森繁和
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82年の開幕投手だったがいきなりリリーフに転向したので驚いた。 ライオンズナイターで娘が生まれた事を中川充四郎に嬉しそうに当時話していた。
病気で亡くなられたのは残念に思った。 大学時代に完全試合をやっているとか
だったら落合を説得して山井にやらせてやればいいのに
逆に圧力をかけて代わるって言わせやがって 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
この意味が分からない○ホ東尾と○カ田淵が、繁和は仏教系の駒沢大学だからと聞きにいったら、
「大学で習わなかったんで分かりません」と斜め上のア○だった 選手寿命は短かったな
割りとすぐ引退して指導者になっていた 83年日本一の後は故障がちで森祇晶体制では鹿取・潮崎の加入まで先発完投型のチーム作りに いつ頃から
勘違いしだしたんだろう、この人
日ハムでコーチやってた頃はあんなヤクザキャラじゃなかったよね >>11
親分の根本陸夫が他界してからかな
コーチ時代に選手を殴って東尾と対立して西武退団後に森祇晶がハム監督大島に推薦してハムコーチになるも投手陣崩壊させて最下位 大島更迭で森祇晶の横浜ベイに移動してまた投手陣崩壊
生前の根本に森繁を推薦されていた絡みで中日で我が世の春を満喫w
落合ばかりが批判されるが
森繁が批判されないのは批判したら
夜道に気を付けないといけないからかなw
炭谷銀仁朗がFA移籍した当時に森繁が
誘うもスルーされ炭谷に夜道を〜の発言をしたらしいと野球板西武スレに挙がっていたなw どこ行っても無能クラッシャーコーチだったくせに岩瀬の存在だけで有能扱いに
そして落合GMと共に中日に復帰して案の定 現役時代から面倒見のいい性格で、選手会長になった
「困ったことがあったら、何でも俺に相談してくれ」と言っていた
東尾が一匹狼的性格だったので、森繁とか工藤が投手のまとめ役だった >>14
今の中日の低迷の元凶だけどな
谷繁を御輿にして実質森繁監督だった
無能な舎弟ばかりコーチに引き入れて
功労者OBを駆逐するわ
落合とつるんでやりたい放題だったのに
何故森繁は批判されないのか不思議だわ 仲間の落合も谷繁も責任取って中日離れたのに1人監督に出世するクズ 大学時代の森-大宮バッテリー、めっちゃガラ悪そう、というか仲悪そう。 1979年の西武は激弱で、森繁がいくら好投してもバックが一向に打ってくれず、守備でも足引っ張られまくった。
ほぼ同じイニング投げて防御率4点台だった松沼博久は16勝もしたのに、森繁はたった5勝。 野球まともに見始めたのが1988年だから、
ほぼ森についてほぼ記憶がない。松沼弟も 83年の日本シリは不調だったの?
本来登板すべき場面でも出てこなかった。 >>23
第3戦から3試合連続で登板して、サヨナラ2回も打たれてる。
セーブを挙げた第4戦も綱渡りだった、球審三浦の判定に救われた。
後楽園での3試合は「おっかなくてこれ以上使えない」と判断されてもおかしくない。
第6戦は杉本、第7戦は東尾に託すのは妥当な判断だと思う。 >>23
広岡西武は日本シリーズではペナントレースとはガラッと投手起用法を変えて
エース東尾を救援に廻して、勝てそうな試合の中盤から最後まで投げさせていた。
なので本来最後に投げさせるはずの森
当時のシリーズでは先発3枚いればいいのにで、
同じく先発から外され救援に廻された松沼弟
ここら辺が割を食った。
普通のペナント通りの戦い方なら
第1戦、第3戦ともに8回表から投入してるだろうね
それぞれ3点差、2点差あるので余裕で抑えてただろう。 広岡監督は森繁と松沼弟をあまり買っていなかったのかも
東尾のことは嫌っていたが、肝心なところでは頼りにしていた
松沼兄はアンダースローなのと度胸があるので、短期決戦に強いと見ていたらしい そこはあくまでシリーズでの戦略だけの話だな
森繁なんか82年開幕前は「先発陣の柱」とまで見込んで開幕投手に
起用して、そこから試行錯誤してリリーフエースに据えたところは、
広岡自身手柄話として何度か自著でも記載あり
松沼弟も安定して勝ち星が見込める先発投手
兄弟共々あまり悪さをしないマジメな性格は監督お気に入り
要は先発が5枚必要なペナントレースと
3枚で十分なシリーズの戦略の違い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています