【東京】カトリック麹町・聖イグナチオ教会【四谷】 [無断転載禁止]©2ch.net
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かつて存在していたスレですが、いつの間にか消えてしまっていたので
立ててみました。
「正平協」の話題は、別にスレがあるのでそちらでお願いします。
未信者の方でもカトリックに興味のある方、イグナチオ教会に出入り
している方等、大歓迎です。
都内一のマンモス教会ともいわれている当教会は、入門講座なども
たくさんあり、また週日・主日を問わず毎日のようにミサが行われ
ます。(平日でも1日数回。しかも夕方のミサは毎回パイプオルガンの
伴奏つき)
交通の便が非常に良いこととも関係しているでしょうが、登録信者数が
非常に多いだけでなく、実際に人の出入りが絶えることのない大変活気
あふれる教会です。
そんなイグナチオ教会について、いろいろ語り合いましょう。 法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。 カトリックに興味があります。
近所のカトリック教会に行こうか検討しています。
奉仕活動に興味があります。
50代、独身、男性です。老後の一つのテーマで、奉仕活動を考えるようになりました。
煙草はやめ、酒もあまり飲まない、性的にも年なんでストイックな生活は基本的に問題ないです。
逆にストイックな生活はよい生活習慣として健康にもいいかなと思っています。
奉仕活動と聖書の勉強をしてから、信仰に入ろうかなと思っています。
質問です。
カトリックは献金はどうなっているのですか?
それから、私はヨガを熱心にやっています。健康のためです。本当に健康になりました。
ヨガのクラスも瞑想の時間はありますが、長くて10分です。宗教的なことはレッスンでは言いません。
ほとんどストレッチ運動です。
ヨガをやることはカトリックでは問題になりませんか? ■初代免罪符販売者とはパウロのことです。
救済とは個人と神との関係であってパウロが免罪符を売るような話ではないのです。
カトリック教会は代が変わるごとにパウロを見抜くことが出来なくなり堕落していきました。
パウロの免罪符を買うような人間のことをカトリック信徒というのです 。
救済とは仏教では悟りです。
パウロが免罪符を売るような話ではないのです。 カトリックも同性愛に対して
寛容になってきていますね ゲンをかつぐ件に関して、小池は釈迦をおまいりしてはいけないし、増田は不動を拝んではいけない。 余談だが、ゲンをかつぐ件に関して、小池は仏はおまいりしてもいいが釈迦をおまいりしてはいけないし、増田は不動を拝んではいけない。 寄付は主日ミサの時に帽子のような入れ物が回ってきて、各自でお金を入れる
ようになっています。
どこの教会も同じような形で行われていると思います。
どんなに少額でも周りからはわからないような入れ物を使っている教会が多い
のではないでしょうか。
信者はそれ以外に、定期的に教会維持費を納めるようになっています。
イグナチオ教会の場合は、ミサの「聖書と典礼」のパンフに封筒がはさんで
あり、その封筒にお金を入れるようになっています。 ヨガに関してですが、現在のカトリック教会では別に問題ないようです。
でも、もともとはカト・プロ問わずキリスト教ではヨガのようなヒンズー教
に由来するものはご法度だったはずだと思います。
今はあまりうるさいことは言わないようになってきていますね。
第2バチカン公会議以後、他宗教に対して色々な意味で寛容になってきて
いますから。 あと、いくらカトリックが昔よりも寛容になってきているとはいえ、
同性愛に対して寛容になっているということはないと思います。
少なくとも教義上は認めていませんし、ごく最近バチカンで見直された
ことの中にも、同性愛については変更点はなかったはずです。 >>13名古屋にいくと
南山大学を運営する、神言会の教会には、
ヨガに反対する薄いパンフレットが
ありました >>14-------------------------------------------------------------------------------
教会は「同性愛者に謝罪すべき」、ローマ法王が見解
2016.06.27 Mon
ローマ法王フランシスコは26日、アルメニア訪問を終えて帰国途中に法王専用機内で記者会見し、
カトリック教会は同性愛者などに不快な思いをさせたことに対して謝罪すべきだとの見解を示した。
http://www.cnn.co.jp/world/35084917.html
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「キリスト教徒は同性愛者に謝罪するべき」、ローマ法王
2016年06月27日 14:21 発信地:ローマ/イタリア
【6月27日 AFP】
ローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王は26日、
キリスト教徒とローマ・カトリック教会は同性愛者の人々に対してこれまでの
待遇を謝罪し、許しを請うべきだと語った。
フランシスコ法王はアルメニア訪問を終えて帰国途上の機内で、ドイツ人の
ラインハルト・マルクス(Reinhard Marx)枢機卿がカトリック教会は同性愛者の
人々への対応を謝罪する必要があると述べたことについて同意するかと
記者団から問われ、次のように答えた。
「われわれキリスト教徒には、謝らねばならないことがたくさんある。
今回のこと(同性愛者の待遇)に限らないが、私たちは許しを乞わなければならない。
謝罪するだけでなくーー許しを」
さらに法王は「そうした状態(同性愛)の人が善良な人物で、神を求めているとしたら、
その人を裁く資格が私たちにあるだろうか」と付け加えた。
http://www.afpbb.com/articles/-/3091898 >>14
そうでしょうか?いま大きなパラダイム変換の時代が到来しつつ
あるのです。
ガリレオが地動説を唱えた時代、イエスがファリサイ派と対峙し、
世の中に立証法の考えをもたらした時代、それぞれに、パラダイム変換が
起きたのです。
パウロの罪をイエスの十字架に謝罪しましょう。アーメン
パウロはイエスの弟子たちを迫害していたのです。
イエスの霊は、そんな人に現れるでしょうか?
生前のイエスの性格は、迫害する人には、「迫害上等」と言う性格でした。
イエスの方から、迫害する人にすり寄るような事は一度たりともありませんでした。
パウロはイエスと寝食を共にしていません。
イエスの弟子ではありません。
勝手に後だしジャンケンしただけです。特にローマ書には
性のマイノリティーの方々を傷つける、精神性攻撃の言葉が
書かれています。同性愛者は偶像崇拝の罰によって、神によって
同性愛に引き渡され、当然の報いを受けているのではありません。
このローマ書のパウロの罪をイエスの十字架に謝罪する運動を
2chの端っこのスレから世界に発信しましょう。インチキ、
後だし、ファリサイ派のパン種、パウロは検証されるべきです。 >>13
ヨガに関してはバチカンの偉いエクソシストが反対してる。
イグナチオ教会はメンディサバル神父が帰天してしまって残念。 >18 まだご存命の神父様でしょうか? 反対の理由を御存知でしたら教えてください。
エクソシストというあたり、興味深いですね。
ところで、メンディサバル神父様というのは有名な方だったのですか?
どんな神父様だったのでしょう?
私は昨年あたりから定期的にミサに通うようになったのですが、その前は
ほんのたまにしか教会に足を運んでいなかったので、以前のことはよく
わからないのです。
イグナチオ教会は数名の神父様がローテーションを組んでミサをあげて
くださいますが、歌ミサをなさる神父様が少ないのが残念です。 今日、イグナチオ教会の18時のミサ後にパイプオルガンの演奏会が主聖堂で行なわれました。即興演奏だそうですが、とてもそうは思えないほど、まるでバロック時代の名演奏を聴いているような感覚を味わいました。本当に素晴らしい演奏会でした。 >>18名古屋司教区内の神言会の教会
に行くとカトリック信徒はヨガ
と関わらないようにと書かれた
パンフレットが置いています ヨガの行者は老人のように見えるが実は若い。短命になりたくなかったらヨガなどやめなさい。 >>22名古屋に行くと神言会の司祭と
修道者は、ヨガを強く反対しています 昨日のイグナチオのパイプオルガンはまじ行きたかったです!行かれなくて残念。
土曜のラビリンスは参加予定。ラビリンスも北欧ドルイド教はじめ世界各国の古代アミニズム起源のもの。 名古屋のカトリック教会でヨガを反対している具体的な理由は何ですか?キリスト教的ではないということだとは思うのですが、実際にヨガのどういう部分が問題だと言われているのでしょうか?キリストの信仰と何か相反するもの、信仰の妨げになるようなものがあるのでしょうか? >>20
聖堂を演奏会場にしてしまっていますか
娯楽を提供する場所ではないと思います ヨガをやっている人は多いが、ヨガがきっかけでヒンズー教徒になった人は決して多くない。
アレフがやっているヨガ教室や韓国系の教祖のイルブレインヨガは危険なのでご法度だが、
カルチャーセンターのヨガ教室で楽しむくらいなら危険ではないので目くじらを立てる必要なし。 御大さぁ・・・乱暴者バージョンやめたの? 近頃見てないけど >>26
聖イグナチオの生涯を辿りながらの祈りと黙想といった感じの演奏会です。娯楽とは全く違います。ミサのように皆で聖歌を歌う場面も多かったです。
仮にパイプオルガンの演奏だけだったとしても、もともと教会で演奏するために作られたような楽器なので、教会音楽たとあまりに掛け離れた曲目でない限り、娯楽提供の場にしているとは言えないと思います。 >>30
黙想に近いことを伴奏付きで行われたのですか。
無伴奏であった時間は相当長かったのでしょうか? >>25名古屋の南山教会などの神言会の
教会へ行くと ヨガに反対するパンフレットが置いてあります 体操とか健康法的にやるならそこまで問題ではないんじゃないか
それだと盆踊りもダメになる 本日の聖イグナチオのためのミサに行ってきました。共同司式でした。
残念ながら、ご聖体変化は節をつけない
タイプで行われました。
もともとイグナチオ教会は、この場面で歌ってくださる神父様は少数派ですね。昨年の被昇天ミサの時もそうでした。
特別なミサの時は、特にガッカリしてしまいます。本質的なことではないのは分かっているつもりですけれど。 あの歌うパターンっていつやるとか決まりがあるのかね >>35
神父様によって違うようです。
(少なくともイグナチオ教会の場合)
私の知る限り、ご聖体変化で歌ってくださる神父様は
3名のみ。ミサの最初から歌ミサをしてくださるのは、
その中の1名ですが、全員日本人の神父様です。
たまに、普段はご聖体変化の時に歌ってくださるのに、ある時のミサでは唱えるだけという時もありました。
その辺りの細かいルールはよくわかりません。
時々英語ミサにも行きますが、ご聖体変化で歌う神父様に遭遇したことはありません。 5日の初金ミサに行ってきました。やはりラテン語の聖歌はいいですね。しかもアカペラでした。イグナチオで香炉ボールが使われるのを初めて見ました。去年の被昇天ミサの時だって香炉ボールは使われていなかったのに。 >>37年間主日のミサは、フォークミサや
簡素な日本語のミサで良いが
クリスマスや復活祭などの大祭日は
ラテン語の荘厳ミサをオプションのひとつとして捧げてほしいです >>38
同感です。
フォークミサの代わりに、ラテン語ミサを月1でやってほしいぐらい。
現状では教会の一存でそんなことは出来ないのは分かっているけれど。
月1のフォークミサはホントやめてほしい。
うっかりフォークミサに参加してしまった時、伴奏が流れただけで激しくテンションが下がるのは私だけ?
他の人達はどう思っているんだろう?
ところで、スペイン語ミサが毎回フォークになったのは、いつ頃からですか?
ラテン語ミサに近い感覚を味わいたくて、たまに参加していたのですが。
聖歌も、ギター伴奏をしているシスター方しか歌っていませんよ。 ラテン語ミサの動画を見たことがありますが、こちらのほうが格調高くて素敵だと思いました。
フォークミサなんて創価学会のイベントで芸能人を読んで流行歌を歌わせているようなものです。
同じように南無妙法蓮華経と唱えていても身延山のお参りのほうがずっと荘厳で神秘的です。
やはりアーメンにしろ南無妙法蓮華経にしろ宗教は宗教らしいほうがいいですよ。 >>40そうですよ
フォークミサは新興宗教っぽくて
私は以前プロテスタントの信徒だったけど
私が以前所属していたプロテスタントの教会でもフォークミサで歌うような曲は子供向けの教会学校の礼拝やキャンプ、ピクニックのときだけでした
クリスマスや復活祭などの大祭日は
ヘンデルのメサイヤやバッハの曲を演奏し聖歌隊でも歌っていました
現代のカトリック教会のミサ曲は
プロテスタントよりも格調が低く
信徒以外の人にも紹介出来ないくらい
ひどい内容ですよ
>>39現在、月一でラテン語のミサはむずかしいかもしれないけど
最低でもクリスマス、復活祭、聖母被昇天などの大祭日や聖イグナチオや聖フランシスコ・ザビエルの祝日はラテン語の荘厳ミサを
取り入れるべきだと思います 創価学会が伝統的な仏教をどうしても越えられないのはやはり儀式性と荘厳性に欠けるからではないでしょうか。
最近ではお坊さんロックバンドもあることはありますが、だからといってロックバンドのお参りをすることはないでしょう。
仏教は末寺ですら流行歌やロックやフォークを従来の御詠歌にかえて歌うことはありません。田舎のお寺ですら行事のお参りの時は、
たとえば真言宗ならきちんと護摩を焚いて真言を唱えています。キリスト教も仏教もこういったことは同じで、
くだけていれば人はついてくると考えるのは短絡思考です。
平安の昔から護摩を焚き真言を唱えるという変わらないものがあるからこそ、人はそこに宗教性を感ずるのです。
キリスト教にもこれと同じことがいえます。 >>43ヨハン早稲田教会などの新興宗教系のプロテスタント教会やカルトまがいの単立のプロテスタント教会では
ロックやフォークなどの音楽を取り入れた礼拝をしている教会もあるけど
日本キリスト教団や聖公会、バブテストなどの伝統的プロテスタントは普通の
主日礼拝ではフォークソングを取り入れた礼拝はまずしません! 今すぐラテン語ミサを復活させることは難しくても、カトリック聖歌に載っていたラテン語聖歌を取り入れることは、
その気になれば直ちにできることですよね。
一度も禁止されたことはないわけですから。神父様にも負担はかからないはず。聖歌隊も含めて、信徒側としては喜んで歌う人が多いと思います。
プロテスタントの礼拝のお話、すごく納得してしまいました。
と同時に改めて、悔しい気持ちが蘇ってきました。
最近、銀座教会の礼拝に2回ほど参加しました。(メソジスト系?)
驚いたことに、祈りの言葉は全て文語です。
聖歌集に詩篇150篇のうち、かなりの詩篇が載っているのですが、
それも全部文語体でした。
カトリックが躍起になって、文語体のものを消していこうとしているようにしかみえない現状の中、
プロテスタント教会がこんなに格調の高い祈りを唱えているなんて。
プロテスタントも正教会も、それぞれの伝統を守っているのに、
カトリックだけ一体何やっているんだろう。
今の讃歌シリーズは割と好きなんですけれど、あれは歌詞も格調高いんですよね。
入祭、閉祭の歌はどうもテンション下がることが多い。
もう贅沢言わないから、せめて入閉祭だけでも、アヴェ マリアを歌わせてほしい。
イグナチオの聖歌集に唯一残されたラテン語聖歌なのだから。 被昇天ミサが近づいてきていますね。
今年イグナチオ教会では、15日に3回日本語の被昇天ミサが行われるということですよね?
去年は1回だけでしたけれど。
司式の神父様が誰なのか気になります。 >>47
そういえば、被昇天の日から告解ないんですよね。
私は土曜日夕方のミサに行くことか多いのですが、2箇所ある告解室の前がいつも列になっていますけれど、皆さん頻繁に告解を受けている方が多いのでしょうか? >>48
頻繁に私は受けるよ。だって罪のまま死んだらやばいもん。
生きてたら罪は重ねるからね。 >>49
イグナチオ教会で求道中の私にとっては、「」 50です。
変なところを押してしまい、そのまま
送信されてしまいました。
求道中の私には「罪のまま死んだらやばい」という言葉が、とても新鮮に聞こえます。
自室にこもって、神に直接罪を悔い、許しを乞うのと、きちんと神父様に告解をするのとでは、許されたという感覚が全然違いますか?
この場合、担当の神父様によっても違いがあるのではないかと思ってしまうのですが、そのようなことはないですか? >>51
罪は告解じゃないと赦されない。自室で祈って赦されたと確信するほどの信仰も傲慢さも無いので、赦されたと確信する言葉(形相)があって初めて安心するもんだよ。
告解は形式なものではなく秘績だからね。
告解で必要なものは痛改の気持ち。 荘厳ミサ曲、せっかく学校で習うのに全然荘厳ミサが無くて残念です。
ベールも結構集めたのに、なんか使ってる人のが少なくなったし、グレゴリオミサ復活大賛成です。
別件ですが、ドンボスコってカード使えます?セールの時行こうかと思ってますが、御メダイは安くはならないかな? >>53
荘厳ミサを学校で習うのですか?
カトリック系の学校だと、荘厳ミサをあげてくれるのですか?
確かにベールを被る人は少数だけれど、イグナチオ教会では一定の割合でベール被っていますね。同じ主日ミサでも、土曜より日曜の方がベール率高いような気がします。
以前うっかりフォークミサにぶつかってしまった時、いつもの日曜と同じくベール被っている人が何人もいたので、根拠のない違和感を覚えてしまったことがあります。
ドン ボスコであまり買い物したことがないので、カードのことは分かりません。 >>54さん
自分の母校と姉妹校と、割と近くの学校の子たちと夏休みのボランティアで集合したとき、全員ラテン語でキリエ、サンクトゥスベネディクトゥス、クレドなどは習っていて、昼休みにモーツァルトのクレドをみんなで歌ったので、都内はラテン語の歌は大抵やってると思います。
私の母校系はグレゴリオミサもやってましたので、当時は信者の子は全員ベース被ってましたし、ネウマ譜も普通に宗教音楽の時間にやりましたので、グレゴリオ聖歌も何曲か記憶してます。
最近はイグナチオでは英語ミサの時間に行くのでベールの人は殆ど見かけない気がしてました。
ドンボスコは突撃してみます!15日からセールやってくれれば良いのにと思ってます。 >>55
驚きました。
学校でキリエやクレドを教えてくれりなんて。
グレゴリアミサも行ってくれるなんて、羨ましいです。
普通のコンサートでも、モーツァルトやフォーレなどの優れたレクイエムをラテン語で歌うのが当然だし、誰も「」 また誤作動して、途中で送信されてしまいました。すみません。
確認メッセージなしに、いきなり送信されてしまう…
とにかく、肝心のカトリックのミサで、キリエを歌わないなんて、ラテン語を避けるなんて、それらの財産を芸術鑑賞用のみにしてしまって平気でいるのが理解できません。
教会の外で、芸術作品として演奏され、歌い継がれていなければ、消滅しかねません。
教会の方が、時代の流れにマッチしていませんね。
単なる情報としてご紹介しますが、英語ミサが終わった後、徒歩圏内の若葉修道院で、基本第2,3,4日曜日にラテン語ミサをやっています。
私は大分前に一度行ったきり、もう行くことはないかもしれません。
なぜなら、聖歌はほとんどネウマ譜で歌われるからです。
私は楽譜は読めますが、さすがにネウマ譜は無理です。
簡単な旋律なのに、悔しかったのを覚えています。
女性はほとんどベール被っていましたよ。 >>56さん
情報ありがとうございます。子連れでも入れるなら是非ラテン語ミサ、参加したいと思います。
ミッションスクールはみんなラテン語の聖歌を習うと思っていたので、そんなにびっくりされるとは思っていませんでした。
当時は東京、神奈川の8校は卒業式のミサでCredoを高3が歌う形でした。なので、今でも同窓会で最後の締めはCredoですw 同窓会での最後の締めがCredo・・・カッコイイ!!
赤羽教会の特別形式ミサに行ったことがありますが、その時に
初めて噂にだけは聞いていた「天使ミサ」を経験しました。
今はどこの教会もやっていないと聞き、ガッカリしていたので
余計感動しましたね。
私が直接確認したわけではないのですが、赤羽教会は第1日曜日の
主日ミサが「天使ミサ」らしいですよ。
某ブログで紹介されていました。 >>59
赤羽は典礼員の人が聖体拝領前の時にアナウンスで、「跪かないで立って受けてください」ってしつこい。
未信者含めて求道者もいるのにイメージ悪くなる。 >>60
そうです。
私も普通の主日ミサの時に、ビックリしましたよ。
去年の待降節、ご聖体変化の時の跪きが
一斉に禁止された頃、伝統的な美しい教会と評判の赤羽教会のミサに初めて参加しました。
旧イグナチオ教会の外観を思い出すような素敵な造りの建物で、聖堂も本当に美しかったです。
それだけに、聖体拝領の前の「跪かないようにお願いします」発言を聞いてすっかり気分が白けてしまいました。
今でも、そんなアナウンスが流れて
いるんでしょうか? 去年の待降節から、イグナチオ教会では跪き台まで撤去されました。
私は夜の主日ミサに出ることが多く、昼ミサのことはよく知らないのですが、あの頃はイグナチオ教会でも、いろいろあったみたいですね。
某外国人神父が、跪く信徒への聖体拝領を拒否したり、監視役のスタッフが、拝領時に跪く信徒に指導を入れていたり。
日本司教団から、聖体拝領における対応について明確な指示が出たので、今はそんなことはないみたいですが。
というか、そもそもバチカンから出ている指示を(聖体拝領を拒否してはダメという指示)日本司教団が改めてお達しを出したということでしょうか。
赤羽教会でも他の教会でも、跪く信徒に
聖体拝領させない所はないですよね? >>62
跪く人なんてそんな大した人数じゃないのにね。ある意味個人攻撃にしか聞こえない。 今やラテン語はミッションスクールじゃないと触れ合う機会も無い感じになってきたんですね。
話が本筋から外れますが、現在は都内のミッションスクールはどれもお受験しないといけない感じになっていて、塾通いは当然という話を聞き、子供は地元公立で良いかなと思ってました。
キリエ、アニュス・デイ、サンクトゥス・ベネディクトゥス、クレドを学年毎に教え、ミサでは全部歌いますので、当然学内のミサは天使ミサっぽくなります。お香も焚きますし、み空は語る神の栄誉やハレルヤコーラスも原語でやるので、とても素敵なごミサです。
キリスト教の文化的資産とでもいうものの継承はやはりミッションスクールに入れないと限界が有るのかな。
と、このやりとりで感じました。
でも塾通いする予算も暇も無いし、信者だから入れるという学校も無いらしいし、頭の痛い問題が増えました。 召命が減っているという現実は、教育現場にも影響していると聞きました。教員としてのシスター、修道士が激減しているらしいです。
代々シスターが学院長であった学校も、
遂にそれが無理になってしまったようですし。
学校によって事情は違うでしょうから、
一概には言えないかもしれませんが。 >>68
その場合、信徒の教員を何とか確保するすることで、カトリックの教育を行うのでしょうか?
ミッションスクールといっても色々あるようですが、カトリックの場合は元々教育は全員信者であることが前提ですか?
ミッションスクールによっては、教員の中にほとんど信者がいなくて、特にキリスト教の授業はないという学校もあるということを、大分前に聞いたので。 先週の金曜日、黙想ミサに初めて参加しましたが、聖歌隊がアカペラでラテン語聖歌を何曲も歌ってくれました。
教会の中で聴くラテン語聖歌は、また響きも格別です。
この日、イグナチオ教会で振り香炉が使われるのを初めて見ました。 この教会も、毎年の受洗者の数が結構多いですよね。
入門講座がたくさんあるからですか?
都内の某教会では、H作神父のもとからの受洗者数が話題になっていますが、イグナチオ教会も特に受洗者を多く送りだしている神父様がいらっしゃるのですか? >>69
信者か信仰に理解ある人という教員募集してますし、教免あれば上智で宗教科を取れるので、教員がいなくて教えられないって事は無いと思います。
やめたとすれば、栄光みたいに非キリスト教の保護者から勉強時間を減らすなど突き上げ食らったりしたからでは?
試験を公平にやり過ぎて、難関校には信者の子が受からず、ミッションスクールなのに学年に1人も信者がいないとか聞きますからね。
なぜかカトリック系のミッションスクールってたいてい進学校になってますからね。 >>71
とにかく入門講座が他の教会に比べてたくさんあるからでしょうね
一人の神父さんやシスターが大量の受洗者を
輩出しているというケースは無いのではと思います
>>72
入学試験を公平にやる、進学実績で定評がある、となれば
難関大進学校になっていくのがなりゆきでしょうね >一人の神父さんやシスターが大量の受洗者を輩出しているというケースは無いのではと思います
なるほど。
それにしても、それらの講座から毎年のように、ある程度の人数の受洗希望者を
出しているというのが凄いですね。
日本人って、もともとのキリスト教国の人たちに比べたら洗礼の必要性、重要性を
そんなに感じない文化のもとに生きているのではないかと思うんです。
他国に比べてキリスト教の布教が非常に難しい国のようですし、もともと少ない信者数が
さらに減っていくという話も聞いているので、毎年のように大勢の受洗者がこの教会から
出ているというのが驚きです。
入門講座の内容がとても充実しているということなのでしょうね。
この間のミサが、たまたま堅信者の方々のためのミサでした。
こちらの人数も大変多かったのでビックリしました。
交通の便が非常に良いという好条件があるにせよ、土日の主日ミサが
大盛況な理由がわかったような気がします。 形式的な洗礼に何の意味もありません。
日本人はそういう文化のもとに生きているのです。 神様
初石病院=細谷誠
筑波東病院=横山院長
取手キリスト教会の三田村亜由美
茨城県警に
不幸を与え給う 恐らくですが、留学や海外勤務などで現地のカトリックに触れて、
帰国後に受洗を希望すると言った場合、イグナチオ教会に行かれる方が
多いのではないか、と思います。 >77
ありがとうございます。
ところで、昨年の11月からこの教会でも躓き台が全部撤去されてしまった
ことについて、皆さんはどう思われますか?
ミサ中の動作の一致というのは、理解できないこともないんですが、
イグナチオの皆さまは聖体拝領の後も自席で躓いて祈っている方が
多かったですよね。
ミサがない時でも、聖堂で祈っている方が何人もいらっしゃいます。
そういう時にも躓き台は必要だったはずなのに、ご聖体変化の時の
起立の姿勢を徹底的に守ってもらうために、躓き台そのものを撤去
してしまうなんて、何て乱暴なんだろうと思っていました。
実際、信者の方はどのように受け止めていらしたのでしょう?
(もちろん、人によって感じ方はそれぞれでしょうけれど)
今でも、ご聖体変化の時に躓いている方が何人かいらっしゃいます。
中には、携帯用の躓き台を持参なさっている方までいます。
本当は躓きたくても、直に床に躓くのはかなりキツイですよね。
だから、我慢している方も結構いらっしゃるのかなとも思いますが。 私は跪いてはいけないと迄は読み取れなかったのと、長年祈って来た高齢者にそこまでスタイルを強制する必要があるのかなと思っています。
聖体拝領も是が非でも手で受けないといけないものかな?と思います。数年前にグアダルーペに行った際は口開けてると順番にポンポン入れてくださいましたが、今はどうなってるのかしら? 跪いて口で聖体拝領を受ける人は後ろから蹴飛ばしましょう。後頭部をスリッパで引っ叩くのも効果的です。 >>79
今年のワールドユースデーの放送を見ても、ご聖体を口で受けるている人が多かったですね。
むしろ一般信徒の中で、手で受けている人を見かけなかったぐらいです。
そういえば以前、前教皇ベネディクト16世が手による聖体拝領を拒否して、手で受けようとした人に待ったをかける感じで、口で受けさせたことが話題になりましたね。 >>81
もともとが口で受ける方が優位だから。日本では手で受ける方が優位だと思われてる。 昨日は10時の被昇天ミサに行ってきました。
A神父様とG神父様、私が尊敬しているお2人の神父様による共同司式で、とてもラッキーでした。
A神父様の司式は、最近なかなか ぶつからなくて...
イグナチオでは、歌ミサをしてくださる
数少ない貴重な神父様です。加えて、毎回のお説教も素晴らしい。
第3奉納文を使っているのは、この神父様だけでしょうか?
短い第2奉納文より、私はこちらの方が好きです。
18時ミサの司式の神父様はどなたでしたか? 主聖堂にあるマリア像、初めて見た時はマリア像だとは思わなかった。
皆さんがいつも熱心に祈っているので、もしかしたら…と思ったら、本当にマリア様だった。
外の庭や地下聖堂、マリア聖堂にある像は、別にカトリックの人間でなくとも、ああ、マリア様だと分かりますよ。
他のカトリック教会にあるマリア像で、一見何の像だか悩んでしまうようなものは見たことがありません。
何でもっと素直に、普通に誰か見てもマリア様に見える像を主聖堂に置いてくれなかったんだろう。
ああいう姿のマリア像があっても良いかもしれないけれど、芸術作品ご披露の場ではない、祈りの場なのだから…
旧聖堂の美しいマリア像を地下に追いやって、あのような姿の像を主聖堂用に置くなんて、理解に苦しむ。
皆さんの祈る姿を見て、私も何度か祈ろうと試みたことがあるけれど、どうしても、あのマリア像の前で手を合わせる気持ちにならない。 >>86イグナチオ教会は、プロテスタントなどの他教派の人も訪れるためプロテスタントからカトリックは
偶像崇拝をしていると誤解されない
ように不細工なマリア像を主聖堂に安置して、その像の前で祈りたいという
気持ちにさせないように
わざと置いているのかもしれません まさかね・・・
今さらプロテスタントから偶像崇拝呼ばわりされることを恐れたり、さけたがったりしているとしたら、それって意味ないですよね。
そもそも、聖母や聖人に対する祈りと、神やキリスト教に対する祈りは全く別物で、祈りの言葉も明らかに違うということを知らずに批判している場合が多いし。もっとも、カトリックについてのある程度の知識がなければ、祈りの種類が違うことがわからないのは当然ですけれど。
仮にマリア像に手を合わせないようにとの作戦だったとしたら、その目論見は見事に外れたわけですね。
ここまで書いて気づきましたが、私はその策略に嵌った少数派ということですね。 ここは主日の日本語ミサが週に3回もあるのに、いつ行っても大聖堂は大勢の信徒でいっぱいですね。
ミサに行く人が減っているなんで、この教会見ていると信じられないんですけれど。毎週ミサに行く人が多いのでしょうか? いつ見ても質問者でごった返していたあのスレを懐かしく思う、今日この頃 >91
あのスレとは?
昔のイグナチオスレのことですか? ◯林神父様は、今年は講座を持っていらっしゃらないのでしょうか? 土曜日の夕方、日曜日の午前と夕方、合計3回日本語の主日ミサがあります。 >>92
「行ってはいけない教会」というスレです
身に覚えのある人がいると見て、カマをかけるべく刺激を与えました >>95 Thanks!
ttp://www.ignatius.gr.jp/annai/misa.html
によると 5 回では? 行ったことがないので
ttp://tokyo.catholic.jp/archdiocese/church/tokyo/16030/
に、「1971年 昭和46年 聖体を手で拝領するようになる。」
とありますね。 出エジプト記第20章
あなたは自分の為に刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は
地にあるもの、また地の下の水にあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。
それに仕えてはならない。
偶像とは人が作り出したさまざまな像を 神と等しく扱う事で、それらに
祈り、崇拝したり祈願してはならない
事を戒めています。
偶像崇拝、占い、まじない、霊媒
などがそれにあたります。
カトリック教会では聖像や十字架を祈祷に用いますが、
これ等を偶像視し、神として拝むのではなく、信徒の心を神に向けるための
助けとして、そこに描かれている原像
を心に喚起し、
神のみ旨をさらに学び信仰を深めるためのものです。
聖像の前に立ち祈ることも、聖像を
見て神や聖人たちの教えや
その生活を通して神の国を思い起し、
熱心に救いを願い祈るためです。
世の中で金銭がすべてとそれを
求めるあまりに欲のとりこになる貧欲や
、知識や学問、学歴を誇る傲慢、
名声を追い求める名誉欲、
心にもないことを装って人の
尊敬を得ようとするなどの偽善
も偶像を崇拝することと等しい
事で、この戒めに反しています。 >>98
この文章は、20年くらい前に
北海道の札幌司教区のある教会に
福音派のプロテスタントの方が
カトリック教会の信徒向けの勉強会に
出席したとき
カトリック教会はキリスト像やマリア像を偶像崇拝していると
その当時の教区司祭(故人)に指摘したときに
その教区司祭が、その指摘に反論した
内容を、その勉強会に出席していた私がノートに書き込み
そのノートが今日、部屋の大掃除を
している最中に出てきたための
ここに書き込みました。
その福音派のプロテスタントの方は、
数年後、カトリックに改宗しています。 その人はカトリックは偶像崇拝だから非キリスト教、と思い込んでいたのでしょうね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています