「名刺ができた」

王貞治が自身や小鶴誠、野村克也の持っていた月間13本塁打の記録を破って15本塁打を放ったのが、70年6月と73年8月の2度。他にも72年の
大杉勝男と長池徳二、78年のエイドリアン・ギャレット、79年のチャーリー・マニエルがマークしてきた月間最多15本塁打の数字は、長距離砲として
全国区に押し上げる勲章の一つとなっていた。その記録を球宴期間が含まれる7月でありながら、更新したのが81年の南海・門田博光だった。
21試合で16発、70年・王の15発も20試合と少なかったが門田の場合は前後期制のパ・リーグであり、7月1日にダブルヘッダーをこなして前期が
終了した後に4日から後期開幕という日程に加え、球宴期間による1週間の休戦があり、気持ちの維持が難しい中での達成だった。

1日のダブルヘッダーで、15日ぶりとなる本塁打を2戦両方で放ちスタート。ここから5戦連発で7本塁打11打点の発進、8日の無安打を挟んで
9日からまたも5試合連発とした門田、5戦連発の年間2度は73年の王以来だが一ヶ月2度となると門田が初めてだった。前半の11試合で既に
12本塁打、しかし後半は相手投手陣の徹底マークに遭った。
14日からの日本ハムとの3連戦でたった1安打、17日の近鉄戦で鈴木啓示らから2発を放ってリーチをかけたが以降3戦でまたも単打1本のみと
産みの苦しみを味わった。王らの月間15号に追いついたのは、7月も残り3戦と重圧がかかってきていた22日、日本ハム・間柴茂有からだった。
翌日の同カードは高橋一三に揺さぶられ無安打、新記録への挑戦は球宴後の31日を残すのみとなった。地元大阪球場、それまで21打数3安打と
苦しみ、8日にも土井正博以来5人目の6戦連発を阻んだ西武・杉本正が立ちはだかったが、第2打席に外角高めのカーブを右翼席に運ぶ満塁弾で
決めた。

月間16本塁打は94年に江藤智、04年に阿部慎之助も記録して追い付いたが、追い越した選手はまだいないという快記録、門田は「これで僕の
名刺ができた」と珍しく笑ったが、この年33歳で初の本塁打王に輝くなど以降10年後の43歳まで第一線で活躍するにあたって、月間本塁打の
新記録は門田にとって“名刺”どころか“大きな看板”になっていた。 (了)