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<資料> 釈尊(ブッダ)は成道以降は論争を好まなかった。偽りを方便として肯定しなかった。

 397 会堂にいても、団体のうちにいても、何人も偽りを言ってはならぬ。また他人をして偽りを言わせてもならぬ。また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。すべて虚偽を語ることを避けよ。
 661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながらわたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
 895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
 896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
 973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
   (『スッタニパータ』中村 元訳)

※なぜ上記のような釈尊の言葉を掲載したのか。
法華経などでは衆生救済のために方便を肯定しましたが、釈尊によればそれは偽りであり、
衆生救済のためには方便は必要なく、真実のみが衆生を救済するからです。