/e/f4053d524998c5b59cb964b43692895d >>5
一即多多即一は恐らく、諸法無我(この場合は何処にも実体はないの意味)や諸法空相の教えを更に分かりやすく世俗諦で説いた教えな気がする。
説いた人には「更に分かりやすくしよう」という意識はなかったでしょうが、結果的に。
一念三千はこちらの
わかりやすい一念三千(いちねんさんぜん)
http://www.geocities.jp/kokoronoshikumi/hokekyo.3000.wakariyasui.html
というサイトに分かりやすく載っているようですが、これで分かりやすいんですから分かりにくい難解な教えなのかもしれません(笑)
(少なくとも私レベルでは)
取りあえず、十界互具というのは天台の教えでそれに本末究竟等(これも法華経というよりも鳩摩羅什のドグマですが)を当てはめてしまう所には論理の飛躍があるような…。
でも、それはそれで天台の智大師が悟った内容なのでしょうから受け入れる受け入れないはともかく尊重はすべきでしょうね。
本末究竟等は、本来は?如是相から如是報までの九如是、つまり因縁によって起きる現象は一つの道理によって貫かれていて、
その道理が無相とか空相とか言われる諸法実相ということになるのでしょう。 >>31
歎異抄での親鸞の語り口は己の弱さを認めつつも阿弥陀仏への信念で貫かれていてとても惹かれるものがありますね。
ちなみに私自身は親鸞は偉大なる破戒僧だと思っています。
本当は非僧非俗ですから破戒僧というのとも違うのですがw
イエスの語り口との共通点、上手くは言えませんがどちらも本当に弱い心にスッと入っていく言葉を使うな、という感じかな?
共通点は確かにありますね。 まことも自己満足のネット検索だけではなく
オレのように実践して修行しなさい 世間の道理とは、高いところから低いところに水は流れ落ちる。
しかし、仏道修行者は、その流れに逆らい、流れをさかのぼると言われる。
鯉の滝登りと言うものだな。
どうして仏道修行がそのようなものなのか?
真実が、空相なものだからだ。
真実には、高いところ低いところ、水が流れ落ちる、というもので、それに拘束されているのが凡夫
なのが、真実には、そういう凡夫を拘束するものはない。真実を理解したものは、
低いところから高いところに水を流すのである。
時間は過去から未来に流れると考えているのが凡夫であるが、聖者は、それはなく、
未来から過去に流れを変えるのだ。
過去未来はないので、凡夫が過去に起こした悪業は、未来に必ず、聖者により、
清算される。悪業、善業は、その結果を免れるものはいないのである。
その悪業善業から解放される教えが仏教だ。 >ジャイナ教では、罪は物質となってその人の身体に付着する、
>という教えがなかったか?
中村元訳『ブッダのことば』註241
汚れた(なまぐさい)物を受けてはならぬ、ということをジャイナ教でも
教えている。それは恐らく施食として受けてはならぬという意味であろう。
ただ「汚れた」という語の意味をジャイナ教では物理的生理的な意味に解して
いたのに、仏教ではそれを精神的な意味に解したのである。
ジャイナ教の特色は、裸形派や、不殺生(アヒンサー)の徹底ぶりにある。
断食して餓死するのが理想的なんだとか。 まことは、ツイコナイダまで、公案も知らなかったからな! 確かに
たかが公案の話しているだけなのに、さも大袈裟に
書くところが図星だよなあ 悟りは大疑問に対する答えである。
その大疑問を公案という形態に矮小化しているのがバカ禪師どもである。 >>32
>一念三千はこちらの
一念三千の法門などと、もったいぶっていっているが、そんなもの、”寝言”。 ブッダ本人からすればお地蔵さんとかは実は意味のない物なんだろうな
現存する一切の物は「無」だからな
宇宙からすれば一瞬にして消えて無くなる物なんだよ
宗教団体も経典も後から弟子を名乗る者達によって作られたが
恐らくブッダ本人は望んではいなかった まだまだ世界中に残ってる様々な歴史的建造物もこれからなんらかの武力や災害等で
次々に壊され消えて行くんだろう
まさにブッダの言う通りだ
まんま諸行無常 ところが仏的観念は宇宙規模でも残り続ける
目に見えない、聞こえない、現存していない物だけが
実は実在しているのだという話は筋が通ってる 残念ながら長嶋の名言
「ジャイアンツは永久に不滅です」
これはありえんな
この世の現象は全て移り変わるからな
現存してる古代の古墳とかも必ず消えるわ
ブッダは完全に真理を説いてる 41-44.
対象物、外部の問題は宗教には、ならないよ。
それは単なる物理学であるよ。
自覚の論理が宗教なのだ。
その自分を省略したところで何を言いたいのかや。 でも、預言者っているよな
あんま、信じてないけど
たとえば
引きこもりの息子を母親が修行させにきた話があるんだよ
結局、その引きこもりの話を悟った者が書いてたことだけど
世間一般の人が言ってることと変わらなかった
今じゃあ、引きこもりは、ただの甘えじゃないことくらい
一般の人も知ってるだろ
が、その悟った者は、ただ甘えだってさ
まあ、つまり、悟った者なんてその程度だよ
預言者や悟った者と言ってるけど、まことの言ってる
ようなことなんて存在しないんだよ 確かにな!
まことは、高僧レベルでも手に終えないことを、堂々と断言してるからな! 46.47.
それは宗教と関係ない問題である。
その問題を宗教者に解決させようとする、ことがバカのやることである。
宗教者も解決できない問題に介入すべきではない。
医学者を兼務している場合は例外となるかも。 サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ ↑
一人で笑いこけているのでは、こちらは真面目になれるか? 要するに仏教は、この世を捨てろ、という教えなのだな。
今の世間は、結婚だとか、就活だとか、まさに、死活問題だとして、血眼になっており、
その競争から離脱したものをアウトローとして、絶望してるものと見做している。
ところが仏教は、絶望してるものに、それは救いの始まりなのだ、この世での成功者こそ
真実の世界からの離脱者となったものだ、と教えているのだ。
こんな思想が充満してきたのは、進化論だとか、ニュートンなどの科学者と称するものどもの
が自説を真理だとして発信してきたからだ。 53.
自己の存在場所の問題である。
その場所からして、世界を否定すれば良いのだ。
そうすれば、どうなるのか。
そこが問題である。 親も子も妻も旦那も友人もお金も物も
全部何一つあなたのものなどじゃないというブッダ
そしてあなた自身ですらあなたのものじゃないとまで言ったブッダは
やはり凄まじい次元まで行ってるな 56.
その次元に到達すること。
それは第一歩である。
それを解脱という用語を当てる。
その先が問題となる。
そこは誰も言わない。なんでか。 経典を信じるな
昔から言われている事だからといってそれを信じるな
と言ったブッダがあれやこれや後世に残そうとするとは考え難い
仏教とブッダとは別と考えないといけないかもな 何かを読んだり聞いたりせずとも邪念、雑念を振り払えれば
真理が見えてくるということは経典など不要ということ
ネイティブアメリカンの
「教えは外側ではなく内側にある」というのと一致してるね >>58
ブッダ生前の教えは釈迦教
阿含経以降の教えは大乗小乗問わず仏教 59.
邪念、雑念を振り払えば、真理が見えてくる、か。
その真理が問題となる。
その真理は、どのように発生するのか。 脳は 心 という幻想を生み出した、と言う科学者もいる。
そうかぁ、と思う。
心=我と置き換えると、はたまた そうかぁ と思う。
そう思うと、自分も他人も同じなんだなぁ、って。
自分という他人、他人という自分。 奇なるかな。奇なるかな。
一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。
ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。
なるほどねぇ。 脳が心という幻想を生み出したというが、
脳が脳という幻想を生み出すこともお忘れなく・・・・・。
なんでもかんでも「脳」「脳」「脳」ってあほか・・・・・。
脳そのものが大いなる幻想であるかもしれんのに・・・・。
「脳科学で何でも解決!」とか滅びることになる >>64
という幻想、
になるんだよね。(良い意味で) 全ては真我であるブラフマンに帰結され
現象界の諸々は真我の幻影(マーヤ)なのだよ >真我の幻影(マーヤ)なのだよ
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド
名称と形態(現象界)の展開
6.3.4
かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって
[現象界の]名称と形態 nama rupa をはっきりと展開した
永遠に変化することのない、プルシャ
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
→ プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
無為法の世界から → 有為法を観察して逝く?
識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返すもの(刹那滅)であり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく
すべて一切の「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである
識そのものも現象であり、実体は持たないと説く
心の働きもまた幻のごとき、夢のごとき存在(空性)であり、その実在性も否定される
無明の暗闇に覆われた世界の中においては
因と縁の双方の縁起に依存して変化している世界の中においては
「変化しない」というものも否定される
法界体性智(大日如来の智)
平等性智の世界から → 所知障・煩悩障を観察して逝く? 先日から物見の党の親子が、来訪してきて、キリスト教の雑誌に基づいた
話をしてる。
大体かれらキリシタンのお話は知っているので、一番大事な神様の定義に関する
話には応じている。
唯一の神とは?それが男女の神が登場し、人類を創造し、その人類に、この被造世界を統治させるというのだ。
そこで朕は、仏教の肝心な教えである、実相は一相、無相、空相を持ちだして、キリシタンの聖書の矛盾を明らかにする。
そしてついでに、仏教の教えがいかに、道理にかない、人を救うもので、キリシタンの信仰にもそぐうものであるかと説くのだ。
キリシタンの教えでは、決して誰も救われるという実感は得られない。
仏経ならば、得られる。それをこのキリシタンの親子に吹き込もうとしている。
イエスが神の名前を三年間伝道していた。神が救いなのだが、その神の説明ができないでは、
イエスに背くものである。旧約聖書、新約聖書の教えでは、残念ながら、
人は救われない、永遠に救われない。大事な説明が欠けているからだ。そこを仏教は
完全に満たしているのだ。 71.
神の定義が問題である。
神の内容は空である。無である。
なんでか。 >>73
まこと君
自己満足のネット検索だけで
悟れたか? ゴータマ尊者は理法を語った。理法のみを語ったというべきだろう。
真実が無相である以上、そうなるのだ。
アダムとイブにサタンが忍び寄って来て、サタンの知恵を注いだのである。
このサタンも、仏典に出てくるサタンである。
真実に反する思いである。修行しているものに忍び寄って来て、無相への行進を
妨げようとしたのである。
その様は アダムとイブをたぶらかしたサタンなのだ。
仏経ではこの悪魔を、修行者に内在する疑惑であると解釈している。
アダムとイブにもこの疑惑があったのであると思う。この疑惑に負けたのである。
かくしてアダムとイブの心の世界は今見る混乱をもたらした。
つまり、今の世界はサタンの智慧の世界なのだ。決して唯一の神の世界ではない。
ところが、今のキリシタンは、このサタンを、唯一の神として教えているのである。
サタンが唯一の神に化身して創造した世界と、実の神の世界とがあるのであり、実の神を善神とし、
悪の神の世界が、今のうつつの世界なのだ。善神と悪神を説くのがキリスト教である。
しかし、その善神と悪神を混同しているのだ。 仏説阿弥陀経の最後部
ここに修行の目標がかかれている。
「シャーリプトラよ。お前の心においてどう思うか。どういうわけで、一切の諸仏に念じ護られていると名づける経と名づけるのか。
もし、善男子・善女人がおり、この、諸仏の説くところの阿弥陀仏の名およびこの経の名を聞くとするならば、このもろもろの善男子・善女人は、みな、一切の諸仏に念じ護られているところとなり、
みな、この上なく正しい悟りより退転しないようにしようとするためである。
これゆえに、シャーリプトラよ。おまえたちは、まさに、私の語および諸仏の説くところを信受するべきである。シャーリプトラよ。
もし、人がいて、願いを起こそうとする人、もう起こした人、またはいまから起こす人、阿弥陀仏の国に生まれようと欲せば、このもろもろの人ら、
みな、この上なく正しい悟りから退転しないようにすることができ、かの国土において、もしはすでに生まれ、もしは今生まれ、もしはこれから生まれるだろう。
ものゆえに、シャーリプトラよ。もろもろの善男子・善女人とは、もし道理を信じるものがあるならば、かの仏国土に生まれようとともに願いを起こすべきである。
シャーリプトラよ。私は、いま、諸仏の不可思議の功徳を称賛するように、かの諸仏らも、また、わが不可思議の功徳を称説して、この言をなす、『釈迦牟尼仏は、よく、いとも成し難いことを成し遂げた。
すなわち、よく、現実世界の五濁(末世に生ずる避けがたい五種の穢れ)の悪世である劫濁(時代の穢れ。社会悪)・見濁(思想の穢れ)・煩悩濁(精神的悪徳がはびころこと)・ 衆生濁(人間が心身ともに弱くなり質的に低下すること)
・命濁(寿命が縮まること)の中において、この上なく正しい悟りをえて、一切の世間のために、信じがたい法を説かれた。
これ、甚だ成し難きことである」 つうか、最近、オレによく言われている
「それ、誰に聞いたの?」
が、相当、効いているなww
オレのばあい、阿部敏郎は4冊、井上希道は3冊
町田久義らを読んでると言ってるのにww
あと、図書館で著書は知らないけど、何冊も
読んでるぜww じゃあ、まことの完敗じゃないか!
まことに本を出せる人に意見が言えるだけのものが
あるのか?! 悟りは大疑問に対する答えである。
その大疑問を公案という形態に矮小化しているのがバカ禪師どもであるよ。
自分で問題解決しないと悟れないよ。 自灯明法灯明、大事だな、これが欠けていると仏道は基礎を欠いていて、成功しない。
世間のしきたり、噂、他者の言動などを微塵でも、うかつに自分に取り込むと
自灯明は成り立たないのだ。
いくら法灯明を熟知したとしても、実行に無理が生ずる。 83.
沈黙か。
それは神、仏が沈黙しているからである。
なんでか。
真実は空だから、か。
真実は空無であるからである。
それは真実は存在しない、ということである。
それを肯定することが宗教である。
そこに立って何を思うのかや。
その内容が宗教である。 >>85
真実は存在する 何も正しいことは
ないとしよう すると何も正しいこと
もないも間違いだから正しいとする
と同時に間違いになるわけだ
つまり矛盾だなまあ矛盾すなわち
真偽 有無合一こそ混沌や道や空
と呼ばれたものだがまあ我が主
視点では無理やりだが真実は存在する 86.
真実は存在する、か。
その真実の範囲が問題となる。
科学の範囲内で真実かも。
人生論の範囲内で真実かも。
それらの範囲から外に出れば、どうなるか。
自分が、どの範囲内に居るのか、の問題である。
よってして、真実の範囲内に居るのか否か。
そこが問題である。
宗教は、その範囲内に、存在しないことが明白である。
その明白を理解できないバカが多い。 人間はいない、存在しない。
これが名称と形態の破壊である。このように理解することだ。
名称と形態を作ったのが、旧約聖書の天地創造の男女の神である。
これは、サタンの化身である。マーラーである。
ムハンマドは、この間違いを知って、自分の宗教を作ったのである。
彼は、その教えの初めに、アッラーは不生不滅な存在であると明記した。かつ一者であると。 88.
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。 宗教であろうと、科学であろうと、その他の学問であろうと、一切の学びの対象となるものは
存在の問題であり、何が真実在であるかと言うことである。その他のものではない。 90.
存在の問題、か。
それは科学にまかせれば良い。
宗教は科学ではない。
存在の問題ではない。
なんでか。
それは科学を成立させるところの主体の問題であるからである。
その主体は人間であるか。
そうであっても良い。
そうでなくても良い。
その人間を超えた主体が宗教人格である。 ≻>91
人間の心、その他の諸物(諸法)の反応はすべて科学の対象である。
人間の心の変化については、法華経の十如是、大日経の人間の心の変化、
また、デカルトの感情についての説、等に説かれるが、それは科学の対象になり、そのうちの
物理に関しては、自然科学としてとらえられ、それが科学の代表みたいに見做されているにすぎないのだ。
生物、無生物の反応も、変化である限り、科学の対象になっている。
チミの科学の把握は、偏狭なのだ。 仏経は、大蔵経店も大乗経典も、理法、道理であると言い切っている。
だから説得行為、つまり説法が生じ得るのだ。
この理法のことを現代では「科学」というのである。
現代の科学は、理法に基づくよりも、観察に基づいており、究極の真理ではなく、
したがって究極の真実ではなく、似非科学なのだ。 まあ、オレは、寺の修行を代表して掃除を言った
つもりだぜ
その意図もまことは、わかってなかったがな 大方、掃除で何も悟れないと思ってるのだろ?
かなり低レベルだよな! 意味のないことに意味がある
このへんを、まことはわかってないんだよ
修行とは、本来、そういうもんだぜ 95.
掃除で儲かるならば、誰でも、それを実行するよ。 77 :ハジ :2016/12/10(土) 12:29:11.22 ID:ubXF1lWh
>>76
いや、支店長レベル低すぎww
とても、この、わたくしの話にはついてこれまへん
ぜったいに!
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1481319029/ 今の日蓮教徒集団、創価学会は、実に、破仏教集団である。
仏経をレイプしてる。
仏教でないのに、仏教だと名乗り、仏教の果実をせ占めている。
仏は讃嘆される。仏でないのに、仏の受ける賛嘆の言葉を、獲得していると妄想しているのだ。
このような集団には、微塵も信仰はない。 99.
日蓮は社会事業である。
それは信仰ではなくして事業であるよ。 初詣は不動関係の神社、仏閣は絶対行ってはいけません!こいつは嫉妬とひがみ
でできているので、みんなつぶしあい、引きづり落としあいになりダメにされます。
わかりやすく言うとオーム真理教と同じです。いくなら月読関係の神社などにしましょう。 新スレが建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/ ↑
スレ重複です。
下記のスレで願います。
坐禅と見性第114章 八角磨盤空裏
0001 神も仏も名無しさん 2017/01/03 10:17:05
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483406225/ >>100
>日蓮は社会事業である。
とんでもない!
仏の教えに無知なもので、仏の教えを蹂躙することしかできなかったものだ。
こいつによって、末法となり、白法隠没したのである。
人は悪事を悔い改めるほかないのだ。悪事を改めることが、真実実相を尊重し、その世界
に移住することになるのだ。
大乗は、実相を伝道することは、十善戒を伝道するよりもはるかに功徳があるというが、
実相を尊重するとは、十善戒を実行することであることを、大乗は欠落させている。
人は行為によって清くなるのであって、他に氏素性によって清くなるのではない、との教えは
滅びない。十善戒を疎かにする行為は、実相を汚していることなのだ。それでは清くなれない。
日蓮の教えなど、ゴミ芥である。 世界には戦いが起きている。
真実と虚妄の戦いである。
真実は無我の真実であり、虚妄は有我の妄言である。
現実の世界は有我の妄言に支配されている。
日本国憲法でも、能力という認識を掲げているが、それがなんであるかは定義していない。
そこの曖昧さの故に、世界は混乱している。
無我の真実は人を安養土に導いている。 一二三師の公案。
宗教は、全存在と対決したときに出る答えである。 人を自由にする術を宗教という。
その術とは世界の真実を知ることである。
一切の事象は空である。事象そのものには我という主体がない。生命など微塵もない。
身体心など微塵もない。すべては縁起現象にすぎない。この真実に反して、生命の尊重などとして、
生命という実態があると考えるのを、妄想という。妄想は無限に発展する。発展するという
ことも事象と言う変化に他ならない。妄想を淘汰する修行はいつでもどこででもできる。
道場は自分にある。他にあるのではない、どこかの社屋とか。誰かの師匠とかの指導する場所とかに。 110.
人が自由に世界を支配する術を宗教という。
そのための方法論が必要である。 netの検索で、回向の説明を見ても、正しい解説をしてるとは思えない。
親鸞そのものが、いかがなものか、と不審に思う。
清浄な言動ができるようになれば、完成だろう。 >>111
まこと君
自己満足のネット検索だけで
悟れたか? 112.
釈迦は、南無阿弥陀仏、とは言っていない。
それは迷信である。 >>114
仏経が知れていない時の中国社会ででも、仏と言う名称は定着していたのだよ。
中国では、それは真実な人と言われていた。
現アジアでは、真実の人のことを、仏、と言っているのだが、仏と真実の人の、違い、意味が捨てられえている。
それ故に、仏の名称の意味が、意味をなさないようになっているのだ。
阿弥陀仏とは、真実の人の名称なのだ。阿弥陀と言う真実の人と言う意味なのだ。
この世界の真実、その真実を体現している人なのだ。
嘘偽りを言って、他者を不幸に貶めているものは、この阿弥陀仏の名称を理解しない。
釈尊は真実をこの世界に説かれたのである。 115.
真実の内容がない。
よってして、それが迷信となる。
南無阿弥陀仏は真実ではない。迷信である。 118.
南無阿弥陀仏を否定したものが真理である。 仏は二足尊なのだ
凡夫と同じに、大地を二本足で歩いている存在、という意味だ。 南無阿弥陀仏は戦国時代、二大宗派が宗教裁判したのじゃ
その判定を信長がしたのじゃ 123.
信長の判定、か。
それはバカ判定である。
バカ鬼和尚は、そのバカ判定に従属するのか。 >>124おまえさんは人に物を伝えるのが苦手のようじゃ 【AFP=時事】アフガニスタン各地で大雪による雪崩が相次ぎ、
当局によると5日までの3日間で計100人余りが死亡した。
ある村では50人が犠牲になった。死者はさらに増える恐れが出ている。(AFP=時事)
自然活動により人間その他の動物が、こんな風に滅んでいくのが、現実である。
これを見ると、人間を創造した神がいるというのは神話にすぎないと言わざるを得ない。
自分をみじめに扱う、神様、そんなものへの崇拝、信仰など、持つのは、最低な
行為と言うことになる。
日本の神話など、その最たるものだ。
こんな本姓の神話への信仰を、ゴータマ尊者は、捨てよ、捨てよ、と喝破されたのである。 対象としての神を立て、それ(自己都合の神)に対して一喜一憂する自我を
捨てよ!、ってことですかね? 128.
その自我が、どうなるかの問題である。
無か。 >>128
対象としての神を立て、というその対象が何かが問題だろう?
それは真実ではないと言うことだよ、ゴーダマ尊者では。
我とは欲に他ならない。欲を満足させてくれるものを神としてるのだ。
その欲=神は自分自身の欲に他ならない。牛を殺して自分が生きる。
神が牛を自分に与えたもうた、とこじつけるのだ。
しかし、津波が自分の地域を飲み込みさらっていく。自我=神など跡形もない。
真実は無相であって、自我=個我というものはない。自分は生じたものではない、自分は滅するものではない。
とこのように諦めることが無相に合致することになり、涅槃為楽 となる道理ではないか?
欲を滅する修行はいつでもどこででもできる。それは最も容易な修行である。易行道である。
仏経は易行道なのである。 YouTubeに男女関係から発生する地獄の体験談が豊富に掲載されている。
仏経では、”邪淫”と称されている十悪の一つである。
邪淫の災いは、仏教が発起した当時と、現代でも、少しも変わらない。
地獄を避けるために邪淫してはならないのだ。
現代では、邪淫のことを不貞行為と言い、それは民法の不法行為に当たる。こんな不法行為
とその実態を隠ぺいするような表現をしてる為に、不貞行為が軽視されていると思う。
社会教育で、不法行為法を教えないのも、もとは、不貞行為を容認する傾向が政治にあるからだ。
不貞行為の責任は、ほとんど現代でも、身の破滅をもたらしている。youtubeでその様々な
態様を知ることができる。
不貞行為の原因はやはり欲望である。幸福になりたいという欲望だ。
その幸福なるものが真実に基づいたものでないことが、教えられないのだ。仏教はそれを教える。 130.
欲を滅する修行か。
それは自分の瓦を磨いて鏡となす、修行である。
それを修行バカという。
修行は生活の問題である。
宗教は生活の問題ではない。 >>114
阿弥陀は無量寿即ち永遠の命、更に無量光無限の光明の意味。仏陀の悟りの象徴でもある。 >>114
第二の釈尊と呼ばれる龍樹菩薩。
彼の人が信仰という方便によって不退転の位に行く者がある。
釈尊の行が陸上を歩くようなものだとすると信仰の道は舟に乗って川を下るような易しい道だ!と信仰を勧めた事を浄土系は根拠にしてる >>132修行そのものを悟りにしなくてはいけないのじゃ
道元の言葉じゃ >>132それと、生活の中から悟らなくてはいけないのじゃ
これも、道元の言葉じゃ 135.136.
道元は坐禅バカである。
そこには生活はない。
そこにあるのは修行バカである。
よってして悟っていないことになる。
鬼和尚も悟っていないことは明白である。
だからしてバカなことを言っていられる。 >>137昨日から、悟ってない悟ってない、と、
何を必死になっているのじゃ 一二三、いや、まことは、悟った自称してたがねwww でおー、語る。
「余談だが、聖胎長養なんていう禅用語に全く関心を示さなかった俺様wだがw
俺的修行は12月から、今年の遅くても6月ぐらいを終了の目安にしているんだが、
、こういう用語に該当するんだろうなあ・・・と修行の日々で思えてきたなw」 142.
聖体長養か。
それは悟ると長生きできる、ということである。 >>143それは関係ないのじゃ
悟っても短命の者もいるのじゃ 実相が無相だというのは、ものすごい教えだよね。
それを実行できるものは何人いるんだろうか。
原子爆弾をも恐れないし、津波をも恐れないのだ。そんなものは無いというのだから。
いやはやすごい教えだ。
しかし、死ぬ時には、その時はどっちを選択する?
輪廻を選択するか、一切の苦しみのない世界を選択するか、と言うことなのだが。 死んだ後のことは、知らぬ存ぜず、とするのは実相が無相であることを選択してるのか、
輪廻を容認しているのか、?? 146.
実相は無相か。
そんなことはない。
輪廻を選択することはない。
苦しみのない世界を選択することもない。 生死を離れたものを、生きていると言っていいのか?
生死を離れた存在は、無相な存在で、現世の者には見えないのだろう。 >>148
ニルバーナをも望まない、と経典は言うからね。 150.
生死を離れたもの、か。
それは物理的な存在ではない。
だけれども見ない、で、すますことはできない。それが見性か。 151.
ニルバーナを望まない、か。
それは解脱しているからである。
そこでは望んだとしても実現することがない。 欲心を抑制するとは、欲に導かれた行為をしないと言うことである。
欲とは五感と第六の「意」の存在に隷従すると言うことである。
この六根に欲がないなら、六根は清浄なのである。これを六根清浄と言う。
欲を滅ぼすことによって、六根清浄の境地を獲得できるのである。
何も求めない行為によって、六根清浄の境地に至るのである。
何も求めない行為とは、縁起だけに従うことである。存在そのものが縁起の事象であることを
認識していることである。その認識している縁起の世界は、清浄で安楽の境地なのである。 155.
縁起の世界は存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。
それでは何か。 活動するという認識は当たり前のことで、それを前提にしない議論は無い、と普通は思っている。
しかし、厳密にそれはない、というのが宗教哲学だ。
不動、不去来、静止、無相、一相、空相などと開示している。
現代の科学は、上の実相を全否定して、そうしないと科学の世界は存在しない。
しかし、宗教哲学は、その科学をこそ全否定している。
そして、その訳を詳細に論証している。その命題とその論証えを宗教哲学と言っている。 >>155人間の基礎的自我が生理的要求じゃ
高次元自我が、願望実現じゃ >>154
見性というと眼識と解釈するが、そんな意味で見性と言うのではないだろう?
識は、見る以外に聞く、味 、触,嗅ぐで生ずるものだ。 >>162ネットで調べろなのじゃ
もっとも、形は違っても行くつく先は同じ、じゃ
口では説明出来んのじゃ
つまり、儂のように体験しなくてはわからんのじゃ 井上希道風に言うと
悟ってみれば、そこには何もなかった
だな
まこと君には、一生辿りつけん境地だなww 仏教の本当の教えっていうのは、実は理趣経に現れてるんだよな・・。
しかし、あれをそのまま凡夫に教えたんじゃ、世界がメチャクチャになっちゃう。
その奥が理解できないから。
しかし、今は知的にものを考えられる時代になってきて、社会全体に
道徳心が広がってる時代になってる。
それほどハメを外すことはないわけ。
しかも知的に理解できる可能性が出てきてる。
今こそ本当の仏教の教えが出る時代になってるんだよね・・・・。
今までの教えはああしちゃダメ、こうしたダメ。
しかし、これからの時代は、一般的な言い方をすれば、ありのまま。
世界というのはこの瞬間にしか存在しないわけだから、存在は時間の幅を持たないということが出来る。
たとえ0.1秒でも時間の幅を持たない。
常に流動的なわけ。
いわゆる諸行無常ってやつで。
その世界からずれたら、どこにも本物の世界はないわけだよ。
本物の世界に一致するときは唯一、今この時に合致したとき。
たとえば欲から逃げてると、なんらかの今この時から逃避していると、
世界はすべて幻想になる。
逆に、今この時にはあらゆる存在は、存在できない。
今欲がある、怒りがある、その向こうには、常に本物の世界がある
ってことになるんだよ。 8年前の冬、ある性同一性障害者が自ら命を絶った。名は「優子」。女性の体に男性の心を宿し、その相克にさいなまれ続けていた。母は願う。個人がそうありたいと思う性を受け入れる社会を――。
母の今の思いを、記者が聞いた。
◇
あの子が大人になってから、2人でよく釣りに出かけました。
「釣れるかねぇ」
「釣れるといいねぇ」
そう話しながら堤防から糸を投げました。また行こうねと、約束していたんですけど……。
《私は29歳になったばかりの女性です。しかし幼少の頃から女の子が好む「ままごと」や「縫いぐるみ」は嫌いで、「ミニ四駆」や「少年ジャンプ」を愛好していました。スカートは制服なので仕方なく穿(は)いていました》(優子さんの仮処分申し立ての陳述書から)
「そういうのが好きな女の子なんだな」と思い、性同一性 二なりとか、性同一性障害とか、現代ではそれを事実として認められるようになった。
二なりとは女性性器と男性性器が両方とも一人の身体に具備してるのであり、
性同一性障害とは、体は男であるが心は女であると認められ、それは自他ともに認められる場合である。
後者の場合は、精神に異常をきたしているのかと疑うのが初期では普通だが、二なりとなると現実にその事象を
誰でも視認できるのである。
これを考えてみると、旧約聖書の男と女の神様がこの天地を創造し、人間を男と女に作り、
産めよ増やせよ、と命じたことは、不可能を命じるもので、いい加減な無責任なことを言うな、と怒鳴りつけることができるな。
このような異変な男女は、今に生じたものではなく、古代からあったものではないのか?
それとも現代になって、こういう異変な男女が誕生するようになったのだろうか?
パウロなどは、同性愛を罪としてるが、パウロによれば、現代の同性愛は、彼ら障害者は、
故意に嘘をついて障害を装っているのであり、本当は、普通の人間であれるのだというのである。
古代でもこういう異変な事象はあったと考えるべきだろう。キリスト教の教えが支配してる社会では、
こういう異変を発表できなかったのだ。
旧約の神は、その存在が破たんしているのだと言わなければならない。
一方仏教はどうか?この問題は存在しないという。 https://www.youtube.com/watch?v=N4OHmmflENM
幕末から明治初期に日本に北ヨーロッパ人たちが当時の日本人の様子を見た記事がここにある。
彼らは日本人のいい点を見出して、それは徳川幕府の政治のなせる結果であると感得している。
徳川幕府は、キリシタンを排斥し、仏教儒教を採用したのだ。
このキリシタン排斥は、妥当なものだったと思う。キリシタンの教義である
犠牲という思想は、今でも日本人には理解しがたいのだ。だから排斥されたのであると思う。
本質は同じであるが、そこまで深くバテレンたちは理解しておらず、そこを説明できなかった。
仏経でも菩薩の犠牲は説かれるが、主要な教義とはなっていない。華厳経にはそこが説かれてある。
創造説と縁起説の相克である。ものが存在するのは、神の創造によるのか、
縁起現状であるのか、と言うことである。 でおーはガチで精神病だろ。
数ヶ月前から構想を練っていたとか、地獄の修行とか、定期的な書き込みとか、俺様呼称とか異常だろ。
入退院を繰り返しているのかもな。
偏執病か?
あと、異常性癖者かもな。
オナニーとかマゾとか調教とかシコシコとか、偏執的な性癖を窺わせるな。
まぁ、精神を病んでなければ、施設に入所している知的障害者かも知れないな。 >>177
いや、超具体的事実を言うものだよ。
我々が、身体があり、それは病気にかかり、ついには死滅するというのが
我々のいう具体的な事実だろう?
ところが宗教特に仏教は、その事実は虚妄である、と否定するのだ。
これは具体的な主張:教えであろう?
そして、真実という具体的な事実を、無相、空相、一相なものと提示してるのだ。
これも具体的な事実の教えではないか? まことの話は、いつも、悟りの著書に書いて
ないことばかりじゃのうwww >>180
違う。経典の内容だよ。
阿含経典、大乗経典の教えだよ。
チミは大事な教えを捨てていないか?
>>181
無残だね。 脱線と無残、は、まったく意味に合わない
日本語を正確に、な >>182
まこと君の話は、悟りの著書に書いてないと
言ってるだけ
つまり、まことの話では、100年やってても
悟れない >>183
チミの仏教理解がないので、それの程度が無残だと評価したのだ。
>>184
仏典が悟りの著書ではないというのか?
その著書に書いてる内容だと言っている。
ところで、チミの悟りの書とはどんなものか紹介してくれ。 >>183
チミの仏教理解がないので、それの程度が無残だと評価したのだ。 >>184
仏典が悟りの著書ではないというのか?
その著書に書いてる内容だと言っている。
ところで、チミの悟りの書とはどんなものか紹介してくれ。 >その著書に書いてる内容だと言っている。
そんなことは書いてない >>190
まこと君
著者は何度も言ってるよ
世間は、おまえのお母さんでないんたよww
自分で探しなww >>192
お前は日蓮信徒だな?
仏教でない教えを仏教だと言っている末法のイチセンダイだが。 >>198
>考える
考え得るとはどういうことか? 考える、は、一朝一夕ではわからんよ
10年、頭を使い続けて、やっと、考えるの
何たるかがわかる つまり、55年間、頭を使ってこなかったまこと
には、わからないってことだな! ここは嘘やハッタリ、傲慢横暴な態度が効き目を奏するスレではないんだよ。
ここばかりではない。世間で生活するときでも同じだ。嘘ハッタリをかまして生きているのは、
命短いヤクザだけだ。ヤクザ世界ではないことぐらいわかろう? 何を言ってるのかさっぱりわからんよな!
それにしても、まことの口から、ハッタリ、
なんて出てくるんだな! まあ、いいことを教えてやってんだかね
ハッタリという言葉が出てくること自体
心に突き刺さってんだね >>167
理趣経典の冒頭の情欲は清浄であるのドクマは、煩悩即菩提と言われるものだよ。
どんな欲望であろうとも清浄であると言うことになる。
ただし、真相は、と言う条件が付いている。真相とは真実、実相と言う意味だ。
だから、全ての欲望は清浄が真実であるとなる。
だから、修業は真実を求めて、孤独に徹し、灰身滅知となる。
欲望の世界に趣着すると死んでもその世界から逃れなくて、同じく欲望の世界を生きることになる。
これを輪廻するという。
輪廻することが究極の生きる目的、とするのが、六道であり、それは地獄に他ならないとして、上位の四聖
を求めなさいというのが仏教だ。
さて理趣経の冒頭の章以下には、冒頭の欲望がそのまま真実だとすると矛盾する言説に満ちているものとなっている。
欲望の世界は虚妄なものだから、それをそのまま否定も肯定もしないで、相手にしないと言うことを説いているのだよ。 >輪廻を選択するか?一切の苦しみのない世界を選択するか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm
シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく
(輪廻を繰り返して)苦しみをつくり出しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
衆生は(輪廻を繰り返して)無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている、無明薫習
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
作者無し
それゆえに、業報に依存して
無明に縁りて行 → 行に縁りて識 → 「苦しい!」と掴もうとしている想いが現れている
色受想行識の仮和合が変化しながら相続して、そして
此の陰滅し已らば異陰相續して、前世から → 現世へ
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので
それゆえに、「解脱すれば仏だ」ということに、気づくまでは、気づくことは難しい 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じる
それゆえに
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
無明の停止は
無明の世界から解脱して
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して
止(シャマタ禅定)と観(ヴィパシヤナ智慧)を通して生じるのである
第十八章 自己と実在物の考察
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する
スッタニパータ 1119
無明の世界から解脱して
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して
つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切は「夢、幻の如く、空性である」と観察せよ 悪事を働いて、みんなが混乱してるのを、暗闇でほくそえんでいる愉快犯。 悪事って、元と言えば、まことと同じ悪事じゃないか! そのとおりであった
まことという55歳ニートは、1日中自演をしておいて、相手には自演をするな
と、言うのである
さんざん、自演、騙り、煽りをしておいて、相手には、一生なんなら、とか、悪事とか
言うのである
まこととは、そういう男である 修証の書管理人ですか!
はじめまして!
これからも、ヨロシクお願いします!! ヨロシク
オレも礼をした
良ければ、まことの話を、喜んでするつもりである 無明の世界から解脱して
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して
> 今日こそ外に出ろよ
どのような方法で
無明の暗闇に覆われてる世界から解脱すれば良いんでつか?
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図
八
「想う」という想いも手放し
「想わない」という想いも手放し
妄想が滅し終わって
滅してから
無為法の世界から観察して
そこには悟りもなければ、悟られた法もなければ、悟った人もない
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
余念を交えず、ただひたすら只管打坐?
九
さらに無の世界を超えると
菩提心を起こし修行する以前の(無明している?)世界に戻ってきた
妄想が滅し終わって
滅してから
無為法の世界から観察して
余念を交えず只管打坐
そして
無明の世界から解脱して
いつでも光り輝いている智慧の世界から
無明の暗闇に覆われてる世界を観察していく?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
(無明の世界の中で、頭で妄想を作りだしている)
明智が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明・妄想)を裂け落とさせるものである? 224.
想い、という主体がいない、ということである。
その、いない、主体に執着しない、ということである。
それが解脱である。 まことと呼ばれて
まことと呼び返すのは
まことのジジイくらいはもんだろww 238.
知識の羅列、
内容のないバカである証拠である。 人間は、存在しない、か
まことは、間違って解釈してんだねww >>239
まことの文面は、いつも、内容がないじゃないか! 一乗真実、久遠実成
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 一乗真実、久遠実成
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 お山の大将が身の程知らずに出しゃばってきてるな。
何れギロチンに首をさらすことになる。 おい!
自爆轟沈・三毒ヘタレのかかし丸!
>それともビビってるのか?
>マヂで訪ねるからちゃんと教えろ
さぁ!
場所は教えた通りだ!
早よせいや?
いつ行くんだ?
行く日を宣言しろや? 【かかし、妙心寺に討ち入り宣言⁉︎】
かかし!
珍説・奇説や屁理屈を言っては絡んでくるあのかかしが、臨済宗の一居士に間違いを指摘されたのを逆恨みし、臨済宗妙心寺に物申しに行くそうです!
乞うご期待!! イチセンダイが仏教の極意を発見したぞ、と躍り出たのが日蓮で、如何にも末法が極まったのだ。
今そのイチセンダイを本当の仏だといって暗躍しているのが創価学会だ。
暗躍と言うのは、とてもじゃないが、明るい表に出て、その極意を表明出来ないからだ。
キチガイの戯言にしかならない白もろと判るからだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています