清原が抜けて優勝した西武                                                               
                   
 97年、清原が巨人に移ると、西武はそれを待っていたかのように優勝し、前年優勝の巨人は4位まで落ちた。                        
 東尾西部が若返りに成功し優勝したのは、「チームワークを乱す清原がいなくなったからだ」と言われた。それを                       
聞いて、清原はどう思ったろうか。                                                           
 西武はすでに清原後を視野に入れ、5カ年計画をつくってチームづくりをしていた。計画のスタートは彼の力が                        
極端に落ちた93年からだ(この年のドラフトで、1位石井貴、3位松井稼頭央、94年に2位小関竜也、3位西                        
口文也、4位高木浩之を指名している)。                                                        
 97年の成功はそのモデルチェンジ策が実ったもので、日本シリーズで対戦したヤクルト野村監督が「短いあい                        
だによくもこれだけチームを変えられたもんや」と関心するほどだった。                                          
 清原の代わりに四番に入った鈴木健は打率・315をマークした。96年、清原が得点圏打率・248とチャン                        
スに弱い四番だったのに対し、鈴木のそれは・375だ。                                                 
 四番清原が改革をはばんでいたことが証明されてしまった。                                              
 清原が入った巨人の関係者はチームワークへの影響を心配した。巨人にも西武とのさまざまなルートがある。そ                         
こから伝わってくる情報は「清原はチーム(西武)ですでに浮いていた。練習も勝手気ままなので、首脳陣も手を                         
焼いていた」というものだ。                                                              
 フロントは「さぼり病が若手選手に伝染するのではないかと心配した」のだが、「ウチには猛練習の伝統があるか                       
ら、それはないと思う」と気を休めた。                                                         
 このとき、巨人には監督の長嶋のほか、コーチ陣にヘッド格の堀内恒夫、守備総合の土井正三、外野守備走塁の                        
高田繁と巨人のV9戦士がいた。彼らは清原を「一から鍛えなおす」つもりだったが、実際に清原を見ると、29歳                       
の身体は「ボロボロで、鍛えようにもそのための体力がなかった。ノック一つするにしても、肉離れを心配しなけ                        
ればならなかった」から、満足な練習もさせられなかった。清原もそれをいいことに、巨人式トレーニングを拒否                         
して、身体づくりに打ち込むふうでもなかった。                                                     
清原は西武で、なにをしていたのだろう。