古賀政男先生とはまったく無関係に、福岡県大川市の歴史を調べていたら、
大川市兼木(三丸)に、昭和5年に健立された古賀家の墓碑があり、
この祖先は。ここからすぐ近くの現在、田口小学校(古賀先生の母校でもある)
に室町時代からの名門、西田口城城主田口刑部、この地にその居城があった。
元々福岡には「古賀姓」がやたら多いが、祖先の墓標や、その居城跡から数十メートル
程度に生家のある古賀政男先生との関係は、かなりおおきな興味を感じさせる。

「天正五、六年から七、八年(1577〜1580)にかけて龍造寺隆信の筑後侵入に刑部の
子孫は、ひとたまりもなく滅亡したのであろう。…
西田口城が滅びた後、田口氏の一族は退いて西田口南方に隠遁し、やがて古賀姓を名のって
土民化していったであろう…」
「大川風土記/西田口城跡考-石橋兎三郎」(昭和57年)_より