敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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2008年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
使徒パウロはテサロニケの町で、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」 と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」 と、福音を語りました(使 17:3)。
そして、「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちは、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」(Iテサ v.9)、更にまた、御子の再臨を待ち望むようになりました(Iテサ v.10)。
この 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)を信じる信仰によって、
テサロニケの信者たちは生活し、同じ信仰に生きる仲間たちへの愛のために労苦し、キリスト再臨への希望を持って忍耐していました(Iテサ vv.3,8)。
このような人々の間で、 “神を愛し、隣人を愛する” ということが、どのような意味で理解されていたかを私たちは聖書から学ばなければなりません。 (つづき)
聖書を読んだことも学んだこともない人たちが口にする、ただの道徳訓としての “敬神愛人” が、キリスト教文化の標語のように思われて、既に久しい時が経ちました。
そして多くのキリスト教信者も、実際それに何の違和感も抱いていないように見えるのです。
しかし、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(エフェ 1:18)を悟ることなしに、
原始教会の人々が抱いていた “神を愛し、隣人を愛する” という信仰と倫理を、私たちが共有することは出来ないのです。
神を愛し、隣人を愛しているテサロニケの信者たちへの、使徒パウロの激励の言葉は次のようなものでした。
「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」(Iテサ 3:13)
・・・・・ 以下、本文参照。
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