ナマポのナマポによるナマポのための遊び場 Part97
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ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
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「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
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「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
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「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
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とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
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それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
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http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
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驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
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つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
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■騙されてたまるか
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http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
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その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
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「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
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■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
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会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
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他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
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とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
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その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
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■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
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「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
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つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
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とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
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清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
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姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
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またか、と思いながら、清水氏は
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騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
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つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
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清水氏は同書の中で次のように指摘している。
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桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
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またか、と思いながら、清水氏は
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驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
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その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
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なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ かつて長野電鉄を走り、引退後は須坂駅に置かれていた10系電車と、電気機関車「ED5001」の解体が決定。
これを惜しむ有志が「お別れ会」を開催します。
10系電車の運転台で記念撮影も
長野電鉄は2017年2月17日(金)、須坂駅(長野県須坂市)で留置されている同社のオリジナル車両である10系電車「S11編成」および電気機関車「ED5001」を解体すると発表しました。
それに際し、有志によって「S11編成&ED5001形 お別れ会」が開催されます。
http://image.news.livedoor.com/newsimage/1/5/1574e_1438_770bdff92722d1bc878f9b35b236960c.jpg
須坂駅に留置されている長野電鉄の10系電車。赤とベージュの「りんご色」をまとう
10系電車は1980(昭和55)年に2両1編成(S11編成)が製造されました。
3扉の通勤形車両で、1966(昭和41)年登場の0系「OS(Officemen & Students)カー」に続く「新OSカー」という愛称がありました。
2003(平成15)年に引退し、その後は須坂駅構内に留置されています。
「ED5001」は、1927(昭和2)年に製造された電気機関車で、貨物列車の牽引(けんいん)などに使用されました。 かつて長野電鉄を走り、引退後は須坂駅に置かれていた10系電車と、電気機関車「ED5001」の解体が決定。
これを惜しむ有志が「お別れ会」を開催します。
10系電車の運転台で記念撮影も
長野電鉄は2017年2月17日(金)、須坂駅(長野県須坂市)で留置されている同社のオリジナル車両である10系電車「S11編成」および電気機関車「ED5001」を解体すると発表しました。
それに際し、有志によって「S11編成&ED5001形 お別れ会」が開催されます。
http://image.news.livedoor.com/newsimage/1/5/1574e_1438_770bdff92722d1bc878f9b35b236960c.jpg
須坂駅に留置されている長野電鉄の10系電車。赤とベージュの「りんご色」をまとう
10系電車は1980(昭和55)年に2両1編成(S11編成)が製造されました。
3扉の通勤形車両で、1966(昭和41)年登場の0系「OS(Officemen & Students)カー」に続く「新OSカー」という愛称がありました。
2003(平成15)年に引退し、その後は須坂駅構内に留置されています。
「ED5001」は、1927(昭和2)年に製造された電気機関車で、貨物列車の牽引(けんいん)などに使用されました。 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 自転車に乗った女性に声をかけ、停車した隙に前カゴからバッグなどをひったくったとして33歳の無職の男が逮捕された。
警視庁によると、住所不定・無職の山崎崇史容疑者は、去年4月、東京・足立区の路上で自転車の前カゴから現金約2万6000円が入った手提げバッグなどを盗んだ疑いが持たれている。
山崎容疑者はバイクで後ろから自転車に乗った女性に近づき、「こんばんは、すいません」などと声をかけ、自転車が止まった隙にバッグをひったくったという。
調べに対し山崎容疑者は「生活費とパチンコ代欲しさにやった」と容疑を認めているという。
足立区や葛飾区などでは去年1月から6月にかけ同様の手口のひったくりが約10件起きていて、警視庁が関連を調べている。
http://news.livedoor.com/article/detail/12706580/
2017年2月22日 12時12分 日テレNEWS24
2 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2017/02/22(水) 15:49:44.38 ID:2nPQb4GD0
足立区ならしかたない
3 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 15:51:26.03 ID:Du6pIAUd0
http://dnaimg.com/2010/10/08/real_thief_cat/cat_thief_thumb.jpg 自転車に乗った女性に声をかけ、停車した隙に前カゴからバッグなどをひったくったとして33歳の無職の男が逮捕された。
警視庁によると、住所不定・無職の山崎崇史容疑者は、去年4月、東京・足立区の路上で自転車の前カゴから現金約2万6000円が入った手提げバッグなどを盗んだ疑いが持たれている。
山崎容疑者はバイクで後ろから自転車に乗った女性に近づき、「こんばんは、すいません」などと声をかけ、自転車が止まった隙にバッグをひったくったという。
調べに対し山崎容疑者は「生活費とパチンコ代欲しさにやった」と容疑を認めているという。
足立区や葛飾区などでは去年1月から6月にかけ同様の手口のひったくりが約10件起きていて、警視庁が関連を調べている。
http://news.livedoor.com/article/detail/12706580/
2017年2月22日 12時12分 日テレNEWS24
2 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2017/02/22(水) 15:49:44.38 ID:2nPQb4GD0
足立区ならしかたない
3 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 15:51:26.03 ID:Du6pIAUd0
http://dnaimg.com/2010/10/08/real_thief_cat/cat_thief_thumb.jpg 東京都小金井市で昨年5月、音楽活動をしていた冨田真由さん(21)がファンの男に刺され重傷を負った事件で、
殺人未遂などの罪に問われた群馬県伊勢崎市の無職岩埼(いわざき)友宏被告(28)の裁判員裁判の被告人質問が22日、東京地裁立川支部であった。
岩埼被告は現場を訪れた動機について「(冨田さんからプレゼントを返され)拒絶の意思を示されたので、
冨田さんに(直接)言葉で言われることで離れる踏ん切りをつけようと思った」と述べ、事件の計画性を否定した。
岩埼被告は黒色のスーツ姿で出廷。
弁護側の質問に淡々とした様子で答えた。
昨年4月に冨田さんからプレゼントを返却されたことで「すごく悲しい気持ちになり、怒りを感じた」。
事件前に、犯行に使ったナイフを買ったことについては「自分が逃げ出さないために、精神的な支えのお守りとして買った」と理由を説明した。
自身のブログに「死ねよ、死ねよ」と書いたことについては「自分に向けてです」と述べ、冨田さんへの殺意を否定した。
http://news.livedoor.com/article/detail/12706414/
2017年2月22日 12時16分 朝日新聞デジタル 「夕飯なに食べたい?」。恋人未満のふたりがデートを間近にした、男性からの他愛もない質問。
ほほえましいが、経験したことのある男性は“内心ドキドキ”であることはご承知の通り。
自身のキャパシティを越えた店を指定されないか、なんだかんだでゼロから店選びを頑張るハメにならないか…。
余裕ぶっこいているようでその実、男心は動揺しまくりのハズだ。
そこで「困ってしまう女子からのディナーリクエスト」について、20〜30代の独身男性会社員200人にアンケート調査を試みた(R25調べ。協力/アイリサーチ)。
■こう言われたら困る!女子のディナーリクエストTOP10
(全11項目から複数回答)
1位 「どこでもいいよ」と自由に選ばせてくれる 37.5%
2位 「〇〇くんは何が食べたい?」などと質問で返される 20.0%
3位 「ガッツリ系」「温かいもの」など、料理の雰囲気を指定される 13.0%
4位 「肉」「魚」など、食材を指定される 12.5%
5位 「静かな店で」など、店の雰囲気を指定される 11.5%
6位 「そんなに高くない店」など、値段感を指定される 11.0%
7位 「直近で食べたモノ以外で」など除外項目を指定される 10.0%
8位 「水炊きが食べたい」など、料理名をピンポイントで指定される 7.5%
9位 「中華」「和食」など、ジャンルを指定される 6.5%
10位 「近場がいい」など、距離を指定される 6.0% 「夕飯なに食べたい?」。恋人未満のふたりがデートを間近にした、男性からの他愛もない質問。
ほほえましいが、経験したことのある男性は“内心ドキドキ”であることはご承知の通り。
自身のキャパシティを越えた店を指定されないか、なんだかんだでゼロから店選びを頑張るハメにならないか…。
余裕ぶっこいているようでその実、男心は動揺しまくりのハズだ。
そこで「困ってしまう女子からのディナーリクエスト」について、20〜30代の独身男性会社員200人にアンケート調査を試みた(R25調べ。協力/アイリサーチ)。
■こう言われたら困る!女子のディナーリクエストTOP10
(全11項目から複数回答)
1位 「どこでもいいよ」と自由に選ばせてくれる 37.5%
2位 「〇〇くんは何が食べたい?」などと質問で返される 20.0%
3位 「ガッツリ系」「温かいもの」など、料理の雰囲気を指定される 13.0%
4位 「肉」「魚」など、食材を指定される 12.5%
5位 「静かな店で」など、店の雰囲気を指定される 11.5%
6位 「そんなに高くない店」など、値段感を指定される 11.0%
7位 「直近で食べたモノ以外で」など除外項目を指定される 10.0%
8位 「水炊きが食べたい」など、料理名をピンポイントで指定される 7.5%
9位 「中華」「和食」など、ジャンルを指定される 6.5%
10位 「近場がいい」など、距離を指定される 6.0% 自由は不自由なのか、「どこでもいいよ」と言われると逆に困ってしまう…というあるあるシチュエーションがもっとも多い結果に。
具体性が低くなればなるほど、困ってしまう可能性が高くなる印象だ。それぞれを選んだ人のコメントを見ていこう。
【1位 「どこでもいいよ」と自由に選ばせてくれる】
「せっかくだから相手に喜んでもらいたいのに、『どこでもいい』と言われると何が食べたい気分なのか分からなくて困る」(37歳)
「自分で調べて選んだ店に明らかに不満そうな顔をされたから」(28歳)
「どこでも良いというがどこでも良い訳ではないから」(38歳)
【2位 「〇〇くんは何が食べたい?」などと質問で返される】
「お互い言いあって、共通のものを食べに行きたいので、こちらの一方的な意見を聞いてくれるのかなと不思議に思うからです」(39歳)
「聞いてるのに質問で返されると腹が立つ」(31歳)
「そこまで食に執着がないので、これが食べたいというものがないから」(31歳)
【3位 「ガッツリ系」「温かいもの」など、料理の雰囲気を指定される】
「具体性が全くないのでわからない」(29歳)
「自分の思っていたものと彼女の思っていたものと違った」(38歳)
【4位 「肉」「魚」など、食材を指定される】
「選択肢が減るから」(39歳)
「好き嫌いがあると難しい」(33歳) 自由は不自由なのか、「どこでもいいよ」と言われると逆に困ってしまう…というあるあるシチュエーションがもっとも多い結果に。
具体性が低くなればなるほど、困ってしまう可能性が高くなる印象だ。それぞれを選んだ人のコメントを見ていこう。
【1位 「どこでもいいよ」と自由に選ばせてくれる】
「せっかくだから相手に喜んでもらいたいのに、『どこでもいい』と言われると何が食べたい気分なのか分からなくて困る」(37歳)
「自分で調べて選んだ店に明らかに不満そうな顔をされたから」(28歳)
「どこでも良いというがどこでも良い訳ではないから」(38歳)
【2位 「〇〇くんは何が食べたい?」などと質問で返される】
「お互い言いあって、共通のものを食べに行きたいので、こちらの一方的な意見を聞いてくれるのかなと不思議に思うからです」(39歳)
「聞いてるのに質問で返されると腹が立つ」(31歳)
「そこまで食に執着がないので、これが食べたいというものがないから」(31歳)
【3位 「ガッツリ系」「温かいもの」など、料理の雰囲気を指定される】
「具体性が全くないのでわからない」(29歳)
「自分の思っていたものと彼女の思っていたものと違った」(38歳)
【4位 「肉」「魚」など、食材を指定される】
「選択肢が減るから」(39歳)
「好き嫌いがあると難しい」(33歳) 【5位 「静かな店で」など、店の雰囲気を指定される】
「高級な店がいいのか、ただ単に隠れ家的な店がいいのか悩む。自分のことをどう思ってるかを予想しないといけないから。試されている気がする」(29歳)
「店の雰囲気と言われても自分と彼女で感じ方が違うし、その日にいるお客さんによって変わって来るから」(33歳)
【6位 「そんなに高くない店」など、値段感を指定される】
「値段の基準がわからないので」(34歳)
「気を使うから」(29歳)
【7位 「直近で食べたモノ以外で」など除外項目を指定される】
「もっと具体的な希望がほしい」(29歳)
「わがまま極まりない」(33歳)
【8位 「水炊きが食べたい」など、料理名をピンポイントで指定される】
「指定されるのが、自分が好きな料理じゃなかったら嫌だから」(37歳)
【9位 「中華」「和食」など、ジャンルを指定される】
「ジャンルを言われると選べるお店の数が減る」(31歳)
【10位 「近場がいい」など、距離を指定される】 【5位 「静かな店で」など、店の雰囲気を指定される】
「高級な店がいいのか、ただ単に隠れ家的な店がいいのか悩む。自分のことをどう思ってるかを予想しないといけないから。試されている気がする」(29歳)
「店の雰囲気と言われても自分と彼女で感じ方が違うし、その日にいるお客さんによって変わって来るから」(33歳)
【6位 「そんなに高くない店」など、値段感を指定される】
「値段の基準がわからないので」(34歳)
「気を使うから」(29歳)
【7位 「直近で食べたモノ以外で」など除外項目を指定される】
「もっと具体的な希望がほしい」(29歳)
「わがまま極まりない」(33歳)
【8位 「水炊きが食べたい」など、料理名をピンポイントで指定される】
「指定されるのが、自分が好きな料理じゃなかったら嫌だから」(37歳)
【9位 「中華」「和食」など、ジャンルを指定される】
「ジャンルを言われると選べるお店の数が減る」(31歳)
【10位 「近場がいい」など、距離を指定される】
「具体的にどこに行きたいかわからないから」(38歳) 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 ,,-―--、
|:::::::::::::;;;ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|::::::::::( 」 <今宵も俺達の勝利で寝てみますわw
ノノノ ヽ_l \______________
,,-┴―┴- 、 ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ |
⊂|______|
|l_l i l_l |
| ┬ | だって、あちこち追いかけてコピペしてんだもん(笑)
可愛いけどな ,,-―--、
|:::::::::::::;;;ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|::::::::::( 」 <自然に大人にスマートになんて出来ない
ノノノ ヽ_l \______________
,,-┴―┴- 、 ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ
/ ヽ| | バ | '、/\ / /
/ `./| | カ | |\ /
\ ヽ| lゝ | | \__/
\ |  ̄ ̄ ̄ |
⊂|______|
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| ┬ | とりまもう一回OH MY LITTLE GIRL聞いてから考えるか 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31r ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 「ワタナベの、ジュースの素(もと)です、もう一杯。憎いくらいにうまいんだ〜、不思議な(素敵な、だったかな…)くらいにうまいんだッ」というエノケンのダミ声CMソングが今も耳にはっきりと残っています。
この歌の後に、確か「10杯飲んでも50円、一袋たったの5円」とか何とかいうキャッチコピーが続いていたような気がします。
子供の頃、私の家の町内には、家の1軒置いて隣にお菓子屋さん、10数軒置いた反対側の隣に駄菓子屋兼文房具屋さんのようなお店があり、さらに、橋を渡った隣の町が商店街になっていて、いわゆる
「食料品店」も5、6軒ありまして、お菓子屋さんでは、主に秤で計って100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、駄菓子屋さんは、
もっぱらスカばかりの甘納豆のクジなんかを引く場所になっていましたので、当時は、どちらかというと、正統の食料品にラインナップされていたワタナベのジュースの素というのは、
ちゃんと食料品店で購入していた記憶があります。食料品店では、店先のガラスケースの中に、切り身の魚やメザシ、魚肉ソーセージや魚肉ハム、乾物類などが並べられ、
壁際の棚に、ヤマサ醤油やブルドッグソース、桃屋の江戸むらさき、鯨の大和煮の缶詰やみかんの缶詰なんかと一緒に、ワタナベのジュースの素が置かれていたものでありました。
私の記憶には、この写真のような30袋も箱に入っていたワタナベのジュースの素というのは残ってなく、今に思えば、いわゆる
徳用という奴だったのであろう20〜30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋しか覚えていません。で、大きな袋の奴は、家の台所に置いてあって、
粉末をスプーンですくい、コップに水道の水を注いで、スプーンでかき混ぜ、ジュースとして飲むというものでありました。
で、春先とか、晩秋とかは、長岡の水道の水は、結構、冷たくて、解けきれなかった粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方をしていました。
冬場にお湯で飲んだこともありますが、特に、ストローで飲むと、やたらにすっぱかったことを覚えています。
このワタナベのジュースの素には、ちゃんと、オレンジ、グレープ、パイン(だったかな…)の3種類くらいの味があったと思いますが、
やはり、最も消費されていたのは、オレンジだったような記憶があります。
特に、小さい袋のワタナベのジュースの素の場合、
水に溶かして飲むよりも、直接、袋に人差し指を突っ込んで舐めるというのが主流の飲み方(食べ方か)で、唾液で溶かしながら味わうには、オレンジが一番おいしかったように思います。
こうした粉末ジュースの類としては、他に、井村屋のソーダラップ、春日井シトロンという、炭酸系の粉末ジュースもあり、この系統では、井村屋のソーダラップのメロン味が最も飲まれていたようにも記憶しています。
さらに、ワタナベには、お汁粉の素というのもあって、こちらも、かの林家三平師匠が「おもちも入ってペタペタと、安くて、どうもスイマセン」というCMで強烈に印象に残っていますが、
おもちといってもほとんどあられのような奴で、あんこもあまりおいしくなく、子供心にも、「おもちも入ってカリカリと、まずくて、どうもスイマセン」というべきではないだろうかと思ったのを覚えています。
ということで、ワタナベのジュースの素は、指先と舌をオレンジ色に染めた記憶と共に鮮明に覚えているわけですが、こうした粉末ジュースの類も、僕が小学校を卒業して
中学校に入る前後辺りから次第に姿を消し、中学校のいつ頃からだったか、はっきり記憶にありませんが、いつのまにか、冷蔵庫を開けると、ファンタやコカコーラが入っているという時代になりました。
コピペに最適ですね。。。。。。。。。。
それは、我が家の家計だけでなく、世の中全体が、少し余裕が出てきた証でもあったでしょうし、冒頭でも触れた、世の中の「チクロ騒ぎ」で粉末ジュースが真っ先に槍玉にあげられた結末でもあったようです。
ちなみに、エノケンと三平師匠のCMで私たちの記憶に刻み込まれた渡辺製菓について、「ぼくらのヒット・パレードVol.1/195859」(リクルート)には、こう記されています。
「(コーラなどの浸透に)追い討ちをかけたのが『ジュースの素』に多量に使われていた人工甘味料、
合成着色料などに対する消費者の拒否反応の高まり。こうした逆風の中で経営難に陥った渡辺製菓は、昭和46年ついに経営を断念。現在のカネボウフーズに吸収合併され、その歴史を閉じた」
つまり、渡辺製菓は、文字通り、60年代の終焉と共に、その歴史に幕を閉じてしまったという残念な結末を迎えたわけです。 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg http://img.2ch.net/ico/u_chinsyu.gif
1945年8月6日に広島、そして8月9日に長崎に、米軍が原爆を投下してから、今年で70年になる。
両市の市長は、米国に対し謝罪を求めているが、日本政府は、そうした謝罪の必要性はないと考えているようだ。
当時広島と長崎では、何十万もの人々が亡くなった。そしてその後も長い間、さらに何十万もの人々が、放射線障害に苦しみ亡くなっていった。そうした犠牲者の大部分は、一般市民だった。
この事は、人島と長崎への原爆投下が、戦争犯罪である事を意味している。しかし米国は、日本国民に謝罪をしてこなかった。そして日本当局も、日本のマスコミも、そうした謝罪を求めていないようだ。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターのワレーリイ・キスタノフ所長は「そもそも、原爆投下というテーマに対するアプローチが、とても奇妙だ」と考えている。彼は、ラジオ・スプートニク記者の取材に対し、次のように述べたー
「このテーマに対する日本のマスコミのアプローチは、とても一面的だ。なぜ米国が、ああした野蛮な戦争遂行手段に頼ったのだろうかという原因究明の試みは、事実上なされなかった。
反対に、日本のマスコミや政治家達は、あらゆる方法でこの事実を避けているが、その中には、たくさんの人々の命を奪った非人間的行為をしたのは誰かについて、単に口をつぐもうとの試みが見て取れる。
原爆投下については、それがどの国によって製造されたのかといった言及はなく、抽象的に述べられている。つまり米国という名は、直接出てこないのだ。その理由は簡単だ、米国は現在、日本政府の主な軍事的政治的同盟国だからだ。
そればかりか日本は、米国の核兵器に苦しんだ経験を持ちながら、現在米国の所謂『核の傘』の下にある。
米国は、多くの日本人にとって、中国の脅威が増している中、日本の安全を保障してくれる唯一の国と受け止められている。
日本国内で中国の軍事的脅威というテーゼが誇張され、日米安全保障条約に期待が集まっている今、日本の政治家達は、原子爆弾投下に対する米国の責任という尖鋭的問題を避けて通るのだろう。」
米国政府の公式的な立場は、広島と長崎への原爆投下は、日本の無条件降伏を早め、日本本土が決戦場となる事で米国兵や日本の一般人の多くの命が失われないよう、ああした決断をしたというものだ。
しかし米国の歴史家、例えば日系米人学者であるハセガワ・ツヨシ氏は「日本が無条件降伏をしたのは原爆投下ではなく、ソ連の思いもかけない対日参戦だ」と考えている。
つまり、米国の専門家も、非人間的な広島・長崎への原爆投下が軍事的に必要不可欠なものでなかったことを認めているという事だ。
おまけに内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露した資料によれば、2009年オバマ大統領は、広島を訪れ、日本国民に公式的に謝罪するつもりだった。
この件についてオバマ大統領は、電話で藪中三十二(やぶなか みとじ)外務事務次官〈当時〉と討議した。それ以外に、当時のヒラリー国務長官の指示で米国は、日本に公式書簡を送り、その中で、原爆投下に対しオバマ大統領が謝罪する意向を伝えた。
しかし、それに対し薮中外務事務次官は「そうした行為は時期尚早だ」として米国側の謝罪の考えを断念させた。薮中氏の意見によれば、広島の平和式典にオバマ大統領が出席し、
米国人によるあの野蛮な行為を日本人に改めて思い出させることは、米国との軍事同盟に反対する勢力の手に切り札を与えてしまう恐れがある、との事だった。
現在安倍首相は、日本の安全の重要な保証国として米国との同盟の強化に期待をかけている。それゆえ、米国が原爆投下について日本に公式に謝罪するという問題が、近い将来、提起される事はないだろうと思われる。
http://jp.sputniknews.com/japan/20150803/690527.html#ixzz3hoHB9RpK
依頼31 ジャーナリズムについて論じられる際、いまだに問題とされるのが「記者クラブ」制度である。
記者クラブ制度とは、簡単にいえば主に官公庁に記者室を間借りして、新聞、通信社、テレビの担当記者が常勤するシステムのこと。
この制度の問題点はいくつか挙げられるが、その一つが「排他性」である。
多くの場合、記者クラブに加盟していない社の記者が会見などに出席することを、クラブ加盟社は嫌がる。もしくは拒否をする。
本来、官公庁など公の機関が発表する内容を特定の会社だけが聞く権利はないにもかかわらず、
会見にフリーの記者が入ることを拒否され、排除されてしまうのだ。最近はさすがにかなり会見の場もオープンになってきたので、
完全に排除するといったことは少なくなってきたようだが、理不尽な締め出しを喰らった経験を持つジャーナリストは少なくない。
その「締め出し」とはどのようなものだったか。
桶川ストーカー事件や足利事件の報道で知られる清水潔氏は、新著『騙されてたまるか』の中で、かつて経験した
理不尽すぎる「締め出し」の様子を振り返っている。
■会見を仕切る記者
1992年、「FOCUS」のカメラマンだった清水氏は、当時の埼玉県知事が引退することを聞き、その引退会見の撮影に出向く。
県庁の広報課を訪ねると、スーツ姿の若い男性が出てきて冷たく言い放った。
「会見は記者クラブ員だけになります」
またか、と思いながら、清水氏は
「後ろから写真を撮るだけだから問題ないでしょう」
と言いながら男に名刺を渡した。相手は渋りながら自分の名刺を出してきた。
驚いたことに、なんとそれは通信社の名刺だった。彼は県庁職員ではなく通信社の記者で、たまたまクラブの幹事を務めていたのである。
なぜ通信社の社員が、公の会見に出席する人間を選別できるのか。清水氏は食い下がったが、相手は「クラブで決めたことなんで」と言うばかり。
話にならない、と無視して会場に向かうと何百人も収容できるホールで、ガラガラの状態。それなのに先ほどの男が前に立ちふさがってきた。
騒ぎはさらに大きくなっていく。以下、『騙されてたまるか』から引用しよう。
■百人で恫喝
「一通信社が他社の取材行為に采配を揮うという。何とも解せない話だ。しかも当時の私は、たまたまだが『埼玉県民』だった。
つまり有権者であり、納税者なのだ。
他の雑誌記者たちは、大人しく廊下に出て行ったが、私はそのまま居座った。すると、『出て行け!』の大合唱が始まった。
見回すと、総勢百人近くのクラブ員に囲まれていた。
その昔、二百人以上のヤクザの団体様に囲まれても撮影を続けたこともある私だ。サラリーマンの烏合の衆などに動じるはずもない。
知らぬ顔でなおも居座っていると、TBSのカメラマンが大声を張り上げた。
『がたがた言わずに、出て行け!』
なにゆえ『東京放送』が『埼玉県民』に『出て行け!』と言うのだろうか。それに私も視聴者の一人なのだぞ……。」
この騒ぎの最中、知事が入室してきた。すでにテレビは生中継を始めている。そこで件の通信社の記者も「それではアタマ5分だけ
写真撮影を許可します!」と声を張り上げた。すると、それまで追い出されても黙っていた他誌のカメラマンも入室してきた。清水氏は思わず、
「お前らさあ、戦わずして取材するなよ」
とぼやいてしまったという。
■騙されてたまるか
前述の通り、今はもう少しオープンになっているとはいえ、それでも記者クラブの問題点がなくなったわけではない。
清水氏は同書の中で次のように指摘している。
「記者クラブは官公庁内に置かれ、その食堂で役人と『同じ釜の飯』を食う記者たち。そうした関係性の中で提供される情報が
次第に『御用報道』を招いていく」
「『自分の頭で考える』という基本を失い、『○○によれば……』という担保が無ければ記事にできない記者たち。
それは結果的に、自力で取材する力を衰退させ、記者の“足腰”を弱らせていくはずだ」
そうした報道にどう向き合えばいいのか。その答えの一つが「おかしいものは、おかしい」という気持ちを持ち、常に「騙されてたまるか」という
姿勢で情報に接することだ、と清水氏は語っている。
http://www.gruri.jp/article/2015/08071400/ 読売新聞 10月9日(金)11時11分配信
【ワシントン=大木聖馬】米国のケリー国務長官は8日、ロシアのラブロフ外相と
電話で会談し、シリアで軍事行動をとる露軍の攻撃対象の大部分がイスラム過激派組織
「イスラム国」とは関係がないとして懸念を伝えた。
米側は露軍による空爆の9割以上がシリア反体制派を標的にしていると見ている。
一方、ロイター通信は8日、複数の米政府高官の話として、ロシアの艦船が7日に
シリアに向けて発射した26発の巡航ミサイルのうち、4発がイランに着弾したと
伝えた。ただ、露国防省はこの報道を否定している。
http://
(10月4日付け) 北海道民友
http://www.m
★1の時間 2015/10/06(火) 20:31:43.18
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/n
9月26日、紋別市上渚滑町立牛のデントコーン畑で、体重400キログラムのオスのヒグマが駆除された。
冬眠に備えてデントコーンを食べ、そこで寝るという日々を繰り返していたらしく、かなり太った体格だった。
2人組で駆除に当たったハンターの1人は「50年やっているが、こんなに大きなクマは見たことが無い」と驚いている。
市内では他に、渚滑町宇津々と藻別でも推定350キロ以上の巨大ヒグマの足跡が確認されていて、
紋別市は猟友会の協力を得てパトロールを実施するなど警戒している。
今年は国内最悪の獣害とされる三毛別羆(さんけべつ・ひぐま)事件(1915年12月、7人死亡・3人負傷、
北海道・苫前町)からちょうど100年。このときのヒグマは体重340キロで、今回の巨大クマはさらに大きい。
なお紋別市民会館2階ロビーに展示されているヒグマの剥製(北米・アラスカで駆除)も、
体重が400キロだったと記されている。
ハンターの1人によると、デントコーン被害によるヒグマ駆除依頼を受けて現地を確かめたところ
予想以上のひどさだったため、仲間を呼んで2人態勢で臨むことにしたという。
残っていたデントコーンをコンバインで刈り取ってもらい、ヒグマが隠れているエリアを狭めていったところ、
突然、巨大なクマが飛び出してきたという。そこで猟銃を撃ち、命中させた。
ユニックで吊り上げて測定したところ、体重はちょうど400キロ。このハンターが10年前に仕留めた
310キロのクマを優に超える新記録となった。「巨大ヒグマを捕った」との話題は地域を駆け巡り、
集まった大勢の人たちも、その大きさに驚いたという。
スカイ元役員がインサイダー取引 監視委、課徴金勧告へ
2015/10/09 10:46 【共同通信】
航空会社スカイマークが欧州航空機大手エアバスとの旅客機購入契約解除を公表する前に、
スカイマークの元役員が保有する自社株を売却するインサイダー取引をしていたことが9日、
市場関係者への取材で分かった。
証券取引等監視委員会は同日、金融商品取引法に基づき、金融庁に課徴金勧告する。
関係者によると、元役員の男性は昨年7月、スカイマークが契約解除を公表する直前に株式を売却。
同社株は1カ月後に最大約50%下落し、男性は約200万円の損失を回避した。
スカイマークはエアバスとの間で超大型機A380を6機購入する契約をしていた。
47NEWS
読売新聞 10月9日(金)8時42分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=om-soci
広島市中区流川町の雑居ビルで8日夜に発生した火災は、約9時間後の9日午前6時半頃に鎮火し、
焼け跡から男女とみられる2人の遺体が見つかった。
広島県警広島中央署は、行方が分からなくなっているメイドカフェの女性従業員(28)(広島市東区)らとみて確認を急いでいる。
さらに、重体だったメイドカフェの男性客(36)(広島市西区)も死亡し、死者は計3人となった。
また、女性従業員(21)(同市安佐南区)が意識不明の重体となっており、別に2人が負傷した。
画像 火災があった雑居ビルを調べる消防隊員ら(9日午前8時5分、広島市中区で)=近藤誠撮影
http://amd.c.yimg.jp/amd/20151009-00050043-yom-000-6-view.jpg ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています