【上座】アルボムッレ・スマナサーラ専用スレ【仏教】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレhttp://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1361869655/?v=pc
ラーマクリシュナと同列に扱われたくない
いくら上座仏教と長老の説法のクォリティを比較するにもヒンドゥイズムと一緒のスレにいるなら
始めに批判ありき
になるのは当然のことだ
このスレでは上座仏教のなかであまりにも信者が多いアルボムッレ・スマナサーラ長老の説法及び著書などを
上座仏教の経典や他組と照らし合わせた上で考察するスレです
もちろん瞑想や書籍などの情報交換も歓迎します。
ただし、瞑想は「慈悲の瞑想」がサマタ瞑想、「ヴィパッサナー瞑想」がマハーシ流観法と最近のものです。
この点については「まず、精神や頭脳を明晰にする目的が主である」というようになんとでもとらえて、
「マハーシ流観法は戦後になって作られたから長老の瞑想法は『お釈迦様の瞑想法ではない』」など
ごねたりせず、まずは「やってみること」「広まること」が主流になっています。
また、スリランカネタや長老の口の悪さのネタはお控えください。
長老はスリランカから離れて何年経っているか考えて発言してください。 怒らないこと
という本は読んで怒らない自分でありたいと思う人ももちろんいるだろうが
いつも怒られてばかりの人がルサンチマンを養成することにも繋がりそうだ
この本を読んで自分を怒っている上司を馬鹿扱いして溜飲を下げる人がいることだろう 子供の頃から似非サンガの差別組織シャム派でぬくぬくと暮らしてきたスマナサーラ。
スリランカでは僧侶のコスプレをした坊さんたちを食わせるのが功徳になると信じられている。
昔、欧州では文盲のクリスチャンを司祭が操ってきたが奴の国では現代でも坊主が愚民を支配している。
スマナサーラはインドのバラモンの差別を批判するがスリランカ仏教はもっともっと腐り切っている。
特権と差別を維持するための組織化されたバラモンの集まり。それがスリランカ仏教シャム派。
仏教をご都合主義的に利用すればここまで凶悪になるのかという手本。オウム真理教はまだかわいい。
内戦で異教徒虐殺を煽ったのは坊主だし、今も異教徒排斥とテロを扇動するのは坊主だ。
坊主は絶対的な権威で崇め奉られ異様な厚遇を受ける。警察権ですら満足に機能させられない。
そのスリランカ仏教の差別意識をもろに日本に持ち込んだ破戒僧。それが、スマナサーラ。
奴は仏教用語を使って人の弱みに漬け込み、「これが仏教です」とあることないこと吹き込む。
一方で思考停止と自分への帰依を推奨し、片方で外部への猜疑を推進しながら人を観念の奴隷にする。
神智学協会が作ったスリランカ仏教に由来するであろう差別的思考から何もかもを中傷する。
嘘を吐くという最低限の戒律すら守れず、金儲けが禁じられた出家のくせに何でも金にする。
芸能人や破戒僧は地獄に落ちるなどと説きながら自分は破戒生活をこれでもかと満喫する。
大乗が悪い?回教や基督教が悪い?一理あるかもしれないが、スマナサーラはもっと悪い。
日本人が悪い?あー悪い奴もいるだろう。もっと最悪な破戒僧は悪人だらけの国のサンガに帰れ。
スマナサーラのように信者のオナニー道具でしかないカルト教祖なら日本にはもう腐るほどいる。 最近この人の瞑想の本読んでその通りにやったら本当に落ち着いたので検索してみたらすごいアンチの数でびびった。 >>762
スマナサーラ長老の同業、大川隆法、池田大作、文鮮明、苫米地英人などもアンチが一杯。
各々のセクトの集いに行けば各々の信者がいて、主観的満足と妄想に皆でのめり込めるからご安心あれ。 スマナサーラは威勢よく、他宗教や他宗を批判する割に批判対象を全然知らない。
その知識は科学に無知な土人が必死で空想を繰り広げたようなレベル。
当然、スマナサーラは科学にも無知で知識レベルはカーゴカルトサイエンスクラス。
理系の学者と対談しているからといって勘違いしてはいけない。
理系の学者なんてものは、簡単に疑似科学にはまるものだ。
スマナサーラが詳しいのはTVと最悪なスリランカ仏教だけだ。
もちろん、スリランカ仏教に詳しくなりたければスマナサーラでいい。 https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11147381461
ヤフー知恵袋で印象操作をするスマナサーラカルト信者。
ここで論破されるからといってこんなとこで妄想を露呈する。 >>102
> 前スレで天野くんはスマナサーラの瞑想指導によって脳に障害を起こし非業の死を遂げたということは分かったのだが
誰か前スレの該当箇所をコピペしてもらえませんか? >>767
前スレ貼ってあるんだから自分でやりゃいいのに。
950: [] 2016/04/13(水) 08:28:49.84 ID:87MfYnWu
そろそろ、瞑想に邁進しすぎて頭に障害が出て、苦痛に耐え切れず14階から飛び降りて亡くなった天野くんの命日だ。
みんな、覚えてる?自転車の競技で優秀な成績をだしていた、健康で頑張り屋の天野くんの笑顔、坊主頭を。
スマナサーラは、障害がでないように、ゆっくり瞑想にとりくめとは教えなかったよ。全力で、完璧に、少しの隙間なくやれ、瞑想中に命を落とした僧侶は良いところへ転生するなどと煽りたてていた。
あの、爺さんのプライベートを、時間かけて観察してみればそんなに修行に本気でないのが分かるのにね。
時間をむだにしないで。勉強や仕事、恋愛を具体的にがんばることで、経験から知恵がわくんだよ。
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1361869655/950
964: [] 2016/04/18(月) 17:15:53.14 ID:QIaGYEjs
天野くん、ヴィパッサナー瞑想して頭に障害が出てしまい飛び降り自殺しました。
アタマが割れ、脳が飛び出して惨たらしいものでした。
手足の骨が砕け、あり得ない方へ曲がりアスファルトにしばらく跡が残った。
こんなことも防がないスマナサーラに、指導力なんてあるわけがないでしょう。
ウペッカーと言うなまえの無視、軽視、怠けです。
スマナサーラは早く死ねばいい。
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1361869655/964 >>768
ありがとうございます。知りませんでした >>769
863: [] 2016/03/18(金) 22:40:21.09 ID:Z3594n96
http://guronicle.com/26905.html
テーラワーダ協会被害者のA君は、
ヴィパッサナー瞑想を熱心にやりすぎて
頭に障害が、出て辛さに耐えきれず投身自殺した。
2007年の桜の咲く前の肌寒いころだったかと思う。
もう誰も、覚えてないの?
妄想は煩悩だから、思い出さずにいるのが正しいと自分は思わない。
スマナサーラの言うとおりにやるのが、結果を出す一番の早道だと口を揃えて
言ってた周りの大人たち。責任がらあるはずだ。
そんなに、力んで全力で宗教なぞやるものじゃない。
瞑想なぞ、気楽にやったほうが観察できるって意見がないのが寒気がする。
スマナサーラは全力で実況中継しろとキツく叱咤する。
瞑想指導をあおぐと、謎の嫌味や人格全否定をいうだけ。
自分もマハーシのヴィパッサナー瞑想で自律神経に不調をきたして
3年くらい喉を締められるような感覚が離れなかった。
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1361869655/863
788: [] 2015/12/25(金) 21:40:36.62 ID:CHcaJHBu
信者に変に権威のある人物ヅラして、仏教を賞揚すんのやめろよ。
自殺したA君は健康な少年だった。でもヴィパッサナを全力でやれと
スマに法話で散々煽りたてられてがんばりすぎて脳が壊れた。
瞑想中に死ぬ比丘がいるが、絶対地獄には落ちないから心配ないとか
瞑想会で異常な迫力で語りかけるんだぜあのバカ。異様な雰囲気だったよ。-
http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1361869655/788788 >>770
ありがとうございます。
こんなことがあったとは。。。((((;゚Д゚))))))) スマナサーラが信者を自殺に追い込んだ話はかなり昔から言われている。
何度も指摘されているがスマナサーラが瞑想セミナーや本の出版で稼ぐのは破戒である。
そもそもスマナサーラは1942年にマハーシ長老により発表された歴史がないヴィパッサナーを
「上座部の長老たちから連綿と受け継がれてきたお釈迦様の瞑想法である」
と騙して商売してきた。当然バレる嘘なので問題になる。
後になって、自著でマハーシ長老が経をアレンジしたと、たまに言い訳するようになった。
しかし自殺した人はヴィパッサナーが「お釈迦様の瞑想法」だと心から信じていたことだろう。
「瞑想中に死ぬ比丘がいる」という話が事実だとして、その瞑想は歴史なきマハーシ式ではなかったろう。
当然、初期仏典で地獄に堕ちるとされる破戒僧に「絶対地獄には落ちない」とわかるわけがない。
本人が地獄を信じていないのだから。昔はスマナサーラが破戒僧だということすら日本人は知らなかったのだ。
人を騙すということは本当に罪が重い。特に宗教という分野においては。
さらにスマナサーラはヴィパッサナーの否定的効果も知っているくせに>>69にあるように万能薬のように騙る。
当然、無我になるわけもなく瞑想者と瞑想対象という主客の二元化を招き自我が分裂し肥大化する。
>>640のように極端に肥大化した自意識を、持つようになるのは当たり前の話だ。
そうしてありもしない効能と理想をたくさん吹き込まれて信者の自己観察スキルは一般人以下になる。
単なる自己中心的な怒りを護法心であると錯覚し>>765にあるようにこっそり妄想を流したり。
初期仏教徒が破戒僧を守る時点で矛盾以外の何者でもないのだがそんなことすら気づけなくなるのだ。
良くなったように思える事例を信者が報告するのはプラシーボと自我肥大の必然的帰結である。
スリランカの仏教徒を見たら瞑想にもスリランカ仏教にも一般的意味で良い効果は期待できない。 また、ヴィパッサナーを万能薬のように日本人を騙してきたから>>704にあるように精神病の患者も協会にやって来る。
一般人にもろくな効果がない瞑想法では病人は病状が悪化するだけなので追い出す。
そうやっているうちに精神病患者を佐藤哲朗のごとくSNSで公然と差別して問題になる。
http://twitter.com/naagita/status/466830139712487424
慈悲の瞑想というのはスマナサーラの発明であるが奴らに慈悲なんかないことは明白だろう。
スマナサーラ、佐藤哲朗、サンガ社長、スマナサーラ信者がスリランカ仏教とヴィパッサナーの結果だ。
彼らのようになりたい人間がヴィパッサナーをやればいいのだ。 お釈迦様は、様々な立場の人に合わせて、相手が理解できるよう親切・丁寧に語られた。
口汚い言葉で相手を不快にさせるやり方は、絶対にお釈迦様が説かれた仏教ではない。
そうしないと日本人が耳を傾けないから?
わざわざ汚い言葉を使ってまで人々の注目を集め、
日本社会で自分の居場所と支持を獲得しようとするのが、
正しい出家の在り方なのか?
それは、社会の中で競争して居場所を確保しようとする、在家の在り方そのものじゃないか。
百歩譲って、「お釈迦様の教えを正しく実践する能力が自分にはない」と明言し、
経典で確認できる内容だけを正直に人々に説くなら、
実力が無いなりに精一杯やっている、真摯で誠実な出家だと思うことはできる。
しかし、実際には、経典の内容に反した自分オリジナルの仏教を、
「長い歴史のなかで伝えられてきた本物のブッダの教えだ!」と躊躇なく主張し、
質問者が経典を根拠に反論しても、相手の人格攻撃をして、
論理性のない妄言を吐いて、その場を誤魔化して終わる。
彼は、お釈迦様の仏教を歪めて、自分の好き勝手に利用しているだけだ。
当然、そんな偽物を信じて熱心に取り組めば、天野君のように精神に支障をきたす。
お釈迦様が説かれた本物の安全な教えではないから。
ガソリン車に間違って灯油を入れるようなもの。似ているようで全くの別物。
信者は、ニセ仏教を信じ込まされて洗脳状態になっている者が多い。
ちゃんと経典を読めば、ウソだとすぐわかる事も確かめようとしない。
くれぐれも『思考停止』はお釈迦様の教えではない。
何があっても、自分の正常な判断力を失ってはいけない。
お釈迦様が説かれた『智慧』は、健全で正常に思惟する能力がなければ成り立たない。
思考停止で精神的に安楽が得られるように錯覚させる方法は、オウム真理教も使っていた。 >>773
慈悲の瞑想はスマナサーラ長老が作ったのですか?
にわかには信じられませんが、本当だとしたら、そんなことしていいんですか?
お経の創作には人一倍厳しいと思っていたのですが
というかそれが、売りでしたよね。
法華経や般若心経と違って本当の原子仏教だって >>775
オリジナルでしょう。経典にないんですから。大体、スリランカ仏教が原始仏教だなんて言ってる人はスリランカ行ったことない人でしょう。行ったら一目瞭然だけど、あれはヒンドゥー仏教ですよ。
それにスリランカは一度、密教大国になった後にシフトチェンジしてのテーラワーダだから釈尊直伝なんて大嘘だよ >>776
確か一度仏教滅んでますよね
それでビルマやタイから逆輸入したとか
それでスマナサーラ長老はシャム(タイ)派
慈悲の瞑想文はパーリ経典を読みこなした上での境地なんですかね
ダンマパダとかで、村の苦労している男に「自分の幸せを祈りなさい」と仏陀が語りかけたとかいう話はないんですか? もしかしたらヒンドゥ教の影響も入っているんですかね 傍らに立って、かの神は、尊師のもとで、この詩句をとなえた。
「子ほど可愛いいものは存在しない。
牛に等しい財は存在しない。
太陽に等しい光輝は存在しない。
海は最上の湖である。」
〔尊師いわく、〕
「自分ほど可愛いいものは存在しない。
穀物に等しい財は存在しない。
智慧に等しい光輝は存在しない。
雨雲は最上の湖である。」
(「仏陀神々との対話 相応部経典サンユッタニカーヤ」)
どの方向に心を心で捜し求めてみても、自分よりさらに愛(いと)しいものはどこにも見いだされない。
そのように、他人にとってもそれぞれの自己は愛しい。
だから、(自分を愛するために)他人を傷つけてはならない。
(「感興のことば ウダーナヴァルガ」) なるほどって、どこにあの気持ちの悪い慈悲の瞑想を唱えろってかいてあんだよ(笑) 上座部で唱えられるのは慈悲の瞑想ではなくパリッタとなっているメッタ・スッタ(慈経)
スッタニパータにも収められている
メッタ・スッタ 慈経
http://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Theravada/paritta/Metta_sutta.htm >>781
字句そのものより、実際に熱心に唱えている人たちがどんどん気持ち悪くなっていくようで
友達も減っていくそうで
でも本人たちは幸せそう >>782
じゃあ、あの慈悲の瞑想が唱えられてるのは日本だけなんですか?
一時期、アメリカでもはやってたという話を聞きましたけど、それはメッタ・スッタの方? 慈悲は自と他の分別をなくすということであり・・^^
無分別の境地になるんだよな・・^^
慈悲という想念が沸いてきた時点でそれは分別煩悩となる^^
「慈悲だぁ〜慈悲だぁ〜」なんて言っている人ほど我に執着している^^
つまり・・・^^
慈悲より無分別の境地を目指すべきである^^ 簡単に言えば・・・^^
慈悲という言葉・思考にとらわれないということなや^^
我執がなければ意識しなくとも自然とそうなる^^ 他に尽くすことにより我執をなくす方法もあるか・・・^^
う〜〜ん^^ あやふやな状態より我執を強くした方が安定して幸せになった気分になれるのかな
脳波も安定するそうです。
落とし穴がありそうな気がするけど
それで人生乗り切ったら勝ちか
はた迷惑だけど
だから友達が減るのか
でも、そもそも我執を強化する瞑想って何? >まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
>
>身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
>
>涙よだれ血などは水なり。
>
>あたたかなるは火なり。
>
>出入の息と、うごきはたらくは風なり。
>
>この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
>
>ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、
>ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
>かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、
>このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三
>途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。 >かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、
>わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、
>わが身ぞとかたく執着す。
>
>これ一重の、凡夫のまよいなり。 >チンでおつむをテンテンテン
>パイでお胸をパイパイパイ
>ポンでお腹をポンポンポン
>チンでお股をチンチンチン
>朝は早よから陽気に勃って
>前向きたまには後ろ向き
>気持ちのいいよに動いてみれば
>人の歴史のためになる
>光る汗見りゃ(ハッハッハッハ)
>朝日も照れる(ハッハッハッハ)
>今日も元気に声を出せ ウッ…!
>てんぱいぽんちん
>てんぱいぽんちん
>てんぱいぽんちん
>てんぱいぽんちん スマナサーラさんがいう慈悲の瞑想ってだだ言葉を繰り返し唱えるだけですか?
それならオウムがやってた慈悲を強くするぞ、慈悲を強くするぞとか、修行するぞ、修行するぞと方法論としてはまったく同じですな >>784
スリランカの般若心経『 慈経』
自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として、『 慈経( Metta-sutta メッタスッタ)』という短い経典があります。
これは暗記していない人はいないというくらい有名です。
この経典は、お釈迦さま が「 慈しみ( 慈悲)」の実践について説かれたものです。
中村元博士も『 ブッダのことば スッタニパータ』( 岩波文庫)で第一章の八「 慈しみ」 として訳出しています。
参考までに『 慈経』の全文(日本語訳)を紹介いたします。
(略、下サイト『慈経 - 日本テーラワーダ仏教協会』の日本語訳と訳文は同じ)
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html
『慈経』は詩の形なので、わかりにくいところに言葉を補ったりして日本語訳しても、八百字にも満たない短い経典です。
スリランカやタイ、ミャンマー、ラオスなどのなどの テーラワーダ 仏教の国々では、毎日この経典を唱えて、一切生命への慈しみの念を育てているのです。
この経典については『ブッダの「 慈しみ」は愛を超える』( 角川文庫)で詳しく解説しています。
(アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い?) 慈悲の瞑想
前野 スマナサーラ長老が指導していらっしゃる瞑想に「慈悲の瞑想」というものがあるかと思います。この慈悲の瞑想というのは、初心者のための、入門編の瞑想なのですか?
スマナサーラ 入門編というわけではありません。
前野 「私は幸せでありますように」とか、「私の願いごとが叶えられますように」というのが、自分自身の金・物・地位を願っているようにもとらえられますので、入門編なのかと思ったのです。
スマナサーラ 人によって理解は違いますが、私たちは気にしません。あなたの理解する程度のところから始めてくださいというだけです。
前野 初級者にも使えるし、 上級者にも 使えるということなのですね。
スマナサーラ 上級者は「私は幸せでありますように」と言わなくても、とっくに幸せです。
前野 上級者も「私は幸せでありますように」と言うのではないのですか?
スマナサーラ 私が個人的に慈悲の瞑想をする場合は、「私は〜」のセクションはまるっきり使わないのです。
前野 飛ばすのですか?
スマナサーラ 「生きとし生けるものが〜」から始めて、それで終わりです。
前野 「嫌いな生命が〜」の部分も飛ばすのですか?
スマナサーラ 嫌いな生命は存在しないのです。 >>794の続き
前野 さすがですね。「さすがですね」なんて、失礼なことを言ってしまいました。でもすっきりしました。思っていた通りだったからです。
私は以前、慈悲の瞑想をしたことがあるのですが、とても違和感があったのです。「こんなに自分のことばかり祈るのはなにか違う」と思ったのです。私はもう満たされているという気持ちもありますしね。
スマナサーラ そういうセリフを私は皆さんからよく言われます。皆さん、「『 私は幸せでありますように』というのは自我だから、気持ちが悪い。 違和感がある」と言うのです。
私はそういう人に、こう返します。「あなたはこのセリフが気持ち悪いのですか。だったら、試しに逆の言葉を念じてみてください。『 私は幸せでありますように』ではなく、『 私は幸せでありませんように』と」。
そう投げかけると、すぐ自分が勘違いをしていたとわかるはずです。 先生も、「 私は幸せでありませんように」と念じてみてください。
前野 嫌な気分ですね。
スマナサーラ そうでしょう?先生も素直になってほしいのです。私たちは幸せに生きていきたいと思っているのです。
前野 なるほど。おっしゃるとおり「利己的だと思われるから嫌だ」という状況は乗り越えるべきですね。
私が言いたかったのは、私も上級者のようにとっくに幸せだから、長老と同じように、「 生きとし生けるものが〜」から始めて、それで終わりにするので十分だと思った、ということなのです。
(アルボムッレ・スマナサーラ 前野隆司. 仏教と科学が発見した「幸せの法則」: 「心」と「私」のメカニズムを解き明かす) >>793
俺さ通りすがりの唐変木やけど(>>791な)
スリランカ人は『 慈経( Metta-sutta メッタスッタ)』つう、何かよう分からんもんを【暗記していない人はいないというくらい有名です】
という発言の信憑性は調べて載せたんすか?
俺がパートしている自動車工場に今スリランカの人が結構いるから明後日知ってるかきいてみちゃるよ
(明日は俺仕事休みなんで)
【暗記していない人はいないというくらい有名】ちゅうことは最低限、1人か2人きっとスラスラ言えるよね?
つうか、有名なんだからみんなスッタカメッタカとかいうそのお経の名前を知ってるってことでOKっすか? 上座部代表みたいに扱われてるけど異端児だよねスマナサーラ >>793
色々、引用して煙に巻いているけどスマナサーラが信者に唱えさせている慈悲の瞑想という薄気味悪い歌を歌えって経典のどこに書いてあるんですか?
結局スマナサーラが経典を参考にして作ったんですか。大乗仏教みたいなことをしていますね。
すっごい気持ちが悪いんですけど。オウム真理教ソングを思い出す。詞に「私」が出てくる、来ない以前の問題で。
『慈悲の瞑想』の講習 アルボムッレ・スマナサーラ長老
https://m.youtube.com/watch?v=HRysI_uwTkU
わざわざ英訳を作ってJapanese compassion meditation と称してあげてる人がいるけど、結局海外にはこんな瞑想法ないんじなないですか。
japnese ってこんな気持ちの悪い歌は日本でもスマナサーラが来るまで聞いたことがないんですが。 私は仏教に限らず、宗教全体全く門外漢ですが、
>>794>>795は議論としておかしくないですか?
話の筋道が立っていないと思います。
「『 私は幸せでありますように』と念じるのは【自我】だから、気持ちが悪い。 違和感がある」
と批判する人が多いというのが論点ですよね?
【自我が気持ち悪い】と言っていのです。
説明するまでもなく、【自我】とは「自分の考える自分」であり【アイデンティティ】のこと。
もっと簡単に言うと「私は、こう思う」の「私」が自我だということ。
日々、「私は・・・」と、自分を思い感じる部分が全て自我ということ。
その「私は!私は!」(自我)という点が気持ち悪いということが眼目のはずですよね。
そう考えると、「 私は幸せでありませんように」と念じることも【自我】であり、
これまた気持ち悪いという話をしているのです。
それなのに論点が「幸せを願う」とか「不幸を願う」という問題にすり替えられ、
「不幸を願うと嫌な気分がする」のだから素直に「幸せを念じるべきだ」という結論になってしまっている・・・
全く「自我むき出しが気持ち悪い」という問いの返しになっていませんね。
しかも、「不幸を願うと嫌な気分がする」ということがまるでお約束のように当然のこととして通過させてしまっていますが、果たしてそんな事実がどこにあるのですか?
現実には、世の中五万と自分の不幸を願う人もいるわけです。
まあ、これも結局突き詰めれば自我(エゴ)の塊に他ならず、
幸福を願おうが不幸を願おうが、そういうエゴイズムが気持ち悪いと批判者は言っているのです。
全くそこにスマナサーラは答えていないし、皮肉なことにも返答自体が自我むき出しになっているという結論に帰着していませんか? 幸福不幸なんていう想念はそもそもないね^ ^
凡夫はどうだか知らんけど^ ^ >>801
そのとおりですよ。
でも>>794 >>795の会話は凡夫に向けたものです。
幸福になるために「いつくしみの瞑想」をしろとスマナサーラさん自体が言っていますよね?
>幸福になるためには、人生で成功するためには、平和で無事で争いが 無く、堂々と美しく生きてゆくためには、ただ「やさしい心」さえ作ればいいので す。
お訊きしますが、あなたは凡夫は何をしろということですか?
スマナサーラの本は誰に向けて書かれたものですか?お答えください。
今私も >>794も凡夫の話をしているのですよ。
>>801がこの際、筋違いな難癖だということにも気づけませんかね?
>凡夫はどうだか知らんけど^ ^
現在、あなたが凡夫でないとして・・・
あなたは生まれながらに凡夫ではなかったとでも言いたいのですか?
かつで凡夫であった頃の記憶もなく、凡夫の気持ちは「知らんけど」の一言で一笑に伏してしまうあなたに凡夫以上のものがあるとは思えないのですけど・・・・ >>800 さん、凄い。納得
>>794 さん、もっとお題出して >>802
エゴ丸出しで何いきり立ってるの?
哲朗みたい
慈悲の瞑想を唱えましょう。 >>804
すみません
私はスマナサーラさんの本は一冊しか読んだことがないので哲朗さんとは誰なことか分かりません。
また瞑想をする気もありません。
私のここでの関心事は論理の矛盾についてです。
>>800も>>802もその観点で発言しただけです。
いきり立ったつもりはありませんが、別に私は怒りを持たない人間を目指しているわけではありませんからそう評価されても構いません。 あれ、>>800 と >>802 さんは同一人物なの
ごめんなさい。
休みボケしてます。
口調が違うから
間違えちゃいました
哲朗口調が目に入ると中身ちゃんと読んでないんですね
ハイッ 簡単に言えば^ ^
幸福不幸を越えた寂静の境地がある^ ^
幸不幸は分別煩悩そのもの^ ^ >>807
それは、ほんの少し仏教の本を読んだ程度の私でも知識としては十二分に分かっていますよ。
私以上にこのスレに来られている方は当たり前のこととして認識しているでしょう。
論点はそこではありません。
>>800と >>802の問いにお答えいただけませんか?
独り言をつぶやきたい方なら、そういう人種のお方だということで私もこれ以上あなたには問いかけません。 >>800
貴方は幸せになりたいのですか?なりたくないのですか? >>809
幸せになりいたいかどうかは
「自我だらけの瞑想が気持ち悪い」という批判者に対する返答になっていないと書いたのです。
私が批判者ではありませんし、私はスマナサーラさんのこと自体良く分かりません。
先程も書いた通り、私が語っているのはあくまでもディベートの部分です。
スマナサーラさんのシンパとかアンチとか関係の無い部分の話をしているわけです。 そもそも、Happiness 「幸福」という価値概念は、仏法及び東洋にはありません。
(明治初期に日本で翻訳されたものです)
お釈迦さんは私、自我、エゴも価値概念も作られたものであり、その生成、形成、強化、崩壊、消滅過程を縁起と対機説法により分かりやすく、その見破り方と共に教示してくれたのだと思います。
「私」「幸福」をダブルの相乗で造作する果ては仏法といえるでしょうか? なので、キリスト教的イデオロギー頭脳ではスマナサーラ長老流「慈悲の瞑想」は抵抗ないでしょうが、自然体的身体性においては気持ち悪くなってしまうのではないかと思います。
5年唱え続けて背中から肩への筋肉がこわばってしまい、ドクターストップがかかった人を私は知っています。 簡単に言えば^ ^
今刹那に生きるひとは
幸不幸を感じないんだよ^ ^ スマナサーラは、シンハラ人だから自他の線引きと我執が強すぎるんじゃないか。
嫌いな生命なんかないってわざわざ、アピールしたりしてい。
前から無我をアピールするエゴという矛盾に陥っている。
大体、あんたの普段のヘイトスピーチはなんなんだって話。
感覚がおかしいから、あんな妙ちくりんな呪文を作ってしまう。
慈悲の瞑想は本当に不自然で気持ちが悪い。
そもそも、日本人は私という主語を明確に使う習慣がそもそもない。
神頼みする時もわざわざ「'私'が幸せになりますように」と願わない。
神社の願い事を見れば大体、主語がない。
それが慈悲の瞑想には「私」だらけ。
次に主語があろうが、あるまいが自分や他人の幸せをわざとらしく祈る習慣は日本にない。
自然な善意や隠徳は尊重するが、わざとらしい善意や善行のアピール、祈りは違和感がある。
他人や自分の不幸や幸せを祈るのはどうやろうがエゴの働きだって知ってる。
エゴがない人間がわざわざ他人や自分の幸福や不幸を祈らないだろうって。
自我に拘る人間が無我を口実にエゴを正当化する長老に惹かれるのは自然なんだけど。
無我を目指している限り永遠にそれエゴですから。
あるがままの心と自然な慈悲に反した建前ばかりの慈悲の瞑想の空虚なお題目の不気味さときたら。
まさしく語り尽くせない不気味さを持った神秘的な瞑想法。
これ瞑想法ではなしに顕在意識に働きかける単なる自己暗示だろ。 >>810
自我にはアイデンティティの他にエゴという意味もあり、
スマナサーラ長老はここではエゴの意味で使っています。
前野氏もそれを分かっているので長老の答えに納得したのです。
10.心療カウンセリング(4)「エゴ」と「目標」の問題
A・スマナサーラ長老
www.j-theravada.net/kogi/kogi51.html
より引用
>つまり、私はこのような能力のある人間であり、こういう勉強をしたい、こういう仕事をしたい、このような生き方をしたい
>…そのように人生のプログラムを組み立て、そのように生きていく。
>それは、ちゃんとした自我意識でありアイデンティティですね。
>では「エゴ」とは何かというと、よく似た同じような言葉なのですが、
>私はこのような人間であり、私にはこのような才能があって、このように生きます、こういう人間になりますと、決めてしまう。
>するとエゴが出てくるのです。言葉で言うと大変似ているが、このふたつは極端に違う。
>自我意識はなくてはならないし、あっては危ないものなのです。
>心理学の世界では、言われないことですが、仏教ではそこが大切です。 幸不幸は分別煩悩であると言えないところがつらいよな^ ^ >>811
「ブッダのことば」スッタニパータ 中村元訳(岩波文庫)
第2 小なる章
4.こよなき幸せ
http://www.intweb.co.jp/buda/buda_2_4_syounaru.htm
仏教では初期の頃から幸せという観念はありました。
慈経/メッタスッタでも「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」というフレーズが出てきます。 あの和訳の仏典に出てくる
生きとし生けるものは幸せであれ
ってフレーズはそこまでのキモさはない。
スマナサーラ作と言われる慈悲の瞑想は心底キモい。
怠らずに精進せよ
はさいでっかと思うが麻原の
修行するぞ!修行するぞ!修行するぞ!
には拒絶間を覚える。 >>793
>自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として、『 慈経( Metta-sutta メッタスッタ)』という短い経典があります。
みんなスリランカ仏教徒が日常生活で使っているシンハラ語で覚えているのか、
それとも聖典語のパーリ語で覚えているのか、どちらなんだろうね?
>スリランカやタイ、ミャンマー、ラオスなどのなどの テーラワーダ 仏教の国々では、毎日この経典を唱えて、一切生命への慈しみの念を育てているのです。
タイやミャンマー、ラオスの在家仏教徒も自国語で唱えているのかパーリ語で唱えているのか? 普段は隠れているスマナサーラ信者がスレを流すために湧いてて草w
都合のいいことしか一切、答えようとしないという。 >>818
スカ(安楽)のことですよね。
ドゥッカ(苦)の反対の
安楽と幸福では含むところが違うような
前者は状態、後者は志向性
志向性である限りは始点力点が必然なわけで
それは、「私」それとも「自我(エゴ)」?
ほかに何が? もっと言えば^ ^
過去がないなら幸不幸もないだろう^ ^
それがどういうことか^ ^ >>815
たしかに。シンハラ人と日本人では感覚が違い過ぎる。 幸福・不幸などは観念である^^
故に生滅を繰り返す^^
仏教で言えば・・不幸は善因善果・悪因悪果に過ぎない^^
この状況を単に不幸と言う言葉を使うのは誤りである^^
悪因を持てば悪因悪果の連鎖つまり悪因の輪廻に巻き込まれる^^
その人に「幸福でありますように」と願うのはどうであろうか・・^^
また善因善果をなしている人に・・
「幸福でありますように」と願うのは余計なおせっかいでもある^^ 仏教で言えば・・不幸は悪因悪果に過ぎない^^
こうやな^^ 簡単に言えば・・・^^
不幸を感じている人には・・^^
「甘えるな」
この一言でいい^^ う〜〜ん^^
正直言えば・・・^^
幸福・不幸なんて意識レベルの低い話やな・・^^
となる^^
ここだけの話だけど・・^^ スマナサーラ氏も人前では真実は言えないんや・・^^
まぁそこだけは理解してあげないとな・・^^ やはり・・最終的には三法印・四法印に行き着く^^
「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」・・やな・・^^ 諸行無常−−− すべての存在は移り変わる
是生滅法−−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽−−− 寂滅をもって楽と為す 幸福・不幸を超越した境地・・^^
つまり・・^^
諸行無常−−− すべての存在は移り変わる
是生滅法−−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽−−− 寂滅をもって楽と為す
この境地に到るべきである^^
終わり^^ 幸福・不幸を超越した境地・・^^
う〜〜ん^^
幸福・不幸をも寂滅した境地かもしれん^^ 「幸福だぁ〜〜」なんて言ってたら直ぐに不幸が来る^^
「不幸だぁ〜〜」なんて言ってたら直ぐに幸福が来る^^
この繰り返しなんだよな・・・^^
「いい加減悟れよ・・」という話なんだよな^^ やはり・・^^
こういう話は意識のレベルが下がる^^
やめとこっと^^
般若心経 でも聞いてほうが意識のレベルがあがる^^ 意識のレベルが上がるとは・・^^
う〜〜ん^^
違うスレで書くとするかな^^ >>834
それでは不幸な境遇に今直面していたとしても幸福だと言葉にすることによってすぐ幸福になれますか?
それってあまのじゃくじゃありませんか? 幸福・不幸は同時に存在する^^
幸福を感じる時は不幸を感じている時であり・・
不幸を感じる時は幸福を感じている時である・・ 幸福を滅しろば不幸も滅し・・^^
不幸を滅しろば幸福も滅する・・^^
うん?
どこかで聞いたような・・^^
縁起か?^^ 簡単に言えば・・^^
三法印・四法印を悟ってないから・・
幸福・不幸なんていう想念が湧いてくると^^
そういうことや・・^^ 想念は我執から生じるからな・・・^^
我執から幸福・不幸なんていう想念が湧いてくる^^ 例えば・・・^^
「私は不幸です」と誰かが言ったとする^^
「なんで?」と聞く・・^^
たぶんそこには「甘え」があるんだよな・・^^
そうしたら・・^^
やはり・・^^
三法印・四法印を説かんとあかん^^
これは慈悲ではないんだよな・・^^
ただ真実を言ってるだけ・・・^^
たぶんブッダちゃんもそうであろう^^
第三者から見ての「慈悲」であり・・^^
本人にとっては「慈悲」なんて意識してない^^
真理を述べているだけ^^
こんなもんだろ^^ 幸福を求め続けて執着し過ぎれば不幸
無造作で執着を一旦離れれば安楽
まぁ、ほどほどにね。
このほどほど加減が無理して慈悲の瞑想を唱え続ける人には伝わらない。
身心を壊すまで
いきり立ったら、しんどいよ スッタニパータ
修行者たちよ、‘神々と−(同文)−神々と人間を含む生きものたちによって、
‘これは楽である’と熟慮されたものが、諸々の聖者たちには‘これは苦である’と、
あるがままに、正しい智慧をもってよく見られている、―これが一つの観察である。
.
修行者たちよ‘神々と−(同文)−神々と人間を含む生きものたちによって、
‘これは苦である’と熟慮されたものが、諸々の聖者たちには、‘これは楽である’と、
あるがままに、正しい智慧をもってみられている’―これが第二の観察である。
.
修行者たちよ、このように正しく、怠らず、熱心に、ひたむきに、
二種の観察をする修行者には、二つの果報の内の一つの果報が期待される
―現世における悟りか、あるいはまだ執着が残っているならば不還果である。 修行者たちよ、‘神々と−(同文)−神々と人間を含む生きものたちによって、
‘これは幸福である’と熟慮されたものが、諸々の聖者たちには‘これは不幸である’と、
あるがままに、正しい智慧をもってよく見られている、―これが一つの観察である。
.
修行者たちよ‘神々と−(同文)−神々と人間を含む生きものたちによって、
‘これは不幸である’と熟慮されたものが、諸々の聖者たちには、‘これは幸福である’と、
あるがままに、正しい智慧をもってみられている’―これが第二の観察である。
.
修行者たちよ、このように正しく、怠らず、熱心に、ひたむきに、
二種の観察をする修行者には、二つの果報の内の一つの果報が期待される
―現世における悟りか、あるいはまだ執着が残っているならば不還果である。 「現世における悟りか、あるいはまだ執着が残っているならば不還果である。 」
う〜ん^^
奥が深い^^ ‘これは幸福である’聖者たち・・‘これは不幸である’
‘これは不幸である’聖者たち・・‘これは幸福である’
う〜〜ん^^
煩悩即菩提か・・^^ 「―現世における悟りか、あるいはまだ執着が残っているならば不還果である。」
つまりや・・・^^
このようなことを考えて悟りを得ようとすること事態がまだ悟りやこの世界に
執着を持っていることとなり・・阿羅漢にはほど遠いと・・
涅槃寂静の境地に達していないと・・
こういうことやな・・^^
ということで・・寝る^^ ‘これは幸福である’聖者たち・・‘これは不幸である’
‘これは不幸である’聖者たち・・‘これは幸福である’
う〜〜ん^^
聖者たち・・・^^
正解^^ >>.852
以前オマエに似た妙な関西弁遣う奴がここにいてな
本の受け売りばかり書き込んで自分の意見が無くて頭は空っぽ
ところが「邪思惟」を「邪思すい」とか言い出してバカが露呈>>139
逆ギレしてキチガイのように荒らしまくりだしたんだわ
>>161〜
で、オマエ、その邪思惟マンじゃね?
統合失調症丸出しのニート臭が一緒なんだわw
なんにしても荒らしクソうぜーわ!!!!
オマエの好きなようにはさせねーよw 次にスレ立ててくれる人
またキチガイが湧いてきたんで、少し期間あけて立ててちょうだい
次はワッチョイ有りにしませんか?
もうこのスレ、キチガイの落書きに使われてしまってるんで独断ですが爆破します 1.
某シンポジウムに集まった1000人の日本人に次のような質問をしてみたそうだ。
「日本は大国だと思いますか?」
この問いに「そう思う」と答えた人はたったの約 15パーセント。
「では大国ではないと思う人は?」との問いには約 50パーセントの人が挙手をした。 2.
このシンポジウムに参加していた諸外国の人々は絶句したそうだ。
「なんで日本人は自分の国を大国だと思えないのか?」と・・・
これは世界各国の外国人がとても不思議がる点だという。
外国人が日本の偉大さを認識しているのに当の日本人がそれを分かっていない・・・ 3.
分かっていないどころか、とてつもなく矮小化してしまう。
そのいじけて縮こまっている姿が外国の人からはとても気持ち悪く怯えた子羊のように見えるそうなのだが、
当の日本人は「私は日本人でありながら反日で物分かりが良い!」とか
「体制に楯突くのがインテリなんだ」といった
恥ずかしい思い違いをしているのだから目もあてられない惨状である。 4.
では、どうしてこうまで日本人はいじけた自虐思想になってしまったのだろうか?
それを今から説明していこうと思う。
日本は面積的にも海を入れれば世界で第6位の海洋大国。
人口で言っても、ロシアが1億5千万人に対し、
日本は1億2千万人で大して変わらない。 5.
経済力だってロシアとは比較にならないほど日本が上で、
今や経済力は中国より下だと言われているけれども、
中国の情報をどこまで信じられるかどうかという現実があるし、
中国経済は安定していないし、それらを鑑みると日本経済は実質アメリカに次いで
2番目に位置することに変わりはない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています