>>96
答えを出す作用は、本物、すなわち、思慮分別を超えている。
しかし、答えは対象化されたもの=頭の中の認識、ということでいいでしょうか?

答えを出しているのは、認識ではないが、答えを認識するものは、思量である。

では、この答え、認識は、あくまで人間の頭の中、と言うことになりますが、
それに何の意味があるのでしょう?

禅は、答えがあってはならない、一物もあってはならない、と言うことではないのでしょうか?