宗教は滅ぶ? [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
今のままでは、間違いなく、人々に忘れ去られ
現存しても形骸化、文化遺産になるでしょう
だって、戦争以外なにもやってこなかったのですから 本物の宗教は滅びません。
なぜなら普遍的不変だから。
しかし偽物の宗教は滅ぶことができるでしょう。 日本の宗教は仏教、すべては金
イスラム教は戦争
キリスト教は児童虐待
すべての宗教は、宗派争い
新興宗教は占い師
これじゃーね 例えばスマホ、電車、バス、飛行機などのように役に立っていますか
葬式の時くらいでしょう
なさけなくありませんか
社会に貢献できる何かを
考えましょう
宗教が出来てから、宗教は進歩していますか
怪しい新興宗教ができ、進歩どころか、社会に比較して、かえって後退していませんか
信じる時代は終わりました
これからは実を結ぶ時代です 団体としての宗教が必要になったのは我々の知覚の領域が五感のみに表面的に閉ざされたから
感覚が形而上の世界から締め出されたら、それを知覚できる特別な存在や神話の形式、ようするに誰かからの又聞きで知覚するしかない
逆に考えると、直接知覚できるようになると団体としての宗教は必要なくなる
真偽の定かではない受け取るだけの宗教は、知覚できる人が増えると客観的に証明できる科学的な態度で取り扱うことができるようになる
人の進化の先に形而上の知覚、がもし待っているのであれば団体としての宗教はこの世から存在しなくなり、代わりに深く直接探究する学術的な研究対象になるだろう 宗教は奴隷術で奴隷化支配が目的なのでなくならない
教義や経典の話は飾りなのでそれが廃れても大したことはない
奴隷化信者候補を作るため貧困や不穏な環境にさせて回ってる まとめてみました。間違っていれば指摘して下さい。
仏教は
そもそも仏陀が解脱したことが始まり。
般若心経はそのためのお経。
解脱は煩悩を捨てることであり、
仏陀は極楽へは言及していない。
すなわち、仏教は解脱を目標としている。
仏陀入滅約200年後、ヨーロッパからキリスト教がインドに入ってきた。
キリスト教の天国という概念(ヨハネ福音書)に対抗するため、
仏教は極楽という概念を取り入れた。そして法華経を創った。
そして、仏教のある宗派は、本来の解脱という目標から、極楽へいくという目標に変化した。
つまり、信じれば天国、極楽へ行ける。
世界をみると、解脱からほど遠い人々がほとんどである。
けんかや犯罪が減らないのはこのためである。
ここで道徳が重要になる。
続く 続き
道徳は、良心に基づく心、規律である。
それは、宗教とは関係ない。 人間は【妄執という一つのものに従属した】 悪いものに従属し人間の活動がある。釈迦は教えを書かなかったが、修行僧に言語表現だけのものとして教えを残すことをゆる
した。【他者=神などの人格ある者は、悪い者だから宗教があり、束縛する】=『足ることの無い』貪欲な無知な獣のような人々を束縛するのが宗教の役割りであると。
私はニルヴァーナを見、人格神に教えを聞いた者だが、【悪い者を束縛する・釣り殺し獲る】宗教の役割りから、
妄執を断じることが正しい行いとした釈尊と修行僧=離欲・無所有・わずかな食物で暮らす生活を守り 森や林で静けさを目指す
人間の妄執信仰から、『妄執に導かれない正しい行いは何か』を伝えようとした釈迦の行いは、永遠に不滅である。
そこで、【究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達して、一切の生きとし生けるものどもは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、母が己が独り子を命を賭けても護るよう
な無量の慈しみのこころづかいがこの世では崇高】
【一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない】 【学び修めた賢明な人】【すべて悪しきことをなさず善い行いを行うことこれが仏の教えである、わかち与える者には功徳が増大する】
―学び修めた賢明な人は、食乞う人々に飲食物をもってわかち与えよ、貧窮なる人々、旅行く人々、乞う人々に施し与えよ―
妄執を断じた世界は、離欲とこの世で生きながら彼岸に達することであり、それ以外に正しい信仰は無い と明らかにする=神通力の領域に達した釈尊。
平安の境地で無量の慈しみ、安らぎは虚妄ならざる真理 の世界であるが、
◎在家を営む人々
―今日われらは美しい太陽を見、気持ちよく起き上がった―森や林は楽しい 何ものをも信ずることなく― ■在家の信者でも
人間は妄執に導かれたもので、『他人に従属してはならない』 貪りをよしとせず自制が大事なことで、「清々しい朝」だと清々しい清浄な心の状態は、人間の状態になって
もわかっている。快楽を貪らない森や林で清々しさを楽しむ心の状態こそ、実は妄執を乗り越えた清浄な世界を知ることであって、決して宗教的行為で導かれるものではない。
諸々の邪な見解を捨て、無量の慈しみの心づかいがこの世では最も崇高な行為で、在家の信者でも決して、生けるものの幸福・安穏・安楽な暮らしを害うことをよしとしては
ならない。一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者には、罪過は存在せず道を外れることはない。
すべて悪しきことなさず善いことを行い心を清めること、これが仏の教えであると書かれているように、学び修めた賢明な人がわかち与えるように、貧窮なる人々、旅行く人
々、乞う人々に施しとして与えよ。
清浄は清浄、わが物という執着よりわかち与えることが清浄な道につながる。 そういった知識ある釈迦と修行僧の行いだけが、滅びない。 私は解脱体験者であり、『妄執に一切のものが従属した(神々との対話)全世界は悪しき者の配下にある(新約)』であり、そのことに思い悩み実際に神の語りを聞いた者であ
る。仏の教えとして『安息の境地ニルバーナを見た』者であり、【人間】と【神=神が直接語った自らの意思】を他者=実在する霊 から知った者である。
書物から見出した者ではなく、聞いてから書いてあると書物を引用する者である。
【人間とは】
―からし種一粒ほどの信仰も無い(新約)―何ものかを信ずることなく(仏)とまだ汚れの無い幼い子が人間の宗教に毒されず生まれたように(構造=創造)
金や富に仕えず、快楽・享楽・五欲の対象にあくせく仕えず、悩み苦しみ思い煩わない状態であり、人間の宗教にも毒されず、『外で元気に遊ぶ子』や聖霊に満ち荒野の者の
ように(新約)何ものかを信じることなく林で楽しむ者のように(仏)世と世にある欲得にあくせく思い煩うことなく『よい天気ですね』と挨拶できる者は、在家の生活を営
み何ものかを信ずることないが故に清浄な心の持ち主なのである。
この世の者となって、何ものかを信ずることなく・からし種一粒ほどの信仰の無い者と認め、あなたがた人間は生ける者の幸福と安穏・安楽な暮らしを喜び、それに仕える慈
しみのこころづかいを善いこととし生まれた。 数百年単位じゃなくならないだろう。
数万年単位だと、なくなってるだろうね。 神→人間の宗教に毒されぬ汚れ無き幼い子
■悪魔教からの救い
釈迦・・・世捨て、無所有、離欲、森に住み心静まり日に一食をとるだけの清浄な行者 生きながら彼岸を目指す
イエス・・・この世の者ではないのが神 人間は誰もからし種一粒ほどの信仰の無い者だ
清浄なら信じることも無く、生まれた時点の生命の尊重を理解する・・・無信仰で人間でいたいと生まれた生命の尊重=神の意図、人間界の構造
釈迦は在家の生活を営む者にできないことをさせ、悪魔ナムチの軍隊(宗教支配)と戦った。イエスは罪人が神を信じることはできず、からし種一粒ほどの信仰の無い者が人間
だと神の意図をイスラエルに教える。 □人は平等に労苦して働く
―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない(悪魔との対話)―究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達して〜諸々のひとの家で貪ることがない。他の識者の
非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ(ブッダのことば)
―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は昼夜に常に増大する(神々との対話)
―あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦して努力して働き続けた(テサロニケ)
※人類に重荷を負わせたのは、人々に衣食住、快適な暮らしを労してつくっても、信仰の無い悪い者で働いても当たり前とさせるためである。
□正しい者はいつ?=信仰ありと意識せず行うのが本当
―空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い〜正しい者たちは言うであろう、『主よ、いつ
(マタイ)
―学び修めた賢明な人は、食乞う人々に飲食物をもって与えよ〜貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ(神々との対話)
―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与える人々には功徳が増大する(感興のことば) □他人に愛されるよう説け
―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである
・・この世では自己こそ自分の主である〜賢者は、自分の身をよくととのえて、自分の主となる〜いろいろの幸せを得る(感興のことば)
―法にしたがって生き、恥を知り、真実を語り、自分のなすべきことを行う人は、世人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをする
のである〜他人を訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから他人を遠ざけよ〜その人は善人から愛さられ、悪人から疎まれる。悪人と善人とは、死後には異なったと
ころにおもむく(感興のことば)
―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない〜主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい(エペソ)
信仰対象物も無く、宗教的行為・行事で救われる者はひとりもいない人類。【聖霊に満ち荒野】の者のように、静けさを楽しむこと以外、清浄に近づく行為は無い。
そして世の中で暮らす人々には、知っていることしか無い。信仰の無い者としての道徳教育だけが残る。 悪魔ナムチの軍隊
1)供養とか献金は一切いらない
かれらは希望し、称讃し〜献供する〜供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない(ブッダのことば)
2)誓ったり、宗教的行為により何かを解決できることはない
いっさい誓ってはならない―(マタイ)― 一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て(ブッダのことば)
3)意識活動も全て無くなった者(亡くなった人)は、既に別の状態にある
葬儀などやるな―(ブッダ最後の旅)―死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(マタイ)
4)人が聞いて何を言っているのかわからない言葉を唱える人々は、内心は汚物に汚れている
多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ―(悪魔との対話)見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ)
5)献金・供え物はいらない 人が相手を騙そうとして欲しがっているだけのものである
献供をささげる〜梵天の召し上がる食物ではないのです―(悪魔との対話)―偶像は何かほんとうにあるものなのか〜人々の供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者
に供えるのである(コリント)
6)無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも〜有益なことばを一つ聞く(感興のことば)
7)功徳(御利益)は人々が幸福や安穏・安楽な暮らしのために努力して働くことで生まれる
悪魔は、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる〜尊師は〜悪しき者よ(ブッダのことば)
8)形ある信仰対象物を拝むことは悪魔のような心の持ち主 この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜これらはすべて悪魔ナムチの褒め称えるところである(神々との対話)
9)妙なことを言われて人を騙して脅され、それにこだわる人は知恵もない
いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。偽り(詐偽)をもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを告げた(ブッダのことば)
10)すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです(マルコ)功徳を得ようとして神をまつり犠牲をささげ〜慈しみの心の功徳の十六分の一にも及ばない(感興)
在家信者を悪魔ナムチ教が支配しようとする。在家者はもともと信仰はできず、【母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみのこころづかいが、この世では崇高】
として、決して生けるものの幸福と安穏と安楽な暮らしを奪うことを正しいこととしてはいけない。諸々のひとの家で貪らず、他の識者の非難をうけるような下劣な行いを
決してしてはならない。
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者ブッダに罪過は存在しない。かれに過失、道から外れることは存在しない。かれは迷妄の陥ることがなかった(神々との)
良識的な人々が悪い宗教者に脅されたり、詐欺的な宗教的行為で騙されたり、葬儀は形式だけで人間が死んだ者をどうすることもできないのに、多額の供養料を取られたり・
・・・・迷って悪魔教に頼ろうとしているのだ。修行完成者としてあわれむ者=在家者は決して他人を無のように扱わないこと で迷って悪魔ナムチの手下になってはいけ
ない。 神仏などと
ですか
天国、極楽、地獄
ありえないことを
飴と鞭ですな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています