1981年のプロ野球
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西武が広島相手に大苦戦。。西武時代に陰りが感じられた。 ロイヤルズが来日。当時の日米野球は、指名打者を採用しておらず、守れないという理由で、本塁打王の門田が全日本メンバーから外れた。あの年の門田なら、四番に相応しかったが‥‥ >>132
最初にやり出しのが75年の広島だから、
当然あったけど球団によって控えめな応援がまだ多かった。
巨人もようやくやり出した頃で原はエイトマンのテーマだった。
>>143
皮肉か?
結構負けてただろ 単独チーム相手には強かったけど全日本や連合チームには勝つのが難しく
なってきていたロイヤルズも84年のオリオールズも。
日本のレベルもこの頃から上がって来たんだね。 この年の巨人の先発投手陣は
江川、西本、定岡、加藤、新浦で回してた? >>148
前半は藤城、後半は新浦が多かった。
谷間に赤嶺、堀内とか。 >>146
甲子園での全日本はロイヤルズにボロ負けした。 1試合しか外野手として出場していないソレイタに、ベストナインの票が65入り次点。もし、1試合も外野手として出場していない場合は、無効票になるのか? この当時の週刊ベースボールを読んでみると
何号か連続で何ページも割いて特集を組んで大リーグのストが大きく扱われてる
基本的に大リーグ関連の試合・できごとは大リーグ総集編以外は
さらっと流して報じて終わらせている程度なのに
それだけ日本でも注目度が高かったのかね 後楽園でビジターユニの巨人ナインがプレーな珍しいシリーズやったな。 パ・リーグは全球団からベストナインが選ばれている。ただ、優勝補正が強かったとしたら、捕手梨田→大宮、三塁手有藤→古屋、外野手福本→クルーズ、指名打者門田→ソレイタ。 福岡・平和台球場で中西太監督率いる阪神の試合を観戦
竹之内と真弓だけに声援を送った旧ライオンズファンの俺 5月24日の阪急vs南海は、松江で11時半からのダブルヘッダーの予定も中止。その代替えが、6月29日で西京極でのダブルヘッダー。今では考えられないスケジュール。 >>158
それ8月第3週の土日で大洋戦。
土曜の試合で、阪神の佐野が右中間フェンス超えの2塁打でサヨナラ勝ちしたが、
ヒーローインタビュアー(RKBかKBCかMBSの誰か)がサヨナラHRと勘違いw
サンテレビの実況席でも「インタビュー担当のアナウンサーがホームランと勘違いしてましたね」と失笑してたw >>150
赤嶺の先発は一試合もない
この年の先発は、江川、西本、定岡、加藤、新浦
が主で、藤城、堀内、浅野が1試合から数試合ってところだな
新浦は、左の先発がいないから
勝てなくても強引にローテに入れていた感が強い 「時差出勤」
昭和50年代に入ってからのプロ野球は、山口高志や鈴木孝政らに代表される救援投手の役割が確立されて近代化が進んでいた。その中で
日本ハムは流れに乗り遅れていた。村上雅則が77年からの3年間で計27セーブを挙げて健闘していたが、80年は振わず2セーブに終わり、
チームトップが木田勇と高橋一三による4セーブ。抑えを確立できないままでいたことが、ここ一番に弱く3年連続の3位に終わった原因でもあった。
他球団に先んじて「広島・江夏豊放出」の情報をキャッチしたのは、大沢啓二監督の好プレーだった。しかも他に名乗りを上げた西武やヤクルトが
永射保、井原慎一朗、西井哲夫を交換要員に挙げたのに比べ、79年の20勝投手で80年も10勝の高橋直樹の放出を決断した事は広島側を十分
納得させるものだった。
リリーフエースは全130試合でベンチ入りしなければならず、その集中力を保ち続けるのは容易ではない。ただでさえ60年代、70年代に比べて
試合時間が長くなっている頃でもあった。毎日ブルペンで戦況を気にしながら状況に応じて投球練習を開始して、逃げ切りの場面とあればマウンドに
上がる重労働。そこで大沢が考えたのが、江夏に対しての“時差出勤”だった。ナイターなら、選手は15時球場入りの所を、江夏は1時間遅い16時
入り。ベンチ入りも6回からで、それまでは風呂でもマッサージでもロッカーでの睡眠でも可。南海、広島時代から試合前半はベンチに入っていなか
ったが、ここまでのマイペース調整を大沢が特例として認めたのも、全ては江夏に毎試合少しでも良い状態で投げてもらうため。それが優勝に直結
すると考えたからだった。
前期開幕戦に南海・門田博光の一発などでいきなり失敗、3日後の西武戦にも田淵幸一に決勝弾を浴びて躓き、初セーブはチーム9試合目。それ
でも後期に入ると、開幕から9連続セーブを挙げるなどして優勝に貢献。5敗と失敗の目立った前期に比べ後期は1敗、後期の江夏登板日は17勝
2敗5分けで勝率.895だった。自己新の25セーブとパリーグ新記録の28セーブポイントを挙げた江夏は、史上初となる両リーグMVPを受賞して
大沢の特別扱いに対する周囲の雑音を封じた。 (了) 柏原が永射の敬遠球をホームランしたがこの年はハムが優勝した
その18年後の阪神打撃コーチ時に新庄が敬遠球をサヨナラ打にしたが
さらに7年後に新庄がハムに移籍しそして2006年の時も… G+の巨人vsハムのシリーズを視たが、成田、宇田、杉山を何故投げさせたんかな? しかし、両軍の監督、牧野コーチ、成田ら、故人も多くなったね。 ソレイタ、中井、高橋一三って方々も故人に。中井は第4戦で松本匡史が肉離れを起こしてリタイアした後にセンターに
入り、いい活躍をしていた。 星野仙一は権藤博には逆らえないんだな
稲尾には逆らいまくったのに 開幕3試合目の中日戦で、定岡の頭部に打球が直撃したが、これでバカになったんだろうか? リー(ロッテ)の意味不明の大宮(日本ハム)襲撃は日ごろからの大宮の脅しに不満がたまってから。 >>161
新浦は肩が復調したから使われだしただけだろ。
終盤はいいピッチングしてるのに援護がなく勝てない試合もあった。 >>168
ドラゴンズの先輩エースだし。
しかも沢村賞1度(それも先発10勝+リリーフ5勝10セーブ(最多セーブ)のフル回転振り
が評価された先発限定とされる沢村賞としては異例に近い受賞)のみの20勝出来ない
エースだった星野と違い、新人から2年連続30勝(両シーズンとも最多勝)の文句無しのエースだったからね。
只、その権藤が社会人時代から「投球フォームとか投球の組み立てのみならずマウン
ドでの仕草から歩き方まで全て真似した」と心酔していた稲尾に反逆するのが解せない
感じもするが、大エースのオーラをまるで感じさせない人懐っこい笑顔に見くびったって
事か?w 落合も、現役時代で一番心地よかった時代は稲尾ロッテ時代らしいし
心地よい雰囲気作りに長けてるのかも
その代わり舐められるという欠点も兼ねるみたいな
G+みても、星野仙一があっさりしてたからな
宇野のおでこヘディングのときは、ミットを投げるパフォーマンスやったが 「シリーズの分水嶺」
日本シリーズには必ず勝負の流れを決めたり、変えたりするプレーがある。巨人のV9が終わってからのシリーズでは、特に第4戦で起こる事が多く
あった。76年は阪急・山口高志を攻略した巨人・柴田勲の決勝弾、77年は阪急・簑田浩二の芸術的スライディング、78年は土壇場でヤクルトの
デーブ・ヒルトンが放った逆転2ラン、79年では広島打線が近鉄の弱点と言われていたチャーリー・マニエルの守備をとことん突いて流れを変えた。
巨人が4勝2敗で制した81年の「後楽園シリーズ」も例外ではなかった。巨人1勝2敗で迎えた4戦目、2−1とリードした7回の攻防だった。
表の日本ハムは先頭で安打した柏原純一が盗塁死して三人で攻撃を終えると、裏の巨人も先頭で四球出塁の河埜和正が牽制で誘い出された。
しかし一塁手柏原が深追いし過ぎて二塁に生きて盗塁成功、一死後には中畑清の遊ゴロを高代延博が野選、ロイ・ホワイトの四球を挟んだ後
淡口憲治の2点二塁打と原辰徳の3点本塁打など1イニング一挙6点で勝負は決した。日本ハム側からすれば、宇田東植と杉山知隆の二線級が
投げていた時だっただけに、拙守がより響いた。3戦目まで打線に元気が無かった巨人は、これで火が点き平常心を取り戻した。この試合に限らず
日本ハムは5失策に加え記録に出ない守備のミスが多く出たが、巨人はそこに付け込みよく打ち、よく走った。6試合のシリーズでチーム9盗塁は
歴代最多タイ、12本塁打は新記録で共に未だに破られていない。
監督の藤田元司にすればこの一年間は、針のむしろに座る心境だった。世間に川上哲治と組んで人気者長島を追い出したイメージがあったからか、
勝てば「長島遺産」と言われ続ける苦しいシーズン、藤田によればカミソリ入りの手紙が来たり娘を誘拐すると脅される事もあった。
その藤田がシリーズの分水嶺として挙げたのが、一般的見方による第4戦のビッグイニングではなく、第2戦8回表のホワイトの逆転2ランだった。
阪神・佐野仙好に次ぐリーグ2位の14勝利打点を叩き出した助っ人が、額面通り活躍して目覚めたからという訳ではなかった。打った相手投手の
間柴茂有は、この年15勝無敗に加えてプレーオフでも1勝して16連勝中、だが藤田は大洋のコーチ時代に味方として見ていた2年間で、優しさが
災いした精神面の脆さを見抜いていた。第2戦で間柴に投げ勝った西本聖は、勢いづいてMVPを獲った。一方大事なシリーズで初めて黒星を喫した
ショックからか、間柴は王手をかけられた第6戦の先発でも2回を投げて4安打3失点であっけなくKOされてシリーズ2敗勝ち無し。無敗男が負けた
時の本人、チームのダメージはとてつもなく大きかった。 (了) 第六戦の先発から定岡を外して
江川で勝負に出たのは
日本一の瞬間を江川に取らせてやりたかったという事なのかな。 >>172
温厚で怒鳴った顔を見たことないって
ロッテ監督時代の落合はいってた
落合の理想像らしい
稲尾は >>176
あれは早く優勝したいという勝ち急ぎ。
この時は功を奏したも、83年は西本をリリーフさせたのが裏目に出た。 >>177
自分にストレスを与えない都合のいい監督だっただけだろw
そんな甘い監督なんか優勝なんかできっこないわ >>178
藤田はシリーズの采配が結構危険なんだよな
星野落合よりはましだが決して誉められはしない。 落合が覚醒したのはこの年からだな
首位打者から来季一気に三冠王に 日本シリーズの巨人先発 江川-西本-定岡-江川-西本-江川
結果的に江川はこれが原因で選手寿命を縮めたと思う。 あの当時はシリーズは中3日当然の時代。第5戦が中止で金曜日(西本完封)、第6戦が日曜で江川が来た。
この辺りから中3日は無理になってた。 もし江川で負けていたら、第7戦の先発は定岡になるわけですよね。
そうなれば、辻褄の合わない起用という事で強い批判が出たと思います。
勝負に絶対は無いですから。
こういう起用はやはり危ない。 >>187
確かにそうだが、仮に第7戦に縺れたとしても、日本ハムも投手がいない。 >>189
確かにそうだな。藤田監督は江川西本以外信頼していなかった。 (投手)江川・西本・小林・小松・山田・村田・藤田学
(捕手)山倉・若菜・梨田
(内野手)中畑・篠塚・原・藤田平・掛布・柏原・落合・石毛
(外野手)山本浩二・若松・田尾・高木嘉一・島田・福本・庄司
ロイヤルズ戦の全日本メンバー。山田は不出場。 宇野ヘディングの時にその打球を打った山本功児が亡くなったのか 今は亡きアンチ巨人の父が日本シリーズで巨人が勝ったら
好きなもの買ってやるかわりに負けたら新聞配達をする賭けをした。
巨人が勝って松田聖子のLPを買ってもらった、小六の秋。 >>193
たけしと安住のニュースキャスターでも
宇野ヘディングの映像が流れた >>181
クルーズ骨折で代わり入った岡持和彦が大活躍。シリーズ初戦でも勝ち越しアーチ。 >>187
加藤初もいたよ。
定岡は信頼されてなかった。 中2日西本なんてのは普通でアリの時代だった。
先日、高木勇人を中4日させて非難轟々だったが、ポストシーズンでは当時は中3日なんて当然だった。
今でもクライマックスで中3日までやってるね。 日米野球の全日本はファン投票だった。江川、梨田、中畑、篠塚、原、石毛、山本浩二、福本、島田誠。 >>169それ開幕2戦目の日曜日。
(初戦は西本)
俺友人と見に行ったので覚えている。
そのあとの浅野と加藤の好投は予想外だった。(前年考えて)
原の初本塁打もこの試合だった。 この年の近鉄
2年連続リーグ優勝から一転して最下位に。
マニエルが抜け、鈴木が不振に終わったこと
以外に、何か最下位になる要因でもあったの? 四番とエースがそうなったらそれだけでも要因として十分じゃん。
といいたいところだがそれ以上に飛ぶボール禁止と圧縮バット禁止の影響が出たんだろうな
各打者の本塁打数が愕然と減ってるよ >>205
エースは鈴木じゃなくて井本だったけど
エミーに熱心で野球どころじゃなかったからだろ。 >>103
今年もこのカードになる確率が高まってきたから萎える
鯉鷹初対決を見せてくれ このシリーズ出場者で故人となったのは前述の両監督、牧野コーチ、高橋一三、
成田、ソレイタ、中井にあとは工藤、菅野、山本功(出てない?)かな? 今更な話だけど、「宇野のヘディング事件」と「ベンチがアホやから事件」
この2つは、いずれも同じ日の出来事であることを>>25-26で知ったw 江本はあの発言したときすでにシーズン限りでの引退予定だったのは余り知られてないね >>212
そうだったの?
あと数年はやれそうだったんだけど…。 パ・リーグの本塁打王争いは面白かった。ソレイタが先行、門田が7月に大爆発。8月に門田が4本差をつけるが、ソレイタが再逆転。最終的に分け合うが、敬遠合戦、両者ともにスランプがほぼ無く、見応えがあった。 江本は発言が飛び出したときすでに34歳
引退しても特に不思議な年齢ではないな ヘディング事件のあった次の日のラジオ体操のとき
その話題で盛り上がったのを覚えている >>211
おかげで富田勝の「12球団から本塁打」が完全に霞んだ 「ラストシーズン」
一時は「背番号(68)の年齢までやる」と言っていた西本幸雄が、61歳で近鉄監督退任を決めたのが81年も後期が閉幕しようという10月2日の
事だった。一度辞意を考えた78年秋あたりから、体力的な衰えを感じてきていた。選手と一緒になって汗を流しながらチームを作り上げる西本に
とって、それが少しでも出来なくなるのは性に合わないとの思いがあった。
本来は還暦を区切りに勇退するつもりでいた西本は、日本一こそ逃したもののリーグ連覇していた80年は良いタイミングだと感じていた。しかし、
契約問題がこじれて放出となったチャーリー・マニエル不在の野球を確立してから、後継者に良い状態で引き継ぎたいと思い「もう一年」となった。
V3への挑戦と位置付けた81年シーズンだったが、強力打線が武器の近鉄には高反発球と圧縮バットの廃止は痛かった。3年連続でリーグ1位の
チーム本塁打だったが、前年比90本減と12球団で最も本塁打を減らした。打率はリーグ最下位で平野光泰、羽田耕一、佐々木恭介ら主力が
揃って大不振だった。マニエルに代わる助っ人勢も、ビクター・ハリスが及第点というだけでクレイグ・ライアンは態度だけマニエル並でヒジ痛での
二軍降格指示を拒否して6月に解雇、代わって昇格のアイク・ハンプトンも長打力はまずまずながら確実性に乏しかった。得点力の落ちた打線が
バックでは投手陣も苦しい、大黒柱の鈴木啓示は日本ハム、ロッテと前後期の優勝チームに1勝もできず、井本隆は右ヒジを痛めて途中に戦線離脱、
左右のエースが共に5勝止まりだった。
結局西本の監督20年目は前期6位、後期4位の最下位だった。島本講平、吹石徳一、久保康生、橘憲治らの頑張りも投打の主力の不調をカバー
するとまではいかなかった。それでも最終戦での近鉄・阪急ナインによる合同胴上げには、前期未消化分カードの偶然もあったなど野球の神様に
よる演出も相まって、西本も「一番嬉しい胴上げだった」と感激していた。
散々な結果だった監督生活最終シーズンだが、阪急の時以上に1年延長してでも上手にバトンタッチしたかった理由が西本にはあった。後継の
指名には関口清治、プロ入り前の別府星野組からの同僚という盟友で、監督生活でも阪急と近鉄で打撃コーチを務めてきた西本政権の大番頭
だった。年長者を差し置いて上田利治を推薦した前回といい、後に阪神の誘いを断った際に推した吉田義男の時といい、シビアに適性を見てきた
西本も、この時ばかりは「一度関口に監督を」との情が出たのも無理からぬ話だった。 (了) 西本が阪神監督になっていたら、日本一になっていたろうか? 大沢啓二は1976年から1994年まで日本ハムに在籍したが
優勝したのはこの年のみ >>223
1年で優勝や日本一は難しいだろうが
吉田みたいに再来年に地獄はまずないと思う >>5
プロ野球の人気ってこの年が最高だったと思うな。
視聴率や観客動員みたいな数字だけじゃなく、
総合的な世間の関心、注目度という点で。
勿論巨人中心だったが >>228
本人?
>>226
確かにキモいな
そいつは巨人スレでも同じことやってたわ テメエの意に沿わないレスに対して、本人呼ばわりとはねえ・・・。 気に添わないレスとかじゃなくてキモいから指摘されてんだろうが。
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