2011年(主日A年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17  Iコリ 15:20〜28  マタ 25:31〜46

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人(アダム)によって来たのだから、死者の復活も一人の人(キリスト)によって来るのです。」(Iコリ vv.20-21)

先の “バルメン宣言” は、その第五条で次のように宣言しました。
“教会が、人間的な自主性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に、奉仕させることが出来るというような誤った教えを、われわれは斥ける。”

バルメン宣言にせよ、第二バチカン公会議にせよ、歴史の証言と教訓を、教会はその信者に教え理解させるような方向には決して進んで来ませんでした。
むしろ教会は、“必ずしもそれが告白する信仰通りには生活しなかった”(ヴィサー・トーフト)というのが今日においても事実なのです。

殆どの信者にとっては、キリストの復活は自分の生活には直接関係のない、ただの “お目出度い話” として、聞き流されています。
そして、ドイツ教会闘争とその後のキリスト教の歴史は、大学の文学部のフォーラムで、キリスト信仰とは何の関係もない一般学生たちの間の討論主題としてしか、取り上げられなくなってしまいました。

しかし、王であるキリストの祭日は、今日わたしたちカトリックの子らのところに来ているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より