X



トップページ心と宗教
886コメント704KB
敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001神も仏も名無しさん垢版2010/09/26(日) 03:40:09ID:aFgRDPWp
と思ってました
2ちゃんねるを見るまでわ
0835老クリスチャン垢版2018/04/14(土) 11:20:17.02ID:0dyyfLGH
2009年(主日B年) 4月26日 復活節第3主日
使 3:13〜19  Iヨハ 2:1〜5a  ルカ 24:35〜48

「次のように書いてある。 “メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる” と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ vv.46-48)

初代教会のケリュグマには、次の三つの主要な要素が含まれていたと考えられます。
第一は “キリストが聖書に書いてある通り復活したこと”、第二は “キリストは生きている者と死んだ者との審判者に定められたこと”、そして第三は “信じるすべての者に罪の赦しを与える主となられたこと” です。
審判者としてのキリストの再臨という終末論的背景の中で、初代教会はキリストの死と復活の事実を宣教したのであって、それ故にキリストの福音は十字架の福音であり、勝利の福音でありました。

ですから、福音が宣教されるところではどこでも、復活のイエスが語られた 「あなたがたに平和があるように」(ルカ v.36)も、常に新しく伝えられたのです。
平和は信じる者にキリストが与えてくださる賜物であって、代々の教会は使徒たちの宣教を通してこれを受けて来ました。
0836老クリスチャン垢版2018/04/14(土) 11:21:24.10ID:0dyyfLGH
(つづき)
平和という言葉はしばしば聖書とは無関係に、心の中に宿る一つの精神的な状態と解釈されたり、あるいは人間の努力目標としての争いのない世界達成のことだと考えられて来ました。
しかし聖書が語る平和は、キリストがその死と復活を通して贖われた民である教会に与えてくださったもので、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ 53:5)のです。

キリストの復活なしには、私たちは今もなお罪の中にあり(Iコリ 15:17)、神の怒りを受けるべき者であります(エフェ 2:3)。
しかし、実にキリストは私たちの平和であり(エフェ 2:14)、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている(ロマ 5:1)のです。

聖書がミサの中で朗読されるとき、キリストは使徒たちの証言を通して、罪の赦しを得させる勝利の福音を(Iコリ 15:56-57、Iヨハ 5:4-5)、神と和解させる平和の福音を(エフェ 2:16-17)、語ってくださいます。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況