今、アーチャン・チャーの無常の教え読んでるんだけど、無我がどうにも納得行かないんですよ。
目に見えない、触れない、掴めないから無いって、どうにも、納得が出来ない。
目に見えなくとも、存在するものは無数にあるでしょう?
期待にせよ、微生物にせよ、人間の知覚なんて限界があるのに。
例えも突飛で奇妙。
例えば、P193で、誰かが地面を掘っても、大地は、それによって煩わされることはない云々と続くんだけど、心もない、感情もない、痛覚等の感覚のないものと比較されて納得できるわけがないのですよね。
全ては過ぎ去るものという考えも、確かに理解は出来るけど、生皮を剥がされたり、爪を剥がされたりする苦痛も、平然と堪えられるもの?
偉そうに書いているけど、当事者になったら、当然無理だよね。
無限に続かないとしても、いつ終わるともしれない苦痛はやっぱり誰でも嫌なんじゃないのかな。
全ては苦だというけど、実際楽もあるのになんで?
楽は永遠じゃないけど、苦もまた然りなんでしょう。
瞑想は好きだし、仏教も好きだけど、ここら辺が、どうにも理解出来ない。