あゝ戦前の男性歌手! 第2ステージ
演歌師、浅草オペラの人々、流行歌手、軍歌歌手、歌う芸人、
懐メロブームで復活できた人、できなかった人など、様々な
「戦前の男性歌手」を語り合いましょう。
前スレ
あゝ戦前の男性歌手!
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1118835187/ もし出せるとしたら20曲くらい収録してほしいな
1 うちの女房にゃ髭がある(デュエット、美ち奴)
2 細君三日天下(デュエット、美ち奴)
3 のぞかれた花嫁(発禁盤)
4 のぞかれた花嫁(改訂盤)
5 あなた、なんだい(デュエット、市川春代)
6 ラグビー節
7 海のトンチンカン
8 恋の冒険(アバンチュール)
9 恋愛特急列車
10 道行シャンソン(デュエット、美ち奴)
11 ガッチリ貯金(デュエット、美ち奴)
12 この若さでね
13 若いチャイナさん
14 僕の武勇伝
15 全く満州いゝですネ
16 夢と兵隊
17 ニュースと兵隊(デュエット、塩まさる)
18 青春華(デュエット、ディック・ミネ、服部富子)
19 貴方しっかり(デュエット、美ち奴)
20 突撃サラリーマン あなたのあたし
↑これも良いよね。メロディーが素晴らしい。 >>650
これも良い歌なんだけど、これはコロムビアだからな… 杉狂児は老齢になってからもテレ東の懐メロ番組に良く出てたね。
歌い方はエノケンみたいな感じだったかな。 >>651
「花言葉の唄」と同じ作曲家、池田不二男の作品だね。
二曲とも松平晃が共演しているが、それもそのはず、池田不二男と松平晃は共に故郷・佐賀中学出身で先輩後輩の仲だった。
戦後リバイバルヒットした「雨に咲く花」やミスコロムビアの「並木の雨」、隠れた名曲「片瀬波」など、池田の作品はいずれも簡素ながら抒情的で、感傷的な所がありながらほのぼのしてて、甘く都会的な持ち味の楽曲ばかり。
日本が戦時色に染まる前のつかの間のモダンで平和な空気がギュッと詰まっている感じ。
残念ながら池田不二男は支那事変勃発と時を同じくして結核にかかり、闘病生活のために東京を離れ、太平洋戦争中の昭和18年に38歳の若さで病没した。 杉狂児さんって丸眼鏡かけててちょっと古川ロッパに似てるよね
くいだおれ太郎の顔のモデルは杉さんらしいけど 【速報】戦前の厚切りジェイソンことバートン・クレーンの作品集を収録したCDが10年ぶりに再発売! 前に出たやつの再販だろ。バートン・クレーンは二三曲聞いたら飽きるわ。 確かそのバートン・クレーンが人気だった頃にピンちゃんこと藤山一郎さんがデビューしたんだよね >>653
池田不二男の曲は本当に良いね。
長生きしていたら、戦後も活躍したはず。 バートンは歌手時代はジャパンアドバタイザーの記者だった。1936年に退社して帰国。
翌1937年2月のベニーグッドマンのライブを日本向けにラヂオ中継した際にはNYタイムズの記者になったばかりのバートンが日本語で解説したという。
戦後再来日したバートンには馴染み深い東京が戦火で変わり果てた姿はどう写ったろう。 楠木繁夫さんはテイチクで有名歌手になる前は変名が山ほどあったそうだね 松平晃も複数の名前を用いてレコード各社で吹き込んでいる。 藤山一郎でさえも複数の名前を用いて幾つかのレコード会社で吹き込んでいる。 中野忠晴さんの歌はどれも朗らかで明るい歌ばかりでいいよね、とくにコロムビアリズムボーイズとの掛け合い合唱が傑作。
どういうわけか中野さんの歌い声を聞いてるとクレヨンしんちゃんの組長先生が歌ってるように聞こえてくる。 コロムビア(ナカノ)リズムボーイズも軽快な歌いっぷりで耳に心地よいわ。戦後のダークダックスやボニージャックスよりjazzyな感じ。 松山時夫さんも美声だよなあ。
モダンな歌を歌ってるのを聴いてみたかった。 松山時夫は「片瀬波」だっけ…ちょっと松平晃に似てる感じの声だったような。
戦前の歌手は声が皆きれいだよね >>670
2日遅れだが おめでとう。
べーちゃんを沢山聞いたんだろうな >>670
誕生日が同じでも、命日や享年も同じってことにならないように 藤原はハーフだったからね。
若い頃は女性関係も相当派手だったとか。
それくらいだから、いい歌も歌えたのか。 藤原さんはお父さんがスコットランドだったんだけど、戦時中はどうしてたんだろ 下関にいたんじゃないかな。
そもそも下関で貿易商をしてたから。 >>676
戦時中は藤原歌劇団と共に軍や工場への慰問を続けてたんじゃないの?
昭和18年の東宝映画「音樂大進軍」や昭和20年3月公開の松竹大船「撃滅の歌」にも出演している http://78music.web.fc2.com/singer/mine1.jpg
ディック・ミネって若い頃からイケメンだったんだな〜
テレビで見てた頃の白髪頭でサングラスをかけて体のでかい怖そうなお爺さんの方が印象的だったけど これもマイナーすぎるけど、戦前に関西で活躍していたタイヘイのジャズ歌手の長谷川顕 長谷川顕に青山薫。
あまり復刻されてないよね。
長谷川は結構人気あったんでしょう? 長谷川顕の歌を聴いていた。
コミックソング、うまいよね。 長谷川顕は歌手というよりジャズ演奏家のイメージがある タイヘイレコードの内本實はクラシックから「艦隊を追って」のようなジャズソング、「愛国行進曲」などの戦時歌謡まで、若々しく軽やかにかつ丁寧に歌いあげてて聴き心地いい。
歌う感じやレパートリーはポリドールの奥田良三とかぶるような。 なんでタイヘイは同じ関西資本で後発のテイチクのように残れなかったんだろうね
戦後再開して日本マーキュリーになって一時はヒット連発したのに、あっという間に崩壊してしまった ヒットメーカーの古賀政男も数年在籍し、ヒット曲を連発、テイチクの礎を築いた。
戦後も田端義夫、菅原都々子、菊池章子、三波春夫、石原裕次郎などが稼ぎまくった。
タイヘイには、そのようなスター歌手は見受けられない。
戦後のマーキュリーは、主に藤島桓夫、松山恵子が活躍してはいたが、後に二人は東芝に引き抜かれてしまい、その後は推して知るべし。 テイチクには、安定したスター歌手が割と多かったからだろう。
戦前はディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴、藤山一郎(数年間だが)が活躍。
ヒットメーカーの古賀政男も数年在籍し、ヒット曲を連発、テイチクの礎を築いた。
戦後も田端義夫、菅原都々子、菊池章子、三波春夫、石原裕次郎などが稼ぎまくった。
タイヘイには、そのようなスター歌手は見受けられない。
戦後のマーキュリーは、主に藤島桓夫、松山恵子が活躍してはいたが、後に二人は東芝に引き抜かれてしまい、その後はおしてしるべし。 マーキュリーの歌手はもとより、作詞家・作曲家までごっそり東芝に引き抜かれたからね。
その東芝もレコードから撤退して久しいけど…。 戦前のタイヘイは一時期、コロムビアから松平晃が移籍してきたことも。
松平自身で作曲した曲もリリースされたが、ヒットには至らず。 >>692
松平晃がタイヘイに移籍したのがこの年の暮れに米英と開戦する昭和16年だった時点で既に運がなかったと思う。 タイヘイの後、テイチクに移籍するもパッとせず。
「走れ日の丸銀輪部隊」をレコーディングしたのみ。
結局、松平の全盛期は、「サーカスの唄」がヒットした昭和8年からの13年くらいまでの約5年間ほど。 >>694
多分テイチクへは専属として正式に移籍してないのでは?
いわゆる入社テストで吹き込んで、テイチクとはそれっきりになったのだと思う。
そもそも「走れ日の丸銀輪部隊」自体、あんまり出来が良くない楽曲だよねw
なぜタイヘイがキングに統合後、富士音盤になっても残留しなかった(出来なかった)のだろう? 「走れ日の丸銀輪部隊」は、調子はいい曲だけど、いまいちパッとしない。
ちなみに、松平は戦後、キングに在籍していたことがある。
コロムビア時代の「急げ幌馬車」等やその前のポリドールで吹き込んだ「忘れえぬ花」の作曲家江口夜詩を頼ってのことだったらしい。
新曲も発売したが、ブラジル慰問云々(詳細は省略)で、キングの契約が解除。
本当に、松平の戦中戦後はついていなかった。 この頃、タイヘイレコードは松平晃だけでなく、小林千代子もポリドールから移籍させている。
松平&小林のベテランを擁して起死回生を図ったが、結局、翌年(昭和17年)にキングに買収され、タイヘイのレーベルは一旦潰えた。
もともと作家陣や販売力が弱いうえに戦時下で楽曲に様々な制約がかかる現状で、いわゆる落ち目の往年のスターを二人も抱えてたんじゃ不良債権と化してしまう。 タイヘイは、本当に存在感の薄いレーベルだったのね。
松平も小林も、もっと長くスターダムに残れるような気はするんだが。
昭和10年代中期に早くも落ち目になろうとは…。いろんな要因はあるんだろうけど。 >>698
タイヘイは昭和10年代に入って同じ関西資本で老舗のニットーレコードとニットーの洋楽レーベル・クリスタルレコードを買収して大日本蓄音器となった。
コロムビアから声楽家・内本實を移籍させ、新人シキ皓一(一色皓一郎)と紀多寛(北廉太郎)を発掘したが、シキと紀多もやがてそれぞれビクターとポリドールに移籍、内本實も「愛國行進曲」での名唱を置き土産に退社してしまった。
そもそもクリスタルに居た作曲家・服部良一がタイヘイに合流せずにコロムビア専属となった時点で、明らかに作家陣は脆弱だったと思う。 タイヘイは大ヒット曲がどの歌手も出せなかったのかな。
北廉太郎もポリドールに行ってヒット曲が出せるようになったね。
わずか2年間だったが。 元々ニットーレコードには東海林太郎と林伊佐緒が居た
だが結局他社に移籍してから芽が出てスター歌手になった
いずれにしてもニットーがタイヘイに吸収合併される前のこと 林伊佐緒のマイフレンド時代はニットーにいた頃かな。
でも、林は歌手というより作曲家のイメージが強い。
ヒット曲に限れば、自身が歌唱してヒットした曲よりも、作曲家として他の歌手に提供してヒットした曲の方が多いでは。 タイヘイには、スター歌手はいたんだがな。
ジャズに力入れてたし、良かったんだが。
戦前だから、あまりモダンな歌はウケなかったのか? 日本調は、そんなに実はないんだよな。
浪花節歌謡は日本調か。 戦前は芸者歌手が多かったね。彼女らはほとんど日本調。
男性歌手だと東海林太郎と高田浩吉ぐらいか。 鶴田六郎氏の「長崎の精霊まつり」を手に入れたのですが、歌詞が二種類あるのですか? 上原は股旅とか戦時歌謡のイメージ。
バタヤンはマドロス。 >>709
股旅ものも一種の日本調では?
バタヤンもデビュー曲は股旅ものの「大利根月夜」で、いきなり大ヒットしたし。 股旅ものと日本調は別物と思っていたが、よくよく考えたら同じなんだね。
伴奏に三味線が入るときもあるし。
ポリドールは股旅ものを含む日本調の宝庫だね。 戦死しなかったら、戦後も大活躍してたね。
戦後も死なずに生きた戦時歌謡歌手の小野巡や塩まさるは、戦後はパッとしなかったが、
上原はむしろ戦後向きの歌手だったろう。 上原が応召される頃には全盛期に魅せた美声は既に失われていた。映画出演や皇軍慰問などのハードスケジュールで体調を壊して薬を多用したのが原因というが、メンタル的にも辛いものが重なったのでは。
特に皇軍慰問で赴いた戦地での惨状を目の当たりにして、スターとして色々と控除される事が心苦しくなっていたらしい。
そんな状態で万が一、生きて戦地から戻ったとしても、再びマイクの前に立てただろうか。 上原のたより物の末期「仏印だより」を聞くと、確かに声は荒れてはいるが、歌唱力が落ちた訳ではない。
むしろ、渋みが増したとも言える。 バタヤンもポリドールからデビューした当初、東海林太郎と上原敏の先輩達に倣って丸眼鏡をかけた姿で唄ってた。
ホントはバタヤンの不自由な片眼をカモフラージュするために会社側が眼鏡をかけるよう指示したんだけどね。 上原敏さんは、戦後の活躍は難しかったと思う。声も歌唱も。 上原敏は戦死して落ちぶれた姿をさらさなかったから、それはそれで良しとするしかないか。
同じポリドールの北廉太郎も亡くなるのは早かった。昭和15年に20歳で死去。 ポリドールは北廉太郎の急逝以降、歌手層の厚みが急激に薄くなったように思う。
東海林太郎が昭和16年にテイチクへ移籍、近江志郎(近江俊郎)も同年退社、翌17年には上原敏が出征と、スター歌手がバタヤン以外続々と消えていった。
そう云えば女性歌手も結城道子が消え小林千代子がタイヘイに移籍、青葉笙子も結婚引退して、目玉はアイドルスター高峰秀子ぐらいしかいない。 確かポリドールは戦後の一時期、国内流行歌の発売を停止してたはず。
>>720の指摘の通り、スター歌手がいなくなっちゃったのね。
バタヤンまで戦後はテイチクに行っちゃうし。 戦後しばらくは昭和22年から25年にかけて細々とリリースしてたけど
残留した戦前からのポリドール専属男性歌手は三丁目文夫ぐらい? 東海林太郎は戦後ポリドールに復帰して
「鴛鴦道中」のリメイク盤や「さらば赤城」を出しましたね 東海林は戦後、ポリドールの他にいろんなレコード会社を転々としていた。
ヒット曲も戦前のようには出せず、忸怩たる思いだったろう。 ポリドール、如月俊夫がいたじゃない。
近江志郎は戦前はほぼ無名だったからスターとは言えないわな。 鶴田六郎氏の曲では何が好きですか?活躍されたのに一般的に知名度が低いのは何故ですか? >>727
やっぱり後世に残る大ヒット曲がないからでしょ 鶴田六郎には古賀メロの名曲「港の恋唄」がある。それしかないと言えばそうだが。
同系歌手に高倉敏がいたが、彼も目立ったヒットがない。強いて言えば「恋のマドロス」ぐらいか。 カラオケにも鶴田六郎は入ってないしそういう要望も寄せられないほどなんだな 鶴田六郎は、昭和40年代の懐メロブームに乗れなかったのが大きいわね。
テレ東のなつかしの歌声には出たことはあるけど、レギュラーではなかったようだし。 鶴田六郎や高倉敏は地方自治体や企業のPRソングを多数吹き込んでいる。要はレコード会社に便利に使われてしまったんだと思う。
高倉敏はソロデビューしてからも暫くはコロムビアリズムボーイズ→日蓄男声合唱団の一員として活動してたようだし。 高倉敏は昭和30年代初頭に胃ガンで亡くなっている。懐メロブームには間に合わなかったのよね。
鶴田六郎は平成初期まで生きていたわ。
高倉も鶴田(苗字だけ見ると東映仁侠スターみたい)も、当時歌手志望だった作曲家の市川昭介を内弟子にしていたわね。 >>733
昭ちゃん先生はベテランだが売れっ子ではない歌手2人の付き人をしてたんだね。
だから歌手が売れるためにはヒット曲を生み出さねばならない、万人にうけるヒット曲にするにはどうするか客観的な観点で研究もしたんじゃない?
だから都はるみの演歌から「イルカにのった少年」のようなアイドル歌謡、「ハクション大魔王」などのアニメソングまで幅広く作り出せたのかも。
師匠2人を反面教師として… まぁそんな深い考えがあったかどうだか知らんが、独学で作曲を会得、分かりやすい曲を作ろうと心掛けていたという。 「長崎の精霊まつり」・「天下の為さん」も売れなかったんですか? 鶴田六郎のヒット曲とされるのは、「港の恋唄」のみと言われている。
「天下の為さん」は紅白出場曲だったかな。
鶴田は、実演ショーではすさまじい人気を誇ったが、その割にはヒット曲が少ない珍しいタイプの歌手だろう。 鶴田さんは、懐メロブームの時はまだまだ現役で出来ていたよね。
戦前にもヒット曲あるじゃん。 >>737そうなんですか。ビクター時代の「カタカナ忠義」等もヒットしたと思いましたが。18曲入りの復刻CDも発売されているのでヒット曲が多数だと思っていました。 歌唱力はあるから、実演では自分の持ち歌以外に他人のカバーも歌ってウケたんじゃないの?
今でもインストアライブとかでよくあるわ 鶴田六郎は、晩年はたまに請われて市民講座のカラオケ講座の先生をしていたという。
第一線を退いても、少なからず歌には関わっていたようだ。 訂正で、映像は「港の恋唄」が昭和歌謡大全集で一度だけ流れただけですね。2コーラスだったのでしょうか?声量や容姿はどのような感じでしたか?「長崎の精霊まつり」・「天下の為さん」もなつかしの歌声では放送されたようです。 >>743
その回の昭和歌謡大全集を見たことはある。
確か、鶴田が亡くなったばかりで、司会のコロムビアトップは
「鶴田六郎さんね。ようがしょの六さん。例えば飲みに行く?と聞くと、ようがしょ(OKの意味)、と返事をよくしたから、ようがしょの六さんって呼ばれてた」
と鶴田のエピソードを披露していた。
さらに「高倉敏の元を離れた当時歌手志望の市川昭介を、ぼくが紹介して鶴田さんの所に行かせた」
みたいな主旨の発言もしていた。
歌唱映像は、見るからにオッサンで(年齢を考えればしょうがない)衣装も普段着。ステージ衣装はすでに持ち合わせていなかったのだろう。
ただ歌唱力は健在。声も伸びがあるし、見た目より劣化はしていなかった。 ↑あの時はまだ鶴田さんは存命だったよ。
衣装はマドロス風だったよ。 >>747有難うございました。YouTubeに上がったことはないんですね? YouTubeにも一度上がってたような気がする。
私はビデオに録画したんだが、YouTubeへのアップ方法が分からんのですよ。