>>451
この間聞いた話なのですが、釈迦以前のインドの考えによるものに
わざと身なりを汚くしてそれを見下げる人間からその人間の善それまでの徳をもらい
代わりに自分の悪徳を与えるという行いがあったそうです。
これは自分自身が神になる為の行いだそうで(それだけでなく他にも修行は当然)
同じく坐禅をして自分だけが何かを得たい、それを見せびらかしたい、見て欲しいという人は
悟った!と言う割には仏になって他者を救いたいと思わない。
なるほど、つまり小乗では救われないなとまた確信しましたw

>実はどれ一つ欠けても成り立たないし。

それを知ることも「ガンジス河の砂粒より」と言うようにやっとこさ人間に生まれて
仏法に遇ったことによって頷けることでした。