二塁は実は来日した最初の2年だけしか守ってないスペンサーや、職業野球草創期の名手苅田久徳も候補に挙げたくなる位、誰も決め手に欠けるな。

スペンサーは2年目、野村と三冠の各タイトルを巡って激しく争い、パの投手陣に「あんな外人にタイトル取られる位なら、野村にタイトル全部持って
いかれた方が・・・」と言わんばかりの露骨なまでの敬遠・四球攻めが無ければ戦後初の3冠王は彼だったかも、と思える活躍だったが、翌年には
20本塁打と打棒の衰えの兆しが見え、(恐らく自ら進んで)守備負担の軽い一塁に転向しているので、打撃面で言えば落合の下位変換って格好に
なってしまう。

苅田久徳は千葉を含めた全ての二塁手がお手本にしたとされる程の攻守兼備の名選手で、MVPに輝いたりもしているのだが、あまりに古過ぎて
全て伝聞でしか分からないのが最大の難点。
活躍したのが超投高打低の時代だったのもあるが、表面上の打撃成績もMVPに輝いた1938年春にOPSトップだった事と、戦前職業野球で実は
通算のホームラン数が中島治康・景浦将に次ぐ3番目だった事が特筆される程度かと。