ロッテが仙台を(準)本拠地にしていた70年代、ようやく野球を覚えたての子供だった。

たしか「ロッテバブルボーイズ」という子供対象のファンクラブがあり、年会費2〜3千円(うろ覚え)を払えば、外野席が1年間無料だったはず。

もっとも、そんなファンクラブに入らなくても、どっかのスキマからただで入れたような気も?

宮城球場は意外と立派で、「スコアボードの点数のところが電光掲示板なのは、後楽園球場と宮城球場の2つだけなんだぜ」と友達に知ったかぶりをしていた覚えがある。

父親にたまに連れて行ってもらうのが楽しみで、スタンドに向かう階段の踊り場の売店で「素うどん」を買っていくのが定番だった。

応援の様子はあまり覚えてないが、確か、ベンチの上でおっさんが笛を吹きながら音頭を取っていたような…。

現在の応援のような盛り上がりは全くといっていいくらいなく、皆、適当に野球を見て、かなりドギツイ野次を飛ばしていた。

東北新幹線もまだなく、上野−仙台間が特急で4時間もかかっていた時代。

そのせいか、やたらダブルヘッダーが多く、2試合目はすっかり惰性で観戦。

しかし当時のロッテは意外にもなかなか強く、仙台最後の年はリーグ優勝を果たして、当然、日本シリーズは仙台で…と

思っていたのに収容人数が少ないという理由で、1試合もやらずじまい。

おまけに仙台を去るということも重なり、最終戦での金田監督の挨拶に対しては、それはもうすごい罵声がとんでいた記憶がある。