1981年のプロ野球
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☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ただいま「江川と西本」1981年シーズン。
最高のシーズンだったな。 印象に残ってること
原フィーバー&江川20勝でヤングジャイアンツ日本一
パ覇者は大沢親分率いる日本ハムに15勝0敗間柴
落合覚醒、門田の月間新?16本塁打、盗塁王青木
ほかタイトルホルダーも山本浩二、藤田平ら記憶に残る顔ぶれ
これ書いた後にスレ見たが、
ヘディングやベンチがアホやからなど
優勝や個人タイトル以外にも話題豊富な1年だったんだなあ。
俺が本格的に野球見始めた年でもあった。 飛ぶボールが禁止されたことを意識したのか
大杉や掛布はホームランよりアベレージを目指した成績だった 掛布の場合は故障からの復帰明けという事情もある。
1979年48本塁打という無理が祟ったのか、前年故障続きで在阪マスコミの餌食にまでなり散々のシーズンだった事を受けて、
まずはシーズン全試合出場を目標に彼本来のバッティングに徹する事にしたという。
彼自身は満足行くシーズンだったが、ファンやタニマチから「もう少しホームランがみたい」との声を受けて、結局1979年シーズン
のホームラン狙いのバッティングに戻したという。 >>281
俺もこの年からだ。
だから江川の全盛期を知らないこの板の荒らしバカボンが妄想で好き勝手なこと抜かしてると滅茶苦茶ムカつくわ 翌年4月に刊行された、皆成社の絵本
『はじめてのプロやきゅう』
お母さん、男の子の二人を連れて後楽園球場の巨人−阪神戦を。
1981年を意識したであろう、スコアボードの表示を見れば・・
阪神のオーダー
6目弓
8加戸
3牛田
5竹布
4丘田
9左野
7木内
2若名
1大林
実際の面々をもじってるw
(木内とは、竹之内か) 対する巨人
8松木
6小野
4市野
3上畑
5原井
7甘口
9中田
2山久
1江山
市野とは誰のもじり?
中田は、中井か? あっ、急にわかった!
「しの」と読ませてる、つまり篠塚のもじり。 王さんという別格的な存在が抜けた事で
野球を気楽に楽しむような空気に
ファンも選手も変わってきた。 >>287
その本俺も見た記憶有る
83年頃吉祥寺の本屋で ソアラ「未体験ゾーン」
セリカXX「体感ツインカム6」
R30スカイライン「クルマは愛だ」
ピアッツァ「シニアドリーム」 ドラフト指名
巨人一位 槇原(大府) 三位 吉村(PL)
広島一位 津田(協和発酵)
近鉄一位 金村(報徳)
西武六位 工藤(名電)
金村が阪急を希望していたのには驚いた。あの不人気の阪急を希望した有力選手は昭和時代では他に記憶がない。 >>292
だからいいんじゃないの
出番多いし
阪神だと藤田真弓バース岡田掛布とかいるスター集団だったし出番ないよ >>292
阪急はそれを迷惑がってたというのが切ない 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった。 (了) >>295
お前いい加減にしとけ。
ここは多くの人が短文で感想を交換する雑談掲示板だ。
自己顕示がしたいなら自分のブログてわやれキチガイ >>295
自己顕示がしたいなら自分のブログでやれキチガイ 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった >>304
作文以外の何なんだよw
本人が自慢してたからw >>300
いつも楽しみにしています。
また書いて下さい。 >>308
自己満足はやめとけ作文野郎w
>>300がどれだけ文章としておかしいか突っ込んでやろうか? >>45
内容は13年の田中マー君ほど誉められたモノではなかったけど
マー君は史上唯一無敗20勝で防御率も1.27はパリーグ史上2位。
それに比べて間柴は15連勝してるけど防御率は3.54と芳しくなかった。
ただ単に「悪運の強さが偶然続いただけ」だった。
柏原やソレイタが「おあつらえ向きの場面で」クサイ一発を放って負けを帳消しにしてくれただけの話だった。
案の定日シリではその悪運も呆気なく尽きた。
第2戦では西本との投手戦になるもホワイトに痛恨の逆転2ラン。
第6戦では立ちあがりから乱調で2回持たずKO。
ヒーローから一転、日シリ惨敗のA級戦犯になった。
翌年の間柴は開幕からボロクソに打たれまくり
奇跡は二度と起きなかった。 防御率もさることながら、間柴の15勝は五位の南海、六位の近鉄から計12勝と大半を占め、二位〜四位のチームからは各1勝にすぎなかったことも評価が低い理由だな。
10割は貴重な記録なのは事実だが、やはり内容しだいだな。 年間15貯金してながら通算では負け越してるんだよな間柴
12年だけの一発屋吉川光夫と似てる
吉川もハム黄金期にいたのに通算では大幅に負け越してる ヤバネスポーツの選手名鑑(1981年)で、
篠塚選手のこの年の抱負が「二塁のポジションは原には渡さない」だったと記憶しています。
当時のプロ野球については選手名は知っていてもポジションや成績には関心がない、
という状態でしたので、原選手入団時は彼に二塁を守らせる予定だったという事は全く知りませんでした。 篠塚は前年オフに婚約解消したり、ポジションを奪われそうになったりとヤバかったが、
中畑の負傷によって、ある意味救われたな。 >>108
とどめは杉山が原にダメ押し3ラン。
杉山みたいなペナントでもほとんど投げてない投手を注ぎ込んだりするから…
第5戦の西本の毎回安打を打たれながらも10─0で完封勝ちで王手も見どころたっぷりだったな。
あの年のシリーズは俺らは高2で京都へ修学旅行行ってた最中にラジオを新幹線やバス中で聞き入ってたっけ。 >>144
中畑がヤッターマンのテーマ。
石毛はウルトラセブンの歌。 いろいろな曲が使われたがドラゴンボールは全く使われなかった >>319
著作元の東映がうるさくてすぐにクレームつけるからね
東映制作ものは許可が必要。 日産R30スカイライン
日産スカイラインRS
トヨタソアラ
トヨタ60セリカXX
トヨタ60セリカ
マツダコスモ
ホンダシティ
いすゞピアッツァ >>309
迷惑なんだよ老いぼれが
黙ってろよ偏屈ジジイ >>323
テメエが迷惑なんだよ作文ジジイwww
作文書きたいなら小学生に戻れ低脳 >>323
醜い逆ギレだなwww
お前の自己満作文はチラシの裏に書いてろw >>329
お前が消えろ作文野郎w
作文誉めてもらいたかったら小学生の先生に持っていけ
添削だらけで戻ってくるだけだがなw >>332
うるせえタコ
ぉまえの作文用紙なんか便所紙にしてやる 『クルマは愛だ』
『シニアドリーム』
『体感ツインカム6』
『未体験ゾーン』
『ト―ルボーイ』 >>334
レス番間違えんなアホ
「作文」っていうのは雑談掲示板に空気読まない長文上げてるいつもの勘違い野郎のことだろうがw 82年組と言われる松本伊代も実は81年10月デビュー。 イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」
寺尾聡「ルビーの指輪」
松任谷由美「守ってあげたい」
松田聖子「風立ちぬ」「夏の扉」
近藤真彦「ブルージンズメモリー」「スニーカーぶるーす」
田原俊彦「恋=DO」
石川ひとみ「まちぶせ」
西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」
杉田かおる「鳥の詩」
おんな太閤記
北の国から
池中弦太80キロ >>25-26
その2つの”事件”が発生したのは、この年の今日のこと 「長嶋がいないと巨人なんか見ない」ことなどないと証明された年。 この時期のベストテン番組。
テレビ
ザトップテン 日テレ月曜
ヤングベストテン 水曜 東京12チャンネル
ザベストテン 木曜TBS
ラジオ(土日のみ)
土曜
久米宏土曜ワイドラジオ東京内TBS
キンキンの歌謡ベストテン文化放送
高島忠雄の全国歌謡ベストテン文化放送
オリコン全国歌謡ヒット速報ニッポン放送
コーセー歌謡ベストテンFM東京
日曜
森田公一青春ベストテンTBS
松宮一彦ベストテンTBS
井上順ロッテ紅白ベストテン文化
決定全日本歌謡選抜文化
不二家歌謡ベストテンニッポン >>2
>日本国民は「ムハンマドを侮辱した」と憤るイスラム教徒とほぼ同じ地平にいる
ずいぶんとムスリムを侮辱してやがる・・・
そもそもパヨクはそんなムスリムの体質が大好きなはずだが? >>317
当時俺の近所にあったバッティングセンターには、各チームの球速の速い投手1人ずつと、その目安の球速が掲示されていた。
巨人は江川、中日は小松、大洋は平松とかだったが、日ハム代表は杉山だった。
ただ、最晩年の杉山見ても、全くタマ速くないのよね。 >>349
杉山ってそんな球速かったかなあ・・・
当時のファイターズなら木田とか書きそうなものだが >>349
俺が通ってた世田谷区のバッセンは巨人が新浦、ロッテが村田だったな。 >>351
その頃だと阪急山口、広島池谷、ヤクルト松岡みたいになるのかな >>350
木田も速球のイメージがいまいちない。
カーブとパームボールだな。 みんな140台後半
だから山口が史上最速とかあり得ない >>354
メンツ的に、1979〜1980年あたりに人選されたものっぽい。
何故中日が小松だったかというと、そのバッセンは石川県にあったからだw 確かに小松は「スビードガンの申し子」とか呼ばれてはいたが。
しかし、全国どこのバッセンも、そういうのが掲示されていたのかと思うと、なかなか興味深い。 武蔵野ワイルドキャッツと巨人の日本シリーズどうなった? リーグ優勝決めて引退した
神児くん抜きの日本シリーズは厳しいなあ 「武器」
9月以降の終盤30試合を21勝6敗3分け、驚異的な高勝率を挙げた広島の81年だったが、優勝争いに絡む事はただの一度もなかった。3連覇を
目指す前年王者の数ある武器の中で、機動力は他球団のそれより特に優れたものを持っていたが、チーム盗塁は54個でまさかのリーグ最小だった。
81年広島は打率、本塁打、得点でリーグトップだったが、機動力ダウンで相手に与える威圧感に欠けた。そうした意味で80年、2年連続盗塁王に
なった高橋慶彦と同じくチーム2位の17盗塁を記録した山崎隆造の開幕前の故障は、広島に大きなダメージとなって夏まで響いた。
「78年から元々良くなかった」という膝の状態が開幕前に悪化した高橋の“開幕”は5月頭、膝の水を抜きながら試合に出続けたが14盗塁に終わり、
打率もレギュラー4年目で初めて3割を切った。シーズン中は「盗塁のタイミングがなかなか合わなくて」と話していたが、患部がまだまだ治りきって
いなかったというのが実情だった。じっくり治してから復帰という手もあったはずだったが、高橋は「当時のカープは皆がどこか痛みを抱えながら試合に
出ていた。僕も折角のレギュラーを渡したくなかった」と当時のプロ意識を振り返った。
山崎が一年を棒に振る右膝骨折の大怪我を負ったのはオープン戦での事、二塁手でのレギュラー定着を期待されていたが、故障は皮肉な事に外野
守備でのフェンス激突だった。三村敏之と木下富雄の併用となった二塁手だったが、三村は33歳で往年の打撃を披露できず、木下は堅実ながら
打率および出塁率が伸びなかった。
チームは前半から5割近辺の戦いが続き、7月頭には2位と2差ながら最下位に転落、球宴折り返しは5位で借金も5つあった。後半戦は意地の2勝
1敗ペース、二番を打つ事もあった高橋を一番に、二番には衣笠祥雄を固定してから勝ちだした。山本浩二、ジム・ライトルの100打点コンビや水谷
実雄ら主軸にとっても、高橋の存在があってこそというぐらい機動力は広島野球に無くてはならない武器となっていた。そして翌年以降、古葉竹識
監督がこの年の巨人を意識してか、山崎や長嶋清幸ら若くて走れる選手の育成に取り掛かる事になる。 (了) >>365
何が(了)だアホw
自己満足の駄文はチラシの裏に書いてろ
ここは不特定多数が参加する雑談掲示板だボケ >>361−363
水谷○−江川
塚田○−西本
小林清●−定岡
水谷●−江川
塚田○−西本
佐波●−江川
塚田○−西本
チーム一の大ベテランをあえて第2戦に登板させる近鉄の鈴木啓示的な起用法で
発憤させる。
3,6戦は捨て
7戦は総力戦 近鉄ー阪急戦日生球場
両チームにとってこの年の公式戦の最終試合。
試合終了後、近鉄の監督を辞める西本監督が阪急の選手達もグランドに出てきて両チームの選手達から胴上げされる。 現役時代、稼いだ金はすべて貯金して質素な生活をする
女子アナ、芸能人など金のかかる嫁をもらわない(高校時代の女子マネなどと結婚する)
引退したら、飲食店経営などに手を出さず、体力を生かして地道に働く
佐川急便、ウーバーイーツなどで働く傍ら、少年野球の指導をして充実した生活をする
上記の教えを守れば、困窮することはないはずだ 銀河鉄道999の劇場版は
1981年8月1日の土曜日に放送。
ゴールデン洋画劇場の土曜日移動以降
屈指の視聴率だった。
1981年の夏の高校野球は
ソフトバンクの工藤監督はエースで高校生だった。
今は野球解説者の金村義明がいた報徳学園が全国制覇。
エースで4番で全国制覇したのは、これが8回目だが、1981年の夏の高校野球以来、記録が出ていない。 🎵俺に〜はわーからないよ おーまえがなぜ
(あいどんのー) 巨人ファンには楽しい1年だった。ただ、広島が3.5ゲーム差まで詰められた時は
ヒヤヒヤした。古葉はオールスターで角を三連投させた、以後、角は球威を失って
しまったが、ペナントのゆくえに大きな影響はなかった そりゃまあ、讀賣的には最高の一年だっただろうよ
他の11球団のファンには胸糞悪さだけが残ったけど >>374
そんな時期あった?
この年、首位巨人2位広島なんてシチュエーションは大勢が決したシーズン終盤
以外ほぼないはずだけど
>広島が3.5ゲーム差まで詰められた時は 1983年と勘違いしてそう
あの年はオールスター前に広島に首位を奪われたものの、
後半2度の直接対決を制して首位奪還。
9月初旬の敵地での直接対決も制し5ゲーム以上差を付けるも、
連敗等で中旬に広島が3.5差に迫った時期もあった。 12ゲーム離してたのに最後は6ゲーム。大成に影響無かったけど。 8月ごろまで5割前後を行ったり来たりだったのが、9月に入ってようやく地力を発揮し、共に調子を上げてきた阪神を振り切って2位の座を固めたんよね>広島
巨人の優勝目前で時既に遅しだったけど。 81年は愉快なシーズンだった。藤田監督がローテーションをきっちり守ってた。
安心して見れた。広島が3.5差まで迫ってきたときは少しひやりとしたが ロッテが今のように二軍練習場と合宿所を一体としていたら、
山内一弘が辞めることはなかったんだろうな。 >>360
時が経ち、ソノ「マッチは文春砲の餌食に ちょいと訂正
×…ソノ「
○…その
大変失礼しました >>391
当時のロッテは音響・計測メーター企業のティアックが奥多摩の青梅市に所有していた球場(現青梅球場)を借りて二軍の試合を行っていたんよね。
そこがロッテの一・二軍の選手寮があるロッテ狭山工場(埼玉県)から最も近いからという理由らしいが、高速道路網も全く未整備の当時、軽く一時間はかかったんよね。
つうかそもそも埼玉県狭山から当時の一軍本拠の川崎球場までどんだけかかるんだか_| ̄|○ >>392
いまの武蔵浦和−幕張でも週末のゲームは寮生は幕張のホテル泊まりらしいけどね >>371
この日だったのか
当時8歳のオレはお袋に連れられて花火大会を見に行ってた
一緒にいた当時10歳の姉が999観たいから帰りたいと言って帰ったのを覚えている
ちょうど鉄朗が戦士の銃を貰うところだった
そうか、昭和56年の8月1日だったのか… 「負けなかった男」
2021年に日本プロ野球に復帰した楽天・田中将大が24連勝して勝率10割を達成したのは2013年、2リーグ分立後史上2人目の記録だった。
田中の前の史上初となる「勝率10割」はそれからまた32年前の81年、日本ハム・間柴茂有が15連勝したものだった。
大洋時代は8年間で13勝27敗、しかし日本ハム移籍初年度の78年に自己最多の7勝を挙げると、80年には11年目にして初の2ケタとなる10勝を
挙げていた。81年最初の登板は先発で1回も持たず5失点したが味方打線が後半に逆転、これが神話の始まりだとは誰も想像もつかなかった。
2度目の先発で5回を投げ勝利したが次の2試合では救援登板したように、4月は先発と救援の兼用投手だった。5月からはローテーションに入り
前期は5勝したが、3回持たずにKOされた試合が4度もあり防御率も5.29と悪かった。後期も最初は救援でしかも3回2失点の内容だったが、
次の登板から先発で5連勝すると、一つのKOを挟んで4連続完投を含みまた5連勝して後期は10勝で負け無し、防御率も2.16の出来でチームの
後期Vにも大きく貢献した。
前年習得したフォークボールを使いこなせたのも良かったが、新加入した江夏豊の存在が何よりも大きく、外角直球の重要性を学んだ事に加え、
間柴本人も言うように「7回までと思って飛ばしていける」という精神的なゆとりも好材料となっていた。江夏は間柴が挙げた9つの完投勝利以外の
6勝で、全てセーブを挙げて実力でも間柴の助けになった。急成長の大きな要因として、強運を見逃せないのも事実だった。KOの多い前期とは別に
後期は神懸かり的な事象も重なった。
9月7日の南海戦では、3回の門田博光に浴びた3ランのみで9回まで投げ切るも打線がゼロ行進、ここまでかと思いきや9回裏に打線が山内孝徳を
攻略、トニー・ソレイタの適時打で口火を切ると古屋英夫の同点打と岡持和彦の決勝打で劇的なサヨナラ勝ちでの13勝目。翌週の阪急戦でも6回を
終えて2−3の劣勢、しかし7回表の一死満塁で井上弘昭が放った併殺コースのゴロを三塁手・島谷金二がトンネルして同点に追い付くと、古屋と
岡持にも適時打のビッグイニングで逆転、リードをもらった間柴は悠々完投で14勝目を挙げた。最下位・近鉄に7勝、5位・南海に5勝というカードの
巡り合わせも強運だった。
プレーオフでも第3戦に完投勝利で、この年無傷の“16連勝”だった間柴は優勝後に連勝について「本当なら4敗くらいしてもおかしくなかった。
11勝あたりから周りが騒ぎ始めたけど、後期は優勝争いをしていて意識する暇もなかった。それよりもチームの優勝が嬉しい、自分が何もしなくて
優勝じゃ寂しいですもんね」と強運ぶりを認めながら、自身が負けなかった事よりも自身の記録を原動力にチームが勝ち切った事の方が嬉しいと
喜びを語っていた。 (了) 間柴は15勝0敗だったが、間柴が先発して早い回にK.Oされて降板し、日本ハムが負けた試合が数試合あった。
>>398の「本当なら4敗くらいしてもおかしくなかった。」という間柴本人のコメントはそういう意味だと思う。
因みにどうして間柴に負けが付かなかったというと、説明するまでもないと思うが乱打戦になって試合途中で
一度日本ハムが追いついたから。 >>383
宇野のヘディングと「ベンチがアホやから」事件か
翌日のスポーツ紙は大変だっただろうな >>401
マー君とか中田良弘もそうだったけど
無敗記録とかって運もいるよ ベンチがアホって今でいえば二木が井口を批判する様なモノ? 二木には江本ほどの格がないし、何よりアホといえるほど頑張れていない ていうか、単に江本が性悪で偏屈だということでしょw 新人王の石毛と原は野球界を引っ張っていく大選手になった 「記録に残らない」
日本シリーズはペナントレースの公式戦以上にミスが流れを変える。ミスといっても作戦やサイン、配球など様々な種類があるが、短期決戦で特に
響くのが失策と継投ではないだろうか。81年の巨人−日本ハムのシリーズでは、取り分け守備と継投が大勢を決めたといわれた。
第1戦から角三男、江夏豊の両リリーフエースが打ち込まれる乱戦でスタートして、第3戦まで3試合連続1点差試合だったが、日本ハムが2勝1敗で
リードした第4戦の“記録に残らないミス”が勝敗に影響した。
2−1と巨人リードの7回裏、先頭で四球出塁した河埜和正が6回から登板の4番手・宇田東植の牽制に誘い出されたが、一塁手・柏原純一が二塁
方向へ深追いし過ぎて河埜を二塁に生かしてしまった。大沢啓二監督はすぐに投手を杉山知隆にスイッチしたが、一死後に今度は高代延博が
中畑清の遊ゴロを間に合わない三塁へ野選、河埜と打者走者中畑を生かしてしまい淡口憲治の2点二塁打、原辰徳のシリーズ1号3ラン、山倉和博
にも1号という一挙6点で試合を決めた。巨人・藤田元司監督は「あの6点でベンチ全体の胸のつかえが取れた気がした」と試合後に述べたように、
チームに勢いが備わり後の第5戦以降にも繋げた。
日本ハムの継投内容はどうだったか。先発・木田勇の後を投げた成田文男、宇田、杉山への継投は当時から大沢の奇襲ではないかと賛否が
分かれたが、大沢にとってはただ奇を衒ったわけではなかった。1−1の同点ながら木田を5回から成田に代えたのは、先頭の河埜に始まり好調の
平田薫、中畑、両打ちのロイ・ホワイト、柴田勲というように右打者が続くという点と74年ロッテ時代にシリーズ経験がある点、そして木田が2回を
除き毎回得点圏に走者を背負っていたからだったが、結果的に成田が先頭河埜に決勝の被弾を浴びた。
6回からの宇田や杉山への継投については、2勝していた工藤幹夫へのスイッチは無かったかという論調があったが、工藤は第1戦から3連投して
いた事に加え3試合での4イニング無失点という働きぶりから、1点差とはいえビハインドの6〜7回から使うわけにはいかなかった。しかし第4戦の
それはミスではなく、第2戦に1点ビハインドの場面で逆転を信じて登板させた事こそが記録に残らない綻びだった。第4戦で流れが変わり運と勢いの
消えた工藤は中2日で第5戦も登板したが原に中押しの適時内野安打、王手をかけられて5試合目のマウンドとなった第6戦も原に勝負を決定付ける
一発を浴びてしまった。 (了) >>410
いい加減にしろ作文野郎
ここはお前の作文発表会場じゃねえんだよボケッ!!! >>402
当日は江本の方が扱いはずっと大きかった
宇野のはフジテレビの珍プレー好プレーで取り上げられてからさらに知られるようになった この年、宇野の前に山本浩ニもやってたはず。
でもそんなに話題にならなかったし、
映像でも見た記憶ない。
宇野のはエラーで失点の後に星野がグラブ叩きつけたから何度も流されることになった。 >>248
劣化じゃなくて、
この年から圧縮バットが禁止になったからだよ。
王と同じメーカー、ジュンイシイの圧縮バット使ってた。
王が前の年を最後に引退したのも正しい選択だったな。 他にも近鉄が使用していたミズノ製のボールが飛び過ぎると(要するにラビットボール)
使用停止になったのも コラム「 」・・・(了)の人が長文書いて
複数人を装った1人が罵倒する様式美が
他スレ見るとかれこれ2012年ぐらいから続いているね。
これからも続くんだろう。 >>417
まず『了』の用法がおかしい。
単発の書き込みなんだからいちいち入れる必要ない。
それ以前にみんな雑談してる場で突然長い演説始めるような空気の読めなさがイタい。
自己完結している長文だから全く絡みようがなくてスルーされてるのに、
何で続けようとするのか理解不能。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています