監督としての王貞治の思い出
プロですらない昔の松井敬遠の後に凡退繰り返した選手とかさー 清原は「PLであの作戦をしたら失敗したと思う。自分が敬遠されても桑田や他の打者が打った。」と言っていた
桑田のバッティングはいまだに「打者転向が正解だったのでは」と言われるほどだった
定岡はリアルタイムで「桑田は登板がない日に野手として試合に出しても通用すると思う」と言っていたし
篠塚も「桑田の打撃と守備は素晴らしかった。桑田が前にいると守備が楽だった。」と言っていた。 松井だけ抑えれば勝てるチームだったのでそこはチーム力の差 >>155
馬淵は相手を分析の結果あの作戦にたどり着いたんだから
そもそもそんなアホなことしないよ キヨちゃんw 84年に後楽園の人工芝が張り替えられた時は巨人のそれまでの野球が通用しなくなった
打っても打球が外野に抜けない、守ってもランナーを刺せない。硬い人工芝を利用した戦術が
柔らかくなった事によって通らなくなってしまった。 今の札幌ドームの硬い人工芝でさえゴロはそこまで高速化しない
後楽園の76年から83年までの人工芝が如何に硬かったかが分かる
76年は中日がそれに苦しめられて巨人に勝てなかったが84年はそれで
中日が巨人を圧倒したのは皮肉だった センター松本、ライトスミスの二人に一気に衰えが襲ってきたのも影響した 正直、クロマティがセンターを守ることは王監督以下首脳陣も想定していなかっただろう 顕在化していた外野守備の不安は、三年後の日本シリーズで露わになることに >>160
すごいトリオだな 守るときはタダの人じゃっけん 末期の松本の弱肩は酷かった
とったボールをクロマティに渡して投げてもらっていた位だから。
田淵が「どんな当たりでも高田さんが守っていると二塁打は狙えなくなった」と言っていた
V9時代の高田とは雲泥の差 >>162
松本匡は最終年の87年が特に酷かった記憶がある
大洋戦(新浦に完封された試合)の守備で、何でもないゴロを後逸して大量失点の原因
を作った時はこりゃもうダメだと多くの野球ファンが思ったはず
打撃の多少の衰えはしゃあないけどまともに守れないなら最早どうしようもない 一方、ライトを守っていた吉村も不慮の運転の事故で左肩を故障してしまい…当時の巨人の外野手は揃いも揃って弱肩ばかりだったな 吉村、松本、中畑、原、篠塚、岡崎と比べて冷や飯を食わされていた感が強く、出ていった駒田が唯一の名球会。
巨人は見る目が曇っている!? 決定的だったのが神宮でのヤクルト戦で、ホーナーのフェンス際の打球をグラブに当てて
打球がスタンドインするアシストをやらかしたシーンもあった 1987年の日本シリーズ第一戦の先発オーダー、9番DH松本に失笑したのは私だけであろうか 中日ファンだけど99年はドラゴンズが負けたのではない。
関川がたまたま打てないタイミングが5試合あったのと小久保を4番にした王を批判した連中が負けただけだ。 小久保四番を非難って?ホームラン王も過去に取ってるわけだし脱税の問題でか?それとも良い外人でもいたっけ? 宮崎キャンプ地にあった姉の経営するスナックで、松本さんと藤城さんの酔っ払ってる写真が残ってる
藤城さんはレコードも出してたような >>170
藤城和明の歌唱力はプロ並みで引退後に敏いとうとハッピー&ブルーのメンバーになってレコードも出している >>171
あの有名なグループですね。(^_^;)
スナックでマイクを握って歌ってる写真も見ました。 >>169
小久保は年々成績を上げ本塁打王(95)、打点王(97)と獲得し、
順調に四番としてのキャリアを築きつつあったが
脱税問題で謹慎+故障欠場で一年丸々棒に振ったのが98年
明けて99年、故障から回復した小久保を王は当然四番に起用するが
小久保は絶不調。オールスター休みの時点で.185 15本。
それでも頑固に四番から外さなかった王に対する(この年限りの)四番小久保批判 >>173
ありがとう、あー言われてみればそんな成績の時あったなあ
長い目でちゃんと軸になるって見てたからこその頑なさ(ちゃんと結果が出た今となっては頑なという言い方もあれだけど)だったんだろうな この年は自分の首もかかってたからね(5年契約5年目)
優勝を逃すかもしれない局面でそれでも外さなかった覚悟はすごいと思うわ
もっともこの年は
井口松中覚醒前
秋山はもう四番としての長打力無し
吉永急激な衰え
外国人ニエベスは不安定
四番捕手城島は荷が重し
で代わりに据えるのがおらんかったからというのもあったかも >>170
キャンプで日テレのアナウンサーが
「ジャイアンツの練習メニューに挑戦!」などというアホな企画をやらされ
あっという間にぶっ倒れて息も絶え絶えになったが
大半の選手が「素人が それ見たことか」と冷ややかな視線を向けるなか
藤城だけが「大丈夫ですか」と水を持ってきてくれたんだとか >>176
優しいね。
藤城 和明(ふじしろ かずあき、1956年4月5日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。元歌手・タレント。 あれ神和住純さんがやってたと思った
プロテニスプレーヤーなので野球選手のトレーニングに付いていけなかったのは
ちょっとショックだった。 テニスのトッププレーヤーだからね。ちょっとショックだった
新浦から野球を舐めるなと叱責されてたが
藤田監督が見かねてちょっと休んでろと日陰で休ませてた。 へえ 神和住さんもやってたのか
なんにせよ本人がイキって志願したのでなく番組の企画で仕方なく ぐらいわかるだろうに
ジャイアンツの連中は大人気ないな >>173
小久保本人も四番を外して欲しいって直談判したけどホークスの四番はお前しかいない結果を残せって言って却下した >>127
その三人とも
ローリングスのグラブ使ってた ネットやり出した頃に検索してたどり着いたホークスのファンサイトでは
酷い言われようだった 関西の南海ホークスだったファンと、巨人に負けてばかりの阪神ファンが、ここぞとばかりに元巨人の王監督を痛めつけたんじゃないのかな。
甲子園で優勝された時に王選手の頭をゲタで叩いた爺さんが率いて。 >>183
鹿取は王派で「酷使と言われたが押さえを任された頃は幸福だった」と言っている
引退後も王と仲が良い >>184
「南海の負け犬根性」はアカンでしょ ワン公のくせしてw 鹿取は大学時代に毎日300球を投げていて、それで負担のかからない投げ方を身につけたそうだ。
それと準備に3球投げたらピークにもっていけたとのこと。
人間の身体と投球についての常識は間違っているのかも知れない。 巨人監督時代の王貞治は「名選手、必ずしも名監督にあらず」の格言を象徴する人物だったね
今はそのイメージは消えたけど ホークスでは優勝するまでは、地元民の多くが何で5年もやらせるの?って感じだったけどね その分、優勝してからの良い方への掌返しはすごかった 99年のダイエー日本一が無かったら、王は東京に帰ってただろうね >>167
その翌日の9番DH山崎(福也の父親)、第6戦の7番DH有田も大概だった。
まあ、誰を出してても工藤は打てなかったろうけど。 >>127
引退後の回顧録で角は、露骨に王を嫌ってた 読売新聞のスポーツ面の巨人王監督のコメント欄の所に王の似顔絵載ってて勝った時と負けた時で表情が違っていた
負けた時の似顔の方が印象が強い 今でこそホークスの人だけど、王が巨人から離れたときはびっくりしたな >>59
こういうことが起こるのって下々同士でのみ争わせるようになってる日本的システムのせいだよな、王監督自身も江川にやってたけどなんで上が決めただけなのにそこで争うの?って思っちゃう ベンチで良くシャードースイングしてたよね。
あれやめたほうがよかった >>165
駒田が厚遇されたのは藤田時代だな、優勝争いは1年毎の傑出度も問われるからあの期間中にタイトルの1つも獲れば長嶋復帰後の扱いも変わったか…。
(篠塚・松本・原は表彰タイトルあり) 「頼むから辞めてくれ王」
「病原性敗戦菌OH−89」
「腹を斬れ!!貞治」 巨人軍で長年バッティング投手を務めた峰さん。
最初は大洋に居たが芽が出ず解雇。その後、何と巨人から誘われて張り切って練習していたが、
首脳陣から、さっぱりブルペンへ行く指示が出ない。そこで確認してみると実は現役としてではなく
バッティング投手としての採用だったことが判明。
(春のキャンプ中まで球団から説明は全く無し)
知り合いに巨人へ移籍したんで頑張ると報告していたそうで泣きそうな顔で落ち込んでいた時に
王さんから「峰ちゃん、俺、アンダーシャツ(ユニフォーム用)のサイズを1ダースも間違えちゃってさあ、
俺の身長には合わないんだけど峰ちゃんの身長には偶然合うと思うんだ。悪いけど使ってくれないかなあ?」
とアンダーシャツ一式をプレゼントしたそうです。
律儀な王さんが自分のサイズを間違えるはずが無い。しかも王さんならば自分で注文しなくてもメーカーから届くはず。
気の毒なくらい落ち込んでいた自分を励まそうとして、王さんが下手な嘘をついた事に峯さんは感激。
それ以後、殆ど王さん専属のバッティング投手として投げ続けて、王さん引退後も仕事を続けたそうです。 >>99
一本足打法でホームラン王になったのが気に入らなかったんじゃね
一本足打法のホームラン王は俺の専売特許
二人もいらないと ドナルド・トランプの言い違いを、ねちっこくあげつらうマスゴミ。
バイデンこそ言い間違いばかりしてるのに。
監督・王のミスをこれでもかとあげつらってたマスゴミ。
長嶋こそ似たようなことやりまくってた。