「一年の輝き」

来日して活躍しながら退団してしまう外国人選手は案外多く、それがたった一年間という選手もいる。契約問題、家庭の事情、捨てられない大リーグ
への夢など理由はさまざまだ。89年阪神に在籍したセシル・フィルダーも、わずか一年で帰国した一人だ。出場機会を求めての入団だったが、25歳
という年齢に加えてメジャー4年間で打率.243、三振も3.9打席に1個と粗く、盗塁も181cm101kgの外見通り0と不安要素も多々あった。前年
途中にランディ・バースが退団、代わりのルパート・ジョーンズも不発に終わりパワーダウンした阪神打線にとってフィルダーの獲得理由はただ一つ、
大きな体から出される“飛距離”だった。
春の安芸キャンプから、球場のバックスクリーンをフィルダーの打球が次々と越えていった。場外への打球が駐車場の車を直撃した事で、高さ7mの
特設ネットまで張られるぐらいのパワーだった。でもオープン戦では序盤14打席10三振、期待外れかと周囲からは一転して不安の表情が並んだ。

開幕戦でいきなり決勝の逆転3ランを広島・長冨浩志から打って、チームに10年ぶりの開幕戦勝利をプレゼント。次の2号が出るまでに20日間を
要したが、コンスタントに安打を放ち4月は3本塁打ながら打率.345の意外性を見せた。本塁打量産は本人が「ノーエア」と嫌がる梅雨時からで、
6月と7月にそれぞれ9発ずつを見舞って本塁打王争いのトップに立った。圧巻は大洋戦で、チームの先輩である藤田平、掛布雅之を含む4人が
作った同一カード7戦連続本塁打を塗り替える8戦連続弾。メジャー以外では3A、2Aだけでなくベネズエラでのウィンターリーグでもプレーするなど
各地を転々としてきたフィルダー、毎日プレー出来る喜びを結果で示した。球宴は「外国人選手2人枠」から漏れたため出られなかったが、体つきに
似合わない愛くるしい表情と打棒で全国区になった。

マイク・ラインバック以来となる球団史上2人目の来日1年目での打率3割、本塁打も自らの過ちで故障離脱するまでは、2位のラリー・パリッシュに
2本差の38本で首位だった。右手小指の骨折でタイトルは夢と消え、大洋戦での同一カード年間最多本塁打も64年に記録していた王貞治の17本に
1本及ばなかった。さらには身分の保障を求めるフィルダー側の5年契約という要求条件を阪神側が呑めず決裂という結末だったが、フィルダー
本人の要求は二年から三年への一年のみの契約延長、そこで受け入れていればとの阪神の思いは、翌90年以降のメジャーでの大活躍でより強い
ものになってしまった。 (了)