敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ツチノコッタノコッタ
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2009年(主日B年) 3月8日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
毎年、四旬節第2主日には、共観福音書の中からの “主の変容” のテキストが朗読されます。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が、口にするのも畏れおおい光景の中でイエスがメシアであることを確信し、その御顔に輝くメシアの将来の栄光(IIコリ 4:6)をかいま見たという、非常に神学的な意味合いの濃い記述に耳を傾けるのです。
人はこのテキストを、まるで意味不明な現場リポートでも聞くように読んではなりません。
なぜならこのテキストは、福音書の中で、単純な目撃者による報告をはるかに超えるものとして語られているからです。
先ずここに描かれているイエスは、“モーセのような預言者”(申 18:15,18)として、出エジプトに勝る大いなる贖いを成し遂げるメシアであり、その新しいモーセが、かつてのモーセのように聖なる山で神の声を聞いたのです(IIペト 1:18)。
出 24:16 には、こう記されています。
「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」
そのとおりに 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マコ v.2)のです。
変容の山は、もちろん、新しいシナイであり、神は七日目に雲の中から新しいモーセに呼びかけられました(マコ v.7)。 (つづき)
モーセが山を下ったとき、神と語ったために、彼の顔の肌が光を放っていたように(出 34:29)、弟子たちはイエスの御顔に輝く神の栄光を見ました。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言ったのも、おそらく 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(黙 21:3)終末の象徴であるように思われます。
モーセは真の預言者であり(申 34:10)、エリヤは マラ 3:22-23 以降、第二のモーセと考えられていました。
そのエリヤとモーセは、物語りの中で古い時代を象徴し、預言の成就する新しい時代(IIペト 1:19)と対比されています。
雲の中からの声が 「これはわたしの愛する子、これに聞け」 と呼びかけた後、彼らの姿は消えて、弟子たちは 「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(マコ v.8)と、書かれています。
しかし、まだ時は来ていませんでした(ヨハ 2:4)。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」(マコ v.6)、つまり彼はこれから、キリストが 「多くの人の身代金として自分の命を献げ」(マコ 10:45)ねばならないということを、学ばなければなりませんでした。
主の変容の物語りは、使徒たちが主の復活後に宣教した福音を私たちが信じるならば、現代の私たちも彼らと同じように、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来るということを、伝えているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 本日は金曜日
肉めにゅうなし
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2012年(主日B年) 3月4日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。 “これはわたしの愛する子。 これに聞け。” 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マコ vv.7-8)
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、人の子の終末における栄光に満ちた来臨の場面を、このとき一瞬目撃したのでした(IIペト 1:16)。
イエスは旧約の出エジプトよりもさらに偉大な贖いを実現する(エフェ 1:3-14、Iペト 1:18-21)“モーセのような預言者” である、という天からの声を聞いたのです。
ですから、主の洗礼の日に聞こえた天からの声に、ここでは “これに聞け” という 申 18:15 の言葉が追加されました。
神は “新しいモーセ” であるイエスに、「六日の後」 「雲の中から」 呼びかけられ(出 24:16)、
そしてその後、モーセと、モーセの再来とそれまで考えられて来たエリヤの二人が姿を消して、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」 と書かれています。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言った言葉も、神が人と共に住む(黙 21:3-4)終末の象徴として、ここに存在しているのです。
しかし、キリストの業はこのときにはまだ完成していませんでした。
「人の子が死者の中から復活するまでは」(マコ v.9)、まだ福音は未完成であり、復活の勝利を経て初めて “十字架の言葉”(Iコリ 1:18)である福音が “信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)となったのです。
今年も私たち教会は、この十字架の福音を “悔い改めて信じる” (マコ 1:15)ために、四旬節の歩みを共にたどって行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2003年(主日B年) 3月23日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
使徒パウロによれば福音の宣教とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることであります。
十字架を抜きにしてキリストの福音を語ることは出来ません。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
また近代のヒューマニズムのように、キリストを抜きにした単なる博愛主義を広めることも、福音の宣教とは違うのです。
“しるし” によってでもなく、“知恵” によってでもなく、ただ十字架にかけられて死に、死者の中から復活させられたキリストを信じる信仰によって、私たちは罪を赦されて神の国を受け継ぐ民に加えられました。
この福音は現代人にとっても “つまずかせるもの、愚かなもの” ですが、救われた私たちにとっては 「神の力、神の知恵であるキリスト」(Iコリ v.24)の宣教です。
私たちが祭壇を囲んで共にミサをささげるとき、そこで司祭を代理者として私たちに出会い、御聖体を一人一人に分け与えてくださるのは、十字架と復活のキリストです。
そして教会は、この屠られた小羊であるキリストが神の国を完成される再臨の日を、忍耐して待ち望んでいる(ロマ 8:25)のです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2006年(主日B年) 3月19日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
「弟子たちは、“あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす” と書いてあるのを思い出した。」(ヨハ v.17)
2000年9月28日の早朝に、当時のイスラエルの野党リクードのシャロン党首が、イスラム教徒が管理するエルサレムの “神殿の丘” を訪問したことに端を発して、パレスチナ住民蜂起 “インティファーダ” の火が燃え上がり、
やがてイスラエルによるヨルダン川西岸での “分離フェンス” 建設に至った経緯を、殆どの日本人は単なる中東紛争という私たちに無縁な国際問題の一つとして見ています。
昨年新党カディマを結成して国民の大きな支持を得ていたシャロン首相が今年1月4日に脳卒中に倒れて、現在首相代理を務めているオルメルト氏は、今月に入って遂に、現在も建設継続中の “分離フェンス” を国境化する一方的な方針を公に表明しました。
シャロン党首の “神殿の丘訪問” が、エルサレムの主権はイスラエルにあることを誇示する象徴的な行動であったことを、世界中のどれだけのキリスト者が理解したでしょうか。
今朝の福音書の日課で、弟子たちが想起した 詩 69 との関連で、現代イスラエルのパレスチナ問題に対処する姿勢を理解出来た我が国のキリスト者は何人いるでしょうか。
イスラエル建国から間もなく60年になろうとしているのに、未だに出口の全く見えないパレスチナ問題の行方を、世界は今後も長きにわたるであろう今世紀の国際紛争の一つとして捉えています。 (つづき)
神殿から商人たちを追い出すという大胆な行動に出たイエスを、ユダヤ人たちはただの暴徒のようにしか見ませんでした。
しかし初代教会は使徒たちと共に、死者の中からの復活によって救いを実現してくださったイエスの “神の国を思う熱意” こそが、福音の中心的な主題であることを理解しました。
「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハ v.22)とは、神の救済史がイエスの死と復活によって決定的に終末の完成に近づいたことを信じたということです。
ユダヤ人たちは今日もなお、地上のエルサレムが彼らの手に戻ることを期待していますが、一・聖・公・使徒継承の教会は、キリスト再臨の日に主の民が受け継ぐであろう天のエルサレムに希望をおいています。
そのいずれもが、救済史の神への期待、すなわち “あなたの家を思う熱意” であることを、私たちはもう一度よく考えてみる必要があります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
_,, ... ,,,
. ;,ィ'"゙ `'-、
. ./'' ゙ :::::゙iミl
ミ′: 老 : ..::_; ミ;リ
,!__、、、_}{ __、、、__ :::ミ:;リ
. 〈 ヾ::“)-(::'゙.”゙;_ノ':;゙i::く
. |:ヽ .,r ..::丶 ..:::: ::::;´: !}
|.:. :' ''ー;^''::ヽ. :':::;; シ丿
. l: 、l←‐'‐→、! ..; ;;l´
.ヽ.. `゙゙゙.,゙´ '"::;;;ハ、
_,,/`i、 -:: -::::'::;ツ'::`:::-、.._
" 、 i":;;:::::;::,::::::;!:
゙ ゙ヽ /':: "::::/::::::::: : 2009年(主日B年) 3月15日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
“十字架につけられたキリストを宣べ伝える”(Iコリ v.23)ということの重大さを再発見することによって、歴史の教会は繰り返し改革され、刷新されて来ました。
カトリック教会にとっては、第二バチカン公会議がもたらした典礼刷新の意義は、計り知れないほど大きいと言わなければなりません。
それ以来、すべてのミサで司祭は、必ず聖書に基づく説教をすることが求められるようになりました。
また信徒には自ら聖書をひもといて学ぶことが奨励されるようになりました。
神の啓示に関する教義憲章(21)は、「それ故に、教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」 と述べています。
同 22 の実りとして、我が国でも新共同訳聖書が1987年に出版されました。
しかし、それ以来40年を過ぎた現在の我が国のカトリック教会では、“神の力である十字架の言葉”(Iコリ 1:18)が司祭の説教の、また信徒たちの信仰理解の中心主題となっていると言えるでしょうか。
“この御子において、その血によって贖われ、罪を赦された”(エフェ 1:7)という福音が、“信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)として活き活きと宣べ伝えられ、また信じられているでしょうか。
「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」 という使徒パウロの言葉(ガラ 4:11)が、聞こえてくるようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
l /l |ヽヽ、 .,,,,,,,,,,,,,、`老''ーミ l
l /7ノ `ヾ、_二ニ二、 ,,, ,'
___',ゝ1ィ , ,' -tッ.、 `i .,.......'ミ;l、___∧,、 ____________
 ̄ ̄>- ,' -l ‐ _ , ' ,'γ-t=、,' ヽ  ̄'`'` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-┬ 'l l ゝ- ‐.ァ '´ i, `''`:. /
l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 /
l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2003年(主日B年) 3月30日 四旬節第4主日
代下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
ダビデ〜ソロモンの王国が分裂して生まれた南北イスラエルのうち、北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(王下 17章)、その後130年余存続した南王国も遂に紀元前587年にバビロンの王ネブカドネツァルによって征服されました。
歴代の王とその民が罪を犯した結果であったと、旧約聖書は述べています。
「それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(代下 v.16)
「神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。 剣を免れて生き残った者は捕えられ、バビロンに連れ去られた。」(代下 vv.19-20)
これがいわゆる “バビロンの捕囚” と呼ばれている出来事です。
しかし御自分の民を滅ぼす神は、同時にこれを顧みて将来を約束される神でありました(エレ 29:10以下)。
ペルャVアの王キュロャXの第一年(紀元前538年)、この神の約束によってイスラエルの歴史が再び始まります。
この当時の希望に満ちた喜びを、第二イザヤが見事に歌っています。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イザ 40:1-2) (つづき)
この神の救済史の過去の出来事が、イエス・キリストの救いに与かる私たち教会に光を照らし、終わりの時に実現されるキリストの秘められた計画(コロ 1:26-27)を明らかにします。
私たちキリスト者にとって救われているとは、新しくキリストと共に生かされ、新しく神に造られているということです。
それは 「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ v.8)
神は洗礼の秘跡によって私たちを新しく神の子として(エフェ 1:5)生まれさせてくださいました。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(IIコリ 5:17)
ですから私たちキリスト者の希望は、神の約束が実現する天の国にあります(フィリ 3:20-21)。
「わたしたちは、その善い業を行って歩む」(エフェ v.10)ということの意味は、私たちが神の国の相続人としての恵みの中でキリストの体である教会を造り上げて行く(エフェ 4:12)ことと固く結びついています。
四旬節の歩みの中にある全世界の教会に、神は今朝語っておられます。
「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者はすでに裁かれている。」(ヨハ 3:18)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2006年(主日B年) 3月26日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
南王国ユダがその独立を失ってバビロンの属国となった紀元前587年からほぼ70年を経て、紀元前516年にエルサレム神殿は再建されました。
歴代誌下は、この記事を救済史の新しい展開の序章として、その最後に置きました。
それはイスラエルの神に期待する熱き信仰の証しであったと考えられます。
旧約聖書の諸書も、新約聖書の福音書や使徒たちの書簡類も、一般の文学におけるようにそれ自身で完結する結末を持っていないことを知りましょう。
聖書の中には、“めでたし、めでたし” で終わるような完結した作品は存在しません。
救済史への期待を抜きにしては、教会の信仰を語ることは出来ないのです。
私たちのミサで、今朝も主の祈りに添えて副文が唱えられるのはそのためです。
司祭 : 私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを、待ち望んでいます。
会衆 : 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 _____
/ \
/ 老 ヽ
/ ヽ
│ ニミ, ∠ニ │ <わしのサイトに来てくれんかのう
|_┌─‐‐ュ__r ‐─┐_ |
f''| 丶__'_゚"ハ 丶"゚_'_,イ |T
ト| | |ノ
|:| (!___,! |:|
!:| __/_ _ヽ__ l:リ http://www.kuwaei2000.com
\  ̄ /
' ー── '
2012年(主日B年) 3月18日 四旬節第4主日
歴 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ vv.14-15)
私たちキリスト者の救いは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して」(ロマ 3:24) 「その血によって贖われ、罪を赦された」(エフェ 1:7)という 「神の賜物」(エフェ 2:8)に全く依存しています。
キリストの贖いの死と、罪と死と悪魔に勝利しての復活は、“昔々あるところで ・・・・・ ” という、単なる歴史の中の一つのエピソードではないのです。
そのことから切り離しては決して、「神は ・・・・・ 世を愛された」(ヨハ v.16)という福音のメッセージを正しく理解することが出来ません。
このキリストによる贖いと罪の赦しの御業は、教会にとっては常に現在の事実であり出来事であるということを、強調したいと思います。
カトリック教会の “ミサ典礼書の総則” は、その第一章の冒頭で次のように述べています。
「ミサの祭儀は、キリストの行為であり、(救いを受け、感謝し賛美する)神の民の行為であって、 ・・・・・ キリスト者の生活全体の中心である。
実に、ミサの中にキリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点があり、また人々が、神の子キリストによって父にささげる礼拝の頂点がある。」(1) (つづき)
カトリック教会の伝承における特に重大な教えが、“秘跡的再現” という用語で説明されています。
「すなわち、十字架上のいけにえと、ミサにおけるその秘跡的再現は、奉献のしかたを除けば同一のものである」(2) と、教えられているのです。
私たちがいろいろな機会に、特に主日に “ともにささげるミサ” の中に、「御子によって世が救われる」(ヨハ v.17)神の働きの頂点があり、同時に 「信じない者は既に裁かれている」(ヨハ v.18)という神の判決があるのです。
「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから」(ヘブ 10:21)、洗礼の秘跡によって救いに入れられた私たちは、教会が 「公に言い表している信仰」(ヘブ 4:14/教会に平和を願う祈り)を揺るがぬようしっかり保って、
ともにミサをささげることを、今年も四旬節に学んで行きましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2003年(主日B年) 4月6日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
受肉されたキリストがその地上の生涯において自分を徹底的に低くされ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブ v.8)たことは、それに続く復活の栄光と結びつけて、使徒たちの宣教の中に組み入れられました。
この復活のキリストは地上の教会の歩みを支え導く方であり、やがて終わりの日に再臨される神の国の王であります。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければなりませんでした。
しかし死んで、否、復活して、御自分の体である教会を贖われ、多くの実を結ぶこととなりました。
このように、教会にとって、キリストの福音からイエスの死と復活の事実を切り離すことは出来ません。
その死と復活の光に照らして解釈されない(単なるナザレの)イエスの物語りや教えは、使徒たちが伝えた福音とは違うものです。
一部の人々の中にある “イエスの宗教がイエスについての宗教に変質した” という異論への解答は、イエスの復活の後に最初の弟子たちが経験したことの中にあります。
それは、イエスの死と復活の出来事は神の贖いの業であったという、復活節における神自らの啓示の行為によって起こった経験でした。
使徒たちの福音宣教はそこから始まりました。 (つづき)
預言者エレミヤが語った 「新しい契約を結ぶ日」(エレ v.31)が、イエス・キリストの十字架の死によって実現しました。
使徒パウロは教会に書き送って、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(Iコリ 5:7)と教えました。
主イエスは感謝の典礼を制定して、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(Iコリ 11:25)と言われたと伝えられています。
私たちのミサは “キリストの血にあずかること”、“キリストの体にあずかること”(Iコリ 10:16 )であります。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Iコリ 11:26)
四旬節は、全世界の教会が今年も、主の過越の神秘を学ぶ期節です。 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「 ・・・・・ 何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、“お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです” と頼んだ。」(ヨハ vv.20-21)
現代のキリスト者である私たちが、だれかから “イエスに会いたい” と相談を受けたら、“ミサに出席しなさい” と答えるかも知れません。
それで、その後このギリシア人たちはどうなったのでしょうか。
人はミサに出席しても、その朗読台と祭壇で私たちに会ってくださる “キリストのことば” を理解出来なければ、失望して去って行きます。
ヨハネ福音書はここで、まさにその核心に触れているのです。
「イエスはこうお答えになった。 “人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。”」(ヨハ vv.23-24)
弟子たちは最初、この言葉の意味を全く理解出来ませんでした。
なぜならこの言葉には直ちにその後に v.25 が続いていて、それぞれが何を指しているのか納得出来なかったからです。
しかしその数日後に、弟子たちはイエスが十字架上に御自分の命を捨てられたこと(ヨハ 10:11-18 参照)を、確かに見たのでした。
そしてイエスの復活の後になって初めて、彼らの福音を理解する目が開かれたのでした。 (つづき)
「一粒の麦」 が、他ならぬ 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)イエス・キリストのことであるという明確な事実を、多くの人が気づかずに、間違って解釈しています(マコ 8:31 と 8:34 を参照)。
このテキストに登場するギリシア人たちが、今までよりも “少しはましな人間になる” ためにイエスに会いに来て、この答えを聞いたのだとしたら ・・・・・ 。
人が救いを得るためには、ミサに出席することと並行して、使徒たちによる福音証言を自らしっかりと聖書から学ぶ必要があるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
新約聖書によれば使徒たちは、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ 1:7)、
「あなたがたが ・・・・・ 贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Iペト 1:18-19)、
「言は肉となって、(世の罪を取り除く神の小羊となるために)わたしたちの間に宿られた」(ヨハ 1:14)という十字架の福音の宣教によって、原始教会という “実を結んで” 行きました。
ヨハ 12:24 は、このキリストの贖罪の事実を言っているのであって、だれか他の先人たちの偉業のことを指しているのではありません。
そして人は洗礼の秘跡によって、キリストの死にあずかり、キリストの復活にもあずかる者となりました(ロマ 6:1-11、コロ 2:12)。
それが ヨハ 12:25 の意味であって、それは神の賜物であり、人は自らの行為をいささかでも誇ることがあってはなりません(エフェ 2:8-9)。
決して思い上がって、キリストの美徳に倣って、自分もキリストのようになろうなどという不遜な考えに誘われてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| /. た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ |. を
| (_人_). お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /.. に
//・\ \. 教
|  ̄ ̄ |. 師
(_人_) | が
\_| / . あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| /. た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ |. を
| (_人_). お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /.. に
//・\ \. 教
|  ̄ ̄ |. 師
(_人_) | が
\_| / . あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| /. た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ |. を
| (_人_). お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /.. に
//・\ \. 教
|  ̄ ̄ |. 師
(_人_) | が
\_| / . あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| /. た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ |. を
| (_人_). お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /.. に
//・\ \. 教
|  ̄ ̄ |. 師
(_人_) | が
\_| / . あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| /. た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ |. を
| (_人_). お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /.. に
//・\ \. 教
|  ̄ ̄ |. 師
(_人_) | が
\_| / . あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。 2003年(主日B年) 4月13日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 14:1〜15:47
ピラトの裁判とそれに続く十字架の場面は、イザ 50:4-9 の “僕の歌” や 詩 22 を背景にして物語られています。
主イエスは最後の晩餐の席で、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(マコ 14:21)と言われました。
そして捕えられたときに再び、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(マコ 14:49)と言われます。
イエスはピラトの命令で鞭打たれます。 それからイエスは紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられて、ローマの兵士たちに侮辱されました。
「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ 50:6-7)
兵士たちはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、イエスの服を分け合いました(詩 22:19)。
祭司長や律法学者たちも代わる代わるイエスをののしりました。 「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」(マコ 15:31-32)
しかし、イザ 50:9 には歌われていました。 「見よ、主なる神が助けてくださる。 誰がわたしを罪に定めえよう。」 (つづき)
十字架は決して単なる歴史の中の偶然の出来事ではありませんでした。
それは神の業であり、受肉された御子イエスは 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:8)
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Iペト 2:23-24)
私たちを愛して、その御子をさえ惜しまずに死に渡された(ロマ 8:32)父なる神は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)
ですから、教会の信仰にとって十字架は中心的な事柄です。
十字架の出来事から切り離して、私たちはイエスの生涯を解釈することは出来ません。
教会は、洗礼の秘跡によってキリストと共に死に、またキリストと共にその復活の命に生きている者たちの群れです。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ 3:3-4)
神は御子の十字架によって、私たちに和解の福音を宣言しておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
∧∧ /
*〜'´ ̄(''`w´) _ノ
UU ̄U U `ヽ. 2009年(主日B年) 4月5日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ v.7)
罪と死からの救い、そして神との和解という福音は、ただ神の御業にのみ依存することであって、いささかも人間の能力や貢献にはよらないことを、聖書は語っています。
受難物語りの頂点であるイエスの逮捕から十字架上の死に至る部分は、そのことを意図的に強調しているのです。
祭司長たちと議会も、ユダヤの群衆も、そしてローマの総督ピラトも、だれも “救い” を生み出すことは出来ませんでした。
御子イエスは、この場面で彼らの行動を矯正しようとはなさいませんでした。
“救い” は彼らの協力によってではなく、ただ御子が 「十字架の死に至るまで従順」(フィリ 2:8)であることによってだけ、実現することを知っておられました。
このキリストの永遠の贖いは、既に成し遂げられただけではなくて、現在も教会を通して活き活きと私たちに働いています。
私たちは現在、原始教会の使徒たちや会衆と同じ救いに与っているのです。
ですから、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロ 1:23)、今年も復活の祭儀に備えようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
,.r‐く: : : : -二ニニー_‐-=__ ',
l /l |ヽヽ、 .,,,,,,,,,,,,,、`老''ーミ l
l /7ノ `ヾ、_二ニ二、 ,,, ,'
___',ゝ1ィ , ,' -tッ.、 `i .,.......'ミ;l、___∧,、 ____________
 ̄ ̄>- ,' -l ‐ _ , ' ,'γ-t=、,' ヽ  ̄'`'` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-┬ 'l l ゝ- ‐.ァ '´ i, `''`:. /
l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ 2012年(主日B年) 4月1日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8)
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:7-8)
旧新約聖書を通して、“従順” とは神の御心に徹底的に “聞き従うこと” でありました。
現代人はこれを、単なる人間関係における徳目に置き換えて理解してはならないのです。
フィリ vv.6-9 を、人が敬虔なキリスト者になるための手本のように読むとき、神のことばの輝かしい恵み(エフェ 1:6)の大部分を捨ててしまっています。
これは、「神がキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:18)、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ 8:32)福音の出来事の告知以外の何ものでもないからです。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。」(イザ v.5) (つづき)
イザヤ書の “僕の歌” とは、 @42:1-4, A49:1-6, B50:4-9, C52:13〜53:12 であって、
私たちが新約聖書が語る “キリストの受難と死に勝利しての復活” を正しく理解するためには、主と共に、そこで歌われている神の御心に “耳が開かれる” 必要があるのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。 ・・・・・ そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザ 53:5-6)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
教会の信仰とは、使徒や預言者の宣教という土台の上に建てられているのですから(エフェ 2:20)、私たち信者はその宣べ伝えられた福音を確かに聞き、救いへの神の招きに “聞き従う” ことが大切です。
それは信者一人一人が自ら聖伝と聖書を学ぶことによって、聞き、理解し、信じるべきことであって、私たちは決して “怠け者の悪い僕”(マタ 25:26)になってはなりません。
今朝の聖書朗読を通して聞いた “御子の十字架の死に至るまでの従順” が、私たち信者一人一人にとって “御子キリストへの私たちの従順”(ヘブ 5:9)の手本となる、実り豊かな聖週間でありますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
,,..,,_
,. -''"´ `゙''-、
,." `ヽ “僕の歌”
l 老 l
l__ 、、、_ } { _、、、 __.l ぼくのうた
{l〈 ヽ., --)-(-=- _ノ 〉!}
ヾ|  ̄ノ  ̄ |シ ピーピーピー♪
l (、{,___,},.) l
l\ `ニ´ /:l
ヽ / ー \ /
\ /
_ノ '-====-'ヽ 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
_ ノ '-====-' ヽ
/ /  ̄\ `ヽ
/ / `ー‐´ ̄\ \
|ゝ、 \∩ノ^)ミ.:.:::::::::::)_\__________,,仆f,t,t,r、
| \_,,__ノ ミ三三三三三三ゞヽゝ三三三三三三三≒≒≒|〕
| 〆幵:::::::::: ) ̄ ̄\___ノ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヾノ⌒ゝノ
', ゚。゚::::::::::::: ,─、__/
\___/
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| / た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ | を
| (_人_) お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /. に
//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
\_| / あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| / た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ | を
| (_人_) お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /. に
//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
\_| / あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。 2003年(主日B年) 4月20日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
主イエス・キリストの復活の福音には、この復活されたキリストが生きている者と死んだ者との審判者、また信仰の完成者として再臨されるという終末の使信が、その重要な要素として含まれています。
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」(使 10:42)
洗礼の秘跡によってキリストに結ばれた(ロマ 6:11)すべてのキリスト者へのメッセージが、ここにあります。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ vv.3-4)
ですから、私たちのミサの中の交わりの儀で、一同が主の祈りを唱和すると、司祭はその副文の中で唱えます。
「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」
私たちキリスト者は 「体の贖われること」(ロマ 8:23)、すなわち神の国への復活の日を待望しているのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20) ハレルヤ、アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| / た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ | を
| (_人_) お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /. に
//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
\_| / あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| / た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ | を
| (_人_) お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /. に
//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
\_| / あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。 ,,,;;;‐;;;;;;;;;;;;;;;;;-;,,、
,,;;''´;;;;;;..;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ.
/;;/'''´ `'':ヾ;;;;;;;;;;;;ヽ.
/:;;/ 老 :::ヾ;;;;;;;;;;;;ヽ
ノ;;;;;| ::|;;;;;;;;;;;;;;;l
|;;;;;;| =ュ r== ..::|;;;;;;;;;;;;;;:|
!;;;;;;| tッ、,゙` "r tッ‐ァ゙;;::::|;;;;;;;;;;;;;;;|
ノ;;;;;;;| ーノ !、`ー ' :::|;;;;;;;;;;;;;;;|
|;;;;;;;;;;|. イ 'ヽ :::|;;;;;;;;;;;;;;;;|
!;;;;;;;;;;;l :^ー^:':... ゚ .:::|;;;;;;;;;;;;;;;;;|
|;;;;;;;;;;;;ヽ ζ竺=ァ‐、 .::::|;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
|;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ ー‐ ..:::::|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ、,_,,..::''::::::::|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;!::::::::::::::::::::::::|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
/;;;;;;;;;;;;;;;;;.. -''´ ::ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;!
「わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 2009年(主日B年) 4月12日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
“福音の事実”を理解しようと思うなら、先ず何よりも私たちは、イエス・キリストの十字架において顕された悪の力との戦いと、そして勝利に目を向けなければなりません。
十字架は、悪魔の働きへの勝利(Iヨハ 3:8)でした。
ですから、イエスの死を悲惨な殉教者の死のように思い描いてはなりません。
新約聖書は、イエスが十字架で勝利した敵を、罪、死、悪魔とその支配などと呼び(ガラ 1:4、IIテモ 1:10、ヘブ 2:14 他)、さらに使徒パウロはこれらに律法を加えています(Iコリ 15:56-57、ガラ 3:13)。
私たちキリスト者が洗礼の秘蹟によって、罪に対して死に、今や新しい命に生きているということから離れて、聖書を中立的な立場で読むなどということは、無益なことです。
現代の一般人の目線に立って聖書を学ぶ、などと言う人は、キリストの救いからいちばん遠い所にいることになります。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 ・・・・・ 」(コロ v.1)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,,..,,_
,. -''"´ `゙''-、
,." ////ヽ
l 老/////// l 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
l__ 、、、_ } {///////.l
{l〈 ヽ., --)-(-=- _ノ 〉!}
ヾ|  ̄ノ //////|シ
l (、{,___,},.)////l
l\ `ニ´ ////:l いいかね?
ヽ / ー \///、_____//〉
ノ\ /////////////////ァ-=ュ
─''"{: _ノ '-====-'ヽ ///////////////Y
、: : : |: : : :.Y /\ //: : / ..:::".:://///////ハ
: ヘ: :.|: : : : :{' `/: :/...:....::////////////リ
、: :ヽ:{: : : : :.} //: :\:://////////////ハ
: \: :{: : : : :.} /:::: : : : :\/////////////ハ
: : : ヽヘ: : : :.!/: :::::::::..: : : : :.ヽ////////////}
: : : : : \,ィ'": : :.::::::::::::::.: : : /////////////ハ
: : : :>'i: :::.:.:.: :::::::::::::::::: ://///////////////
: ://:./:∪:::::::: :::::::::::::::::///////////////////
:(;': /::: : ::::::::: ::::::::::::://///////////∠////// ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/上 上\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2012年(主日B年) 4月8日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)と書かれている 「御自分」 とは、
“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、あなたはまだ信じていないのですか。
洗礼の秘跡によって、私たちキリスト者はみな 「キリストと共に死んだ」(コロ v.3、ロマ 6:8)のです。
今や私たちの(永遠の)命は、「キリストと共に神の内に隠されているのです。」
私たちキリスト者の人生に残されているのは、ただの肉体の死だけであって、すでにキリストは死に勝利されました。
来るべき日には、キリストがその勝利を私たちに与えてくださいます(コロ v.4、Iコリ 15:54-57)。
私たちが毎週ミサで唱える信条の中の、「主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます」 という条項の重要性を、あなたはこれまで真面目に考えて来たでしょうか。
実に教会は、すでに私たちのために神の裁きに対して御自身を献げ、すべての呪詛(罪が支払う報酬である死)を私たちから取り除いてくださった審判者キリストが、天から来られるのを頭を上げて待ち望んでいるのです。
このキリストを信じる者はだれでも、今やその名によって罪の赦しが受けられるからです(使 v.43)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、
>涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)
>と書かれている 「御自分」 とは、“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、
>そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、
>あなたはまだ信じていないのですか。
,,..,,_
, -''"´ `゙''-、 ,, -‐ 、
,." `ヽ /' ヽ
l 老 l / i
l__ 、、、_ } { _、、、 __ l/ ≼ⓞ≽..i
{l〈 ヽ., --)-(-=-_ノ / ..::::::::::::::::|
ヾ|  ̄ノ  ̄ / ..::::::::::::::::::l
l (、{,___,},.) / ..::::::::::::::::::::!
l \ `ニ´ / .::::::::::::::::::::/
ヽ / ー \/ .:::::::::::::::::::/
\ / .:::::::::::::::::::/
. ‐'"´ `'‐,r''"~ .:::::::::::::::::/
/,. -‐‐- 、 l′ ..:::::::::::::/|
:,' / !.:::::::/:i..:..l
r 、 / !::::::::::: i..:..i
l .......`:i i !:::::::::: ゙、:.i
! ::::::::::/ i i:::::::::: ヽ:i
.! ::::::::/ i .....i::::::::::: ヽ
.ヽ ::::::| `、 `、 .....::::::::::::l:::::::::::: `,
/ \:::l. `、 ヽ::::::::::::::::::::l::::::::::: /'''ー─----、
`ヽ `、 .::::\:::::::::::::::|::::::::: /,, ,. ‐;''" ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
605老クリスチャン2016/11/29(火) 19:40:03.73ID:meLDxuBD
多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。
どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。
そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。
本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。
「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1407104440/605
__,.-‐" "⌒~^'ー:ヽ
_,.‐'´ :::::::::;;;;;ヽ、
ァ'´ ::::::::::::;;;;;;::}i
/ 老 :::::::::;;;;;;;;;;i
::: l _ ,. -‐ ´::::::::::::::;;;;;;;;;;;;:;; f^ヽ
:{ ` 、 ;;rz彡彡ミミ‐:::;;;;;Vムリ|
ヾ゙、ミミミヽ :: 'ゝrtッ_‐ァ::':::;;;;;∨/! いいかな?
. :::ヾ 、_tッ、,l :::::!:`ー ___::::;;;;;::::;:∨/
_ ::;;; :ヽ -'´,ノ :::::!、`、::::::::;:;;;;;;;;:::;:|
/ ノ〉::::::ハ;;; ;;;/,イ ::'ヽ::\;;;;;:::;;;;;│,
. _厶 〃_| ;;;:ヽ;; i::,,:^ー^:':...-、 ::::;;;: l, .
. r'´__ノ〃i .;.\' ζ:: ==ァ‐‐、;;`; ;;;/, -‐ -‐ .
. ,.┴┐ ′ | _ _;;〉 ( ;;;;;;´;;;;;;_,/
/ ァ'´ , -‐┤,.‐' _;;;.>、_,>;;‐'´/
辷..ノ / _ └--‐'_._ノ: /\__| |__
__,イ /≼ⓞ≽. 2000年(主日B年) 4月30日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
教会は今年も主イエス・キリストの復活を祝って、この期節のミサをささげます。
“信じる” という言葉と “愛する” という言葉が、特にヨハネ文書では密接に結びつけて使われています。
この “愛する” という言葉は、ミサをささげる群の中で、またミサをささげる群に向かって語られていることに注目したいと思います。
“主イエス・キリストを信じる人々を愛し、洗礼の秘跡によって新しく生まれさせてくださった神を愛する” ことから、すべては始まりました。
神が御子の十字架のいけにえによって、私たちを罪と死の支配するこの世から贖ってくださったからです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
“愛する” とは、救われた会衆が “共にミサをささげる” こと、“共にミサをささげ続けるために一致協力する” こととして、ヨハネ文書はこの言葉を使っていることを理解しましょう。
ですから、私たちが主イエス・キリストの復活を祝って共にミサをささげているなら、私たちは互いに愛し合っていることになります。
主イエスが最後の晩餐の席で残された言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ 15:12)でした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2009年(主日B年) 4月19日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
よく知られている日本の聖歌に、“愛といつくしみのあるところ、神はそこにおられる” というのがありますが、これはキリストの福音を知らない人には誤解を与える危険性があります。
なぜなら、聖書が語っている愛の掟の前提は、「神から生まれた者」 だからです。
この信仰の事実(ヨハ 3:3-8)から離れて、人間の美徳として愛を考えてしまうと、もはや 「天上のこと」(ヨハ 3:12-15)を信じることが出来なくなります。
ミサの中の感謝の典礼で交わりの儀にあずかるのは、洗礼の秘蹟によって “新たに生まれた者たち” だけです。
この交わりの儀こそが、なによりも先ず “互いに愛し合う” ことの第一の中心です。
かつてはこれを個人的信心として追求し、聖体拝領と呼んでいた時代がありましたが、現代では交わりの儀と呼ばれるようになった意味を理解しましょう。
共にミサをささげる群れである教会は、“神が永遠の命を与えられた者たち(Iヨハ 5:11)の交わり(Iヨハ 1:3)” なのです。
このことを理解しない群れは、ただの人間の集会でしかありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
//・\老/・\\ あ
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | た
\ \_| / に
/ /・\老/・\ は
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | 、
| (_人_) | わ
\ \_| / た
/ /・\\ し
|  ̄ ̄ | を
| (_人_) お
\ \_| い
/ \ て
| | ほ
| | か
\ /. に
//・\ \ 教
|  ̄ ̄ | 師
(_人_) | が
\_| / あ
/・\老/・\ \ っ
| ̄ ̄  ̄ ̄ | て
| (_人_) | は
\ \_| / な
//・\老/・\\ ら
|  ̄ ̄  ̄ ̄ | な
| (_人_) | い
\ \_| / 。 2012年(主日B年) 4月15日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「キリストはご自分の教会の典礼を通して ・・・・・ その救いのわざを現し、現在化し、分け与えられるのです。 ・・・・・ キリストは ・・・ ご自分の教会の中で ・・・ 諸秘跡を通して働かれるのです。」(カトリック教会のカテキズム 1076)
しかもこのことと同時に聖霊は、キリストが歴史の中で実際に 「人間の姿で現れ」(フィリ 2:7)、私たちの罪を身に負ってヨハネから洗礼を受け、
私たちの贖いのために十字架の死を通して御自身を神に献げられた、あの出来事を証してくださるのです(Iヨハ v.6)。
キリストは死に勝利して復活されました。 だから ・・・ ! 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つのです。」(Iヨハ v.4)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2003年(主日B年) 5月4日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
今年も全世界のカトリック教会で、復活徹夜祭の洗礼の儀によって新しい民が加えられ、すでに信者であった人々も自らの洗礼を思い起こして、共に喜びのうちにミサをささげています。
救い主イエス・キリストは引き渡される夜(Iコリ 11:23)、御自分の死と復活の記念を教会に託して、聖体のいけにえ(ミサ)を制定されました。
ですから洗礼を受けて救われることは、共にミサをささげる共同体に加えられることであって、聖書はこのような信者の生き方を 「神の掟を守る」 「互いに愛し合う」 と表現しました。
このミサの重要性を明確に述べて、典礼憲章は次のように教えています。
「したがって教会は、キリスト信者がこの信仰の秘義に外来者、あるいは無言の傍観者として列席するのではなく、儀式と祈りによってこの秘義をよく理解し、聖なる行為に意識的に、敬虔に、また行動的に参加し、
神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われ、神に感謝をささげ、ただ司祭の手を通してだけでなく、信者も司祭とともに清い供え物を奉献して自分自身を奉献することを学び、
こうしてキリストを仲介者として日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように全力を傾注しているのである。」(典礼憲章 48) (つづき)
「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。 わたしたちは、このことの証人です。」(使 v.15)
信じて洗礼を受けたすべてのキリスト者にとって、使徒たちは主の復活の証人であります。
洗礼によってイエス・キリストが私たちの主となってくださったこと、私たちを罪と死と悪魔の力から救い出し、贖って御自分の民としてくださったことの証人は使徒たちなのです。
その罪とは、「聖なる正しい方を拒んで、・・・・・ 命の導き手である方を殺してしまった」(使 vv.14-15)罪であり、
「悔い改めて立ち帰る」(使 v.19)とは、洗礼の秘跡によって 「イエス・キリストは主である」(フィリ 2:11)と告白する民に加えられることであります。
このイエスを復活させた 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたち(旧約のイスラエル)の先祖の神」(使 v.13)が、私たちキリスト者の神となられたことを、現代の教会は再認識する必要があります。
キリストの救いが単なる心の中の思想ではなくて、罪と死からの現実の贖いであって、やがて神の国への復活に至るものであるように、
私たちの神は抽象的な空想の神ではなくて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神なのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2006年(主日B年) 4月30日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「神の掟」(Iヨハ v.3)、「神の言葉」(Iヨハ v.5)とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(Iヨハ 3:23)。
主日のミサを共にささげるために、キリストの祭壇を囲む群である私たち教会に、復活のキリストは今朝も、互いに愛し合う結びつきを期待しておられます。
聖書はこの愛を、共に救いに与っている “兄弟” への愛として繰り返し語っています(Iヨハ 2:10,4:20-21、Iテサ 4:9-10)。
なぜならそれは、“神の子イエス・キリストの名を信じる信仰” を互いに強め支え合うための、“福音に共にあずかる者となるための(Iコリ 9:23)” 兄弟愛だからです。
この認識が不十分なままで、ミサの中で形式的に手をつなぎ合ったり、抱擁し合ったりしても、それで “仲良しクラブ” は生まれても、真のキリストの体としての教会は育ちません。
共に信仰によって罪の赦しを受け、義とされたという事実が、その認識が、“教会を造り上げる兄弟愛” を生み出す源泉であることを思い、今朝も記念唱を歌おうではありませんか。
司祭 : 信仰の神秘。
会衆 : 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 来る来る詐欺やからwww
____
/c c c\//
/ c c /V
/ ̄ ̄\ c /- |
/Φ Φ\/- /
| o ‥ o | -/
\__(__人__)__/ ̄
人 2009年(主日B年) 4月26日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「次のように書いてある。 “メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる” と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ vv.46-48)
初代教会のケリュグマには、次の三つの主要な要素が含まれていたと考えられます。
第一は “キリストが聖書に書いてある通り復活したこと”、第二は “キリストは生きている者と死んだ者との審判者に定められたこと”、そして第三は “信じるすべての者に罪の赦しを与える主となられたこと” です。
審判者としてのキリストの再臨という終末論的背景の中で、初代教会はキリストの死と復活の事実を宣教したのであって、それ故にキリストの福音は十字架の福音であり、勝利の福音でありました。
ですから、福音が宣教されるところではどこでも、復活のイエスが語られた 「あなたがたに平和があるように」(ルカ v.36)も、常に新しく伝えられたのです。
平和は信じる者にキリストが与えてくださる賜物であって、代々の教会は使徒たちの宣教を通してこれを受けて来ました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています